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千寿の楽しい歴史
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2017相島と朝鮮通信使・千寿の楽しい歴史
相島と朝鮮通信使

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

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藍嶋図(岩国藩の武士が描いた)

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朝鮮通信使行列

平成14年8月4日対馬厳原町アリアン祭にて

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1・朝鮮通信使

相島は、新宮港から海上約7.3kmの沖合にある東西に長い半月形の小島です。江戸時代には鎖国をしていましたが、朝鮮とだけは国交を結び、福岡藩ではその使節をここで接待し、文化交流の舞台となった島です。

朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝からの国書(信書)を持って訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者です。通信使とは、「信(よしみ)を通わす使節」の意味で、つまりお互いに信頼関係を深め合う使節で、12回来日しました。

第9次の来日記録が『海遊録(かいゆうろく)』(姜在彦著・平凡社)に詳しく記述されています。それによると、相島については「御馳走は、壱岐よりさらに倍する。諸物すべて華美で景色のよいこと神仙境である」と書かれています。

一行の経路は、首都漢陽(現在のソウル)を4月14日に出発し、6月20日釜山を出帆しました。対馬には22日間滞在、7月19日未明に次の寄港地壱岐へ向かい翌日、勝本に入港しました。7月24日台風来襲、12日間滞在しています。この台風で相島でも新築した宿泊施設や船・波止も一部壊れ水死者が出ました。代わりの船舶の準備、水夫の補充、宿舎や波止の修理などが大変だったようです。8月1日勝本を出帆し、福岡藩の領海に入ると相島から藩の迎護船が出てとも綱で曳航(えいこう)し、真夜中に相島に到着しています。

8月3日は早朝から暴風雨になり、停泊していた船は荒れ狂う波にほんろうされ、さらに東風のため出帆することができませんでした。

『黒田家譜』によると、8月10日相島を出帆、次の寄港地赤間関に向きましたが、芦屋沖で北風に阻まれ航海中3回目の大風雨に遭遇、緊急時の避難地である地島に引き返しました。8月18日出帆、小倉藩に迎護を引き継いでい、ます。一行が福岡藩領を通過するのに17日かかっています。

一行と案内警護役の対馬藩士合せれば1200~1300人の集団となり、通信使一行の接待に藩は膨大な費用と労力を掛けました。一方通信使も第9次では、日数にして285日間の長旅で、その苦労も大変だったと思われます。

江戸時代の朝鮮通信使往来一覧表

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朝鮮通信使行列

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朝鮮通信使旅程図

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2・朝鮮通信使客館

通信使一行300~500人を迎えるため毎回新しく官人小屋(かんじんこや・客館)を新築し、帰国後に取り壊しています。第10次来島時を描いた藍嶋図には、官人小屋は板葺きで棟数は大小40ほどと記録されています。寛永元年(1624年)の記録「東槎録(とうさろく)」には、「官舎は新築し、軒・柱・梁・垂木・垣根に至るまで皆竹で作り」とあり、青々とした竹が大変美しかったようです。『黒田家文書』では、畳数931畳半を新調したと書かれています。藍嶋図に基づき平成7年に官人小屋の場所と思われる畑の発掘を行ったところ、江戸時代の建物跡や井戸跡、漆椀、陶磁器などが見つかりました。

朝鮮通信使客館は、若宮神社横から南西の位置にあり、その敷地は東西65間(約117m)、南北70間(約126m)でありました。発掘調査は、今は畑に戻され案内板だけが目印となっています。

写真は細長い廊下状の建物の柱の跡です。この建物跡は島の中心部に向かってまだ続いていますが、部分的にしか確認できていません。

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3・供応食と食材の準備

幕府は、沿道の各藩に対し通信使を手厚く接待するよう通達しました。官位によって献立の基準を示し、信使と上々官に対しては儀式用の『七五三の膳』と食べるための『引き替え膳』を出すように指示しています。

写真は『引き替え膳』です。食材は、山海の珍味を集め、華やかに飾って出しました。特に珍しい食材では、いりこ(ナマコの乾物)、キジ、ウズラ、ウス(鯨の心臓)、コササイコクシ(菓子の膳のサザエを串にさしたもの。小栄螺小串)、博多そうめんなどで、食器やさかずきなどは全て新調し、金銀を塗っています。

一行に提供する食材は、米・酒・味噌・醤油・酢など1人1日に渡す量が指示されていました。魚・肉(豚・猪)・鶏・鳥(キジ・五位サギ)・山菜・野菜・果物・菓子など種類も量も多く、食器や器などは1年前から準備しました。夏に来日したときは、料理に使う「生魚」の集め方や鮮度保持に大変苦労したようです。往復時に相島で使った食料費の総費用は、第7次来日記録を現在の人件費で試算してみると約8億6800万円と膨大な額になっています。

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4・航海と通信

通信使は正使船・従事船とそれぞれの供船6隻を中心に、将軍に献上する馬や鷹を積んだ5隻の献上船や長老船・荷物船で、合計13席で来島しました。これらの船に福岡藩の迎守船団がそれぞれえい航船団としてつけられました。

通信使の連絡には、烽火(のろし)を使いました。福岡藩では、各地の島に火立て所を設けました。通信使一行の船影が見えたら、小呂島―姫島―玄海島―藍島(相島)-残島(能古島)-荒戸山(現在西公園)と、次々に烽火を掲げ藍島と福岡城に知らせるようにしました。藍島では2カ所に烽火台が設けられ、草や生の松葉をくすぶらせ、煙によって島々と連絡を取り合いました。

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烽火(のろし)図

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5・通信使関係の史跡

通信使を迎える準備として、福岡藩では天和2年(1682年)3月4日波止場の構築に取りかかり、島民が述べ3850人の約2ケ月間で先波止と前波止2つの波止場を造りました。前波止は現在町営渡船「しんぐう」の船着き場で、対馬藩主や随行者が上陸しました。先波止からは通信使一行が上陸しました。

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享保4年(1719年)7月24日、第9次通信使が来日の折、その準備をしていた相島に台風が来襲しました。そのため多くの被害を出し、迎護船40隻余が破損し、藩士12名、浦水夫49名が亡くなりました。

墓碑拓本は平成7年の相島積石塚群調査時に発見され、刻まれている内容がその時のものだということが確認されました。

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相島は、深い山や大きな川もなく、用水の確保も大変でした。水が不足しないように以前からあった4つの井戸のほかに、用水のため丸井戸6ケ所と、角井戸6ヶ所を掘りました。現在は2ケ所残っています。


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続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-30 08:26 | 歴史学習会 |Topに戻る