千寿の楽しい歴史
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2017年 08月 10日 ( 2 )
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2017陣内遺跡(高田町上楠田)・千寿の楽しい歴史
陣内遺跡(じんないいせき) 高田町上楠田 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P463~464より

みやま市教育委員会発行 
 

陣内遺跡は、二川地区圃場整備事業に伴い、平成3(1991)年に高田町教育委員会により発掘調査が行われました。

調査では、古墳時代の竪穴式住居跡1棟と土杭2基、奈良・平安時代の8世紀後半~10世紀前半の竪穴住居跡4棟と土杭2基、中世戦国期の空濠が検出されました。特に、9世紀後半~10世紀初頭に比定される3号竪穴住居跡からは鉄鏃をはじめ、ヘラ切りの須恵器坏が一括して出土し、本地域の標式資料となります。また、溝から8世紀ごろの縄目タタキの平瓦が出土しており、上楠田松浦・垣田遺跡の関連が注目されます(文献1)。 

戦国時代の空濠は2条あり、いずれも台地の北側を東北方向に、中央部をU字形に巡っています(図1・2)。空濠の中からは、出土遺物は出土しませんでした。

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空濠1は長さ約60m以上で、最大幅4.40mで最短の部分で2m、深さ1.6mを測り、断面はU字形を呈しています。出土遺物はありませんでした。

空濠2について平面形はU字形を横にした形で、長さ30mで折り返されます。幅4~8mが島状に残るもので、北側断面で見ると幅4.50m、深さ1m前後を測ります。南側断面を見ると幅が3.7mで北側に比べ若干狭くなっています。深さは南北とも約1mです。断面から2・3回ほど堀り直されています。出土遺物はありません。

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空濠は空濠2の前面に楠田川があるために、二重・三重の防衛線が構築され、守りやすく攻めにくいものと考えられます。北側は9世紀前半の溝状遺構の年代は文献などからこの空濠は15世紀後半~16世紀前半ごろの戦国時代の遺構と推定されますが、時期は確定できません。田尻家文書「田尻鑑種本領村数等覚書」によると、天正10(1582)年の田尻氏関係の城郭は34か所となっています(文献1)。この遺跡と田尻氏の関係については、天正3(1575)年に、田尻鑑種と龍造寺隆信が協力して大友方に組する三池鎮火実を攻めています。このときの詰城として当遺跡が存在した可能性があります。

背景として北側の山を越えた場所には田尻氏の本貫地があり、本遺跡は、三池氏に対する防衛要地であったのではないかと思われます。この遺跡は、田尻城の南に備えた出城の空濠の可能性が指摘されています。


続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-10 22:39 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017西海道跡(みやま市)・千寿の楽しい歴史
西海道跡(みやま市)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P445~448より

みやま市教育委員会発行


みやま市内の西海道跡

矢部川以南の西海道の研究については、日野尚志(文献1)・木下了(文献2)の研究があり、この地域の西海道推定線を現わしたのが図4になります。

鶴田中市ノ塚遺跡から南下する西海道は、矢部川を渡河後、女山神籠石の西側の低地部分をやや東寄りの南北方向に直進します。権現塚古墳(円墳で径45M)の東側や発掘調査された野入遺跡と南ノ前遺跡付近を通ることが推定されます。
 
さらに、南下して、条理地割が変化する瀬高町山門のA地点で南東方向に屈折し、そのまま直進します。山川町清水を横切る大根川を渡り、クワンス塚古墳(帆立貝型前方後円墳で約84M)のB地点付近を通過し、C地点の肥後国方向へ向かう飯江川沿いを通るルートが想定されています。

唯一この地域の西海道推定線上で発掘調査され、道路痕跡の可能性がある野入遺跡(文献25)では古墳時代後期の竪穴住居を切る幅50~70cm、深さ20~30cmの1号溝を検出しています。また、南ノ前遺跡(文献25)でも幅30~95cm、深さ20cmの1号溝を検出しています。それらは、共に南北方向を示し、西海道推定線上で検出されていることから、西海道跡の西側側溝の可能性があります。特に南ノ前遺跡では、西海道が廃絶される時期の平安時代末期~鎌倉時代の遺物が出土しています。

この地域の西海道について、木下は駅路の痕跡を求めることはできないとしながら、「山門郡南部の条理がN-33度―Wを示し、飯江川谷の軸に合致するとし、低地では条理に沿い台地ではその延長戦となる直線の駅路が推定される」とします(文献2)。

また飯江川沿いのルートについて、日野はみやま市山川町重冨の小字名で「車地」や大字甲田の小字名「大道ヨリ東下原」が沿うことから現在の国道443号線が古代の駅路を踏襲すると指摘しています(文献1)。

飯江川沿いに西海道が推定された理由には、先に記した「車地」地名の存在があります。「車路・車地」地名は、空中写真や条理地割以外に西海道跡を示す痕跡です。

木下によれば「車路・車地」地名は律令期官道の遺称と見ることができ、『福岡県史資料編』所収の「明治十五年字小名調」には筑後地方で7か所あると指摘しています。久留米市内では野中町字車地・藤光町字車地・荒木町字車路の3か所、筑後市内では大字一条字車地・大字熊野字車路・大字前津字車路の3か所です。残り1か所は、先に記したみやま市山川町重冨字車地になりますが、現在この地点での西海道に関する痕跡は発見されていません。

これら7か所の「車路・車地」地名について、

①筑後・肥後連絡路の最短路に位置する。

②五地点の車地で大字界に接し、直線の部分がある。

③一直線上にあり、御井・三潴・上妻郡の主要条理の方位に合致する。

などを指摘しています。このうち、6か所では西海道跡を確認しており、西海道を推定する上で重要な手掛かりとなります。

そのほかに、西海道は、道路本体だけでなく、付属する施設の一つである駅家の存在も重要になります。市内では駅家の発掘調査は行われていませんが、『延喜式』に5匹の駅馬が置かれた狩道駅が推定されています。この狩道駅の想定地は諸説あり、高田町海津・山川町原町・山川町尾野・山川町清水が想定されています。

特に、山川町尾野は長者原伝説と地名「立石・馬見塚」などからこの場所を駅家の有力な想定地です。段丘の末端に位置して矢部川流域の低地を臨む立地から、葛野駅と共通するのではないかと木下の指摘があります(文献2)。

また、駅家以外の郡家の位置についても需要です。現在まで発掘調査は行われておらず不明ですが、日野によれば山門郡家は、坂田の地にあると推定されています。

なお、坂田からやや南側に位置する御二田遺跡の発掘調査では、奈良・平安時代の土器と石器や圏足円面硯片も出土しており、山門郡家に関連する遺跡ではないかと考えられます(文献26)。

最後に、西海道ではありませんが、西海道に接続する道路についての指摘もあります。山川町尾野の西側の低地には、斜行する周辺地割と異なる東西に通る一本の明瞭な線があります。その線に沿って「造り道」の小字名もあり、駅家と港津との連絡路の存在についても、今後の発掘調査で明らかになることが期待されます
(文献2)。

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続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-10 11:56 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る