筑豊炭田と山本作兵衛の見学資料を作成する。 高田町郷土史部 平成25年3月29日分。
筑豊炭田とは
福岡県の地図(明治4年の県堺)
遠賀郡は、旧筑前国に属しており、北九州市西部と中間市も市制前は遠賀郡に属していた。
田川郡は豊前国に属していました。
福岡県の地図(昭和63年発刊前)線入れ(久保田)
旧田川郡は田川市・糸田町・大任町・川崎町・香春町・添田町・福智町・赤村 である。
筑豊炭田とは、福岡県の中央部から北部にかけて広がる
炭田である。炭田の存在する区域が律令国の筑前国と豊前国に跨がっているため、「筑豊」という名称が付いている。八幡製鐵所を背景に抱えていたため、戦前日本では最大規模の炭田であった。
炭田の存在する地域はいわゆる筑豊地域に含まれる自治体のほか、筑豊地域の北西から北東にかけて隣接する遠賀郡・中間市・宗像市・福津市・北九州市八幡西区南部・小倉南区南部にも炭田が広がっている。
江戸時代までは室町時代の中期頃に地元(現在の北九州市八幡西区香月地区)住民が石炭を発見し、薪より効率の良い燃料として用いていたとされる。
江戸時代中期(西暦1700年代)頃から製塩において燃料として石炭を用いるようになったため、当時の小倉藩と福岡藩は域内の石炭採掘・輸送・販売を藩の管理下に置き、炭鉱の開発を進めた。
戦前は徳川幕府が倒され明治政府による統治が始まると、産業革命期に入り、明治5年に鉱山開放令が公布され、明治政府や民間人により炭鉱開発が急速に進められた。
明治34(年に操業開始した八幡製鐵所(現・新日本製鐵八幡製鐵所)の操業開始により、さらに需要が増加し、生産量が増大した。また、八幡製鐵所の建設開始とほぼ同じ頃から財閥が炭鉱開発に参入している。
戦後は第二次世界大戦後も長い間、炭田としては日本一の石炭産出量を誇っていた。しかし、昭和25年代後半からエネルギー革命が起こり、エネルギー源の主体が石炭から石油に移行し、効率の良い炭鉱を開発し低効率の炭鉱を廃止する政策(スクラップ・アンド・ビルド政策)が進められたことで、昭和34年に産出量日本一の座を石狩炭田に明け渡して急速に衰退が進んだ。
筑豊の炭鉱は第二次世界大戦中の濫掘や設備酷使などにより炭鉱の疲弊が進み、新鉱を開発できる余地が少なく、昭和51年に貝島炭礦(宮田町)が閉山したのを最後に、すべての炭鉱が閉山した。
輸送手段 は江戸時代までは
五平太船(川艜 / かわひらた)と呼ばれる船を使用し、遠賀川およびその支流を利用して水運により輸送していた。戦前には大量高効率輸送のため鉄道の敷設が進められ、五平太船も昭和14(1939)年まで残っていた。
しかし、閉山によってその役割を失い、国鉄線の多くが廃線となった。一部は平成筑豊鉄道(第3セクター)に転換された。
山本作兵衛
山本作兵衛(明治25年5月17日 ―昭和59年12月19日)は、福岡県出身の
炭鉱労働者、炭鉱記録画家。日本で初めてユネスコから世界の記憶(世界記憶遺産)登録を受けた炭鉱画で知られる。
人物
明治25年、現・飯塚市)生まれ。7歳から父について兄とともに炭鉱に入る。明治39年に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となった。
以後、採炭員や鍛冶工員として、筑豊各地で働きながら、日記や手帳に炭鉱の記録を残した。福岡県田川市にある炭鉱事務所の宿直警備員として働き始めた60代半ばに、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と絵筆を取るようになる。
自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱の様子を墨や水彩で描いた。余白に説明を書き加える手法で1000点以上の作品を残した。主要作は画文集『炭鉱に生きる』(昭和42年)。「ヤマの絵師」として知られた。(昭和59年)、老衰のため死去、92歳没。
国内初の記憶遺産
田川市は当初、市内に残る旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓など炭鉱遺産について「九州・山口の近代化産業遺産群」の一環として世界遺産登録を目指していた。
平成21年年10月に選考から漏れたが、関連資料として紹介した作兵衛作品の記録画は、現地調査した海外の専門家らから高く評価された。
このため、作兵衛作品を保管する田川市と福岡県立大学は、世界の記憶(世界記憶遺産)登録を目指すこととし、田川市が所蔵する福岡県指定有形民俗文化財584点を含む絵画585点と関連資料(日記6点、雑記帳や原稿など36点)と、山本家が所有し同大学が保管する絵画4点と関連資料(日記59点、原稿など7点)を合わせた計697点について、市と大学共同で平成22年3月、ユネスコ本部(パリ)に推薦書を送付した。
平成23年年5月25日に国内初の
登録を受けることが決まった。
山本作兵衛の作品から炭鉱労働者の絵2枚を借用します。(私の説明用に使いました。)
ヤマ人と入墨 はばをきかした刺青イレズミ。
昔々犯罪者を獄舎から出す時体にイレズミして前科の印にしていたと言う。
時が変って侠客、男を売り出す表看板になり、ヤマではイレズミのないものは下ざい人でないと軽蔑され馬鹿扱いにされた。
よって仕事は下手でも皆、入れたものである。シジボリのときは特に痛むのでガマンとも云い、ホリモノとも言う。
明治丗七八年頃には若い人もいれぬものが多くなった。ボツボツ、はばがきかぬ様になったからである。
アゲアナクくり
名人になれなれ茄子と思えども、とにかく下手ヘタは放れざりけり、狂歌がある。
この下手が少しであってはできない。アゲアナくり、カテアゲとも言う。
孔くり術の中での難作業。1回でも(スカタン)打外すと左手は砕けて指は何本あっても補給ができぬ。
楽しい研修が出来たとみんなから言われ嬉しく思います。ありがとうございました。
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