2015鉄文道智(書道家)「みやまの人と歩み」より・千寿の楽しい歴史
鉄文道智(書道家)を紹介します。
「みやまの人と歩み」より
禅僧としての鉄文(てつもん)
鉄文は黄檗宗(おうばくしゅう)の禅僧で、柳川藩主立花家の菩提寺(現、柳川市奥州町)福厳寺(ふくごんじ)の中興開山として名高い高僧です。鉄文禅師(ぜんじ)とか鉄文和尚とも呼ばれています。また諱(いみな)を道智(どうち)といい、大癡(だいち)とも号しました。
寛永11(1634)年7月9日に山門郡海津村(現、みやま市高田町海津)の西原家に生まれました。父は西原種孝という柳川藩の武士で
した。
幼い頃から聡明で、柳川天叟寺(てんそうじ)の俊嶺(しゅんれい)和尚に付いて経暑(けいしょ)などを学び、13歳の時に出家、さらに禅の勉強を深めるために京都に上り、また修行の旅に出たりしました。
承応3(1654)年、中国からの隠元(いんげん)禅師が長崎に来て黄檗宗を伝えると、鉄文は長崎に赴いて、その教えを請いました。隠元の隠居後は、その高弟の木庵(もく
あん)禅師に仕えて、さらに禅の悟りを深め、のちに黄檗十哲の一人に数えられるようになります。
寛文9(1669)年、36歳のとき、師の木庵とともに江戸に赴き、藩主鑑虎に相見えましたが、このとき鑑虎より福厳寺の住職になって寺を立て直してくれるよう強く頼まれました。鉄文は、以前から故郷に黄檗宗を広めたいと願っていましたから、この頼みを受け入れ、福厳寺の住職に就任し、寺の再建に着手しました。
こうして延宝2(1674)年に鉄文の指導のもと本堂以下諸堂の再興が成り、その落慶法要が営まれました。このとき書いた「鉄文禅師開堂法語」が福厳寺に伝わっています。
書道家として
鉄文禅師は、能書家としても知られています。その墨蹟は柳川の福厳寺に多数残されています。前に挙げた『鉄文禅師開堂法語』のほかに六曲一二双の大屏風(詩偈・しげ)や鉄文和尚肖像画の「自賛」、そのほか「遺偈(ゆいげ)」「臨終偈」「詩偈」などもあります。また、みやま市の江月寺にも「詩偈」が一点伝わっています。
貞享5(1688)年9月13日、隠居先の倉永法雲寺(現、大牟田市)にて静かに永眠しました。享年55でした。
続きます。
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