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千寿の楽しい歴史
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肥後街道(小保町4)千寿の楽しい歴史
肥後街道(小保町4)

緒方家住宅

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家伝によれば、当家は関ヶ原の戦い(1600年)の後、旧柳河藩に仕え、その後小保に居を構えたということです。

天保頃(1830-1844年)、緒方元郁氏が現在の屋敷を建築したとの事で式台玄関蟇股は、旧吉原家住宅の蟇股と比べると彫りが多く、おそらく、その頃のものと思われます。

玄関、次の間、座敷に当時の間取りをよく伝えています。二階は化粧屋根裏となっており、棟はコの字を描くように置かれています。
外観は建築当初の姿を残し、重厚な入母屋がつく式台玄関は武家屋敷の様式をよく示しています。

昭和初めまで表門と中門を構え、表通りの石垣三段目より板塀があったそうです。

大川市教育委員会

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光楽寺
寛永元(1624)年、旧柳河藩主 立花宗茂により創建されたと伝えられる寺院です。

本堂は旧全長21m、奥行き12.6mの堂庫裏形式の建物で、県下でもこのような大型堂庫裏は珍しいものです。

建築年代については「文政4(1821)年に許可を得て、弘化4(1847)年に完成した」と古文書に記されています。

外観上の特徴は大屋根が二重に見える造りになっていることで、上層は寄棟平入、外側は大壁で土蔵造り風になっています。
下層は周囲に庇がめぐる形で平面に応じた不規則な輪郭になっています。
庫裏の部分で裳層風に下屋を設け、やや複雑な屋根伏せとなっていて、本瓦葺です。

平面は本堂部分と庫裏部分に分かれ、床高を変えています。
本堂は外陣・内陣からなるり内陣回りと仏壇来迎柱のみ円柱で、他の柱は面取り角柱で丁寧な造りです。

組物は外陣・内陣境と仏壇来迎柱のみ出組を置き、本堂正面に一間の向拝(こうはい)を設けています。
外陣周囲は現在ガラス戸引き違いですが、もとは蔀(しとみ)戸であったと思われます。

庫裏は居住部分と玄関・座敷のある部分から構成されています。総体に木太く、造作の丁寧な感じの造りです。

山門は四脚門で切妻平入り、本瓦葺二軒、水引虹梁(こうりょう)や木鼻など、本堂とほぼ同時かやや新しいものと思われます。
       大川市教育委員会

来迎柱・前柱~来迎柱空殿の屋根を支える柱です。前柱、お仏壇の見栄よくするのに、前に飾る柱のこと。籠彫りされた柱は更に豪華に見えます。

向拝(こうはい)~社殿や仏堂で、屋根を正面の階段上に張り出した部分。参拝者の礼拝する所。階隠(はしがく)し。御拝(ごはい)。



蔀(しとみ)戸~中央に板をはさみ,その表裏に格子を組み込んだ建具。日光,風雨,寒さ等を防ぐもので,普通上下2枚に分かれ(半蔀(はじとみ)と呼ぶ),上半は長押(なげし)につり,下半は掛金で留める。

水引虹梁(こうりょう)~向拝(こうはい)正面に用いる虹梁。
二重虹梁は妻飾(つまかざ)りにある上下二段の虹梁のうち上段の虹梁を呼びます。

虹梁(こうりょう)~梁(はり)とは柱の頂部にある水平材で、上部の荷重を受けそれを柱に伝えるもので、柱と共に構造上最も重要な部材です。
虹梁は梁の一種で、人目に触れる化粧材で、湾曲した形状を持ち、装飾性を兼ねたものを呼んでいます。
虹梁両端には絵様(えよう)と呼ばれる彫刻、虹梁側面には眉(まゆ)と呼ばれる彫り込み、虹梁下端には錫杖彫(しゃくじょうぼ)りと呼ばれる装飾が施(ほどこ)されることがあります。

北島勝永の天井板絵

光楽寺本堂の天井には板絵が幽谷勝永の印があるもの(萬延元(1860)年)をはじめ168枚があります。

柳河藩御用絵師 北島勝永(号は幽谷勝永)は寛政7(1795)年~慶応3(1867)年に久留米藩御用絵師 三谷家の法眼 三谷狩野永錫映信に学び、後には肥後細川藩絵師 龍谷矢野右膳良勝に師事して雲谷派に学んでいます。

勝永は竜虎や鶴などの動物や植物をよく描いていることで知られていますが、ここの板絵にも様々な動物や植物・人物が描かれており、その息の長いのびやかな線や気迫のこもった激しい筆使いは実に見事です。

大川市教育委員会

狩野永錫 (かのう-えいしゃく )~?-1822江戸時代後期の画家。

天明5年(1785)狩野家に入門し,狩野の姓をゆるされる。寛政5年法眼となった。文政5年6月死去。
筑後(ちくご)(福岡県)出身。本姓は三谷。名は映信。通称は徳之助。

雲谷派~雲谷派は雲谷等顔を開祖とする江戸時代の画派。中国・北九州地方を活躍の場とした。
毛利輝元に仕えた雲谷等顔、雲谷等屋、福島正則に仕えた雲谷等益や、江戸時代の雲谷等爾、雲谷等遮らがいる。

続きます。





   
by kusennjyu | 2010-09-07 16:37 | 肥後街道 |Topに戻る