千寿の楽しい歴史
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2012三池藩の移り変わり・千寿の楽しい歴史
三池藩の移り変わり   展示図録Ⅱ(1999)  大牟田市歴史資料館発行より

1・三池藩と柳川藩の祖(高橋紹運・たかはしじょううん)

a0137997_6564120.jpg柳川藩祖・立花宗茂と立花直次とは、兄弟であり、その父は高橋紹運でした。


紹運は、戦国末期、織田信長や豊臣秀吉が全国統一をめざして動いていた頃、筑前、筑後にかけて勢力をはっていた戦国武将でした。

その頃、九州には北に肥前の竜造寺隆信、東に豊後の大友義鎮、そして南に島津義久がいて、互いに覇を競い合っていました。大宰府の近くの宝満・岩屋城は、高橋紹運の居城で、大友の家臣として他の戦国大名と対峙していました。

天正14(1586)年、九州制覇をめざした島津勢は、この宝満・岩屋城を数万の大軍で攻めました。豊臣秀吉援軍の到着まで死守を覚悟していた紹運は、壮絶に戦い、家臣508名と共に、戦死しまた。


2・立花統虎(宗茂)・高橋統増(直次)兄弟筑後へ

a0137997_8124818.jpg天正14(1586)年、宝満・岩屋城での戦いの時、高橋紹運の長男・統虎(宗茂)は、大友氏一族、立花道雪(戸次鑑連)の養子となり、博多の東にそびえる立花山の立花城を護っていました。

二男・統増(直次)は、15歳で主将として岩屋城の背後にあり宝満城で、避難してきた母をはじめ老若男女等を護っていました。しかし、統増(直次)と母は岩屋城の落城で島津軍に捕らえられてしまいました。

天正15(1587)年、立花統虎(宗茂)は豊臣秀吉自信の率いる島津討伐軍に加わり、その先鋒となって薩摩に入り戦い、祁答院に幽閉されていた弟・統増(直次)と母を救出しました。島津義久は破れ、同年5月、秀吉に降伏しました。これによって九州の戦国時代は終わり、秀吉によって新しい国割がされました。

この功績により、立花統虎(宗茂)には筑後四郡が、そして高橋統増(直次)には、三池郡の内、1万8千石余りが分与されました。

三池氏は、それまでの三池郡の領地を召し上げられ、かわりに秀吉から三瀦郡内に、150町歩が与えられ
立花統虎(宗茂)の与力になりました。

3・柳川藩・三池藩の成立

a0137997_8344997.jpg立花統虎(宗茂)は、慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦で徳川方(東軍)に対決する西軍として闘い、敗者となりました。宗茂及び直次の領地は共に没収となり、朝鮮出兵で共に戦った加藤清正の庇護を受けることになりました。この結果、筑後一円32万石は、関ヶ原の合戦で功をとげた田中吉政に与えられました。

立花宗茂は、旧石高への復帰の努力を続けていて、大阪の役にも直次と共に積極的に出兵して、豊臣軍と対決しました。慶長11(1606)年、宗茂は奥州棚倉(福島県)に1万石の大名として封ぜられました。

慶長19(1614)年、高橋直次にも常陸国筑波郡柿岡(茨城県)に5千石の領地が与えられました。この時、高橋直次は姓を改めることが認められ、立花直次になりました。そして、元和3(1617)年、立花直次の死去により子・種次がその後を継ぎました。

元和6(1620)年、田中吉政の子・田中忠政柳川城主は死去したが、後次ぎがいなかったため、翌年、立花宗茂の旧領地復帰が認められました。

そして、立花種次には、三池郡の内、1万石が分与されました。ここに、柳川藩と三池藩が成立しました。

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4・三池藩の下手渡(しもてど)移封
a0137997_8592345.jpg6代三池藩主・立花種周は、寛政元(1789)年6月に徳川幕府の大番頭を仰せつかり、同4年には、奏者番兼寺社奉行になりました。そして、寛政5(1793)年には若年寄の要職につき、北辺防備総監になっていました。

しかし、文化2(1805)年には、幕府閣僚の内紛に巻き込まれて失脚し、将軍家斉より隠居の上、蟄居処分、その子種善が奥州(現在の福島県)下手渡に転封処分になりました。かって、三池藩は、実質1万四千石あったのですが、移封して行った下手渡は、石高1万石の山間僻地でした。

三池の地は、天領となり日田代官の支配を受けました。三池藩の下手渡移封を知った柳川藩は、三池藩主帰藩の嘆願書を武幕府に提出しましたが、入れられず、種善・種温・種恭の3代63年間を下手渡に在住することになりました。

立花種恭は、嘉永2(1849)年、家督相続し、その2年後、幕府より所領内村替の命を受け、奥州伊達藩内1万石の内3078石を返し、筑後三池郡五ケ村(今山・新町・稲荷・下里・一部)、5071石が与えられました。しかし、三池藩が完全に復封するのは、明治元(1868)年9月でした。

5・明治維新と三池

a0137997_9234420.jpg慶応3(1867)10月15日に「大政奉還」を行い、徳川幕府の支配は終わりました。

当時、下手渡藩主・種恭は若年寄として幕政についており、慶応4(1868)年2月5日に職を辞しました。

明治元(1868)年2月28日、新政府(天皇)の命を受け、下手渡藩三池領に残っていた藩士は、柳川藩と共に奥州に出兵し会津若松でも戦いました。

明治元(1868)年6月17日から25日までの間、天皇の直接支配にする「版籍奉還」が行われました・

この時、知藩事には旧藩主が任命され、立花種恭は、三池藩知事に任命されました。以上






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by kusennjyu | 2012-07-12 09:45 | Comments(0) |Topに戻る