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2016村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(午後)・千寿の楽しい歴史
村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(午後)

平成28年6月14日(火)

探検者:4人  原田青夜氏・瀬口(女性)・熊川猛司・私

権現塚古墳

みやま市指定文化財  昭和56年2月23日指定

住所  みやま市瀬高町坂田字上坂田

権現塚古墳は主体部及び年代は不明であるが、直径45m、高さ5.7mの2段築成の円墳であり、幅約11mで深さ1.2mの周溝を有する県内屈指の円墳です。

魏志倭人伝に「女王死するや、大いに塚を作る径百余歩殉葬者百余人」とあり、江戸時代の儒学者新井白石が唱える山門説以後、その大きさから邪馬台国女王卑弥呼の墳墓と主張する人もいる。周辺からは、縄文時代後期―晩期の住居跡や勾玉・管玉・石斧または、合わせ口カメ棺48基、弥生―古墳時代の住居跡、縄文―古墳時代の土器、その他多数の遺物が出土している。
                    
瀬高郷土史会作成

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車塚古墳

みやま市指定文化財  昭和56年2月23日指定

住所  みやま市瀬高町山門字藤の尾

この塚は瀬高町山門字藤の尾の東北に位置し、南北約55m、東西27m、高さ3.5mの前方後円墳で、明治22年頃までは周囲に3.6mの堀があり、往時は陪塚が左右に会ったと聞くが今はない。

享保20(1735)年漢鏡3面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせカメ棺が多数出土している。(昭和61年調査)また、塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。従ってこの古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
                         
瀬高町教育委員会

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蜘蛛(くも)塚(大塚)

みやま市指定文化財  昭和56年2月23日指定
住所  みやま市瀬高町大塚字大塚

この塚は瀬高町山門字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起こりである。今は石室の中心部のみ残り塚上に地蔵尊を祀ってある。

昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の征西の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、一説に土蜘蛛の首長田油津媛(たぶらつひめ)の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に古墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったのが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正2年春、田の中の小塚を崩して、その上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが、後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
                         
瀬高町教育委員会

堤古墳群

瀬高町山門字堤。この地区は、地区そのものが古墳ではないかと言われ、地区内には多くの巨石が散在している。

この写真は、東塚原の入り口にある巨石で、石棺か石室か支石墓にするものではないかと言われている。未調査のため実態はつかめていない。
                        
瀬高郷土史会作成


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『誰に書けなかった邪馬台国』P220より

村山健治著

大宰府がまとめた筑後の正六位以上の神々の一覧表『天慶神名帳』の山門郡の章に「堤大国玉神」の神名が出ている。

堤の天満宮の氏子である堤部落の人々は「古祭(こまつり)」という祭りを毎年10月に行っている。「古祭」は別名「コブシンサン祭」ともいわれる。「コブシン」とは「古い護神」「古い御神」の意味である。

天満宮となったのは、江戸時代になってから松延の天満神社の分霊を祀られたためと伝えられる。

山門郡にはほかに堤という部落はない。となると、現天満宮でも「古御神」を祀った堤のこの社が、「堤大国玉神」の社だったと考えられる。

「国玉神」とは「国魂神」である。国家に役立った神に付けられる名だ。それが「大国玉神」となると、もうめったにあるものではない。『天慶神名帳』の山門郡二十六前の神々に、「大国玉神」はこれ一神だけである。いや、筑後全体の神々の中でも、この一神だけである。

堤の天満宮には、数千年の昔、高貴な神が祀られていたことになる。ここはその前から聖地だったことになる。だから、邪馬台国のころ、もし天文観測や太陽暦観があるなら、太陽は聖なるものだし、聖なる堤から眺めたのではあるまいか、と私は考えたのだった。そして、観測の結果、東山連山が“太陽暦カレンダー”であるのを知ったのである。

邪馬台国女王卑弥呼も、夏至・春分・秋分・冬至などの朝は、堤のこの聖地に赴いて、日の出を拝んだのではなかろうか。もしかすると、卑弥呼はもっと繁くここを訪れ、朝焼けや朝日の状態から、天候やその他を占っていたのかもしれない。

堤部落は、私が邪馬台国王城の地と比定する大塚部落の、真南1kmの位置にあり、通うのにさして苦労もなかったろう。

ヒミコ」とは「日を見る命」「日を見る巫女」の意味ではなかったか、と私は推理するのである。


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良い探検ができ、喜んで帰られました。

ありがとうございました。








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by kusennjyu | 2016-06-16 17:50 | 歴史学習会 |Topに戻る