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千寿の楽しい歴史
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2015直方に生まれた向野堅一物語(その5)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その5)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

5・家庭人としての堅一

堅一の先妻の名は隆子と言い、廣瀬淡窓の実家・廣瀬宗家当主・廣瀬七三郎の長女である。

晋は「結婚ノ動機ニツイテハ知ル由モナキコトナレドモ、リウ(隆子の戸籍名)ノ弟廣瀬貞治氏一族ノ廣瀬寅太郎氏トハ日清貿易研究所ノ同期生ナリシコトナレバ其縁故ニヨルモノナラン」と記している。

廣瀬寅太郎(廣瀬淡窓の弟・三右衛門の曾孫。姉の禎子は横田國臣男爵の妻)は堅一と同じく日清貿易研究所の卒業生でしかも同期生であった。

堅一とともに台湾仏教布教活動や日露戦争で活躍し、『台湾浄土』によれば、台湾では始終、堅一と行動をともにしている。

寅太郎は森鴎外と親交厚く、日田の廣瀬家に鴎外を案内している。日田での滞在状況は、鴎外による『小倉日記』に記述されている。

堅一と隆子との縁については、遊説に来た堅一に一目ぼれして、弟の貞治を通して、その思いを伝えたとも語り継がれている。隆子が堅一を見初めたわけである。

貞治からの「女の身から言えないから察せよ」という堅一宛の手紙や、堅一が隆子のために詠んだ漢詩も現存している。しかし、『宗方小太郎日記 明治二六~二九年』には、上海で堅一とともに活動する貞治の名が記されているので、寅太郎と貞治のどちらの縁によるものかはまだ明確ではない。ただし、隆子の墓碑を寅太郎の義弟・横田國臣(明治・大正の司法官。豊前宇佐郡横田村で島原藩士・横田宗雄の長男として出生。咸宜園に学ぶ。)が書いていることから、寅太郎の世話によるものと考える説が有力である。

先妻の隆子   

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隆子は、結婚10年後に4人の男児を遺して明治40(1907)年6月4日、37歳の若さで盲腸炎の手遅れが原因で亡くなってしまう。隆子との間には長男・晋、次男・有二、三男・元生、四男・啓介助という男児が授かった。隆子の妹・収子(廣瀬七三郎の三女)は、姉の遺した息子たちを居育するために堅一に嫁いできた。つまり、先妻の遺児を立派に育て上げることが彼女の使命であった。堅一はその感謝の気持ちを表したものを収子に直接言わずに貞治に書き送った。収子が死ぬまで大切にしていたものは、兄・貞治から渡された堅一からの手紙であった。

先妻・隆子を失った後、福岡市住吉町から因幡町31の二番地に留守宅を定め、家族を福岡に残して中国大陸・満州に赴いた。そして、大陸で経済活動を展開していたときも、堅一自身は満州、福岡、神戸、大阪、京都、東京を頻繁に単身で往来していた。

後妻の収子

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向野堅一の一家

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彼は非常に教育熱心な男であった。「親類中で福岡の子供が一番能く勉強すると言いいうる位になってもらいたい」と、遠い満州からわざわざ子供たちに課題を出し、作文を送らせて、それに対して自ら添削して返すような父親であった。

後妻・収子は、夫の方針に従い、隆子の遺児たちの作文を頻繁に送った。晋、有二、元生、啓助に宛てた手紙には、堅一の教育理念が詳しく述べられている。父親としての教育熱心さは、『骨肉』での文芸教育に現れており、堅一の教育方針がわかる。『骨肉』は上級学校に進学するために、向野家で同居していた従兄弟たちと彼の息子たちでつくった手作り雑誌である。

満州から時おり戻ってくる堅一へ、子供たちが見せるために、大正2(1913)年から毎月発行していたものである。この『骨肉』については斎藤太郎『骨肉』――大正期家庭教育をうかがわせる手作り雑誌――」が詳しい。そこでは研究対象としての可能性が示されている。また『骨肉』とは別に、教科書とノート、日記が残されている。

手作り雑誌 『骨肉』

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数え年20歳で母となった収子に、隆子の遺児4人もよく懐き、「世ニアル如キ風波ヲ見ズ」と言われた。『我が先亡の記』(向野晋、昭和42年)によれば、収子が独り老いていく様子を見、ていて、晋は、堅一の長兄・菊次郎の前で、両親に一家の奉天移住を勧めた。収子からは「自分一人辛抱すればよい、いらぬことを云うな」と叱られた。しかし」菊次郎の助言により、堅一もようやく了解して決心し元生が東大に進学すると同時に、一家は奉天琴平町五番地に住居を移した。

晋は、「長期にわたる父親との別居生活が解消され、ようやく一家団欒の楽しみを味わうことが出来るようになった。初めて春が来たような感じがした」と書き記している。

堅一の子供には、先妻・隆子を母とする晋、有二、元生、啓助と収子を母とする信子、克子、玄吉がいた。皆、20代、30代で亡くなり、平成まで生き抜いたのは、元生と末娘の克子であった。


続きます。





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by kusennjyu | 2015-12-29 12:44 | 歴史学習会 |Topに戻る