人気ブログランキング | 話題のタグを見る
千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
大道端遺跡(おみちばたいせき)

瀬高町大草  

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P240~P243より

みやま市教育委員会発行


大道端遺跡は、瀬高町大草の標高9m前後の安定した微高地に立地します。

九州縦貫自動車道建設工事に先立って、昭和47(1972)年に福岡県教育委員会が試掘調査しました。その結果、検出された遺構や出土遺物から見て、旧石器時代から平安時代にまたがる複合遺跡であることがわかりました(文献1)。

そのうち、古墳時代後期を中心として、弥生時代後期の集落遺跡が主要部分をなします(図1)。

まず、旧石器時代の遺物は、剥片尖頭器・ナイフ形石器を主体とする剥片石器を若干検出しました(図2)。遺跡地東方の東山(女山)一帯の丘陵地で、硅質凝灰岩の礫器(チョッピング・トゥール)が少なからず採集されているのに対し、低地という遺跡立地と剥片石器という石器形態の差異は、海退現象に伴う低地性遺跡の出現と理解できるでしょう。

縄文時代では、早期末から晩期にまたがる縄文土器や、石鏃・石斧などの石器類を多数出土しましたが、竪穴住居跡などの遺構は遺存しませんでした。おそらく弥生時代以降の集落造営によって削平を受けたのでしょう。縄文土器は、早期末の轟A式、前期前半の曽畑式、中期の並木・阿高式、後期の南福寺式・出水式、御手洗A式、ならびに、後期の磨消縄文土器である中津式・福田KⅡ式と、後期中葉の津雲A式、鐘式、北久根山式、西平式、さらに後期後葉の三万田式や、後期終末の御領式から晩期終末の夜臼式まで黒色磨研土器が認められます。そのうち、中心をなすのは、中期から後期にかけての土器です。

縄文時代の石器では、石鏃が圧倒的に多いのですが、スクレーパもかなり出土していて、狩猟活動を推測させます。一方、自然礫の両端を打ち欠いた大小の石錘があって、漁労活動への依存度も高かったことが推定できます。

弥生時代の土器は、中期初頭から後期末にものですが、遺構では後期の竪穴住居跡と溝を認めました(図3)。

竪穴住居跡は全部で8棟検出されましたが、4つのグループにわかれます。すなわち、後期前半のa・bグループ、後期後半のcグループ、そして後期末葉のdグループへと変遷しています。このような居住集団は、3棟またはそれに若干数を加えた単為が基本であったように思われます。なお、個々の住居跡は平面方形をなし、床面中央に炉を掘り込み、そして壁際に沿ってベッド状遺構を残すものも認められました。一辺の壁 面中央に掘られた竪穴は、貯蔵用でありましょう。

溝状遺構は、調査区をほぼ斜めにN―32度―の方向で続いていました。長さ64.8mにわたって検出されましたが、この方向は、遺跡が立地する微高地の主軸の方向と一致します。また、集落の南端を走りますので、用水施設というより、むしろ排水施設であったかもしれません。

2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史_a0137997_10283712.jpg



2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史_a0137997_1030781.jpg



2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史_a0137997_1031296.jpg



2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史_a0137997_10312029.jpg



2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史_a0137997_1032470.jpg



続きます。








みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-06-27 10:29 | みやま市の歴史 |Topに戻る