千寿の楽しい歴史
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2011梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史
梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)  瀬高町長の前までです。

12代目  梅野茂芳(著者)の功績

明治43(1910)年に5人の姉と6番目の兄の次に7番目で生まれる。
大正5年清水尋常小学校に入学する。旧八女中学校に入学。

昭和4年に国立第5高等学校に入学。

旧京都帝国大学法学部に入学。昭和10年3月卒業。

昭和11年4月、朝鮮石油株式会社に入社(社長は三橋町百丁出身の木村義雄氏)。

昭和11年8月に父が死亡し、家督相続する。

家業を継いでまず着手したのが所有地の境界線をはっきりさせることであった。

柑橘園の経営。

父が清水寺から買い取った山が、最盛期で相当な収益をあげていた。
堆肥、選定整枝、春夏の除草、病害虫の防除、夏の終わりごろの摘果、秋の収穫出荷、
収穫前に予想収穫高により、山で売買することが年中行事であった。

小作地の経営と小作米取り立て
当時、約50ヘクタールの所有田畑があった。

昭和12年11月1日に結婚する。

昭和12年、相続税などの件で税務署に交渉する。

昭和13年4月に日本ゴム株式会社に入社する。1年後に退職する。

林業経営

熊本県玉名郡中和仁の山林や、賢木、南関方面の山林を買う。
大分県由布院並柳の部落所有の山林(目測5,60ヘクタール)を買う。(昭和17年)

柑橘園の造成

梅野家の裏山(長谷及び源吾谷地区の山林)を開墾し、約2ヘクタールを造成する。
昭和36年ごろからなり始め、最高50トンくらいなった。

小倉で温泉センター経営(昭和36年秋に開業)
福岡市でアパート経営。(昭和61年)


公的足跡

学務委員  昭和12年 27歳頃。

村会議員  昭和17年~昭和22年

農業会長  昭和22年(農業協同組合に改組される時期)

村長に推薦され戦後最初の公選村長となる。昭和22年~昭和30年(2期)

当時は農地委員会、農業会長、農業共済組合長、農業調整委員長、食糧調整委員長、東山養老院長などを兼務する。

治水に尽力

昭和21年の大水害で上長田の矢部川堤防野林地区200mが大決壊する。
    (県庁の河川課長に本格復旧工事を強く陳情する。)

昭和23年に「矢部川水害防止対策期成同盟会」即ち矢部川改修期成会を発足させる。

昭和25年、瀬高町恵比須町地区に出先として、矢部川改修事務所が開設される。

矢部川の山門郡側の堤防を1m、東山地区から有明海の河口まで約10kmの区間を全面的に嵩上げすることになり、元梅野家所有の山林と一部下長田部落有の山を崩し、堤防までレールを敷いて小型機関車でトロッコ数台を引かせ、大量の排土を運んで工事を推進させた。

昭和28年の水害で一部流失した南筑橋と災害復旧を兼ねて幸作橋、瀬高橋、津留橋、泰仙寺橋、浦島橋など6本の橋の嵩上げと改良、取付道路嵩上げのための用地買収などに、関係者を説得するのに苦労する。

昭和23年6から昭和26年12月までの3年6ケ月の間に、治水関係で会合し、県や国の関係者に陳情し運動を繰り返すこと60回に及ぶ。

矢部川筋の堰

矢部川本流には最上流に花巡堰(花宗関係に取水)、次に三ケ名堰(柳川関係)、馬渡(花宗)、黒木(花宗)、込野(柳川)、惣川内(花宗)、唐ノ瀬(柳川)、花宗(花宗)、広瀬(柳川)などの堰があり旧有馬藩内に取水する花宗関係堰と、旧柳川藩内に取水する柳川関係堰とがほぼ交互にあって、その余水はお互いに我が藩内に流入する水路に流す仕組みになっているが、東山地区にある広瀬堰は山門郡関係の最後の取水堰である。

特に瀬高地区の大半、即ち旧東山地区から文広、小川地区までの灌漑用水は広瀬堰から取水したものであった。

広瀬堰で堰止められた水は、本田川の樋門と畑田川の樋門が並列して設置されている。
本田川の丹花堰の漏り水から取水する返済川の3本の水路が旧東山地区全域と旧瀬高地区東部の灌漑用水となる。

昭和28年の大水害

昭和28(1953)年6月数日間降り続く豪雨により、各所の矢部川堤防が浸食され南筑橋取付や矢部川新船小屋側放水路も今にも堤防を越すばかり増水する。

村長兼消防長として消防団を督励する。

下流の上庄側の堤防が大決壊し、上庄、三橋、柳川方面まで大被害をもたらした。

この水害で南筑橋が流失、また取付部分を初め数カ所で堤防が浸食され、県や国あるいは日田営林署などに強く陳情し、早急に復旧して貰った。

新制中学校の建設

昭和22年4月15日に村立東山中学校として清水小学校に併置した。

昭和22年6月、現在瀬高自動車学校になっている山林を買収し開墾して山の上に仮校舎を建設し、新制の中学生は約1年間、山の上の仮校舎で学んでいる。

本校舎の建設予定地をどこにするかで話し合い、村のほぼ中央の東山農業会(後協同組合に移行)の隣接地に約2町歩が必要となる。

各部落の耕作反別に按分して各部落から耕作地を提出してもらい、それを次々に校地予定地の近くまで交換、交換で寄せ集め、学校予定地の耕作者の田と交換するやり方で、用地を獲得する。

昭和23年6月に第1校舎竣工、昭和24年6月に第2、第3校舎竣工し、全生徒を収容できた。昭和25年2月に特別教室竣工、昭和30年2月講堂兼体育館が竣工する。

農地委員として農地改革を実施

敗戦直後進駐軍の命令により地主はすべての小作地を買収され、小作人に売り渡す農地改革が実施されることになり、昭和21年12月に自作農代表に選ばれ農地委員となる。

小作代表委員からの推薦で委員長になる。委員の任期は3年で、3期9年勤めた。

約50町歩の小作地を解放した。

次から次へ難問を処理し、昭和24年2月15日、水上小学校講堂で農地売渡式を挙行する。

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養老院開設

村内の保養地で鉱泉浴場もあり環境も快適な場所の新船小屋地区を選び、用地を確保する。

昭和27年、養老院が完成。(楠樹園と命名する。)瀬高町他四町村の一部事務組合。

瀬高町他四町村の組合議会で推されて、初代院長に就任する。

柳原白蓮と記念写真

昭和29年5月、柳原白蓮が来訪する。

新船小屋の清流荘で歓迎の宴会を設け、さらに清水寺に案内し雪舟の庭や、文化財の山門、本堂、三重の塔などを鑑賞して貰い、記念写真を撮った。

県議会議員 昭和30年~昭和38年(2期)  
土木常任委員会副議長(昭和34年)

昭和38年~昭和42年  あらゆる公職を退き、(有)妙見温泉センターの仕事に専念する。

by kusennjyu | 2011-06-11 04:13 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る