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2017年 05月 02日 ( 1 )
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2011田尻の歴史(小字地図)・千寿の楽しい歴史
田尻の歴史

矢部川支流飯江川の中流左岸の平地から、田尻山北麓の丘陵地に位置する。地名の由来は、水田地帯の後背部の意か。戦国期の有力国人大蔵姓田尻一族の苗字地でもある。

田尻山を中心とする丘陵地帯には古墳が多く存在した。田尻山の頂上には田尻氏の居城があった。(三池群史より)

中世」田尻村

戦国期に見える村名。筑後国三池郡のうち。年未詳10月17日の田尻氏知行坪付および明応8年(1499年)12月13日の大友政親判物によると文明(1469年)~明応年間頃筑後の守護大友氏が田尻氏に与えた判形地306町(約306Ha=3.06㎢)のうちに田尻45町がある。

しかし、永正5年(1508年)11月3日に大友義長が田尻治種に与えた知行坪付には田尻12町となつており、天文2年(1533年)4月28日の大友義鑑袖判知行坪付にも見えるように、以後代々12町が踏襲されている(以上、田尻文書/佐賀県史料集成7)。

田尻の飛塚は戦国期田尻氏の居城跡といわれ(南筑明覧)、天文17年(1548年)に田尻親種が山門郡鷹尾に新城を築いてこれに移るまでは、この飛塚城にいたものと思われる。また田尻の陣内には田尻氏の起請文にみえる同氏の氏神森山八幡宮がある。おそらくかっては城内の一角に祀られていたものと思われる。

天正7年(1579年)に田尻鑑種が竜造寺隆信に帰順してからの田尻の知行については明確ではないが、田尻鑑種本領村数等覚書(田尻文書/佐賀県史料集成7)には「田志り」とある。

天正11年(1583年)に田尻鑑種は竜造寺隆信に反逆して知行地を没収され、同年と思われる9月5日の竜造寺政家知行宛行状によれば、田尻12町のうち原村は一時竜造寺氏の家臣横岳氏に預け置かれた(横岳文書/同前6)。

天正13年(1585年)に鑑種は竜造寺政家の筑後防衛に功績を挙げ、再び筑後の旧領を回復したが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の大名配置により、当地は立花宗茂領となった。なお、文禄4年(1595年)12月1日の筑後国知行方目録(立花文書/県史資料4)には村高854石2斗7升とある。

近世」田尻村

江戸期~明治22(1889年)の村名。三池郡のうち、柳川蕃領。楠田組に属す。村高は、「元禄(1688年~1703年)国絵図」963石余、「天保(1830年~1843年)郷帳、1,081石余、旧高旧領」913石余。

明治5年(1872年)の反別は64町余。(郡郷/立花家文書)。また楠田組毛付は本知786石余・52町余、開方35石余・4町余(高田町誌)。

寺院は、現在廃寺の流氷寺(流泉寺)のほかに二尊寺派聖徳寺があり、神社は明治6年(1873年)村社の森山神社のほかに大神宮がある。十五人塚は、元禄6年(1693年)村民が庄屋の苛政を訴え、その首謀者15人が斬罪に処せられ葬られた墓という(三池郡誌)。

明治17年(1884年)の戸数77・人口409。明治15年(1882年)の字小名調べによれば、小名は仁王目・法尺など22を数える。(県史資料8)。明治22年(1889年)岩田村の大字となる。

近代」田尻

明治22年(1889年)~現在の大字名。はじめ岩田村、昭和6年(1931年)高田村、昭和33年(1958年)からは高田町の大字。もとは竹飯村のうち字干渡・大手畑・小柳・山本と田尻村。

明治22年の戸数80・人口455、地積は田42町・畑16町など計76町。ほかに旧竹飯村のうち字大手畑・小柳・山本の戸数3・人口15、地積は田9町と見得る(合併調書)。 

田尻山を中心とする丘陵地帯では果実栽培が盛んで特に梨は田尻梨として知られる。昭和30年(1955年)の世帯数108・人口712。

昭和30年代から柑橘栽培に切り替え、昭和48年(1973年)ごろ生産はピ-クに達する。昭和55年(1980年)田尻~海津間の道路拡張完了。

田尻と周辺(東と北は竹飯・中央部の北は海津・北と西は岩津・南と西は原)の地図

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田尻小字図

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辺良田・唐木・大間・山口川・唐川・陣内・井田・野林・法尺・山本・寺田・底町・高縄手・仁王目・干渡・小柳

田尻井田堰水利図

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改修後の田尻井田堰(田尻橋の西北横)

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庄尻橋から庄尻川を撮る(①は東側の上流・②は西側の下流)

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高縄手川を撮る(③から井田堰側・以前はここに北から南へ坂をつけ馬入れ場があった。④から田尻交差点横を通りカーブしている。)

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仁王目橋と高縄手川の表示

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完成年月と⑤から仁王目橋上流の東側を撮る。

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⑥の仁王目橋下流を通り北へ流れる。 ⑦から西側へ流れる。

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井田堰問題の意見交換会   平成17年5月11日

場所 田尻農業研修所   

出席者 

田尻 22名(四役・総代・関係者)  
     
岩津  12名(区長・堰責任者・田代及び宇津住民等)

経過

①井田堰改修は、農業用ではなく、用水としての考えに変わる。

②前回の話し合いで田代住民に出席をお願いして、意見交換を行う。

③建設課(当時は高田町役場)は改修に向かって進める。
      
④平成4年に初めて議会に提出したが、その時は意見がまとまらず否決している。
      
⑤排水対策は、古賀水門(飯江川)にポンプ場が完成している。

推理問題は昔からの慣習があり、関係地区との話し合いをします。

 











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私の目標   今一番大事なことは絆 を育てること。

















by kusennjyu | 2017-05-02 07:12 | 田尻の歴史 | Comments(0) |Topに戻る