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千寿の楽しい歴史
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豊前街道10(熊本市植木町②)千寿の楽しい歴史

豊前街道10(熊本市植木町②)

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左~一本榎跡   右~四里木

豊前街道10(熊本市植木町②)千寿の楽しい歴史_a0137997_10505195.jpg豊前街道10(熊本市植木町②)千寿の楽しい歴史_a0137997_1051220.jpg



九州自動車道の陸橋(高速道路の上を通る)少し手前に重油タンクの横に「一本榎跡」標木が立っています。

陸橋を渡り左折すると、約100mの所に四里木が立っています。

放牛地蔵  左~写真左の道は豊前街道。右奥に放牛地蔵があり、右の写真は拡大したものです。  

豊前街道10(熊本市植木町②)千寿の楽しい歴史_a0137997_11531490.jpg豊前街道10(熊本市植木町②)千寿の楽しい歴史_a0137997_11533248.jpg


放牛地蔵  植木町指定文化財  植木町大字内  平成19年1月15日指定 (現熊本市)

この地蔵は、江戸時代中期に作られた。
僧の放牛が熊本市を中心に、街角や道路の分かれ道に立てた地蔵。

熊本の鍛冶屋町に貧しい親子がいた。
貞享(1686)年1月3日は折悪(あ)しく酒代もなく、怒った父はカマドにあった燃えさしの薪(まき)を投げつけた。
その所を通りかかった武士の眉間にあたった。
父はその場で無礼討ちになったといわれる。
息子は自分の不幸のせいと嘆き、出家して放牛と名を改めた。

三十余年の修業の後、享保7(1722)年から十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔う悲願を立てた。

この地蔵は「七十四体目」とあり、享保15(1730)年5月、道歌(どうか)に「三界の衆生をのせるはなれうしほとけまいりのひとをみちびく」と彫ってある。

建立するについては、自から願主となり農民や町民の喜捨を募ることになった。
この時代は飢餓や洪水等が多く庶民の生活は困窮を極めていた。
その人々を力づけ、救済を図るため、村人とともに講を立て、地蔵建立のための基金を集めたと言われている。
        平成19年3月28日   植木町教育委員会

豊前街道に当たる植木町には二体残っている。

内空閑城跡  植木町指定文化財  植木町大字内字小塚迫  昭和43年7月17日指定 (現熊本市)

内空閑城跡は、内村集落の西方向に位置氏し、標高127.5m、山頂部分は「城床」と称される長方形状の平坦地になっている。

この城は、室町から戦国時代に内村を中心に山本郡一帯を支配した内空閑氏の居城であった。
「事跡通考系図」によると、初代基貞の時、明徳元(1390)年に伊賀の国より、下向したと伝えられている。

内空閑氏は菊池氏の有力な家臣であった。
しかし、菊池市末期の内紛と共に分立し、その滅亡と共に、この地域の支配者として自立したと思われる。

内空閑城は尾根伝いに、大平城、霜野城とも連絡が取れる好条件の山城である。

一方この地にりんせつしたて岩照寺跡がある。
荒地であるが、泉水もあり応永2(1405)年の年号が刻まれた宝篋印塔も残っている。

この地の集落には、「奥村」、「徳丸」、「馬場小路」、「乙丸」、「五郎丸」、「次郎丸」などの地名がある。

                          平成17年3月18日   植木町教育委員会

放牛地蔵から進み県道3号線に出ます。横切ってすぐに「内空閑城跡」の説明板が掲示されています。

豊前街道は県道3号線に出なく、内回りするように道が付いています。その道が豊前街道だと思われます。
先に進むと再度、県道3号線にでます。
その後、県道3号線を横切って進む道がありません。ここで一旦豊前街道は途切れています。

先の味取まで行き、豊前街道を引き返しましたが、ここも途中までで道が途切れています。
この両方を繋ぐ道がなく、道が消滅しています。

続きは味取の「平尾山の観音像」から始めます。
by kusennjyu | 2010-08-28 11:56 | 豊前街道(熊本) |Topに戻る