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千寿の楽しい歴史
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2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介4・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介4

本村精二著

2・ 黒門前の決闘についての考察

③立花側の討手について

柳河藩立花家分限帳の立花家旧記の中の細目に「天正16年5月27日隈部筑後守親永黒御門ニテ御成敗之節出会候人数」の記載があり、ここには15名の名前が載っている。上段に「御人数引廻由布壱岐守」とある。この壱岐守は実際に戦闘に参加しないで、責任者として総指揮を執り行ったものと思われる。

以下「十時摂津守、十時伝右衛門、池邊彦左衛門、安東善右衛門、十時勘解由、池邊龍右衛門、安東五郎右衛門、石松安兵衛ら」の名があり続いて「手負 原尻宮内、内田忠右衛門、新田掃部、森下内匠」とあり(計12名)、下段に「他ニ通掛戦死森又右衛門、跡押小野和泉守」と記される。

跡押と記された小野和泉守は支城の蒲池城督で城持分の武将である。決闘には直接参加しないで、万一討ち損じた場合のために後詰めとして手勢を率いて後方に備えていたと推定される。

通説では、立花側の討手は12名とされるが、通掛戦死と記される森又右衛門を含めると13名になる。けだし「外ニ通掛戦死」と記された森又右衛門という人物は正規の討手ではないが、何かの原因で(文字通りに考えると通り掛かりに)決闘に巻き込まれ、斬られたのであろう。

菊鹿町史資料編に掲載された小野文書にも「隈部親永成敗出会人数覚写す」の細目がある。ここに記された人名と人名は立花家旧記とほぼ照応する(安東善右衛門、石松安兵衛が安東宮右衛門、原尻宮内が古庄宮内と記されているが)。戦死したとされる森又右衛門についての記述は「〆十弐人外ニ掛通り」とある。

旧柳川藩志にも、森又右衛門は偶発的に切り払われて戦死したと記してある。やはりこの人物は正規の12人の討手
ではなく、決闘に巻き込まれて戦死したと考えられる。

諸資料に記載された立花武士の人数はいずれも12人だが、人名の記載は各資料で異なり一致しない。しかしながら立花家旧記に記される名簿が最も信頼出来るような印象を受ける。

立花側の出会人の中に新田掃部(かもん)という人物の記載がある。この人は清和源氏の血を継ぐ新田義貞の末裔で、新田掃部介と名乗り立花家に仕えていた。

運命とは不思議で残酷なものである。討たれた肥後衆の中に隈部筑後入道善良と名乗る剛強の若い武士がいたが、この法師武者は新田掃部介の実弟であったという。筑後の善導寺の僧だったが、肥後で親永に請われて還俗して隈部善良と名乗っていた。

佐々伝記の「大津山・和仁・邊春設伏兵与柳川勢戦事」の項に「家稜が舅内空閑鎮房が方より、新田善良といふものを使として・・・」とあるように、この時善良は隈部勢と行動を共にしていたようである。城村(じょうむら)城を出た後親永に従い柳川へ来ていたと思われる。この決闘で兄弟が相方に分かれて戦ったことになる。戦国の世の武士の掟の厳しさを感じる。

立花側の武士で戦端に隈部親永を斬った十時伝右衛門は、よほどの剛勇だったらしく、立花関係の他の武勇伝にも登場する。天正12年の夏、高良山下の筑後陣においてあまりの猛暑のために水浴びをしている所を敵方の草野勢に急襲され、慌てて逃げる味方を尻目に味方の加勢が来るまで素っ裸で槍を振り回し2人の敵を突き伏せたとの逸話がある。ちなみにこの時裸で敵に応戦した者の中に池邊龍右衛門の名もあり、黒門の決闘に参加した立花勢は家中でも最強の武士達を選抜して事に当たらせたことが推測される。

もう一つ伝右衛門に関する武勇伝は、高島居城攻防戦での出来事である。天正14年の夏、九州制圧に乗り出した秀吉軍に追われ退却する島津軍の後援として、粕屋郡の高島居城に籠った星野兄弟を立花勢が攻めた時のことである。伝右衛門は城主星野中務大輔吉実を見事に討ち取ったが、一緒に戦った立花次郎兵衛と手柄を譲り合ったという美談の逸話を残している。惜しいことにこの十時伝右衛門は、文禄2(1593)年の碧諦館の戦い(朝鮮役)で先鋒将を務め、池邊龍右衛門と共に戦死している。

ちなみにこの黒門の決闘に参加した安東五郎右衛門、石松安兵衛も慶長5(1600)年10月の三潴八院の戦い(江上役)において、先鋒として鍋島陣深く突撃して戦死している。両人とも血気盛んな青年武将(足軽頭)だったという。

新田義貞の末裔の新田掃部も八院合戦で戦死したと云う。戦国の世を強く生きた武士達の生き様が感じられる。

十時右衛門は戦端に隈部親永を斬ったと記したが、「柳川史話」で伝右衛門は肥後郡主隈部正利を斬ったと記載されている。隈部正利は親永の娘婿でこの戦いの場にいたので、伝右衛門は親永と正利の2人を斬ったのかも知れない。そう考えると黒門の戦いは厳に一対一の決闘ではなくて12名の集団による戦いで、結果的に一対一もしくは少人数どおしの斬り合いになったと考えられる。

立花宗茂は十時伝右衛門や池邊龍右衛門ら、筑前以来立花家に仕えて戦国の乱世を戦い抜いて来た最強の武士達を選び必勝の体制で、命を懸けたこの決闘に当たらせて隈部一党の誅殺に義を持って対処したと考えられるのである。


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続きます。






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by kusennjyu | 2017-05-07 06:15 | 歴史学習会 |Topに戻る