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2017年 05月 16日 ( 1 )
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2017田中道(井出橋)を訪ねて・千寿の楽しい歴史
田中道(井出橋)を訪ねて

平成29年5月8日(月)午前9時~

金子俊彦氏と久保田毅で大川市からの3人の女性を案内する。

江戸時代柳河城下町古地図井手橋御門付近

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江戸時代井手橋御門展開図

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左~伊能忠敬測量地図の田中道

右~今回見つかった江戸時代の道標追分石


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今回見つかった道標追分石と保加町公民館a0137997_11164933.jpga0137997_11171425.jpg


井出橋を渡ってすぐの昔の風景が残っていたが、片側はコンクリート工事が行われた。

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田中道・井出橋

井出橋の嵩上げ工事で江戸時代の道標(追分石)見つかる

瓦版平成29年1月10日 第53号 柳川郷土研究会会員 金子俊彦より。

沖端川の大門橋・井出橋(出の橋)の嵩上げ工事が始まるのに伴い保加町の人たちが、工事関係者に「井出橋に付帯していた常夜灯(灯籠)が川底に沈んでいる可能性がありますので、注意して工事を進めるように」と依頼しておりました。常夜灯(灯籠)ではなかったが、長さ2.0mほどの四角い石柱(幅28cm)が見つかり、工事業者の方より保加町公民館横の天満宮境内に運んでもらい、取りあえずそこに保管されております。

早速、京町の吉田さん、柳川教育委員会生涯学習課の堤係長も現場調査に見えたとのこと。私には、吉田さんより井出橋の嵩上げ工事現場で道標(追分石)が見つかったとの連絡がありました。

私も柳川郷土研究会の塩塚氏と保管場所へ行くと、元保加町区長の成清さんと出会い現物を見せていただくことが出来ました。

石柱の正面には「右久留米通・左小保通」と刻まれており、江戸時代の道しるべの追分石に間違いないものと思われます。井出橋出口に、追分石があったという文献はなく、また先輩諸氏からも聞いたこともなかったし、大発見ではないかと思います。

ここ井出橋は、江戸時代柳川城下町への出入り口で、検問番所もあり御門が設置されておりました。橋を渡り場外に出ると左右に道路が分かれ、左が大川小保に通ずる肥後街道で、右が久留米へ通ずる柳川道(田中道)であります。

この橋の出口正面に設置されたもので、当時の旅人の道しるべとして活用されたものと思われます。

慶長年間幕府において、五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)を中心に道しるべとして一里塚の制度が設けられました。それに倣い各藩でも主要街道・往還に独自の道しるべ(柳川藩は石柱の一里石、肥後熊本藩は木柱の一理木、久留米藩では土を盛り上げた一理塚)を設置するようになります。

同時に参勤交代も始まり、各地の神社仏閣などへの参詣(お伊勢参り)等、一般庶民の通行も増え、街道筋の宿場には木賃宿や旅籠なども出来、それなりの賑わいが見られるようになります。

そういうことで街道の追分や重要な分岐点などにその行き先や、里程を示した道しるべが自然石や切石、木柱等で設置されるようになりました。

当柳川藩でも辻町札の辻を起点に南へは三池街道(肥後街道)、西の方へは肥後街道(大川・城島経由して久留米札の辻まで)、東方面には矢部往還が通り一里ごとに石柱(一里石)を設置しています。

柳川城下町を三池街道(肥後街道)が通り、御門の外のも入れて五ケ所に追分石(石柱)の設置があります。一つは今回見つかった井出橋の追分石「右久留米通・左小保通」。瀬高御門外の石柱「すぎ北
せたか道・右西やな河まち・すぐ南キケ道」。今古賀の石柱「右三池通・左瀬高通」等で旅人の便宜を図ってきました。


続きます。





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by kusennjyu | 2017-05-16 11:41 | 田中道 |Topに戻る