千寿の楽しい歴史
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2017年 05月 01日 ( 1 )
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2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介1・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介1

本村精二著

1.黒門前の決闘の概要

①柳川城の黒門

柳川は水郷として知られる。両岸に柳垂れる風情豊かな街中の堀割を、観光客を乗せたどんこ船が今日も縦横に竿さして行き交う。この川下りに使われる水路は昔、「柳川三年、肥後三月、久留米は朝茶の子」とその難攻不落の堅城ぶりを人々から讃えられた旧柳川城の堀割である。

城は並郭式の本丸(現在の柳城中学校)と二の丸(現在の柳川高校)を内堀で護り、外周には重臣の屋敷を置いた三の丸があり、その外側に複数の中堀を置いて家臣団の屋敷を配し、さらに外堀に護られた柳川城が天下の堅城といわれた所以である。

柳川は農漁村に囲まれた地方都市で、戦後昭和の商工業化の乱開発を免れたためか、外堀と中堀がほぼ完全に現存しており(本丸と二の丸を囲む肝心の内堀が埋められているのは残念だが)昔の柳川城の城郭の形態がよくわかる。実際、柳川城の古地図と現在の市街地図を比べると道路と堀と橋の位置が寸分違わず一致するのには驚かされる。

城堀は要所に橋を架けて、堀の内側に防御門を造る。柳川城は北端の「辻門橋」(伝習館高校付近)から外堀を渡って城内に入り、南下して「高門橋」(城内小学校付近)を通って西に折れ、「黒門橋」(市民体育館前)を渡るルート(本小路)が内郭へ行く主要道であった。この黒門橋にあったのが城の中核を守る黒御門である。この門をくぐると三の丸曲輪の広場があり、そこから広い内堀の向こう側に二の丸と本丸を見ることになる。

②肥後国人一揆

前置きが長くなったが、昔この黒門前の広場で行われた世にも珍しい「放し討ち」について浅識をみず記す。

時は天正16(1588)年の5月、豊臣秀吉が九州を統一した翌年の出来事である。「放し討ち」とは罪人を処刑するのに、受刑者に帯剣させて解き放し、同人数の討手と戦わせて討つことをいう。討手側も命を懸けた過酷な任務となる。この決闘を行ったのは、筑前立花山から柳川に入封して間もない22歳の青年武将立花宗茂(この時代の宗茂は統虎と称していたが便宜上宗茂と記す)の家臣と肥後の国人領主隈部親永一党12名である。隈部親永は歴史上有名な肥後国人一揆の発端者で山鹿城村(じょうむら)城を開城して降伏した後、筑後柳川の立花宗茂のもとに預かりの身になっていた。

話はその1年前に遡る。天正15(1587)年の3月、豊臣秀吉発ち九州に入り、4月に島津氏が降伏して秀吉の九州平定が成った。

5月28日、佐々(さっさ)陸奥守成正が肥後(45万石)の国主に任ぜられた。ところが秀吉は6月2日肥後の国人52人にも極端に削減された本領(本知分)だけではあったが、所領安堵の朱印状を与えた。

秀吉によるこの曖昧な(意図的な深謀があったかも知れないが)二重支配が佐々成正の肥後統治を困難にし、一揆の原因になったと考えられる。世に云われる、成正の悪政のみが肥後国人一揆の原因ではないように思われるのである。

新国主として旧領主達を支配して肥後統治を急ぐ成正と、所領安堵の朱印状をもらって秀吉に直接仕え、佐々成正とは同格と考える国人達との領地に対する認識の違いは必然的に軋轢(あつれき)を招いた。

7月1日、佐々成正により出された差出(さしだし)提出命令(土地台帳の申告を促したものであり、強いて言えば指山検地ではあるが、世に言われるような強引な検地ではなかった)に抵抗して隈部親永が菊池の隈府(わいふ)城に籠もり、いわゆる肥後国人一揆が勃発した。

その後、親永は嫡男の隈部親泰(安)(ちかやす)の山鹿城村(じょうむら)城に入り、隈部一族はここに籠城することになる。

佐々勢は苦戦を強いられた。肥前の龍造寺(鍋島直茂)や筑後の立花宗茂に加勢を要請して鎮圧に努めたが一揆は収まる気配が無かった。

10月になると北部肥後の和仁親実(わに・ちかざね)が南関の田中城に拠って反乱を起こし一揆は肥後全土に及んだ。これに対応し豊前や肥前でも旧領主による反乱が起き一揆は九州全土に波及する危険性をはらみ、豊臣政権を揺るがしかねない事態となった。
10月1日から10日間の予定で京都郊外北野で戦勝記念の大茶会を催していた秀吉のもとへ九州の異変が知らされた。事の重大さに驚いた秀吉は一日で茶会を中止すると、安国寺恵瓊(えけい)、小早川隆景、黒田孝高(よしたか)、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門ら四国、九州の諸大名を動員し、一揆の徹底的
鎮圧を命じた。12月6日、南関の田中城が落城して肥後国人一揆は事実上平定された。

12月15日、(一説では田中城落城直前の12月2日)戦意を失くした隈部父子は、安国寺恵瓊、黒田孝高の「開城したら所領安堵を関白殿下に頼んでやろう」との勧誘を受け開城して城を出た。

親永の長子隈部親泰(安)と家老の有働(うどう)兼元ら15名(一説では80余名)は小倉の毛利勝信に預けられ、親永と二男(一説では三男)の親房ら12名は筑後柳川の立花宗茂に預けられ蟄居することになった。天正16年の1月の事である。

1月20日、秀吉は九州全域に広がっていた国人一揆掃討のために、浅野長政を筆頭に生駒親正、蜂巣須賀家正、戸田勝隆、加藤清正、福島正則、森吉成、黒田孝高、小西行長ら上使9人衆に2万余の軍勢を付けて大阪から派遣した。派遣軍は2月に筑前の国人一揆を平定して肥後に入国した。

1月5日付けで秀吉が出した書状(小早川文書)によると「一、猶似、逆意之族尋捜、悉可成敗候、国郡荒候ても不苦候之間」とあり、国郡が荒れ果てても構わないから一気に関わった者を徹底的に探し出して成敗するように命じている。

肥後一輝に参加したのは武士だけではない。戦国時代の領主と土豪、地侍、農民との関係は土地を基盤とした運命共同体であった。特に肥後ではこのp組織(寄合中(よりあいちゅう)と呼ばれる)血縁的同族集団による支配)が強く、一揆では地侍はもとより農民や子供までが籠城したといわれる。(ちなみに城村城に立て籠もったのは一万五千余人であるが、名ある侍は八百余人、名主層二百人、その他は雑兵女子子供で男八千余、女童七千余人であった)この騒乱が秀吉の士農分離のための刀狩を急がせる原因になったといわれる。

上使衆の郡勢は各地に潜む一揆加担者に対して大規模な掃討と誅殺を過酷に行った。対象となった者は四千七百名(一説では五千七百名)にものぼった。秀吉に申し開きをして本領安堵を願うために、上阪の機会を小倉で待っていた隈部親泰(安)と有働兼元の一行は小倉浜で毛利勢に襲われて謀殺された。弁明のために上阪した国主の佐々成正は秀吉に面会することを許されず、肥後統治不都合の罪により5月14日、摂津尼崎の法園寺において切腹させられた。


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続きます。




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by kusennjyu | 2017-05-01 11:15 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る