千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:田尻氏の郷の散策( 12 )
|Topに戻る
2011岩田村(明治時代)の歴史・千寿の楽しい歴史
岩田村(明治時代)の歴史

明治9年に古賀村は岩津村に合併する。

明治22(1889)年4月1日、田尻村・原村・岩津村・今福村が合併して岩田村となる。

今福村

浄土宗金仙寺(きんせんじ)(現在廃寺)は柳川藩家老・矢嶋氏の菩提寺で、初め柳川城内にあったが、天和3(1683)年、今福村に移されたという。第二次大戦中に、山門炭鉱開発に際して、墓石は田浦の山中(田尻の地主・宮本家所有地)に移されている。

矢嶋家の亀形墓石  リンクします。

今福天満宮

a0137997_2031026.jpga0137997_20312051.jpg


元山門炭鑛排気坑(今福天満宮の東側)

a0137997_20345157.jpga0137997_2035366.jpg


原村

万治3(1660)年の忠茂公御代の分限帳によると、家老矢嶋主水正の知行地の一部が原村に与えられていた。・・・・三千石のうち岩津五百四十石、原三百五十石の記録がある。

近世に字中尾にあった黄檗宗福王寺(福応寺)は現在小堂を残すのみであるが、柳川藩家老・十時摂津守の家臣・大神家の菩提寺と言われる。(高田町誌)

小堂と北東の風景

a0137997_20501437.jpga0137997_20502587.jpg


小堂の南側に十時家の墓がある。

a0137997_20515142.jpga0137997_2052252.jpg


右~「十時下総大神姓惟邑」と刻字がある。  文政二年の刻字あり。

a0137997_2054318.jpga0137997_20544310.jpg


岩津村

万治3(1660)年の忠茂公御代の分限帳によると、家老矢嶋主水正の知行地の一部が岩津村に与えられていた。

原村と岩津村を地主の日巻氏が持っていたと長老の話であるが、家老・矢嶋主水正の知行地を庄屋として管理していたのではないかと考える。

野田卯太郎(大塊)の育った豪農家と思われる。 (現在の岩津郵便局の北側附近。)

a0137997_20584155.jpga0137997_20585116.jpg


a0137997_2161585.jpga0137997_2162911.jpg


屋敷神と考える。

a0137997_2173255.jpga0137997_2175162.jpg










みやまいいまち会  クリックして見て下さい。

  「政治学級 12月定例会(みやまの十大ニュース決定)&忘年会」

「みやまの今週ニュースと出来事」

みやま日和    クリックして見て下さい。

 「この箱なーに?」 配送済みです。

「道の駅に平清盛出現 」

私の目標   今一番大事なことは絆 を育てること。

by kusennjyu | 2011-12-21 21:08 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2011鷹尾城跡・鷹尾神社周辺を訪ねて・千寿の楽しい歴史
鷹尾城跡・鷹尾神社周辺を訪ねて

因福寺

a0137997_10403082.jpga0137997_10404295.jpg


因福寺六地蔵塔   大和町文化財

指定  昭和53年11月14日   所在   柳川市大和町大字鷹ノ尾832

南筑後平野に分布する丸彫式六地蔵塔の典型的なもので、安山岩でつくっています。

高さは2m27cmあり、竿と基礎とを一石造りにしたもので、下張り、上細りの方柱です。
基礎部は荒削りとし、竿部は磨き仕上げにしています。

竿の上部には、梯形の龕(かん)を穿ち、中に僧形座像を浮彫し、龕の廻りに刻銘があります。
龕下に蓮台を造り出し、左右に刻銘がありますが、下部は破損していて、完読は不可能です

本塔は、鷹尾城主田尻伯耆守親種の二男田尻大介が、天正5(1577)年に剃髪して教圓と号し、親種の子鑑種の弟新佐入道のためにつくった供養塔と伝えられています。

この寺は草創当時は禅宗に属し、光明寺と称しましたが、寛永年間(1624~43年)、田尻大介(教圓)が因福寺として中興再建、その後、真宗となりました。

       大和町教育委員会の説明板より。

a0137997_11123998.jpga0137997_11124929.jpg


菊池氏一字一石塔   大和町文化財

指定   昭和53年11月14日   所在   柳川市大和町鷹ノ尾字島

天正の頃(1573~91年)、島地区は、矢部川河口の島で、有明海の波うちぎわに位置していました。

葦の生える海岸一帯を拓き、島堀切村数十町歩(ヘクタール)を開拓したのは、米良信之(島信之)という人です。

この一字一石塔は、島信之より3代目の島信家(十右衛門)が若宮神社に四十八夜の読経をつとめて建立したものです。

平石の自然石の表面に梵字を刻み、平石の下に供養のため、法華経の字を一字づつ書いた小石63839石を埋めています。島信家は、篤い仏教信者で、祐慶と号しました。

島氏は、もともと肥後国隈府(現在の熊本県菊池市)の城主菊池氏の一族ですが、戦国動乱期に、日向国米良郷(宮崎県児湯郡西米良村)で米良氏を名乗りました。

そして、島に来て島氏と改め、明治になって菊池の旧姓に戻したのです。
米良氏・菊池氏・島氏は、みんな同族です。

      大和町教育委員会の説明板より。

a0137997_11364139.jpga0137997_11365360.jpg

by kusennjyu | 2011-04-14 11:37 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2011鷹尾神社を訪ねて・千寿の楽しい歴史
鷹尾神社を訪ねて

柳川市大和町鷹ノ尾字馬場  

a0137997_19403277.jpg



a0137997_19404717.jpg



a0137997_19413247.jpga0137997_19414378.jpg


a0137997_194239.jpg



a0137997_19421415.jpg



境内

a0137997_19423937.jpga0137997_19424981.jpg


鷹尾神社石鳥居    大和町文化財   

指定   昭和53年11月14日


所在  柳川市大和町大字鷹ノ尾字馬場

鷹尾神社は、平安時代の貞観11(869)年に、清和天皇の命によって祭られたと社伝に伝えられる格調高い神社です。

応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を「祭神とするこの」神社は、もともと鷹尾郷の郷社と考えられ、平安末期には、筑後一の宮として、京都の別宮として、京都の待賢門院を本家、徳大寺大納言家を領家とする瀬高下庄の鎮守でした。

源頼朝が、諸国に守護・地頭を設置した文治元(1185)年の翌年6月、鷹尾郷には、藤原家宗が地頭として任命されています。

文治5(1189)年、鷹尾郷の地が、待賢門院の御願寺である京都の円勝寺領の鷹尾別府と呼ばれるようになっても、鷹尾神社は、下庄の鎮守であったのです。

社の造営・修造は、朝廷および鎌倉幕府・執権・室町管領、鷹尾城主田尻氏、柳川藩主立花氏などの下命(命令)によって行われ、南筑後有数の社として栄えています。

例祭には、流鏑馬・神幸・風流(破牟耶舞)の行事があります。

鷹尾神社古文書3巻は、昭和52年4月9日に、県の重要文化財に指定されました。

境内には、神功皇后行啓遺跡・神功皇后腰掛石・牛の宮があり、鳥居は、貞享元(1684)年に、藩主立花鑑虎によって寄進されたものです。

 大和町教育委員会の説明板より。


牛の宮   大和町文化財

指定  昭和62年12月14日   

所在   柳川市大和町大字鷹ノ尾字馬場の内


a0137997_20182440.jpg牛の宮は、藤原氏の守護神で、祭神は、その祖天児屋根命です。

鷹尾神社の古文書「瀬高下庄領家公文所下文」に、「牛宮祭料二石六斗」とあり、「建保4(1216)年閏6月16日」の日付けと「前対馬守藤原朝臣(花押)」の名があります。

いずれの時か、九州に赴任した藤原氏が、この神社の境内に守護神として祭ったと思われます。

昔、境内の大きな松に藤がまつわり咲き、それがあまりにも見事でしたので藤原の姓を「松藤」に改めたと伝えられています。

元禄8(1659)年に、松藤の姓を名乗る「村住聞共」50人與の者が、この石の祠「牛の宮」を建立したのです。

70年後につけられた石の扉には、「明和三丙戌歳(1766)11月吉祥日」「松藤78人與」と下り藤の紋が彫ってあります。

下り藤は、松藤家の紋であり、松藤姓の祖先の祠として、土地の人は、「松藤さん」と呼んでいます。

 大和町教育委員会の説明板より。

by kusennjyu | 2011-04-13 20:50 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2011鷹尾城跡を訪ねて・千寿の楽しい歴史
鷹尾城跡  所在  柳川市大和町大字鷹ノ尾字東前七ッ家   

大和町文化財 指定 昭和55年3月26日

鷹尾城は、近世初頭の典型的な平城で、この地方の国人領主田尻氏の本城でした。

田尻氏の居城は、平安・鎌倉時代より三池郡田尻山の飛塚城(ひづかじょう)でしたが、風水害で要害が悪くなったために、天文17(1548)年、田尻親種(たじり・ちかたね)は、大友義鑑の許可を得て鷹尾に築城しました。

本丸の規模は、東西26間(約47m)、南北10間半(約19m)でした。

親種は、永禄3(1560)年に築かれた江ノ浦城や津留・浜田・堀切の城を支城とし、これを鷹尾五カ城といいます。

戦国期の筑後は、大友・竜造寺・島津の三氏を中心に激しく動きました。

元亀元(1570)年、親種は、大友氏の軍に従い、竜造寺氏の佐賀城を攻めて重傷を負い、鷹尾に帰り、城中で死にました。

天正の初年以降、西北九州における大友氏の勢力が後退すると、親種の子・鑑種(あきたね)は、次第に竜造寺氏に近づき、天正9(1581)年、隆信の命により柳川城・塩塚城・佐留垣城を攻め、蒲池氏の一族残党を滅ぼしました。

しかし、翌10年、鑑種は、竜造寺氏にそむいて鷹尾城にたてこもり、島津氏に援軍を頼んで戦いましたが、敗れ、同12年2月、肥前佐嘉郡巨勢(こせ)に移されました。

隆信の死後活発となった大友氏の動きに対抗し、同年9月18日、竜造寺直茂は、鑑種を筑後境目勤番に命じ、再び南筑後の経営を任せました。

しかし、同年、大友方の戸次道雪(べっき・どうせつ)・高橋紹運(たかはし・しょううん)によって鷹尾城は落城しました。

天正15(1587)年、秀吉の九州平定後、立花宗茂が、柳川城に入り、家臣立花三左衛門尉を鷹尾城番としました。

慶長6(1601)年には、田中吉政の家臣・宮川才兵衛が鷹尾城番として6000石を領有しましたが、元和元(1615)年、幕府の「一国一城令」(一大名に一つの城)によって鷹尾城は廃城になりました。

本丸は現在地より約30m南に、北の丸は、田尻親種の墓(約300m北東)の近くにあったようです。

    大和町教育委員会の説明板より

本丸跡付近を北東から撮る

a0137997_16142826.jpga0137997_16144084.jpg


本丸跡南付近にある神社南側の石垣

a0137997_16153092.jpga0137997_16154143.jpg


現在の地図と古図(半田隆夫氏提供)

a0137997_16213128.jpg



a0137997_16245959.jpg




北ノ丸付近を西側から撮る

a0137997_16271226.jpg鷹尾城主田尻親種墓碑

大和町文化財  

指定  昭和53年11月14日


所在   柳川市大和町大字鷹ノ尾字築山

寿永の頃(1182~3年)、筑紫の太宰大監を勤めた原田種成という人に五人の子供がいました。

種成の長男種直が原田氏を継ぎ、二男種雄、三男種実、四男種良、五男五郎は、それぞれ秋月、田尻、江上、高橋各氏の祖となりました。

三男種実は、三池庄田尻(みやま市高田町田尻)に居住し、田尻三郎と称しました。

それ以降、この地方を本拠とし、文永・弘安の役(1274年、81年、蒙古襲来)には、その戦功によってw、鎌倉幕府より、薩摩国鹿児島郡(鹿児島県鹿児島郡)に所領を与えられています。

応仁・文明の頃(1467~86年)以降、豊後の大友氏の支配下で、次第に所領を拡大し、治種を経て、その子親種の時(天文17年=1548年)、鷹尾に本城を築き、山門・三池二郡に数百町の所領を領有しました。

元亀元(1570)年5月、田尻親種は、大友氏の軍に従って竜造寺氏の佐嘉城を攻め、重傷を負って帰城、6月23日に逝去しました。

城跡に建つ親種の墓は、「大墓(うーばか)さま」と呼ばれ、高さ5尺(1m50cm)の自然石の表面に

   寔元亀庚午年      松本市郎兵衛謹立
   捐館前伯州守大倫龍喜大居士神儀
   六月廿三日    田尻源親種


の文字がかすかに読まれます。

   大和町教育委員会の説明板より。

田尻親種の墓地

a0137997_16254628.jpga0137997_16255690.jpg

by kusennjyu | 2011-04-12 19:43 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2011田尻氏の菩提寺・親種寺を訪ねて(千寿の楽しい歴史)
田尻氏の菩提寺・曹洞宗 玉雲山 親種寺(ぎょくうんざん・しんしゅじ)を訪ねて  

住職  第22世  滝 孝道(たき・こうどう)

平成23年3月5日(土)快晴    

伊万里市東山代町大久保


高田町郷土史研修 28名 

寺の開創は元亀(げんき)元(1570)年で、戦国の武将、田尻親種(たじり・ちかたね)の子、鑑種(あきたね)によって、筑後鷹尾城に建立された。  

田尻一族は、その後天正17(1589)年、東山代地区に66名が移り住み、鑑種を開基として郷土出身の高僧・不鉄桂文禅師(ふてつけいもんぜんじ)を招いて開山した。

田尻氏は近世小城藩の家臣として、東山代地区を知行した。

平成6年に鑑種公400回忌法要が行われた。

本尊は釈迦三尊仏。

木彫薬師三尊仏は300年以上時を刻み、お薬師講が永年続けられ健康を守る守護仏として祀られている。

親種寺に到着  急な坂を登る。

a0137997_1458563.jpga0137997_14581878.jpg


左~本堂前   右~世話人の真弓さん(客間にて説明を受ける)

a0137997_152334.jpga0137997_1521890.jpg


客間にてお茶の接待で説明を受ける会員

a0137997_1552980.jpga0137997_155445.jpg


客間の床飾り

a0137997_1565069.jpga0137997_1571100.jpg


ふすま絵(4枚中の2枚)

a0137997_1581549.jpga0137997_1582782.jpg


客間の庭(裏山に続いている)

a0137997_1593671.jpga0137997_1595493.jpg


「資料は平成元年に落雷で殆んど焼けました」と住職。

耐火金庫に保管していた「田尻家文書」は少しのこすことができた。

本堂内陣

a0137997_1514955.jpga0137997_1514227.jpg


仏像と不鉄桂文禅師画(高田町海津の人)

a0137997_15161813.jpga0137997_15163457.jpg


仏画

a0137997_15182722.jpga0137997_1518394.jpg


本堂前横のカリンの木

a0137997_15195775.jpga0137997_1520951.jpg


400年の星霜を経たカリンの大木(県名木指定)が境内にある。

豊臣秀吉朝鮮出兵の時、鑑種は鍋島直茂に属して文禄の役に参加したが戦死した。

主君の遺髪と共にカリンの苗木が持ち帰られた伝承がある。

田尻家の墓地群

閑静な裏山は苔むした田尻親種墓碑をはじめ、田尻家の墓碑がズラリと並ぶ。

左~親種墓(分骨)と本堂の屋根   右~鑑種公夫婦の墓(左側が鑑種)

a0137997_15284782.jpga0137997_1529617.jpg


鑑種と内室妙蓮尼墓碑が一画に二基があり、一対の墓に歴史を感じる。

田尻家の墓

a0137997_15373153.jpga0137997_15374499.jpg


墓地群

a0137997_15403699.jpga0137997_15405647.jpg


説明を受ける会員

a0137997_15385278.jpga0137997_1539625.jpg


急な階段を降りてバスに戻る会員

a0137997_15423061.jpga0137997_15424453.jpg


左~山の頂上に山城跡(石垣)がある説明   右~家来の屋敷跡(竹垣の家数百メートル続く)

a0137997_1546498.jpga0137997_15461827.jpg


竹は中の空洞が小さく、戦いになれば弓矢に使用したと世話人の方がバスに乗り込んで説明を受ける。

道は昔の道路幅で松浦鉄道の里駅に出た。これから、有田ポーセリンパークの和食処 蔵へ向かう。

今日は、住職・家族の方および世話人の20人の方々に厚くお礼申しあげます。ありがとうございました。

by kusennjyu | 2011-03-06 15:52 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2010カッパ酒造館見学(千寿の楽しい歴史)
平戸と九十九島遊覧2日間NO1   

平成22年4月27日  晴れ

高田東部支所出発(西鉄バス・53名)ーーみやま柳川IC--多久IC--道の駅巌木ーーマリンセンターおさかな村(昼食)ーーカッパ酒蔵館(伊万里市)--平戸大橋公園ーー平戸城ーー平戸脇川ホテル泊

a0137997_1213546.jpg



道の駅巌木の佐用姫像

佐用姫は巌木町笹原地区にの篠原の長者の娘で、たぐいまれな美人であったと伝えられています。
宣化天皇2(537)年、朝廷の命を受けた大伴狭手彦(おおともさてひこ)が朝鮮半島の任那(みまな)・百済(くだら)救援の途中、松浦の地で軍装を解き、しばしの休養と渡海の準備をしていた時に、佐用姫を見初め、やがて夫婦の契りを結びました。

狭手彦が出発する日、たとえ短い間だったとはいえ狭手彦を心から愛するようになった佐用姫は、別れが悲しくて湊まで後を追いました。そして、湊を離れる軍船に、姫は背中から左右の肩にかけ長く垂らした「領布(ひれ)」を一心不乱に振り続けました。

万葉の歌人はその情景を

海原の沖行く船を帰れとか 領布振らしけむ松浦佐用姫 

と歌い、愛とロマンを伝えています。巌木町は、生誕の伝承地に近いこの地に、佐用姫の領布を振る姿と一途な愛にならい、「自然とロマンの風のふるさと」づくりの象徴として像を建立しました。  平成8年
この像は、時間と共に動いて1周するように造られています。

田尻氏ゆかりの地(カッパ酒造館)見学

a0137997_13335126.jpg



a0137997_13113097.jpga0137997_13482264.jpg


酒林(さかばやし)杉玉の由来

a0137997_13114982.jpga0137997_13485516.jpg


『杉玉は古くから酒屋の看板として知られているが、もともとは杉の葉を束ねただけのもので元来日本の酒造りの神様とされる大物主大神(おおものぬしおおかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る三輪明神大神神社(奈良県桜井市)の神木である杉にちなんだもとのとされている。

後に新酒が出来たしるしとして造り酒屋や酒を商う店に掲げられるようになったが、さかばしと呼ばれる由来は中国では酒屋の看板を「酒家望子」と言いこのぼうしがはやしと訛ったという新井白石の説。又、酒の異名「掃愁箒(そうしゅうそう)」から酒箒が転化したという説などがある。毎年新酒のできる頃掲げられる青々とした杉玉は季節の移り変わりと共に色づいてくるが、それは新酒の爽やかさから枯淡ともいえる古酒の味わいまで四季折々に楽しめる日本酒の味の推移を教えてくれるものである。』

水の守り神”かっぱ”のミイラの由来

a0137997_13391190.jpga0137997_13393538.jpg


松浦一酒造(株)の創業は、正徳6年(1716年)で、290年間 松浦地方で一番になりたいと銘柄へ願いを込め、お酒を造り続けております。

当家には「我が家には何か珍しいものがある」と代々の当主から当主へ語り継がれる話がありました。しかし17代続くなかでそれが何を意味するのか不明のまま推移しておりました。それが、約50年前 母屋の屋根がえの時に大工の棟梁が 「梁の上にこんなものがくくりつけてありました。」とボロボロになって埃だらけ しかしとても丁寧に紐でくくられた箱を持ち下ったのです。 

蓋をとるとなんとも不思議な形をしたミイラがでてきました。黒い箱のほこりを払うと その箱には“河伯”という文字が書かれてあります。当主は大変驚き いろいろ調べましたが、箱の “河伯” という文字が “カッパ” を意味するということ以外手がかりが見つかりません。 

しかし、これが祖先から伝わる言い伝えのものに違いない。そして河伯さまがこの蔵を守ってくださる。と 神棚を作り、水神様としてお祭りするようになりました。

田尻氏の由来 

戦国時代の九州の武将、大蔵党一族と呼ばれ活躍した。田尻初代の実種は平安時代の末期頃に筑前国から筑後国三池庄田尻邑(高田町田尻)に移り住み田尻三郎と称したのが始まりで森山宮を勧請し、代々田尻家の氏神と尊崇したとある。

天文17年(1548)田尻親種は鷹尾城(柳川市大和町鷹ノ尾)に移る。

後年、田尻の一族は、郷土の豪族となり数箇所に城を構え、大友に従っては竜造寺と戦い、竜造寺に従っては肥後の豪族と戦った。

現在、伊万里市に田尻氏の末裔が住んでおられます。松浦一酒造の当主は田尻さんです。
伊万里市に親種寺(しんしゅじ)があり、古文書が存在していましたが、火事があり残っているのでしょうか。


詳しいことは庄福BICサイト  田尻物語  

リンクして見て下さい。

伊万里市の親種寺(しんしゅじ)と松浦一酒造  

リンクして見て下さい。

                       
by kusennjyu | 2010-04-29 13:18 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2009田尻氏の足跡を訪ねて2(みやま市)千寿の楽しい歴史
みやま市歴史講座現地見学会 2

宮園城址

a0137997_1271063.jpg



説明する東照寺住職
 
 
宮園城は、応永(1,394~1428)年間に、今村家の居城として築城。

 
初代今村大隈以来4代土佐入道覚盤まで、代々この城を守った。
 
宮園城は、水城(浮城)と呼ばれ、四方を水壕に囲まれ、清水山の大堤を切ると敵兵を溺れさせ、城を孤立させることが出来る構造になっている。

東照寺は、今村家の菩提寺として開創。本尊は薬師如来。当時の本尊は現存せず、江戸期に像立された「薬師如来像」・「十二神将像」・「観世音菩薩像」が伝わる。

宮園城は難攻不落とうたわれ、決して責め落とされることはなかったが、豊臣秀吉の九州征伐の折、ついに落城。東照寺もそれに伴い荒廃していき、先代住職観海僧正が昭和代に再建。

現在の石垣は、当時のものではなく、昭和に入って再建したしたもの。当時の石垣は柳川城築城の折、全てを供出する。しかし、堀割りの形は当時のままである。

当時の宮園城には天守閣は存在せず、館と敵兵攻撃、見張り台を兼ねた高櫓を建てていた。

九州征伐の後、今村家4代の御霊は「伝之授社」祭神としてまつられる。現在は東照寺がこの神社を管理。

また、九州征伐にて戦死した、兵士に関しては「将軍地蔵」としてまつられている。



a0137997_12422389.jpg



「伝之授社」には、歴代城主たちの逆修碑が残され、生前につんだ仏徳をしるした石板が祀られている。

「伝之授社」にまつわる伝説

伝之授社」は、昔から容易に近づくと様々な祟りがあるという荒神だった。唯一、今村家の武器管理をしていた松藤家一族だけが近づくことが出来た。松藤家の者が世話しても何の祟りも起きず、かえってその一族が栄えた。

その伝説を知り、先代住職観海僧正が戦後すぐ、多くの壇信徒と共に、経文八万座の供養を施したところ、祟りは沈まり村とこの寺を守る神となった。

しかし、現在でも、この神社のしめ縄等を世話するのは、この松藤家一族と決められていて、末裔たちが大事に世話している。

阿弥陀如来来迎自然石板碑

a0137997_136455.jpga0137997_1365947.jpga0137997_1394252.jpg



市指定 有形民俗文化財 平成14年2月19日市指定

みやま市高田町海津字古川前244

この石碑は、安山岩自然石の表面を研磨して建立された高さ108.5cm、幅75cm、暑さ5.3cmのもので、正面上部に阿弥陀如来の来迎図を描き、その下に道珎(どうちん)禅門(父)と妙慶禅尼(母)と思われる人物を蒸研彫で表現した板碑です。

碑文によると道珎禅門と妙慶禅尼が阿弥陀如来名号を一百万遍読誦供養し、それが成就したことを記念して、孝子が両親のため、大永6(1526)年8月に建立したものです。

道珎禅門と妙慶禅尼については、戒名前の名が不明のため特定した人物がわかりませんが、禅宗に帰依した在所出家した両親が深く阿弥陀如来を信仰し、阿弥陀如来名号を一百万遍読誦供養し、孝子が碑に遺したという事蹟から考えるとこの地方の豪族と考えられる。

普通、阿弥陀三尊板碑は阿弥陀如来を中心に観世音菩薩と勢至菩薩の三尊が来迎された図柄ですが、ここでは阿弥陀如来一尊でその下に両人の姿が描かれており、当時の在所出家した人々の風俗を知る重要な文化財で文化的価値の高いものです。
 
田尻氏供養板碑

a0137997_18422249.jpga0137997_1836183.jpg


有形文化財(考古資料)  高田町海津1631、1632

海津阿蘇神社の隣接地に小さな阿弥陀堂があり、その脇に3基の自然石板碑がある。

中央の1基は、戦国時代中程の大永8(1528)年に建てられたもの。左右の2基は、永禄12(1569)年7月13日に、田尻親種(ちかたね)の息女及び嫡男鑑種(あきたね)・次男鎮種(しずたね)らが、それぞれ妙忍大姉の25回忌に当たって、大乗妙典一千部看読の大法要を営んだ記念として造立したものである。

施主が田尻親種の子供達であることから、被供養者の妙忍大姉は彼らの母、すなわち田尻伯耆守親種の妻と思われるが、左側の碑に「先妃妙忍大姉」ともあるので、あるいは親種の先妻であろうか。

天文7(1538)年生れの鑑種はこの年33歳。8歳で実母と死別したことになる。また、鎮種はその弟で、「田尻系図」(親種寺所蔵)には「薩摩ニ住ム」とある。いずれにしても、この板碑は、郷土の中世領主田尻氏が遺した数少ない金石資料として極めて貴重なものである。

a0137997_11253094.jpg



a0137997_1984094.jpg



田尻のJA南筑後 高田東部支所に戻り、最後の挨拶で先生の著書を紹介される。


本の紹介  「蒲池氏と田尻氏」

著者  大城美知信・田淵義樹 著
柳川の歴史 2 (柳川市史編集委員会)1500円
      
第1部 蒲池氏の歴史 田淵義樹著
第2部 田尻氏の歴史 大城美知信著
      
10月31日の紹介 講演 「藩境は閉鎖的か開放的か?」 大牟田市・荒尾市境を例に。大牟田中央地区公民館 講師 磯永 和貴氏

17時に解散する。(7Km歩く) 
    


More
by kusennjyu | 2009-10-25 13:45 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2009田尻氏の足跡を訪ねて(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史
歴史講座現地見学会 1

a0137997_8484477.jpg


とき 平成21年10月24日(土)13時30分~17時。

内容 みやま市文化祭協賛事業

主催 みやま市教育委員会

JA南筑後 高田東部支所駐車場に集合。
みやま市職員が講師の大城美知信先生を紹介する。

参加者 約40名

森山八幡宮

左:森山八幡宮前で説明する先生                    

右:聴講する人たち

a0137997_8572694.jpga0137997_8573955.jpg


田尻の森山八幡宮の裏山一帯は、戦国期田尻氏の居城、飛塚城の跡といわれる。
 
天文17(1548)年頃、田尻親種(ちかたね)が大友義鑑(よしあき)から山門郡の鷹尾に250町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を気築き、これに移った。(田尻文書)旧田尻城には、一族の田尻左京を入れて城番としたという。(旧柳川藩志)

森山八幡宮は城地の一角にあり、その由緒については、田尻氏の遠祖大蔵春実が天慶5(942)年、平将門討伐の帰路、江州守山宿の霊夢に感じて勧請したものというが(旧柳川藩志・高田町誌)、真偽の程は定かでない。しかし、田尻鑑種(あきたね)が竜造寺に差し出した起請文(竜造寺文書)には「氏神森山大明神」と称しているので、同氏が氏神として崇敬した神社であることは確かである。

境内地の小字を「陣内」といい、もともと田尻場内に守護神として奉祀(ほうし)した神社であったと思われる。

竹飯八幡宮の鳥居

a0137997_935621.jpga0137997_9351980.jpg


筑後地方には、大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮等に肥前型鳥居があり、それぞれ文化財に指定されている。竹飯八幡宮の鳥居もこの肥前型鳥居の形態の古い形を示している。
 
普通の鳥居は笠木(かさぎ)が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と貫(ぬき)のあいだが狭く、笠石はずん胴型で二段あるいは三段の継ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘っ建て式になっている。

肥前には砥川(とがわ)の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名もなく、造立年月日の銘文はいっさいない。いつ、誰が作ったかは明らかでないが、竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮であるからには、田尻氏の寄進とも考えることができる。いずれにしても、当地方における唯一の肥前型鳥居で材質は杵島地方の安山岩である。

竹井城址(説明のみ)

南北朝期の康永2(1343)年、南朝の中院侍従義定、菊池武茂、大城藤次(草野一族)らが筑後の竹井城にたてこもったので、鎮西菅領の一色範氏(いっしきのりうじ)が大友・小弐らの軍勢を差し向けてこれを攻略し、落城させたことが「竜造寺文書」や「筑後近藤文書」などによって知られる。

この竹井城を山本郡(現久留米市山本町)に在りとした文献もあるが誤りである。「近藤文書」には「竹井萱津城」とあり、おそらく海津のことを当時萱津(かやつ)と称していたのかも知れない。

また「南筑明覧」に西原石見武雄の居城跡と伝える竹井の今城のことが記載されている。西原氏は田尻氏の有力家臣で、今城はその居館址と思われる。

因に竹井には「大手畠」(おおてばた)・「土居の内」(どいのうち)など中世城館に関連すると思われる小字が認められるが、これらが南北朝期の竹井城に由来するものか、戦国期の竹井今城に因むものかは即断できない。いずれにしても、竹井が軍事上の要衝で
あったことを物語っている。

                                        つづく。

by kusennjyu | 2009-10-25 10:35 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2009ふるさと歴史探訪(鷹尾城跡2)千寿の楽しい歴史
鷹尾城跡(2)  柳川市大和町

平成21年10月3日の2回目は、10月2日の続きです。同じように掲示します。

a0137997_1035411.jpg


文章・半田隆夫

天正元(1573)年以降、西北九州における大友氏の勢力が後退すると、鷹尾城主 田尻鑑種(あきたね、親種の嫡子)は、佐嘉の龍造寺氏に接近しました。そして、天正9(1581)年、龍造寺隆信の命令により柳川城・塩塚城・佐留守垣城を攻め、蒲池氏の一族残党を滅ぼしました。
 
しかし、翌10年、鑑種は、龍造寺氏に背いて鷹尾城に立て籠もり、薩摩の島津氏に援軍を頼んで戦いましたが敗れ、同12(1584)年2月、肥前佐嘉郡巨勢(こせ)、伊万里市に移されました。
 
天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂が柳川城に入り、家臣立花三左衛門尉を鷹尾城番にしました。

関ケ原の戦い後、筑後藩主田中吉政の家臣宮川才兵衛が鷹尾城番として6千石を領有しましたが、元和元(1615)年の「1国1城令」で鷹尾城は廃城になりました。(福岡女学院大学講師)

伊万里市に親種寺(しんしゅじ)があります。紹介します。

a0137997_1153911.jpga0137997_1155055.jpg


田尻家の菩提寺で、親種(ちかたね)の子 田尻丹後守 鑑種(あきたね)によって、元亀 元(1570)年6月23日 親種が筑後田尻村の鷹尾城で病没したので城中に親種寺を建立したのが始まりとされている。

その後 天正17(1589)年筑後 鷹尾城から鑑種によって現在の地 大久保 に移され、郷土の逸材、名僧不鉄柱文和尚を開山に請い、田尻家の菩提寺としその一族と共に 檀信徒の寺として今日に至る。

本堂の裏山には田尻家歴代当主の墓石を始めその一族の五輪塔や、歴代和尚の無縫塔など整然と建立されている。
親種の墓碑は自然石で中央に建てられ「玉雲院殿前伯列太守大倫竜喜大居士」の16文字の戒名が刻まれている。

18代当主田尻泰浩さんの松浦一酒造を紹介します。
私は、まだ行ったことがありません。今年の9月に「蔵を守る河童のミイラ」を教えてもらいました。

a0137997_11253131.jpga0137997_1126191.jpg


昭和28年、田尻さんの先々代にあたる16代目の時、母屋の屋根替えの際に、大工の棟梁(とうりょう)が梁(はり)の上に紐(ひも)でくくりつけられていた黒い木箱を見つけた。「河伯(かはく)」の文字。
中には見たこともない奇妙な形をした物体が横たわっていた。

それがミイラである。(下の写真)

a0137997_11353638.jpga0137997_11354687.jpg


「酒造りには良い水がは欠かせません、酒蔵は水神を大切にします。「河伯」が河童という意味だと聞いた先々代は、これこそ祖先から言い伝えの‘珍しいもの’に違いない、この蔵を守ってくださる水神様だ、と酒蔵の奥に神棚を設(しつら)えて祀(まつ)ることにしたそうです」(田尻さん)

全国から訪れる参拝客

この蔵元では子宝に恵まれない期間が長くあり、11代から16代までは養子を迎えることで老舗(しにせ)を守ってきた。

しかし、ミイラを祀った16代目はなんと5人の女性を授かったが、17代目も養子を迎えた。
この17代目についに双子の男子が生まれ、今の18代目の田尻さんだ。
18代目を継いだ田尻さんには男子と女子を授かる。双子の父親となる。

この神威(しんい)が評判となり、「河伯のミイラ」には全国から大勢の参拝客が訪れる。
今でも蔵には「おかげで子宝に恵まれた」という礼状が届くという。

河童のミイラが祭られていることで知られている造り酒屋で酒蔵見学ができます。伊万里市街か
ら平戸方面へ向かう204号線沿いにあり、広い駐車場(無料)も用意されているので立寄りにも
お勧めです。事前に予約しておくと蔵の案内もしていただけるそうです。

松浦一酒造ホームページ
http://www.matsuuraichi.com/index.html


筑後・田尻村の豪族で、「河伯」の箱を伊万里に移り、酒蔵を始める際に持ち込まれたのだろう。

田尻村には河童伝承が伝わる飯江(はえ千寿)川が流れています。そこにいた河童なのかもしれない。

                    
by kusennjyu | 2009-10-03 12:20 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
ふるさと歴史探訪(鷹尾城跡)千寿の楽しい歴史
鷹尾城跡(柳川市大和町鷹ノ尾)    柳川市大和町

今日から「有明新報」でふるさと歴史探訪が再開されます。
今回は文章を半田隆夫先生が担当されます。はじめてでしょうか。

第1回を「鷹尾城跡」で感激しています。
田尻親種に関する記事が出ています。


a0137997_17215694.jpg小さいので読めないと思います。記事(文章・半田隆夫)を代入します。

鷹尾城は、近世初頭の典型的な平城(ひらじょう)で、南筑後の国人領主田尻氏の本状でした。
田尻氏の居城は、平安・鎌倉時代より三池郡田尻山の飛塚城(ひづかじょう)でしたが、
風水害で要害が悪くなったため、天文17(1548)年、田尻親種(ちかたね)が大友宗麟の
許可を得て鷹尾に築城しました。
本丸の規模は、東西26間(47M)、南北10間半(19M)でした。

a0137997_17345912.jpg
親種は、永禄3(1560)年に築いた江浦城や津留・堀切・浜田の城を支城としました。これを鷹尾5カ城といいます。
戦国期の筑後は、大友、龍造寺、島津の3氏を中心に激しく動きました。元亀元(157)年、
田尻親種は、大友宗麟の龍造寺討伐に出陣し、5月半ばの佐嘉城東口の戦闘で深手を負い、鷹尾に帰り、6月23日に城中で死去しました。城跡に墓碑が立っています。(福岡女学院大学講師)




a0137997_17523966.jpg





a0137997_17532761.jpg












鷹尾城跡は、鷹尾八幡神社の東、矢部川にかかる泰仙寺橋の北側(堤防左岸下側)付近にある。
その城跡の一角に「鷹尾城主伯耆(ほうき)守親種墓」・「鷹尾城戦没戦死の墓」の碑がある。





半田隆夫先生の紹介

a0137997_18181646.jpg
「薩摩から江戸へ」副題「篤姫の辿った道」を平成20年12月1日、海鳥社から出版されています。平成18年から「薩摩街道を歩く会」の提唱され講師として指導されています。
平成18年 第1回 「瀬高宿」(みやま市)から「羽犬塚宿」(筑後市)まで。
平成19年 第2回 「松崎宿」(小郡市)から「山家宿」(筑紫野市)まで。
平成20年 第3回 「山川町」(みやま市)から「南関町」(熊本県南関町)まで。
平成21年 第4回 「府中宿」(久留米市)から「松崎宿」(小郡市)まで。(予定)
平成22年 第5回 「瀬高宿」(みやま市)から「山川町」(みやま市)まで。(予定)
平成23年 第6回 「羽犬塚宿」(筑後市)から「府中宿」(久留米市)まで。(予定)

いろいろ著書はありますが、大和町史・山川町史・南関町史・親子で学ぶ大和町史なでです。
近隣市町で講師として歴史講座を担当され尽力されています。  
柳川市在住。

More
by kusennjyu | 2009-10-02 18:47 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る