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千寿の楽しい歴史
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2015咸宜園の門下生(山田 彦四郎)・千寿の楽しい歴史
咸宜園の門下生(山田 彦四郎)  

平成27年7月18日(土)


咸宜園の徹底した実力主義と門下生の個性を尊重した教育は、全国的に評判となり、入門者は年々増加の一途をたどりました。長福寺学寮での講学の開始から咸宜園の閉塾までの92年間に、計10人の塾主により5000人を超える門下生が巣立っています。門下生は僧侶や町人などが多く、大帰(たいき・卒塾)後は儒学者や教育者、医者、政治家など活躍した分野も多岐にわたります。さらに旭荘(きょくそう)、青邨(せいそう)、林外(りんがい)など咸宜園の塾主となった門下生もいました。

咸宜園には4800人の「入門簿」がのこされていました。咸宜園教育研究センター名誉館長の後藤宗俊氏は、これを一枚づつのシートに取り、パソコンの個人データーとして一覧表を作成しています。

講義の時に、スライドで見せてもらいました。門下生の国別人数は豊後が一番多く、1285人、豊前574人、筑後556人、筑前257人、周防154人などです。

有名な人では、大村益次郎(兵学者・蘭学者)、高野長英(蘭学者)、大熊言道(近代歌人の先駆者)、帆足杏雨(豊後南画家)、上野彦馬(写真術の先駆者)などです。

豆田は当時の人口で1100人の人口で内塾生が200人いました。門下生からは入学料をもらい、それを金融運用して咸宜寺園の運営費に充てています。町の人々は下宿やアルバイトを提供して現在の学園都市さながらです。

山門郡竹井村(現在のみやま市高田町竹飯)の寂善寺住職、柳川の宮永で私塾・観古堂を開塾した山田彦四郎、上妻郡木屋(現在の八女市黒木町木屋)で修文館を開塾した木屋徳令が門下生として入っています。

2015咸宜園の門下生(山田 彦四郎)・千寿の楽しい歴史_a0137997_1744549.jpg2015咸宜園の門下生(山田 彦四郎)・千寿の楽しい歴史_a0137997_17442687.jpg


山田彦四郎については旧柳川藩志(青潮社発行)に載せられていますので紹介します。

山田彦四郎は博識の士なり。人と為り篤実にして雅量あり文学に富む。立花鑑寛公幼少の頃より怩近すること多年、昼夜御側を離れず、奉公に勤む。故にもって公封を受けし後士林に列せられる。その家系を案ずるに、孝元天皇の御弟伊豫皇子をその鼻祖とする。皇子の後裔伊豫国の山田に住する。依って氏とする。のち、豊後に移り大友氏に仕える。

天正6年11月、日向耳川合戦のとき大友義統の軍敗れ、敵の包囲に陥る。大沢左近、山田忠興、森隼人、これを見て敵中に割り入り奮闘して戦死する。この隙を得て義統去り一身を完うしたと云える。
 
この忠興は彦四郎の祖なり。彦四郎初めは彦左衛門と称す。実名は興考、字は子敬、南村はその號なり。家の號を借竹亭と云う。これは豊後の帆足万里を訪ねたときに命名を乞して、この家の號を付ける。この借竹に関し、志賀喬木、中野南強蘇外に数名の詩文あり。

彦四郎は藩の御書物方となる。のち宮永に学校を設け、しばらく子弟を訓育する。彦四郎は最も柳河の事蹟に明なり。西原一甫の柳河名所絵図を撰するや大いに尽力する所あり。又、山門郡に長所を設けられし際、郡村誌の編さんあり。彦四郎及び児玉七郎はその任に当たれり。又、著書は筑後略記等、数十巻あり。その字は仙次と号する。


続きます。





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by kusennjyu | 2015-07-21 17:46 | 歴史学習会 |Topに戻る