瀬高町の文化財8(永興寺自然石梵字板碑外2件) 瀬高町の文化財(平成2年3月31日発行)より。
永興寺自然石梵字板碑 町指定民俗資料
指定 昭和56年2月23日 所在地 瀬高町大草字古僧都
永興寺本堂前庭の崖下に立っている板状自然石の板碑である。
台上の高さ188cm、幅87cmの凝灰岩である。中央部に二重円相中釈迦の種子バクを題出し、その下全面に一行45字18行に及ぶ長文の碑名である。
銘文は鑿刻で文字は細く、彫りは浅く、碑面の磨消甚だしく、全文の通読は到底不可能である。判断可能な部分によって推考すれば、初めに芬陀梨華(白蓮華)の功徳を喧揚し、次に永興寺の縁起に及び、最後に本題を述べたものの如くである。
後世に作られた寺伝、記録はすべてこの碑文に由来するものと思われる。寺内に遺存する数多くの石塔群中唯一の紀年銘あるものとして貴重な記念物である。
成合谷自然石梵字板碑 町指定民俗資料
指定 昭和56年2月23日 所在地 瀬高町本吉字成合谷786-9
清水観音の山続き南方梅ケ谷、真言宗成合寺前の谷を隔てたみかん山にある。
上部3分の1辺りで折れているが、失われた部分はない。大きさは、高さ1.0m、横0.73m、幅0.20mである。
真言宗薬樹山成合寺は、和銅2(709)年、僧頼現の開基。真言宗仁和寺の末寺。
降って、室町時代、天文2(1533)年、三池郡田尻城主・田尻左右亮の時、その祈願所となった。その後、宗茂公再建され、宝暦5(1755)年、鑑道公の時、僧快助これを中興した。現在、廃寺となっている。この板碑は、加持祈祷が当所で盛んに行われていた名残りである。
ちなみに、板碑(いたび)とは、板石塔婆とも言われるように、石板で作った一種の塔婆である。平たくし易い縁泥片岩などの石を用い、上部を三角形に作り、直下に二条の横線を刻み、その下に種子(しゅじゅ=輪廻の因・密教で説く成仏の資、刻んだものが多い。主として死者の冥福や生前信者たちが供養したものなどがある。
13世紀頃のものが最も古く、17世紀の頃にまで及ぶ。五輪卒塔婆(そとば=仏塔)が省略変形されたものと考えられている。
なお、梵字は、今は死語となった古代インドの梵語の文字で、古来中国を通じて密教(弘法大師による真言宗など)が隆盛になると共に日本に伝来した。悉曇(しったん)とも言う。「阿弥陀」はもちろん「檀那」「伽藍」の元は梵語である。
本郷馬場の碑 町指定民俗資料
指定 昭和56年2月23日 所在地 瀬高町本郷字中土居962-1
本郷中土居八幡神社の境内にある。宝暦8(1758)年、柳河藩は、名鶴堰附近一帯に、騎射、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物などの馬術訓練場を設けた。これは、それを記念して宝暦9(1759)年に建てられたものである。
碑には、「水御殿の下は清流深く水馬の練習に便利である。宝暦9年、時の藩主・立花鑑通公が、四ケ所藤左衛門に命じて館の南方に馬場を設け、騎射、流鏑馬、犬追物などの技を訓練された。」との意味のことが記されている。
左の碑は漢学者・安東間庵の漢文体、右の碑は国学者・富士谷成章の和文体で、両碑とも自筆によるものである。
間庵は、安東省庵(江戸初期柳河藩の大儒学者)の曽孫である。成章は、柳河藩の京都留守居役であると同時に、国学の上で同時代の本居宣長と肩を並べるほどで、後世に不朽の業績を残した人物である。
「つわもの道かたがたにわかれ(中略)ことし、みさかいのうち本郷といふ所に、うまばをつくらしめ給ふ。(以下略)」と言格調高い文体、流れるような筆致は、成章が弱冠20歳の時の手によるものである。
藩主・立花鑑通公の観兵や休息のために造営された別荘(水御殿)が、本郷矢部川沿いにの名鶴井堰下流の川原地帯に設けられていたものであり、以前は碑もそこに建っていたと言う。
本碑は、当時を偲ばせる時代的意味と共に、碑自体の持つ価値にも注目される。
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