立花宗茂(特別展)御花資料館 12月12日入館(写真撮影禁止)
特別展 慶長15年「宗茂」の名乗りから400年
宗茂は生涯に何度も名前を改めていますが、最も有名な「宗茂」
という名乗りを用いたのは慶長15(1610)年のことです。
期間 平成22年11月13日~平成23年1月10日
入館料金 特別展のみ 500円 御花共通 700円
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第1部 二人の父 --紹運と道雪ーー
父は何を残し散ったか。 天正14(1586)年
大友氏を滅ぼすべく北上した島津の大軍に対し、宗茂の実父高橋紹運は、わずか700余名の兵とともに岩屋城に籠ります。
しかし、半月におよぶ戦いの末、岩屋城は陥落し、紹運以下全員が討ち死にしました。
現在、大宰府市の岩屋城跡には、その壮烈な戦いを偲ぶ石碑と紹運の墓が残されています。
父と子をつなぐ絆
父は息子を思い、息子は父の懐を思う。痛みを知り、武将として男として潔(いさぎよ)い誠の魂も受け継がれた。
形見となった剣 重要文化財 剣銘 長光 (立花宗茂愛用の剣)
宗茂が戸次(べっき)雪道のもとに養子に行く際、実父である高橋紹運は、この剣を宗茂に手渡し、これから先万一、自分と敵になった場合、先頭に立って自分を討つように諭したと伝えられています。
宗茂は、この剣を常に身から離さず、紹運の形見と思い、大切にしました。
己を写す鏡
宗茂は、岐路に立つ度、この剣に己の心を写して来た。(信義に基づいているか。天に恥じることはなきか。)
金箔押桃形兜
入館してすぐに目に入るのがこの
金箔押桃形兜である。30個くらい並べてあります。
戦場で藩主の馬廻りを固める一隊に、揃(そろ)って着用させたと思われる兜。
現在、立花家には239頭が残され、中には桃山時代まで辿(たど)るものもあります。
桃の実を思わせる形状は、西洋甲冑の影響を受けたものと言われ、安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて広く普及していました。
粋な男のはからい
戦場であっても、美しさを求めたのだ。そして、それは家臣への愛情がなければできないことだと思う。
勝ちどきを挙げ続けた具足
桃山時代に作られた宗茂の具足。
栗色、朱漆、銀箔という色彩の組み合わせに、華やかな大胆さが感じられます。
そして、無駄のないシンプルな形状は質実剛健な宗茂の人物像と重なります。
兜鉢の大きさや、胴回りの大きさを見るに宗茂は、当時としてはずいぶん体格のよい人物だったことが伺えます。
足し算より引き算のセオリー
宗茂は、参陣した全てに於いて才気に満ちた戦略と水際立った采配をみせた。
「武神再来」と激賞された宗茂の軍扇、具足は極限まで無駄を省きつつ美しい。
引き算してシンプルに考えるのが宗茂のセオリーだったと思う。
三日月図軍扇
軍扇は、戦場で用いる指揮具です。
日輪と月輪を表裏に表わしたデザインが多い中、この軍扇は片面のみに三日月を描いている点に特徴があります。
骨は木地で細く、金地に表わされた銀の三日月は、扇面の中央をはずしてアシンメトリーに置かれ、優れたデザイン性を感じさせます。
武器談議から友情も育んだ鉄砲 黒田長政から贈られた火縄銃。 火縄銃銘 墨縄
ある時、長政と宗茂の間で鉄砲と弓の優劣論が起こり、笄(かんざし)を的に長政が銃、宗茂が弓で競います。
その勝負で、宗茂が勝利を治め、長政からこの火縄銃「
墨縄」が贈られたと伝えられています。
墨縄は、大工が線を引くために使用する道具で、銃の玉がまっすぐ飛ぶさまが想起させます。
人となり温順寛厚
弓の名手だった宗茂が勝ったけど、宗茂も返礼として、自分の弓を長政に贈ったという。
三代将軍家光から賜った茶壷 瀬戸茶壷銘 養老
「養老」という銘を持つ江戸時代初期の瀬戸茶壷。
宗茂の晩年、江戸下屋敷に将軍家光が訪れた際、家光から拝領した茶壷であると伝えられています。
胴のぶぶんはに表わされた荒々しい刷毛目が力強く、躍動感のある景色を創り出しており、堂々たる風格を誇ります。
復活した唯一の武将。
徳川の時代になっても、二代将軍秀忠、三代将軍家光から相談役として重用された。
徳川家から賜った茶壷は、まさに宗茂が信義を通した証だと思う。
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写真~御花資料館
文章~スケッチでたずねる 立花宗茂より。
2冊とも入館すると自由にいただけます。