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千寿の楽しい歴史
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2011妙見祭(八代市)・千寿の楽しい歴史
八代妙見祭  

平成23年11月23日 神幸行列(上り) 
  

50年ぶりに担がれた笠鉾「菊慈童」

西日本新聞  平成23年11月24日朝刊より

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11月18日に三池史談会の研修で八代市の博物館に行き、係員の説明により、妙見祭の展示品を見て来ました。

館内は撮影禁止であり、ガイドブックとパンフレットにより紹介します。

笠鉾(菊慈童~宮之町・蘇鉄~二之町・本蝶蕪~本町)

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笠鉾(西王母~通町・蜜柑~中島町・猩々~紺屋町)

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笠鉾(恵比寿~徳淵町と淵原町・迦陵頓伽~塩屋町・松~平河原町)

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笠鉾のはじまり

笠鉾が妙見祭に出るようになったのは江戸時代の天和・貞享頃(1681~1687)と言われています。

最初は簡素であったものが次第に豪華なものになっていったようです。

笠の上に飾りがついたものを1人で持っていたのが最初の姿のようです。

その後、天文3(1738)年に他の笠鉾のように二重の笠に菊慈童の飾りのついた4人持ちのものになったことが判っています。

豪華な飾りのついた笠鉾は、いわば”風流(ふりゅう)化されたまちの印”なのです。

組み立ては無形の文化財

笠鉾は祭りの数日前に組み立てられます。笠鉾1基につき部品の数は約200~300個あり、普段は種類ごとに箱に入れられて町で保管されています。

それぞれの部品は、順番どおりに組み立てていかないと、部品が入らないようになっています。

組立ての技術も長年にわたって受け継がれた貴重な無形の文化財なのでです。

亀蛇(きだ)

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ガメ」の愛称で親しまれている亀蛇は、亀と蛇が合体した想像上の動物です。

その昔、妙見神が亀蛇に乗って海を渡ってきたという伝説にちなんだものと考えられています。

八代城下の「出町」から奉納され、その始まりは、天和・貞享頃(1681~1687)と推定されます。

亀蛇の大きさは全長3m、巾は2.5m、重さは100kg以上あります。

亀蛇の中には、「ナカ」と呼ばれる担ぎ手が5人1組で入り、そのうち1人が首をあやつります。

首を上下に振りながら、ユーモラスな仕草で駆け回るその姿は、祭り一番の人気者です。

木馬(きんま)

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木馬は、江戸時代の8代城主・松井寿之の70代のお祝いに出されたのが始まりです。

その後、八代城下に住む商人たちが、子供が七五三を迎えるお祝いに木馬や衣装を誂(あつら)えて奉納し、12頭が出されていました。

神馬(しんめ)・飾馬

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神様の乗り物である神馬は、貞享元(1684)年、8代城主・松井直之が神馬屋、中間(馬の世話役)、飼料などをつけて永代寄進して以来、代々の八代城主がこれを奉納しました。

飾馬は、花馬とも呼ばれ、勇壮な馬追いで祭りを盛り上げます。

妙見祭りの始まり

妙見宮の南に位置する山岳部には、14世紀以降、名和氏が築いた山城・古賀城(当時の八代城)があり、この一帯が八代の政治・経済・文化の中心地でした。

妙見宮の周辺には多くの寺院が建ち並び、商工業者が門前町・城下町を形成し、海外との交易も行われ、大いに繁栄していたと考えられています。

相良氏が八代を治めた16世紀には、すでに妙見下宮から中宮へ神輿の神幸、舞楽や流鏑馬などの祭礼行事が行われ、多くの見物人を集めていたようです。












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by kusennjyu | 2011-11-24 11:30 | 九州のまつり |Topに戻る