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2017「隈部親永一族・鞠智城を訪ねて」資料・千寿の楽しい歴史
「隈部親永一族・鞠智城を訪ねて」資料

柳川郷土研究会研修             

平成29年4月25日(火)予定

下見調査 金子俊彦・塩塚純夫・久保田毅

資料作成 塩塚純夫

肥後国衆一揆

戦国時代末期、豊臣秀吉は九州平定したとき、肥後の国衆(地侍の首領)に対し本領安堵の約束をし、新肥後国主として越後から佐々成政を送り込んだ。

佐々成政に対し「五ケ条の掟」を下して降ります。

①国衆の知行領地を取り上げてはならない。
②3年間、検知をしてはならない。
③百姓たちを痛め苦しめてはならない。
④一揆が起こらないようにすること。
⑤3年間は普請労役に駆り立ててはならない。

これは肥後国衆を豊臣政権に従わせるための、秀吉なりの懐柔策であったという。ところが佐々成政は肥後入りしてすぐ、国衆たちに知行目録を示して検知を強行したのである。その検知とは検知基準値とは異なる6間尺で測って、浮かした領地を没収しようとする魂胆だったから、国衆たちの猛烈な反発による、国衆一揆の勃発であったと云われています。

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田中城跡(国指定史跡)和水町

田中城は、肥後国衆の一人である和仁(わに)氏の居城です。天正15(1587)年に勃発した「肥後の国衆一揆」では、和仁氏や辺春氏などが立て籠もる最終拠点となりました。

全国統一を進めていた秀吉はこれに激怒し、 小早川秀包・安国寺恵瓊のほか立花・鍋島などの諸将に命じて1万の兵を派遣して兵糧攻めを行いました。和仁側は、1千あまりで抵抗しましたが、約40日の籠城後、辺春氏の裏切りで落城しました。

その際、豊臣秀吉軍が作成した「辺春・和仁仕寄る仁取図」は日本最古の陣取図として知られています。陣取図には、城を取り巻く木柵や物見やぐら、小早川氏・立花氏・鍋島氏などの陣地が描かれています。

有名な秀吉の「刀狩り令」はこの戦いが契機となり発令され、中世は終わりを迎えたのです。

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隈部親永と肥後国衆一揆 山鹿市菊鹿町

あんずの丘の高台にそびえ立つ像は、戦国時代末期に山鹿・菊池二郡を支配していた肥後の国衆を代表する人物である隈部親永の像です。本拠としていた隈部氏館の地を背景に、平服姿で、太刀は佩(お)びず左手に持ち、支配する菊鹿平野を扇で指し示しており、領主として望んだ平穏な領地と領民への思いやりを表現したものです。

1587年、豊臣秀吉は、九州平定において、彼に従った肥後の国衆50余人に、ひとまずは、その本領安堵の朱印状を与え、肥後を治める佐々成政には新しい土地制度となる検知を3年間行わないよう指示しました。

しかし、佐々成政は検知を強行し、これに反発した親永が成政から責められたのが国衆一揆の発端となります。隈府の守山城を落とされて脱出した親永は、その子親泰の山鹿城村城に籠城して戦います。その間に肥後国内では親永に同調した国衆たちが蜂起して成政の隈本城を包囲しました。

この一揆を知った秀吉は京都北野の大茶会を一日で中止し、九州の大名黒田孝高・鍋島直茂・安国寺恵瓊・小早川秀包・浅野長吉・立花宗茂・高橋直次等に一揆鎮圧の派兵を命じました。

大軍に囲まれた親永父子は年末まで抵抗しますが、安国寺恵瓊・立花宗茂より秀吉へのとりなしを持ちかけられ降伏します。親永は柳川の立花家へ、親泰は小倉の毛利家への預かりの身となります。

その後、秀吉より処刑の命令が下り、小倉の毛利家では全員斬首にて処刑されたが、立花家では、武士の面目を立てるべく、一対一の公平な条件下の決闘にて、12名の隈部武士を処刑したのである。
 これが「放し討ち」という世にも珍しい処刑であった。

秀吉の太閤検地では、武士にとって土地は年貢を入手する目安となりましたが、中世の常識では、土地とは武士が生命を懸けて守るべき生活の原点であり、徴税調査すら拒否できる場合がありました。

時代が変わっても、中世的な土地への執着心の伝統を捨てきれず、検地を拒否したのが親永の意地であり、悲劇ともなったのです。一揆終了後、全国に向けて刀狩り令が発せられ、兵農分離が進み、時代は中世から近世に移っています。

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城村城(じょうむらじょう) 山鹿市城

戦国期に菊池氏の氏族・城氏によって築城された。大友氏から菊池義武を迎えると城氏ら菊池三家老は義武と対立する。大友義鎮が肥後に侵攻すると城親冬は義鎮に協力して義武を追放する。親冬は隈本城に移り、城村城には隈部親永の子・親泰が入城する。

天正15(1587)年の肥後国人一揆では佐々成政に隈府(菊池)城を落とされた隈部親永は子の親泰の守るこの城村城に籠った。場内には8千の兵と7千の婦女子がおり、佐々軍の猛攻には耐えたが、九州諸将の援軍が一揆軍の守る諸城を攻略すると城村城のみとなり親永父子は年末までは抵抗しますが、安国寺恵瓊、立花宗茂等の秀吉へのとりなしの約束で投降し開城する。その後、城村城も廃城となる。

菅原神社近くに駐車場・説明板があり、本丸・二の丸・三の丸・空堀などが残る。今は住宅地の畑に囲まれている。

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秀吉の策略

まず、この一揆の発端は佐々成政の悪政に反抗したものであって、豊臣政権そのものへの反逆ではなかった。ゆえに途中で佐々は大阪へ呼び戻され、釈明も許されず摂津で切腹させられている。その背景には秀吉のしたたかな策略が隠されていたという説があります。

佐々は織田信長の重心として柴田勝家と肩を並べる存在で、秀吉はその下に位置する農民からの成り上がりものでしかなかった。柴田が織田信長の跡目をめぐって秀吉と対立したときは柴田につくなど、秀吉にとって佐々は目の上のタンコブなので、佐々を討つ機会を狙っていたといえます。

佐々が肥後入りして検地を強行せざるを得なかったのは、秀吉が国衆に約束した「五ケ条の掟」を守れば、佐々家および越後から来た家臣やその家族たちの、肥後における生活は成り立たなかったのであった。まんまと秀吉の策略にはまったと言えよう。


研修結果の写真は後日上げます。






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by kusennjyu | 2017-04-06 17:20 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る