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千寿の楽しい歴史
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矢部川(瀬高町長田)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町長田)

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矢部川河川敷にあり、元禄の造林より300年を過ぎた、幹廻り3m,樹高15m~20mにおよぶ巨木の林はクスノキ林がうっ蒼と2kmに及ぶ遊歩道をおおい行楽客に森林浴を満喫させてくれる。

このクスノキ林は元禄8(1695)年に田尻総助・総馬親子が柳川藩の晋請役として通称千間土居を築堤し、引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田土居を築堤し、樹林を植えたものです。これが広瀬河端・小田野林・長田孤林と呼ばれ、現在に残る国指定天然記念物である。

公園の中央を国道209号が貫き散策道、野球場、ゲートボール場、遊具など、子供から大人まで楽しめる施設を整備している。春には菜の花や桜が咲き、夏は釣りや川遊びが楽しめる。

長田の鉱泉と温泉(新船小屋温泉)
徳川末期、元治年間(1864)熊本の勤皇の志士、中田多一郎が上洛の途中この地を通り、当時、不思議の水と恐れられ、だれも触れないようにしていた湧水(鉱泉)を飲んで持病の胃痛に特効を認め、村人に薬効ありと勧めたのが始まりといわれている。

別の説には、郷土の木本正蔵が慶応3年(1867)に発見し、明治3(1870)年、旧藩(立花藩)に願い出て入湯場を開設した、とも言われている。

船小屋温泉大橋(国道209号線)と長田の渡し
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地図をクリックすると拡大します。

船小屋温泉大橋が開通  平成14年8月13日 

国道209号線の矢部川に架かる橋「船小屋温泉大橋」が11日、開通した。

中の島橋(延長80.2m)と船小屋橋(延長82.1m)は、昭和4年に完成し、幅員5.5m。昭和43年に幅員1.5mの自転車と歩行者専用の側道橋が設置された。

昭和初期に架橋されたのは幅員が狭く,年々増加する交通量に対応できなくなった。大型車同士が橋上で離合できず、一方が橋のたもとで待機し渋滞や事故の床因となっていたという。 また洪水時には橋桁付近まで水位が上昇し、流下物による災害発生が懸念されていた。

新橋は中ノ島橋と船小屋橋が連続した山本の橋になり、延長231.5mで片側二車線、全幅14m。交通渋滞対策で車道の幅員を5.5mから8mに広げ、自歩道3mを両側につけて、交通の流れをスムーズにし歩行者などの通行の安全性を高めた。

洪水時の安全確保で旧橋よりも高い位置にし、矢部川に浸かる橋脚をなくすことで流下物のひっかかりがなくなる。

地元が「赤い橋」に思い入れが強いことから、筑後市側には赤いアーチ状でワイヤを張り巡らした「二手ルセンローゼ橋」を導入。景観が実しく九州でも十橋しかない。

江戸時代の往還
寛永12(1635)年、三代将軍家光の時に武家諸法度が改定され参勤交代が確立され、野町(山川町)から清水~山麓の本吉(瀬高町)の清水寺の門前町を通り、矢部川を渡り尾島(筑後市)~羽犬塚宿~府中宿(久留米市)に至る道が参勤交代の街道として利用されていた。

元禄9(1696)年、薩摩街道は野町~在力村(清水)~吉井~大竹~下庄~上庄(本陣)~本郷~尾島(久留米藩領)~羽犬塚宿の西寄りのコースに変更され一里(4Km)ほど遠回りの道筋となる。

長田の地名の由来

ナガはインドシナのチャム語のnaga(竜、蛇)、タは助辞でナガ.タは竜神の意で、竜神を祭ったところの地名という。

沖縄などの方言では蛇のことをナガムン、ナガムシ、ナガモノと呼ばれている。また「竜蛇」の意が「長、永」の意味だけに使用したと考えられる。

下長田集落周辺には「八竜」(下長田の娘村の名称でもある)、「福竜」の小字名があります。

大牟田の大蛇山、長崎の蛇踊り、ベーロンの祭りや龍宮説話、竜神の小童の姿の河童伝説など沢山あり、縄文時代から古墳時代まで海人族が竜文化を持ちこみ、ひたすら竜神にすがり、祭祀を怠りませんでした。

明治13(1880)年、下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。
by kusennjyu | 2010-07-26 17:09 | 矢部川 |Topに戻る