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千寿の楽しい歴史
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みやま市高田町の史跡(千寿の楽しい歴史)
史跡
江浦城址(えのうらじょうし) 所在   高田町大字江浦町74~2
みやま市高田町の史跡(千寿の楽しい歴史)_a0137997_16545296.jpg江浦城は田尻伯耆守親種(ほうきのかみちかたね)が築いた山門郡鷹尾城の支城の一つである。

鷹尾城の総構えは鷹尾本城と江浦、浜田、堀切、津留の4支城からなる。いずれも水田地帯に立地する典型的な平城である。

天正10年(1582)、龍造寺隆信から謀叛(むほん)の疑いを受けた田尻鑑種(あきたね)は、龍造寺軍の攻囲のなか約1ケ年間籠城する。島津氏の援軍に助けられたとはいえ、龍造寺軍が1年かけても落とせなかった鷹尾城は、思いのほか堅固な要害であったとみえる。鑑種が降伏した後も江浦城番の田尻了哲らは、鑑種の嫡子長松丸を擁してなお執拗に抵抗を続けたが、鍋島伸生(のぶお)の説得でようやく江浦城を開け渡した。

天正15年(1587)秀吉の九州統一後、高橋紹運の嫡子高橋弥七郎統増(むねます)(後立花直次)が三池郡一万八千石に封じられると彼は江浦城を居城とした。関ヶ原合戦後は田中吉政の臣田中水主正が城番を勤め、立花氏復封後は一国一城令のため廃城となった。現在もなお本丸・二の丸などの小字名が残っている。


史跡
竹井城址(たけいじょうし)   所在   高田町大字竹飯959他
みやま市高田町の史跡(千寿の楽しい歴史)_a0137997_16551668.jpg南北朝期の康永2年(1343)、南朝の中院侍従義定、菊池武茂、大城藤次(草野一族)らが筑後の竹井城にたてこもったので、鎮西管領の一色範氏(いっしきのりうじ)が大友・少弐らの軍勢を差し向けてこれを攻略し、落城させたことが「龍造寺文書」や「筑後近藤文書」などによって知られる。

この竹井城を山本郡(現久留米市山本町)に在りとした文献もあるが誤りである。「近藤文書」には「竹井萱津城(たけいかやつじょう)」とあり、おそらく海津のことを当時萱津と称していたのかも知れない。また「南筑明覧」に西原石見守武雄(いわみのかみたけお)の居城跡と伝える竹井の今城のことが記載されている。西原氏は田尻氏の有力家臣で、今城はその居館址と思われる。

因に竹井には「大手鼻(おおてばな)」「土居ノ内(どいのうち)」など中世城館に関連すると思われる小字が認められるが、これらが南北朝期の竹井城に由来するものか、戦国期の竹井今城に因むものかは即断できない。いずれにしても、竹井が軍事上の要衝であったことを物語っている。

史跡
環濠屋敷跡(かんごうやしきあと)  所在   高田町大字南新開、北新開地区
みやま市高田町の史跡(千寿の楽しい歴史)_a0137997_16553947.jpg高田町西部は広大な干拓地であるが、そのうち新開地区は干拓の歴史が古く、室町初期までに概に耕地化が進んでいたと見られる。

文明13年(1481)の「筑後国三池北部新開検見目録帳」(阿蘇家文書)によれば、新開45町は肥後の一の宮阿蘇神社の社領で、18名の名主が年貢および段銭・屋敷銭などを負担していたことがわかる。これら名主百姓の居宅跡と思われる環濠屋敷が「地籍図」によって何か所か確認できる。

北新開の字五郎丸(ごろうまる)・弾正屋敷・乙井丸および南新開の字弥太郎丸(やたろうまる)・浜ケ崎などがそれで、これらの小字名はいずれも「検見目録帳」に記載された名主の名と一致する。このうち5町以上の田地を保有する有力名主に小宮弾正と小宮式部(しきぶ)の両人があり、北新開の字弾正屋敷はまさしく小宮弾正の屋敷跡と見なされる。

新開一帯は、こうした中世後期の農村景観を今日に残す歴史的な貴重な地域だということができよう。

史跡
二川貝塚跡(ふたかわかいづかあと)   所在   高田町大字下楠田2250~1
みやま市高田町の史跡(千寿の楽しい歴史)_a0137997_1656868.jpg 二川貝塚は、老齢の峠から北に延びた丘陵の先端の舌状台地上に立地する。この貝塚はもともと大きく、多量の貝があったらしく、明治30年代には焼石灰用として貝が運び出されたほどである。

大正9年と12年には発掘調査が行なわれ報告書も刊行されている。それによると土器は縄文時代(中期阿高式土器や、後期摺消縄文系土器)のもので、器形も浅鉢形、深鉢形、甕(かめ)形、壷(つぼ)形土器と多様である。また弥生式土器も含まれている。石器も石斧(おの)17個をはじめ14種もあり、その中の石棒(約11㎝)、中国・九州でも極めて珍しく頭部に彫刻がある品や、骨器や牙器の列点文の耳飾品も出ている。人骨も7体発掘されているが男女の区別は判定できない。

貝殻は海産物のハイガイ、アカガイが多く、ハマグリ、カキ、ホタテガイ、マテガイ、サザニ等も存在する。
当貝塚は、縄文中期の初めから弥生時代までという長い期間にわたり形成された貝塚である。
by kusennjyu | 2010-04-07 17:02 | みやま市の文化財 |Topに戻る