岩田小学校思い出(大正時代)2
大正時代(卒業生だより) 4人分の一部を取り上げました。 ( )内は私の説明文です。
旧岩田小学校の玄関
旧岩田小学校の正門と校章(昭和47年頃まで)
秋の丸山で松茸狩り 大正8年3月卒業 古賀直(今福字中牟田)
当時の校舎は、正門が学校の北側にありました。崖の下の流れる用水川の橋を渡ってから、石段を40段余り上がったところが門でした。北校舎と南校舎があり、その間に狭い運動場がありました。
学校の南方の丸山(唐川原の入口で現在はみかん山)に遠足で連れて行ってもらいました。当時、丸山には赤松が沢山繁茂していました。秋ともあれば芳醇な味覚の松茸を採る事が出来ました。
『米1俵7円28銭の頃』大正9年3月卒業 古賀博 今福
明治22年4月に市町村制施工により、田尻・岩津・原・今福の4ケ村が合併し、岩田村が誕生しました。
岩田村役場は、現在の岩津駐在所の東にあり、昭和6年高田村に合併するまで行政の中心であった。(現在は駐在所跡地に岩津郵便局が移転して建っている。)
その頃の子供の遊びは、パチ・コマ・竹馬などで、水泳は、堀や溜池であったが、案外、溺れる者はほとんどいなかったようだ。
年の暮れには「ホンゲンギョウ」を、正月には「モグラ打ち」をして廻った。
入学した頃、東邦電力会社(九電の前身)によって初めて電灯が点きました。永いランプ玉の生活に終わりを告げました。
当時は米1俵7円28銭、小作農家は、小作料を米で納め、残りの米と麦の代金・副業のわら工品・養蚕・日雇い等の収入によって生計をたてていた。
地域の共同浴場に加入していている多くの家は、順番に交替で入浴の準備をしていた。当番になった者は、井戸から手押しポンプで2時間ばかりかけて水を汲み上げ、燃料は、石炭と薪だったので、ほとんど1日がかりの仕事でした。情報交換の場であった。(昔は家族同然でしたね。)(昭和40年ごろに廃止になりました。)
桜島第爆発・関東大震災のころ 大正12年3月高等科卒業 田中賢
小学校は大正5年入学。通学は木綿の着物にネルのモモヒキ、本は風呂敷に包み、腰や肩に巻き付け、履物は、下駄または竹の皮、わら草履あるいは素足で登校した。
毎年春の学年遠足は主に黒崎で、昼弁当を食べた後、海岸に出てビナゲ・やどかりなどを採り、帰りの土産に「黒崎がらがら」を買ってきた。
夏は友だちと今福堤によく行った。鬼蓮が一面に広がってその実を採った。(その当時、)鬼蓮は日本に数ヶ所しかない珍しいものである。
大正3(1914)年正月12日午前10時5分 桜島の大噴火がある。朝8時ごろ空模様が変わり、南風に乗って火山灰が降ってきた。
大正12年9月1日 高等科2年の時、東京大震災があり、東京の大学に在学中の兄が震災に遭い、無1文で帰ってきた。
昭和2年 青年学校の生徒で軍事教練を習っていた。手旗信号は岩田校運動場と丸山の間で練習した。
野田大塊翁の死去により、岩津の入口の横井宅付近で葬儀があった。東京の知名人から花輪が貨車2両、渡瀬駅に着き、青年学校の生徒が運搬・飾りの準備をし、徹夜で花輪の警戒に当たった。
昭和3年 今福に電気かんがいが高田町で最初に完成し、その記念碑が今福南の道路交差点にある。
昭和6年 校区青年の中から選抜され、熊本地方陸軍大演習の一環として帯山練兵場(現熊本商業登校の所)で行われた観閲式に参加し、軍楽隊の吹奏の中を行進し、陛下の御親閲を受けた。
岩田校の思い出 大正12年3月卒業 一木シヅエ(田尻)
当時の四大祭(節) 正月の元旦祭・2月11日の紀元節・4月29日の天長節・11月3日の明治節。この日は長袖の模様の入った晴着を着られたのが何よりも嬉しかった。
千灯明(村の祭り) お宮の前には大勢の村人が集まり、(青年団の人たちが、)1ケ月前から毎晩稽古をした民謡や踊りなどが披露されました。(昭和45年ごろでなくなりました。)
農業の様子 大正・昭和初期の頃はほとんど手作業で、稲は1束1束を稲こぎ機で脱穀しました。
荷車 車力で木製の輪に鉄の輪をかぶせたものでした。昭和に入ってからリヤカーが流行りました。始めは空気が入らないタイヤがついていました。しばらく後に、空気の入るタイヤが出てきました。
織物 田尻には反物を織る方が4・5人いました。「トンカラリ、トンカラリ」機織りの音が今は懐かしい。
高田町立岩田小学校 創立百弐拾周年祈念誌(平成8年3月31日発行)より。
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私の目標 今一番大事なことは絆 を育てること。