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千寿の楽しい歴史
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2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史
有形文化財(参考資料)
満願寺の四天王角柱塔(まんがんじのしてんのうかくちゅうとう)   所在 高田町大字竹飯1283 満願寺

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_1323029.jpg古来四天王像は、本堂の中に仏像が須弥壇に安置されると、その四方に四天王を祀って中心の本尊を守る形に配置される。

満願寺の四天王像は、野外にあって蓮弁(れんべん)型の四角柱を後背(こうはい)にし、丸堀にちかい半陽刻の一石造りである。材質は安山岩で、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天を配している。もともとは須弥山の上空の仏達を守護する神であるが、四天王を拝むと、大変なご利益があるといわれている。

持国天は家内安全、増長天は増益、広目天は広く世間を視る目、多聞天は多くのことをよく聞いて学ぶ心を授かるというものである。
この像がいつ、誰によって安置されたかはわからないが、筑後地方では大変珍しくこの地方の信仰を知るうえでの貴重な文化財である。

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_21312422.jpg



有形文化財(参考資料)
満願寺の六地蔵(満願時のろくじぞう)  所在 高田町大字竹飯128

1 満願寺

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_134471.jpg半陽刻(はんよえこく)した肥前型六地蔵の典型であり、安山岩製である。南部大牟田は肥後六地蔵が多いが、高田町には肥前石造文化が入り込んできており、石造文化の交流接点としても貴重なものである。

一基は、竿石(さおいし)の上に五輪塔の水輪を基台とし、その上に六地蔵と六角型竿石を配置したもので、造立に関しての刻銘はいっさいない。つぎの一基は、基礎の上に宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎を竿石の代用とし、その上に六地蔵を安置し、笠は入母屋型の屋根である。

水輪、宝篋印塔残欠、入母屋型石塔屋根はいずれも、再利用したもので、万願寺が宗眼(そうがん)和尚によって天文年中に再興された後、この六地蔵が造立されたことを物語っている。

なお、水輪には、バ(水天)、バ-(風天)、バン(大日)、バク(釈迦)の梵字を刻しており、五輪塔の典型的なもので、室町時代初期のものであることをうかがわせる。

有形文化財(参考資料)
卍字自然板碑(まんじしぜんいたひ) 貝浦碑   所在 高田町大字海津1598 極応寺

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_136141.jpgこの板碑は阿蘇溶結凝灰岩(ぎょうかいがん)で造られており、中央正前に大きく卍字を彫り込んでいる。この卍字の彫り込みが、近くにある田尻氏供養塔とそっくりで、卍字の輪郭を丁寧に彫り込んだもので同一工人によって製作されたものと考えられる。

注意してみるとこの卍字の下に貝浦、その左下に永禄□□の年号が、かすかに読みとれる。貝浦の貝は海にも通じ、近くに津の港があり、人々の生活の息吹きを感じさせる。

永禄12年(1569年)には、田尻鑑種(あきたね)の先妃妙忍大姉の供養塔が建立されており、同時代にこの貝浦碑も建立されたと考えられる。

地元では、要川(かなめがわ)合戦に敗れた平家の供養塔との伝説もある。寿永4年(1185年)壇ノ浦での敗戦後384年、田尻氏の先妃供養にあわせて地元の人が平家供養塔にして建立したかもしれないが、建立由来については、この貝浦の碑は何も語ってはくれない。

有形文化財(参考資料)
満願寺の五輪塔群(まんがんじのごりんとうぐん) 所在 高田町大字竹飯1282 満願寺

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_13152152.jpg1.中央五輪塔
 
地輪 高さ44㎝ 横76㎝ 縦76㎝の方形

水輪 高さ40㎝ 径50㎝ 球形

火輪 高さ36㎝ 三角形の四角底

風輪 高さ15㎝ 半月形

空輪 高さ20㎝ 径30㎝ 宝珠方

造立年月日等の記銘は一切なく、水輪に阿弥陀如来種子(しゅじ)のキリ-ク( )を正面に、向かって右側に観世音菩薩サ( )、左側に勢至菩薩サク( )の阿弥陀三像を配置し、後方にバン( )を薬研彫している。
 前面の花立台には、
奉寄附
薩州
藩中
田尻 掌
竹井村
世話人
坂本 茂左ェ門
とある。

従来、この塔は牡丹長者(ぼたんちょうじゃ)の墓といわれているが、むしろ牡丹長者を供養した四方仏塔としたほうが適切であろう。

花立台とこの五輪塔が同時に建立されたとすると、「薩州藩中」から考えてみて、江戸幕府体制が確立された以後の作といえる。

2.南側五輪塔

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_13161596.jpg造立年月日の記銘はないが、室町時代末期の作と考えられる。

開山中興和尚宗眼法師が天文年中(1532~1554年)に建立したものであろう。
水輪にサ( )観世音菩薩、ア( )仏の通種子、バク( )釈迦如来、サク( )勢至菩薩の種子(梵字で佛を表したもの)を四方に薬研彫したもので、四方仏供養塔と呼ばれている。


3.北側五輪塔

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_1317126.jpg 水輪に頸(くび)をもった五輪塔で宝塔塔身に見違えるほどあるが、底部も円形であることから、やはり五輪塔というべきであろう。水輪に対して火輪、風輪、空輪がやや小さく、不均衡である。

水輪にキリ-ク( )阿弥陀如来、アク( )不空成就如来、タラ-ク( )法生如来、バン( )大日如来を配した金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)を種子で薬研彫してある。
石材はいずれも阿蘇溶結疑灰岩で、大牟田南東部から南関にかけて産出される。

2010みやま市高田町の有形文化財(考古資料)千寿の楽しい歴史_a0137997_13125493.jpg


by kusennjyu | 2010-04-01 12:56 | みやま市の文化財 |Topに戻る