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千寿の楽しい歴史
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2011伝説 曽我兄弟供養塔の由来・千寿の楽しい歴史
伝説 曽我兄弟供養塔の由来

女山の古僧都(こそず)の山頂付近に、叡興(えいこう)寺と呼ばれる古いお寺があります。叡興寺には、曽我兄弟の五輪の塔がありますが、その由来についてお話ししましょう。

源氏の世になり、頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、建久3(1192)年のことでした。そしてその翌年、将兵の休養といたわりの意味を含めて、富士山の裾野で大がかりな狩りを数日開催しました。

参加した将兵6万6千人、狩りのためよく慣らした鷹5羽、猟犬80数匹、鐘、太鼓、板きれや竹筒など音が出るものを持って、大声をあげ、鹿やうさぎなどの獣や鳥を追い出す役目をする人(勢子という)3千人などたいしたものでした。

上級武士、下級武士、雑ひょうなどそれぞれが宿舎を用意して、捕らえた獣などを料理し、酒を飲んで楽しい夕食で疲れをいやしました。

頼朝の本陣を守る屋形は、重臣で固めた厳重なもので、曽我兄弟が仇とねらう工藤祐経(くどう・すけつね)の陣屋もその中にあり、なかなか近寄りにくい位置にありました。しかし、みんな兄弟に同情し、2人を見守っていたお陰で、2人の行動をとがめだてする者はありませんでした。

800年も昔のこと、電灯もろうそくもない時代で、松明(たいまつ)の明かりが唯一の明かりでした。兄弟は人目をさけ、本陣屋形の出入口の門に近づき、門の戸にかけると、鍵(かぎ)がはずされていて、すぐに開きました。

兄弟は用心深く中に入ってあたりをうかがって見ると、暗やみの中に、人影があるではありませんか。2人は身がまえてよく見ると、それは兄の十郎の恋人だった大磯(おおいそ)の虎御前(とらごぜん)でした。

「私が門の戸を開けておきました。今夜はお2人が見えると思い、早くから待っていました。祐経様の屋形は、この先の数番目の屋形です。今は真夜中、各屋形とも皆よく寝静まっています。幸い護衛の兵も少ないので、早くお通り下さい。そして、長年のうらみを果たして下さい。」
といって、暗やみの中に姿を消してしまいました。

兄弟は言われた通りに陣屋へ行き、寝ていた祐経を叩き起こして
「父親の仇、思い知ったか。」と切り付け、2人、力を合わせて本懐をとげました。
この物語は日本で最も有名な話で、芝居になり、謡(謡曲)になりまして、国中に広がりました。時に、兄の十郎祐成は22歳、弟の五郎時宗は20歳、そして、十郎の恋人の虎御前は16歳の少女でした。虎御前は、今日でいう本陣つきのウェイトレス役目の少女でした。

仇をとった兄弟は捕らえられ、死罪となってしまいました。後に残された虎御前のショックは大変なものでした。うら若い小娘の身で、いかに親の仇討ちとはいえ、夫と決めていた最愛の人の死にあい、悲しかった。情けなかった、つらかったこの少女の思いが瀬高との縁につながっていくのです。

人は死んだらどこへ行くのだろう。地獄か極楽か。せめて死んだら安楽の世界で安らかに過ごしたい。こうした人間の願いにこたえた教えを説いたのが、恵心僧都(えしんそうず)という偉いお坊様で、瀬高女山の叡興寺を開いた人です。

恵心僧都は平安の都(現在の京都府)で、「往生(おうじょう)要集」という本を著し、人間の地獄極楽を例え話で説いて、人々の信仰のまととなりました。

曽我兄弟や虎御前が生きていた鎌倉時代は、恵心より120年も後のことです。また、当時、頼朝以下鎌倉の人々の信仰のまととなって、仏の道を広めたお坊様は栄西禅師という人で、京都、鎌倉の両方で一番人気のあった人でした。

この栄西禅師は、またの名を葉上(ようじょう)上人といい、水上校区の禅院に建仁(けんにん)寺というお寺を開いたお方です。

仏門に入った虎御前がこのお2人の教えをしたい、瀬高を訪ねたいと願ったのは当然のことです。

信濃(現在の長野県)の善光寺に参詣した後、めぐりめぐって瀬高の地に巡礼の足をのばしたのです。鎌倉にいた時に、頼朝の直接の命令で、重臣の梶原源太景季が普請(ふしん)奉行となって、瀬高町にある叡興寺の山門を建てるという事情も知った虎御前が、いっそう瀬高の地にあこがれたのもうなずけます。

女山にとどりついた虎御前は、女山神籠(こうご)列石の源吾谷水門近くに住まいを定め、早速石工をさがし、兄弟の供養塔2基を建立したのです。女山から叡興寺まで日参し、兄弟の冥福(めいふく)を念じつづけたのです。

五輪塔には、兄の十郎と弟の五郎の名が並んで見られ、建立した年代がうすく、建久○○年と刻まれています。
虎御前は何歳まで生きていたのか、一切わかりません。今では、女山の梅野邸の庭園の上の方に、虎御前が朝夕顔を洗い生活していた「鏡池」の名残と、お隣の山川町に通称『虎坂』の名が残っていて、付近に虎御前のお墓がありましたが、開発によって今ではありません。

純愛をささげて、曽我兄弟の供養のための五輪の塔を建てた美しい物語を紹介しました。

(大江幸若舞台本及び謡曲本番よりの収録)

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。

瀬高町水上校区を訪ねて   禅院の建仁寺が入っています。

梅野家歴史資料館の庭  鏡ケ池が見られます。




みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。

by kusennjyu | 2011-09-02 15:39 | 郷土唐尾 |Topに戻る