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2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5

本村精二著

下の写真は柳川郷土研究会で黒門橋付近を研修した時のものです。

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2・ 黒門前の決闘についての考察

④討たれた肥後の隈部一党について

隈部氏の祖は清和源氏で代々菊池家の三執老(赤星氏、城氏、隈部氏)の一つとして仕えていたが、隈部刑部介但馬守親永の代の頃になると山鹿郡の永野城(山鹿市菊鹿町)を本拠として勇躍していた。

主家の菊池氏が滅んだ後の戦国末期になると、大友氏の 介入や家臣間の下克上的勢力争いがあったが、永禄2(1559)年、赤星親家を合瀬(あわせ)川に破り親永が旧菊池家の覇権をほぼ手中に収めた。そして天正6(1578)年、隈府城に入り、菊池・山鹿・山本三郡を領する有力な肥後国人になっていた。

秀吉の九州統一後に新しく国主となった佐々陸奥守成正から、他の国人衆と共に隈本城に呼ばれた親永は、成正の領地政策に異議を申し立て天正15(1587)年7月1日、隈府城に立て籠った。この籠城が肥後国人一揆の発端とされる。

佐々勢に攻められ形勢が不利になった親永は隈府城を脱出して、長子の隈部式部太輔親泰(安)の山鹿城村(じょうむら)城に入った。8月12日に激烈な攻城戦があったが落城せず、10月9日にも平山の付け城に兵糧を運ぶ立花勢との間に激しい戦闘があったが、その後大きな戦いはなく一揆終結までここに籠城することになる。

安国寺恵瓊の策略により講話開城した長子の隈部親泰(安)は家老の有働大隅守兼元と重臣の山鹿彦次郎重安、北里三河守与三兵衛、同能登、同志摩、小場道庵、甲斐武蔵以下15名(一説では80名)と共に小倉の毛利勝信に預けられた。他方隈部親永と二男(一説では三男)の親房ら12名は立花宗茂に預けられることになった。

豊臣秀吉が天正16(1588)年1月5日に小早川隆景に宛てた書状(小早川文書)によれば「12月17日書状、昨日4日、至大阪到来、加被見候、一、有働大隅守(兼元)、隈部式部太輔(親安)事、子供召連走入、城可相渡之由、申付而、安岡寺ニ人数相添差遣わす之由候、彼両人事者、一揆張本人候間、非可彼助置儀候、城を請け取候て、・・・」とあり、秀吉は有働兼元と隈部親泰(安)が肥後一揆の張本人であるから、開城したら速やかに両名を処刑するように命令を出している。

親泰(安)・兼元一行は、秀吉に申し開きをして所領安堵を誓願するために、小倉浜で上阪の船を待っている所を毛利勢に襲撃されて謀殺されたとされるが、その時期については不明である。親泰(安)が11月まで生存していた事を示唆する資料(原口家文書)もあるが、秀吉の書状の内容を考慮すると小倉に着いた後、すぐ誅殺されたと考えるのが妥当であろう。

隈部親永は隈部一族の家長であったが、高齢でもあり一揆の戦いに積極的には荷担していなかった。また秀吉は九州下向の折に謁見した親永を評価して、一物の武将であると述べている。秀吉は親永を来るべき朝鮮出兵の先手に使おうとしていたとの節もある。

このような状況を考えると秀吉はこの時、親永に対する処分をまだ決めかねていたのではないだろうか。故に親泰(安)と兼元ら山鹿城村(じょうむら9城の武将を小倉の毛利に預け、親永ら12名を筑後の立花に預けて両者を二分したのではないかと思われるのである。

事実柳川蟄居中の隈部一党が黒門で討たれたのは、5月14日に佐々成正が切腹させられた日から13日後になるのである。また佐々成正に自害を命じた後も親永に対して何の沙汰も出さない秀吉に、近臣が世の公平のために親永処罰の進言をしたので、秀吉は仕方なく親永の処刑を命じたとの説もある。

一揆終結後、四ケ月という長いようで短い時間の経過の中、上方の指示を待たずに上阪した成正と面会を許さなかった秀吉との互いの心理状態の機微を感じさせられる。


歴史に「もしも」はないが佐々成正の切腹がなかったら、親永も助命されて黒門の決闘はなかったのかも知れない。

黒門の決闘が行われた天正16(1588)年に、筑後柳川で死亡したとされる隈部側の人物について、諸資料を参考にして判明した名前を列記してみる。

筆頭はもちろん首領の隈部但馬守親永(立花家旧記や小野文書ではなぜか筑後守と記される)以下二男(一説では三男)の隈部親房、娘婿の隈部正利、隈部善良、内空閑鎮房、有働某、牧野某、辻某、長谷川某、本荘某、落合某、鶴某、福島某の計13名である。

隈部家代々物語によると親永には鎮房という二男があり、山本郡霜野城主の内空閑鎮資の養子となり内空閑権太夫鎮房と名乗ったという。一方隈部物語では、この内空閑鎮房は親泰(安)の妹婿と記されるが、いずれにしても親永に近い関係の人物である。

一揆勢による隈本城の包囲を知り、成正が山鹿から急ぎ隈本へ引き返す時に、佐々軍の勇将佐々与左衛門宗能(むねよし・成正の甥)は、成正のおとりになって本道の鹿子木(かなこぎ)を突破しようとして内空閑鎮房に討たれている。そのために鎮房は成正にいたく憎まれていたらしい。

一揆後の鎮房の消息はよく解らないが、筑後に隠れているのを捕らえられて誅されたとの説(佐々伝記)や筑後柳川城で討たれたとの説があるが、親永一行と共に柳川へ送られた可能性も考えられる。

柳川で討たれた隈部一族について調べるために平成18年の秋、山鹿市菊鹿町にある隈部館跡を訪ねた。隈部館跡の奥に、最近柳川から移したという柳川隈部家当主(初代成真から7代真博まで)の墓があり、同所には柳川黒門橋の六地蔵尊にあった隈部親永以下12名の霊も分骨して祀ってある。その墓誌碑には「隈部親永、隈部親房、隈部筑後守正利善良、牧野某、辻某、本荘某、落合某、鶴某、有働某、外2名(不明)」と記してある。

娘婿とされる隈部正利は隈部筑後守正利善良と記してある。新田義貞の末裔で法師武士(新田掃部介の実弟)だった隈部善良と親永の娘婿隈部筑後守正利は同一人物ということになる。筑後善導寺の僧だった善良は肥後で修行中、親永に半ば強制的に還俗させられたと伝えられるが、善良の剛勇さはもとよりその血統の貴稀さを請われて親永の娘婿に迎えられたことは十分考えられる。隈部善良が筑後入道、隈部正利が筑後守と称したことも相通じるところがある。旧柳川藩志にも「肥後の叛将隈部親永某の養子善良以下12人」の記載がありこれを裏付ける。この2人が同一人物とすると黒門で討たれた隈部一党は丁度12人となり数が合う。やはり両方12名による決闘だったと考えられる。別の資料を考慮すると墓碑の不明2名は、内空閑鎮火房と福島某の可能性があるが定はできない。今後の調査を待ちたい。

菊鹿町の資料には、隈部親永とその一党は柳川で切腹した、自刃した、あるいは抵抗しないで討たれたと記されたものが多い。郷土の英雄に対する愛情がそういう表現になるのだと思う。しかし立花側にも戦死者や多数の手負いが出ているので、やはり激しい決闘が行われたことは事実であろう。そして隈部一党は勇猛な肥後武士として戦場で最後を遂げたのであり、立花宗茂もそれを望んだのである。

立花家臣で戦死した森又右衛門の相手をして生き残った隈部側の1人は許され、国境まで送られ肥後へ返されたとの通説があるが、立花側の12名の討つ手は全員生き残っており、また秀吉の一揆処理に対する過酷さを考えるとその説は考え難い。肥後の方の資料にもその事実は見当たらない。決闘の後、1名が肥後へ返されたとの伝えは後世の創作と思われる。

隈部館跡は詰城のあった猿返し(さるがえし)山(標高682m)の中腹にある。館といっても両脇は深い谷で守られ、正面に石垣造りの枡形(ますがた)虎口があり、大規模な堀切や切岸、空堀、土塁を備えた山城にちかい構造である。隈部氏の勢力の大きさが窺える。0

標高350mにある館跡の眼下には肥沃な菊池平野が広がり、遠く有明海や雲仙まで望むことができる。この雄大な景色を、若い頃の親永は如何なる野心を持って見たのであろうか。

人の運命は不思議なものである。後年筑後柳川で悲運の死を遂げ、そこに骨を埋める事になると親永は予測しなかったであろう。父祖伝来の土地を離れ、筑肥国境を越えた隈部一行の心境はいかばかりであったろうか察するに余りある。

晩秋の隈部館跡に立ち、すすきの穂波が広がる麓の景色を眺めていると、ふとそんな思いに誘われた。

隈部親永と共に討たれた二男(一説では三男)の親房(山鹿西牧村の領主)には成真と云う男子がいて、この成真は後年柳川藩主に招かれて立花家に仕えたと伝えられる(柳川の隈部一族はこの成真の子孫である。)。そしてその子孫は代々柳川に永住し、現在は三池に住んでおられる。この事実にも宗茂の義がかいま見られる。

約400年前に柳川城内にあった黒門前の広場で立花家臣と隈部一党の武士12人による苛烈な決闘があった事を考えながら、忙しく車が行き交う黒門橋のたもとに立つと、往時の状況と現在の風景が交錯して時代の推移の妙を感じざるを得ない。

三,おわりに

黒門の決闘は、立花宗茂について論ずる時に必ず記述される代表的な逸話である。本稿ではこの決闘の舞台となった黒門前広場と、決闘を行った立花・隈部双方の武士達について若干の考察を試みた。

黒門の戦いに関する従来の記述は、宗茂の武将としての信義や立花主従の絆、また相敵して戦った新田兄弟の心理的葛藤に重点を置いたものが多い。そして討たれた肥後武士の隈部親永一族についての記述は、単に一揆の張本人で罪人としての取り扱いが多いように思われる。

今回、熊本県菊花町を訪れて感じたことは、隈部親永は秀吉が目をつけたと云われる程の器量を持った人物で、武勇だけでなく知略も兼ね備えた相当な武将であったということである。現在も隈部親永(公)は菊鹿町上永野の館跡の神社に武勲の神として祀られ、土地の人々から「くまべさん」と呼ばれて慕われ、郷土の誇りとされているのである。

肥後国主として入国した佐々成正と、本領安堵の朱印をもらった国人領主との領地対決は必然的な結果であった。それを見越して指図した秀吉の二重支配が国人一揆の主な原因であり、佐々成正と国人領主達に非はなかったと思われるのである。

親永にしても武士としての意地を通したのであり、一揆の首謀者とされるのは不本意ではなかったろうか。柳川城内黒門で討たれた隈部親永とその一族の無念さを感じずにはいられない。

ともあれ時間的経過について述べるなら、隈部親永の隈府籠城が肥後国人一揆の発端であり、柳川城黒門で親永が討たれた事により、事実上一揆の全てが終了したことになる。宗茂の義によって行われた「黒門の放し討ち」は、肥後国人一揆全ての事象の終結を意味する歴史的出来事であったと言えるかも知れない。

すでによく知られた話を今更論じるのも恐れ多く、また少ない文献と拙(つたな)い検証のために重大な事実誤認をしているかも知れないことを懸念する。諸先生方に御指摘と御指導をいただければ幸いである。

本稿は柳川郷土研究会発行「瓦版第十八号」(平成19年2月)に掲載した。資料の提供をいただいた柳川郷土研究会会長 武松豊先生、山鹿市教育委員会菊鹿分室 岩井賢太氏に深謝する。


有難うございました。






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by kusennjyu | 2017-05-13 17:49 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る