薩摩街道を歩こう(松崎~府中)
①松崎宿
日 時 平成21年11月8日(日)
コース 松崎宿~北野天満宮下宮まで歩く。その後はバスにて府中宿まで。
参加者 約150人。
小郡市松崎に残る「松崎宿」は、17世紀後半に整備された宿場町です。寛文8(1668)年久留米藩主有馬元(よりもと)から、有馬豊範(とよのり)に御原郡19カ村1万石が分与され、当時鶴崎と呼ばれたこの地域に松崎藩が置かれました。
これを受け豊範は松崎に館を構え、城下町とともに南北に延びる宿場を整備しました。
それまで参勤交代に使用された「天下道」は、小郡市大崎から横隈・津古に至る宝満川の西岸の道でしたが、豊範の政策によって延宝6(1678)年、松崎街道が完成しました。
現在も、宿場の出入り口である南・北構口の石垣や、枡形道など、久留米藩最北の宿場町として整えられた江戸時代の面影が残っています。
松崎宿には本陣(御茶屋)や脇本陣(大坂屋)、そして薩摩屋、柳川屋、久留米屋、長崎屋、米屋、油屋などの旅籠(はたご)・人馬継所などが整備され、宝永年間(1704から11年)の町の規模は106軒、町数5町46間(628M)で、1・6の六日市(市場)がたった。
久留米藩の支藩として成立した松崎藩は、、貞享元(1684)年に廃藩となり、豊祐(とよすけ)の政治はわずか16年で終わった。廃藩後、一時幕府の直轄地(天領)となったが、元禄10(1697)年、久留米藩に返還された。
松崎宿は東北・西南の出入り口に構口を設け、宿場の枡形を設けて警戒を厳重にした。さらに、宿場の出入り口をは意図的に屈曲させて敵の侵入を阻止するようにした。南・北の構口が、このように当時のまま残っているのは全国的に見ても非常に珍しく貴重な文化遺産である。
松崎口の構口は、門ともいえる石垣だけで、上屋はなかったようである。石垣の大きさは、北構口が幅4.0M・奥行4.0M・高さ2.0M。南構口が幅3.8M・奥行4.2M・高さ1.9Mである。
野田宇太郎家族が、料亭「松鶴楼」として使っていた、ゆかりの旅籠。
道路を挟んで反対側に、宇太郎生家跡。11才まで住んだ。今は倉庫が建つ。
詩人であり、出版編集者でもあり、また「文学散歩」の創始者として有名な野田宇太郎は松崎が生んだ文学者であり、歴史文化財保護運動の先覚者でもありました。
詩人としての活動は、昭和5(1930)年久留米に出て同人誌「街路樹」に参加したころから始まります。
昭和15(1940)年に上京した野田は、雑誌「新風土」を編集し、木村湖人の埋もれた原稿[
次郎物語]を出版するなど出版編集者としても活躍しました。
まだ、松崎宿の中で、南構口をでていません。
さあ、出発。 千寿