千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:飯江川( 14 )
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2010飯江川と櫨(千寿の楽しい日々)
飯江川と櫨    

平成22年12月10日午前7時30分前後 

晴れ(今朝は霜が強く外にいたら凍え、屋根は真っ白くなっていました。)

日の出直前

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一番上の写真の橋は、飯江川に架かる新幹線の橋です。

橋から約300m南から高田トンネルに入ります。橋から北側は筑後平野で、ここが山と平野の境目です。
下りは、高田トンネルを出たら新大牟田駅があります。

日の出直後  葉に日がさしかけて輝き出します。

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みやま市高田町江浦町にある「荒木精鑞合資会社」は、ハゼの実を使った和ロウを製造している全国でも唯一の寛永3(1850)年創業になる企業です。

植物性の和ロウは、国宝級の神社や寺院では必ず使っていると言われるほど、西洋ろうそく(パラフィンなどの石油製)に比べ、すすが出ず、煙も少なく、ロウも流れない品質の高いものです。

12月18日(土)は午後6時から、みやま市瀬高町の福祉大学で和ろうを使ってキャンドルサービスがあります。

by kusennjyu | 2010-12-10 09:09 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
飯江川(瀬高町河内)千寿の楽しい取材
飯江川右岸(瀬高町河内)

明治の地図(瀬高町河内)飯江川(右岸側)が地図の下側の河内村を流れる。

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左~吉開樋管  右~河内村内の水利

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飯江川~吉開樋管の上流と下流
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八才島 左~明治の地図(右は左下の所)  右~飯江川の現在の船着き場
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八歳神社
堤防傍の河野氏宅に祀られ、氏子7戸で9月12日が祭典が行なわれる。
土地の人たちは八歳宮を「はっせさん」愛称し、本尊は大和町鷹尾の楢尾宅にあります。

「八歳」とは当て字で当地方の呼び方は「はっせ」に最適な漢字を当てると「泊瀬」になるのではないかと思います。
いずれにしても、八歳とは、上代に有明海、矢部川を上下する船のとまる港の地名でした。

当初、海中にある島でしたが、有明海の海退が進むにつれて、陸続きとなり、矢部川右岸の港になりました。
寛永15(1638)年の掘替え工事によって、現在は矢部川と飯江川の合流点に位置するようになったのです。

飯江川と矢部川の合流付近

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飯江川は矢部川に流れ込む時に、やや上流方向に入りますので、大水害の時は飯江川の流れが悪くなり、
飯江川の上流では堤防決壊の歴史(昭和28年・昭和46年・平成3年など)が何回もあっています。
平成3年7月2日は早朝から夜まで、救助活動(東濃施・唐川原・飛塚など)を行なう。唐川原で死者2名あり。
by kusennjyu | 2010-07-11 14:57 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
飯江川(矢部川の合流地まで)千寿の楽しい取材
飯江川(矢部川の合流地まで)  7月8日 晴れ

大根川水門(瀬高側・右岸)と水門北側の大根川
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日出樋管(瀬高側・右岸)と下流の安手橋
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平町樋管(瀬高側・右岸)と下流の古賀橋
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古賀水門と高田樋管
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高田堰と飯江川の標識
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JR鹿児島本線と国道209号線の飯江川橋
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柿原排水樋管と丁字樋管
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丁字橋と明治の地図(山門郡河内村・右岸)a0137997_1741334.jpga0137997_1744798.jpg

丁字橋の上流で少し蛇行した先が丁字の渡しです。(字丁字)

飯江川合流地点と明治の地図(山門郡河内村・右岸)
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飯江川シリーズは真弓から矢部川合流点まで下り、これで終わります。
by kusennjyu | 2010-07-09 16:44 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
2010飯江川(10・みやま市高田町の海津橋から高田堰)千寿の楽しい歴史
飯江川(10・海津橋から高田堰)

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海津の水害

海津は元は港であった。従って標高4メ-トル程の低地であった。昔から「海津は蛙の小便しても大水がでる」程の洪水の常習地帯であった。それは飯江川と大根川に挟まれ、クリ-クが縦横に走っているためである。昭和10年頃までは学童の通学や緊急事態に備え小船が置かれ、人々はハンギリ・バンコ・材木等を利用して筏を組み連絡用にしていた。
更に飯江川下流にある高田堰の開閉権が別記のとおり下流側にあるため高田堰よりせき止められた河水が、上流域に押し上げ洪水を深刻なものにしていた。

昭和47年の大洪水に例にとれば、

海津郷土史
に次のように記述されている。

昭和47年7月大洪水
1・気象状況 7月3日の12時には梅雨前線が九州北部に姿を現し、前線の南側に向かって東より南にむけ湿潤な大気を送り込み、九州北部に強い雨が降りはじめ、4日6時~12時に筑後平野南部地域で、柳川を中心に強烈な雨が降り、柳川では6時~10時の5時間に344ミリの降雨を記録し、大被害    をもたらした。

2・出水状況 局地的な異常降雨に、昭和28年・37年の洪水に次ぐ出水であった。7月3日から6日までの雨量は次のとおり 柳川 565ミリ・瀬高 486ミリ・山川 389ミリ。

3・被害状況 特に被害の大きかった飯江川は堤防が海津地区で数ケ所決壊し、高田町は被害発生による災害救助法の適用を受けた。

今回の出水は昭和28年以来のもので、特に海津地区の被害は昭和28年洪水以上であった。
飯江川は両岸数ケ所決壊し、海津は洪水により孤立し全くの孤島と化すこと数日に亘った。5日には災害救助法の適用を受け、自衛隊出動を要請、決壊箇所応急修復、老人子供は船によっ台地にある竹海小学校に避難させた。死亡者や重症者が出なかったことは幸せであった。
家屋は殆ど浸水し多くは床上まで浸水、道路は自衛隊の鉄船の交通路となった。
農作物は6月下旬田植えを終わった直後であり、飯江川の堤防決壊による水田の流失埋没と、濁流による冠水に苗が枯死する等のため、植え替えを要するもの多く、補植のため他市町村より救援苗の拠出を依頼した。
国・県は災害の根本原因が、飯江川・大根川に挟まれた地であること、排水施設が不備であることを再認識し、緊急対策として両河川の大改修工事が進められ、現在ではこれら工事の完成により、大災害から免れるようになった。

広報たかた平成14年6月17日号より

浸水被害を防止するために~大根川排水機場が完成

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大根川水門



大根川と飯江川の合流部に排水機場が設置され5月19日、同排水機場で高田、瀬高、山川町の3町長出席のもと竣工式が行われました。

大根川流域は飯江川流域と比べて川底が低くなっており、排水時にはこの合流部から大根川が氾濫し、浸水被害が出ていました。これを防止するため大根川河川改修事業として、平成7年度から平成13年度までの7年間かけて建設されたもので、毎秒10トンの排水能力を持ち、地元の念願がかない、地域の浸水被害の発生防止に期待が寄せられています。

広報せたか平成14年6月号より

待望の「大根川排水機場」完成

長島地区に大根川排水機場が完成士、5月19日、落成式が行われました。
大根川は毎年梅雨時期にになると、広い範囲で浸水被害が発生するなど、地域住民の悩みの種でした。平成2年7月の大洪水は、皆さんの記憶にも新しいはずです。この時は、5時間に230ミリという記録的な集中豪雨により、流域周辺地域で244軒の床上浸水・927軒の床下浸水が発生するなど、多大な被害を受けました。

今回の排水機場は、毎秒10トンもの排水機能を持ち、水害発生を防ぐ「守護神」として大きな期待が寄せられています。


高田堰

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今の高田堰は昭和51年3月、旧高田堰のすこし下流に建設されました。
受益面積は710ヘクタ-ル余りで、旧高田堰と同じ面積です。
高田堰によって湛えられる水量は莫大で、飯江川においては海津橋近くまで。

高田堰の上流で合流する大根川においては築切(ツイキリ)橋まで湛水します。飯江川においてはその間、数ケ所の取水口があり、岩津方面の水田をうるほし、堰よりの導水は開・江浦方面700ヘクタ-ル余の水田に感慨します。

大根川は山川町河原内方面の山地より山川町・高田町・瀬高町地内を流れ下り高田堰の上流にて飯江川に合流します。合流点には巨大な開閉水門が、昭和54年に建設されました。海津橋と高田堰の間の橋は安手橋・古賀橋の二橋が岩津から瀬高方面に至る町道に架かっています。

大根川の合流点より下流は、左岸が高田町、右岸が瀬高町です。むかし秋になるとこの巨大な湛水が、堰を開けて放流され、高田ん井手のあかる日として、人々が川魚とりに蝟集したものです。

高田堰の建設について、

高田町誌
に次のように記載されています。


土木水利篇に
高田井堰は高田村潅漑用水のかなめである。飯江川と楠田川の自然流水によって農耕ができた時代には相当に長年月である。しかし埋立工事によって水田が拡張するに従って水不足となり、山谷を利用して溜め池を作り、必要に応じて開拓地に送った。

 ・・中略・・柳川藩内で干拓工事のうち、黒崎開は最も広い面積である。これは藩の直営であった。飯江川の水をせき止めて溝を掘り、江浦方面に流入させてた。これが高田いび・高田なめしである。それでも水不足であった。それで遂に郷土の潅漑用水を矢部川に仰ぐことになった。

瀬高町大江の布引川を小川に延長し、長島(オサジマ)にて飯江川に合流させ、井堰も高田井堰と改称した。

ここに矢部川の水と飯江川の水が合流して615町8反歩の水田に恩恵を与えることとなった。

高田井堰の名称をもって五ケ村合併の新町名とし、高田村とつけたのはまことに故あることである。高田井堰について、柳川藩土木台帳に「三池郡高田井手掛理、寛政4年9月」戸あり、この年に高田井堰は建造されたものであろう。

更に農地開発篇に
高田井堰は飯江川と高田村今福から瀬高町河内え締切り左岸に取り入れる。
そもそも高田村の名は堰のある小字高田に由来し、今は人口2万人の村の名称である。この一事で村民のこの堰に対する関心の程がうかがわれる。

高田堰の創設年代は不明である。柳川藩の「御領分汐土居間数覚」には、今福高田樋(イビ)とあるから、黒崎開起工以前からあったことは確かである。

高田井堰の用水たる山門郡内新川水利権交渉の顛末の概要には、黒崎開の開拓は、飯江川筋え高田堰を築造し、その用水潅漑区域を定める以後であるとしているが、其の典拠を示いていない。

と黒崎開の干拓に必要な用水の確保のため高田井堰をつくった、と記載した上で・・・海面の埋立て干拓が拡大するにつれて高田井堰・高田なめしを造ったが、まだ水が足りない、それで矢部川のみずを引くため広瀬堰の水を布引川・小川を経て長島にて飯江川に落とした。・・・・と記し、更に高田井堰の下流側と上流側が水利権による紛争が起こったようで、その経緯について高田堰の上流には、海津・小川・古島・長島・岩津など海との因縁浅からぬ地名がある。

実際にこれら地域のおよそ二百町歩は、かって海であり地盤の標高が低くて排水不良になりやすい土地である。高田堰を設ける際の上下流側の契約については何もない。

堰の開閉権は一切下流側が掌握していた。洪水の時に堰を開放しなければ上流は増水のため被害を蒙る。こういう場合上流側に全然発言権が、ないことは例外である。 これは藩営で黒崎開の干拓が行われ、更に下流にお手作があり、封建領主の権威により上流側の苦情は封殺されたと解釈すべきであろう。

実際に昭和8年、高田堰を現在の捲上扉に改修するまでは洪水の度ごとに上流側から堰の開放を懇願されても下流側では、開放しなければ堰自体が、破損する恐れがあると認めなければ開放しなかった云々。

次に高田堰の改修について

明治末期ごろ高田堰の左岸に上流側が小川井堰(又は二丁井堰とも言った)を設け、大正5年に高田堰の右岸に放水路をつくった。昭和8年に高田堰の堰体を鉄筋コンクリ-トとし、堰を人力操作扉に改造した。

これは県の半額補助事業で半額は瀬高町よりの寄付金と高田村の負担で、この改造により、洪水時には堰を開放し、減水時には閉鎖することが容易となり、多年に亘る懸案は解決した。

昭和20年に堰の管理を県に移管し、操作は高田村が行うことになった。

飯江川の水利潅漑は高田井堰で終わります。堰の下流にある飯江川橋より下流は、有明海の満潮時には塩水が、逆流しますので井堰はありません。蛇行しながら高田町と瀬高町の境をゆっくり流れ、江浦・徳永の地にて矢部川に合流します。
河口付近の船だまりを洗い、静かに矢部川に流れ入る様は長い旅路に使命を終えた安堵のようなものを感じます。

おわりに

飯江川改修はほぼ完了しました。両岸のコンクリ-ト護岸、嵩上げされた強固な橋、洪水時には水圧によって開放される可動堰、人々と耕地を守るこれら工事により、安全と便利さは確保されました。

水稲耕作が伝えられた弥生の昔から、人々は川水の利用を様々に行ってきました。堤防もない自然流下の時代から、堤防を築き堰をつくり、導水路を設ける等の努力が続けられてきました。飯江川にまつわる伝承や、現在まで行われてきた諸工事の状況等について、各集落の年長の方々、高田町建設課の課長さんや利水にたずさわった方々、このレポ-トをまとめるにあたって協力して下さった浦川さん等々、皆さんありがとう、ございました。

人類は太古の昔から常に進歩を求め続け、今日の文明を築き上げました。特に昭和30年代以降の発展は驚くばかりであります。しかしその反面私達が失ったものも少なくありません。除草剤や農薬の普及で魚や蛙や虫類に至るまでたくさんのものが姿を消したり、減少しました。河川工事による生息条件の変化で、川は魚の棲みにくい条件にあります。以前は枦並木が続き、初夏になると川べりは蛍が乱舞していました。今はそのころの自然はありません。最近はそういう状況の反省から、進歩と環境をいかに調和させるかが、地球規模で問題になっているようです。

堺 勝 文書より

飯江川(1~10)を編集しましたが、民話と伝説が7編ふくまれています。
堺勝さんの文書に写真を挿入しています。井堰については除外しているものが多くあります。

by kusennjyu | 2010-03-25 15:40 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
飯江川(9・みやま市高田町の竹飯橋から海津橋)千寿の楽しい歴史
飯江川(9・竹飯橋から海津橋)
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竹飯橋上下流の井堰
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竹飯橋をはさんで四っの堰があります。
浦田川河口の上流にあるのが苗代堰です。右岸一帯を潅漑する受益面積11町歩余り。平成5年3月に完成した可動堰です。浦田川河口のすぐ下流にある松ノ木堰、これは飯尾から田尻の一部に潅漑する、受益面積18町歩余りの堰です。

竹飯橋の下流に干渡堰があります。田尻から岩津にかけ受益面積121町歩余り、続いてその下流に海津堰があります。これは海津向田方面から岩津にかけて受益面積32町歩余り。これらの堰によって飯尾から岩津に至る広大な水田がうるほしています。 海津堰の下流、海津橋より下流はすべて高田堰の湛水区域になります。 旧合畝堰・旧代藤蔵堰・旧留佐堰は廃止になりました。

民話と伝説   邪馬台国古墳(ドルメン)
a0137997_1252690.jpg 竹飯岩畑の江良祐通氏の畑地に、とてつもない大きな岩が一つポツンと放置されている。
縦 360㎝ 横 330㎝ 高さ 150㎝ 重さ 予見されず
この巨石の周囲には、素焼きの土器の破片が散乱し、高坏の破片らしきものもあって、古代の祭礼に使用されたものであろう。
むかし、村人がこの石を破砕しようと金鎚で打ったところ、巨石から血が流れ出したので、砕くのを中止したと伝えられている。又、小雨の降る静かな夜には、陰火が巨石のまわりをさまようように揺らぐと伝えられている。
この巨石は「ドルメン」の一種で、邪馬台国式古墳問い割れていて、この地方から山川町にかけて数ケ所にあり、他の地方にはない貴重な古代の遺跡である。
 ○飯尾  河野幸雄氏宅 屋敷神さん   ○山川町中原 お岩さん 
  ○山川町佐野 お岩さん    ○山川町立山 巨石
古代には、これらの巨石の前に祭壇を設け、海の幸、山の幸、神酒を供え、一族が集まって祖先を祀り、安堵と繁栄を祈ったのではなかろうか。
開発造成が進められる時代になっても、わたしたちの先祖が残した遺跡として、それぞれの地域の人々によって大切に保存されることを祈るだけである。

民話と伝説  牡丹長者伝説
a0137997_12523369.jpg 長者伝説は全国各地に語り伝えられているが、そのうちの一つに高田町に伝わる牡丹長者伝説がある。
奈良に都が定められ、地方に国司、群司を設けて地方を治める制度が始まった頃、竹飯には、駅舎、駅馬が設けられ、九州の南北を結ぶ陸上交通の要衡として人の往来が多かった。又、海津は有明海を交易する舟の港として繁栄していた。このように竹飯地方は陸海の交通、交易の要地であったが、その首長として統治していたのが「牡丹長者」であったということである。

長者とは、その地を治める行政長官であり、その他に分限者と呼ばれて勢力をもつ大金持ちを指すのである。竹飯の長者原という地に、屋敷の遺構がある。屋敷の周囲にめぐらしていた土塀の一部が約50米の直線状に、小高い丘陵として残っている。この土塀の長さから長者屋敷の全体の広大さが想像され、当時の権力の偉大さがしのばれる。

その広い屋敷の一隅に「長者の手洗鉢」と呼ばれている、細長い形をした石があり、葛がからんで放置されている。
牡丹長者は、外敵に対する守備のために、すぐ後ろにある山頂に城を築き防衛に気を配った。その城の美しさは、丁度、大空に舞う鶴の姿に似ていたので、人呼んで舞鶴城と名付けたという。今もこの地方を「舞鶴」という。
又、長者は信仰心が厚くて清水観音を祭り、菩提寺(萬願時)を建立して深く神仏を敬った。毎年の清水観音の祭礼準備には、竹飯村の信者が出かけて行ったとのことである。竹海小学校の春の遠足は、最近まで清水山へ行っていたのも、これと何等かの関係があったのではなかろうか。

竹飯の萬願寺の裏手の墓地に「牡丹長者の墓」と伝えられている五輪塔が三基、一段小高くなったところに蔦にからまれて静かに立っている。
最近の専門的調査では、この三基の五輪塔は年代的には不明であり、形が不安定なことである。
又、墓石ではなくて、供養塔であろうと予測されている。しかし、竹飯地方に残る者の伝説は「伝説」として、その土地の人々の心のよりどころとして、これからも残していきたいものである。
この五輪塔を中心に、南北朝時代の年号の塔や、歴代住職の墓石が薮の中に静かに建っている。

海津橋と水天宮
a0137997_1256279.jpg海津地区は標高4メ-トルの低地で、飯江川と大根川にはさまれた地形のため水害の常習地帯でありました。明治15年旧2月大洪水があり、飯江川に架かった海津橋が流失し、堤防は決壊して一面濁流の海となり、住家の6割程は床上まで浸水しました。
海津村では村会を開き洪水の後始末について審議し、海津橋流失現場において水流の状況等調査するとなり、青年数名を泳いで飯江川を横ぎらせた。そのうち一人が流されて水死し人柱となった。そのような事情から、水天宮の勧請を決め、翌明治16年5月5日、全国水天宮の総本宮である久留米市瀬の下水天宮の分霊を受けて、村の中央海門の地に社殿を建立して水難の守護神として奉祀しました。
         
海津郷土史・水天宮の項に 
「年々村内男女・子供水難に会うこと絶えざるを以て、この機に3月弥生村内数十名の有志発議して、久留米瀬ノ下水天宮を奉祀し、その御神徳 を以て守護祈願のため、現在地に社殿を造営し水難の守護神とする。」
とあり、まいとし5月5日を例祭日とし、神事が行われ家々では客を招待し酒宴が開かれてきました。

海津橋は災害の都度修復を繰り返してきましたが、昭和53年海津から田尻に至る町道が県道に格上げされ、堤防の強化と共に、鉄筋コンクリ-ト橋として竣工し、その後の災害復旧工事による護岸工事が飯江川・大根川共に強固に行われ、水害から免れることになりました。

竹飯と海津の平家落人伝説
要川の合戦に敗れた平家の女官達7人が7霊の滝に入水して果てましたが、その内2体が田鶴の瀬川(むかしは飯江川を田鶴の瀬川と呼んでいた)を流れ下り、1体は竹井の堰に、1体は海津の下井手に流れつきました。村人はそれぞれ7霊宮を建て、女官の霊を祀りました。

海津郷土史(昭和53年編集)に大要次のような記述があります。
海津の歴史の上に、源平の合戦が生々しくきざみつけられているのは茂出の極応寺のある辺り一帯である。壽永年間平家は壇の浦に於いて源氏と戦い、利あらずして壊滅的打撃を受け、晨くも安徳天皇は二位の尼にいだかれて海底に没し給い、名ある高位・高官の将士たちは殆ど戦死してしまった。残党の中に、或いは 四国に、或いは九州に逃れ、山中に身をひそめ、或いは海浜で漁夫に変じて身の安全を計った。筑後路に入った平家の一族は水の駅貝の浦(海津の旧名)に来り、戦いの疲れをいやし、ここに戦陣立て直しを計った。激しい戦いに見も心も共に さいなまれて憔悴の極に達した公達は、海辺の波の音を耳にして過ぎし日の修羅
の巷を夢に見て、ここにしばしの休息をした。そして病におかされ、或いは深手の傷が因となって一命を落とし、此の地に葬られた人々もかなりの数にのぼった。

其の人々の塚が転々と残って、在りし日の事実を物語っている。数十日の休息にて、精気を取り戻した平家の武士達は川に沿って、上流小萩、ゆすりの付近、要川の地にて源氏の追撃を待った。
・・中略・・残った者は肥後五ケ荘・五位軒谷・デ-ラ・沖端などに逃れ、再び海津茂出の土地を踏んだ者達は、ここに薬師如来堂を建立し、戦いの傷を神仏に祈った。又当時の野戦病院が設けられ、数十隻の船は脱出せんとする人々のために近くの海につながれていた。

要川の近く中原の瀑布に身を投じた7人の女官の霊は、瀑布近くに七霊神社と して奉祀され、村民の尊崇を受けている。7人のうち、1人は竹飯の堰に、1人
は海津の下井手の付近で拾い上げられ、竹飯では門前に、海津では北阿蘇神社横に一堂宇を設けて奉祀した。村民これを厚くうやまって年々の祭りを絶したこと はない。

茂出地区・佐戸八蔵氏の先祖は敬神の念厚くして、此の七霊神社に神田として、 海津前田2番地8畝17歩を寄進している。茂出地区と源平戦いとの密接な関係がここにも物語られている。

民話と伝説   なまずを喰わぬ海津
a0137997_1253169.jpg 南北朝の頃、南朝後醍醐天皇に味方した肥後の菊池、阿蘇一族は、足利尊氏と多々良浜で激戦のすえ破れて肥後に帰る途中、阿蘇惟次は瀬高大木の里宮園城主大木貞久の手厚いもてなしを受けて、しばらく休息をした。惟次は、城主のすすめで古川の地に阿蘇大神の分霊を祀った。ときに延元2年(1327)であった。後に元和8年(1623)江戸初期に現在地に社殿を移し、海津氏子の産土神として今日に至っている。

大昔のことである。阿蘇五岳の周囲は外輪山にかこまれた大口湖であったという。ある日、健磐竜命が阿蘇外輪山をお斬りになった。その時、大口湖の水が激流となって有明海へ流れ出した。命が激流におし流されて、あわやという時に何処からともなく大きな鯰があらわれて、命をお助けしたという。それ以来阿蘇神社系の氏子は鯰を喰わぬようになったということである。又、こんな伝説もある。
大昔、地震がおきるのは、地中の深くに大きな鯰が住んでいて、時々体を動かすので地震がおきるのだと信じられていた。

阿蘇山は大昔、巨大な火山であり、外輪山の中は旧火口であった。その後阿蘇五岳が火山として残り、現在は中岳だけが噴煙を空高く噴き上げ、時々爆発を起こしている。
昔の里人は、あまりの恐ろしさに阿蘇神社に集まって鯰の怒りを静めるために一心にお祈りを続けた。

鯰の心を和らげるために氏子のあいだでは喰べないという習慣が、阿蘇神社信仰と一つになって今日まで続いているのである。火の国阿蘇から分霊した海津阿蘇神社の氏子も又鯰を喰べないのは当然のことであろう。
by kusennjyu | 2010-03-25 11:54 | 飯江川 | Comments(2) |Topに戻る
2010飯江川(8・みやま市高田町のふれあい橋から飯江橋)千寿の楽しい歴史
飯江川(8・ふれあい橋から飯江橋) 大字舞鶴及び飯江

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ふれあい橋

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旧大井手堰の廃止、川床の変更により出来た川と日当川にはさまれた土地に公園が整備され、舞鶴ふれあい公園と命名された。(平成6年11月の完成)

「一級河川飯江川河川災害復旧助成工事ふれあい公園完成記念碑 福岡県」
と記してある。木を植え藤棚をつくり、水道を引き休憩所や便所を設け、県道側より公園に渡るふれあい橋を架けた。

公園の東側を大きく湾曲して流れる日当川には、八竜橋が架けられ豆塚方面の道路に通じている。日当川は山川町立山方面より流れ下る小河川で、現在ふれあい公園の北端で飯江川に注ぐようになった。
日当川の下流域の集落を「ひやてご」という、日当川と書いて「ひやてご」と呼ぶが、川を「ご」と呼ぶのは飯江・山川地方の方言であろうか。北川を「きたご」・谷川を「たにご」・待居川を「まてご」というのである。
堺 勝 文書より

春日神社  

高田町飯江字宮越
  
鳥居の柱に山門郡飯江邑と彫られています。 合併前は三池郡高田町飯江である。

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伝説  地蔵渡し由来

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ころは天正9年(1581)肥前の竜造寺隆信は、薩摩の島津と親しくする柳川城主蒲池鎮並( しずなみ)を、佐賀へ呼び出して謀殺した。その上、城で留守をしていた妻や子供、一族を一人残らず殺害して蒲池一族を根絶やしにしてしまった。この残忍極まりない隆信の行為は、筑後の諸将たちを震え上がらせてしまった。

蒲池の赤星統家( むねいえ)は、妹が蒲池鎮並に嫁いでいるので、蒲池家とは親戚関係であり、当然のごとく隆信を恨み、一族の敵とにくんでいた。

これより先、天正7年に赤星統家は我が子新六郎(十才)を肥前竜造寺に人質として差し出していたので、いくら恨んでも子ども可愛さに反抗することも出来なかった。

天正11年、竜造寺隆信は蒲池氏に関係の深い蒲池の赤星統家に対して、再三にわたって佐賀へ参礼するように使者を出したが、統家は何かと理由をつけて佐賀行きを延ばしていた。2年前の義弟蒲池鎮並のこともあり、安易に出かけて命を落とす事を恐れたのである。

隆信は降伏した赤星に対して再三の誘いをかけても一度も佐賀へ伺候しないことに猜疑を抱くようになり、果ては赤星が隆信を恨んで兵を起こすのではないかという噂までが広がってきた。
いよいよ疑心をつのらせた隆信は、統家の本心を確かめるために再度使いを出し、きっと返事を持ち帰るよう厳命した。丁度その時赤星は狩に出て不在であったが、そのまま帰ることもならず、統家の代人として当時八才になる一人娘の安姫を人質として佐賀へ連れ帰った。

二人までも幼い子供を人質にとられた赤星一族の心情は如何ばかりであったろうか、察するに余りあるものがあった。

隆信は「赤星統家が再三の呼び出しにもかかわらず、姿を隠して伺候しないのはまさしく謀反の心ある証しである。」と激怒し、周囲の諸将へのしめしがつかないと、肥後と筑後の国境に近い飯江川の竹飯河原に引き出して、赤星統家の一子新六郎(十四才)、長女安姫(八才)と、その供人十二人を磔殺( たくさつ)するよう下知した。

この時代の磔殺は、長槍で刺し殺す刑罰で、キの字形に作った柱に、罪人の両手両足を上下の横木に荒縄でくくりつけ、首と腰部を柱にゆわえて身動きが出来ないように縛りあげる。更に罪人をくくりつけた角柱の基部を地中に埋めて、地上高々と観衆のさらし者にする。罪人の胸元から脇腹にかけて着物は押しひろげられて、突き出す槍が通りやすいようにしてある。

合図と同時に左右から脇腹めがけて長槍が突き出される。二回、三回と突槍を繰り返し、絶命するまで続けられる。更に、死体は三日三晩野ざらしにされるという。極めてむごたらしい極刑であった。
この時代の極刑には火刑、磔刑、打首などがあったということである。

話は赤星兄妹とその供人は、それぞれ十字架の柱に縛られ、刻々と処刑の時がせまって来た。立ち会いの武士たちもさすがに新六郎(十四才)、安姫(八才)の幼い童児を見るに忍び難く涙を流さぬ者はなかったという。武士たちは、二人を助けたかったのだが上司の命令に逆らえば、自分の命がなくなることが恐ろしくて、どうすることもできなかったのである。

西の方角に向けられた磔台の上から新六郎は警護の武士に向って声をかけた。 「われらの産まれ故郷は肥後であります。蒲池の赤星家はどのどの方角出あろうか。」警護の武士は涙顔を上げて「この方角です。」と、南の方角をだまって指さした。   「あ々、そうですか。」
かるくうなずいた新六郎は、じっと南の方角を眺めていたが、やがて次のような歌を詠んだ。

 「わが面(おもて) 西にな向いそ赤星の 親に後(うしろ)を みせじと思へば」

わたしの顔を西に向けないで下さい。せめて故郷にいる両親の方を向いて死にたい。と親を慕い恋しく思う心情に、武士も群衆も涙せぬものはなかった。そんな周囲の同情を無視するかのように、竜造寺隆信は無慈悲にも刑の執行を厳しく下知したのである。

村人たちは河原の刑場の露と消えた幼い二人をあわれみ、 「さぞかし親元へ帰りたかったろう。」
「飯江川を渡って南へ行きたかったろう。」と心情を思いやって、向う岸に二体の地蔵尊を祀って供養を営んだ。 それから後、誰云うとなくこの地を「地蔵渡し」と呼ぶようになり、今日に及んでいるという。

肥後赤星家にとっては、人質にとられた上に非業の死を遂げた二人の愛児の憾みは骨髄に達し、必ずや竜造寺隆信を倒すことを心に誓ったのである。

時は流れ、地蔵尊は飯江川をはさんで幾度か移動されたらしいが、今日もなお村人の手によって季節の美しい花が供えられ、川面を渡るそよ風にゆれている。

追  記
二人の愛児を殺害された赤星統家は、度重なる竜造寺の仕打ちに烈火の如く怒り、薩摩の島津義久と手を結んだ。天正12年(1584)3月24日、島津家久の統いる薩摩軍と、竜造寺隆信の肥前軍が島原の地で戦った。

赤星肥後守統家はこの時とばかりに先陣を願い出た。主従50余騎は妹の仇、愛児の仇とばかりに勇猛果敢に突進し、雑兵どもをけちらして本陣にせまり、竜造寺隆信の首を切って美事仇討ちを遂げることが出来たのである。さしもの隆信も54才を最後に島原の地に散ったのである。

高田町の地蔵伝説の他にも幼い二人の兄弟の霊を慰める地蔵尊が山川町北関にもおまつりしてあるそうだ。

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民話と伝説  アジカのお観音さま

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むかし、飯江村朝日谷の「アジカ」というところに、大きな樹木の間に見え隠れする七堂伽藍の建物がある壮大な観音さまを祀るお寺があった。アジカというところに建っていたので、誰云うともなく「アジカ観音さま」と呼んだ。

この観音さまにお参りすると大へん御利益があるというので、近郷からの参拝人で祭礼の日などは大へんな人手で賑わっていたそうな。

ところが、ある日のこと突然に肥前の竜造寺軍が攻め寄せて、田や畑を踏み荒し民家といわず、寺院といわず見さかいもなく火を付けて焼き払ってしまった。

アジカ観音堂にも火が付けられ、めらめらと炎が出はじめた時、信者の一人が燃える本堂に駆け込み、素早くご本尊を背負ってやっとのことで近くの山中へ運び出すことができたそうな。

竜造寺軍の乱暴な行動によって、これまで繁栄していたアジカ一帯は、一夜のうちに焼ケ野原になってしまったそうな。

時移り流れて幾歳霜。今、アジカの竹林の中の曲がりくねっただらだら坂を登った処に小さなしっかりした御堂がある。その中央に安置してある観音さまは、顔の部分が黒く焼けて目鼻の区別がつきにくい。これは、昔の焼き打ちの時にやけどをなさった痕だということだそうな。

北風の吹く寒い雨の夜には、何処からともなく「ゴ-ン、ゴ-ン」とかすかな鐘の音が響いてくる。きっと観音さまが、むかしの繁栄していた頃を偲ばれて悲しんでおられるのであろうと、里人は話しているそうな。

アジカの一帯は、今でも田や畑を耕していると、石塔や瓦の一部らしい破片が掘り出されることがある。里人はそれらの破片を観音堂の境内に運んで、粗末にならぬようにしている。

又、アジカ観音さまにまつわるこんな話もある。
瀬高清水山の観音と、アジカ観音像は同じ一本の「ほうの木」で刻まれている。一の枝で清水観音像、二の枝で京都清水寺観音像、三の枝でアジカ観音像がつくられているそうな。清水が兄で、アジカが弟ということになる。

兄二人の観音さまが遠来の信者を集めて、大へんな繁盛をされているので、弟のアジカ観音さまは、信者の奪い合や争いを好まれず、飯江の竹林に籠って静かに見守っておられるのだと里人は伝えている。

竹飯八幡宮の最初の鎮座

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竹飯八幡宮の創建は平安時代の仁和2(886)年です。その最初の鎮座が飯江にあります。八幡宮の例祭の時は、この最初の鎮座地でも神事が行われます。ここには「竹飯八幡宮の最初の鎮座」と刻まれた碑が立っています。

八幡宮が何時、何の理由でこの地から竹飯の現在地に移転されたのか、記録がないので不明です。

例祭には煙火(花火)、稚児風流があります。

by kusennjyu | 2010-03-25 10:28 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
2010飯江川(7・みやま市上飯江橋から城道橋)千寿の楽しい歴史
飯江川(7・上飯江橋から城道橋)
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堺 勝 文書より

平成22年2月2日作成

a0137997_21232832.jpg上飯江橋と上飯江の石飛び
 町道舞鶴亀谷線の上飯江地内から山川町に至る、町道の飯江川に架かる橋です。
 昔は木橋に土を置いた土橋で木の手摺がありました。
 昭和初期にコンクリ-ト橋になりましたが、度々の水害で損傷をうけ修復してきましたが、
 平成4年災害復旧工事により現在の橋に架けかえられました。

現在は川の西側に写真のお地蔵様が祀られています。

 その上飯江橋と湯摺橋の中間に上飯江の石飛びがありました。
 上飯江は西と東に川をはさんで人家があり、松尾さんの水車は東側にありました。
 それらの往来と農作業の行き来に、橋のない昔からの里道でした。
 
 西から東に渡ったところに恵比須さんを祀る祠(ホコラ)がありました。
 これは村人が五穀豊饒・渡河安全を祈って建てたものと思われますが、いつの頃からなのは分かりません。
 恵比須さんの周辺には柿や椋の大木などがありましたが、切り取られて今はありません。
 平成4年の災害復旧工事により堤防面がコンクリ-トで固められ、石飛びは姿を消しました。
 

三田島堰と旧宝田堰
 上飯江の下流にあり、堰は滑石を並べ丸太等で搦めた井堰で、
 東西に取水口があり、西側は金毘羅さんの下に広がる水田に潅漑し、
 東側は上飯江の野林さんの水車を廻し、なお北側の水田7~8反に配水していました。

 この水車も昭和初期に姿を消します。 
 昭和50年代の圃場整備事業により油圧式自動転倒方式の井堰に改修されその両側に取水装置があり、
 西側は従来の配水区域、東側は旧宝田堰の廃止に伴い旧宝田堰より配水していた城道原の水田に潅漑しています。

旧宝田堰は通称コガタナ井手と言っていました。
 木材の杭を川底に打ち込み、竹や木の枝を置き、土のおで搦めた井堰で川を斜(ナナ)めにせき止め、その形が切り出しナイフに似ているところから小刀井手と名がついたそうです。この井手は簡単な造りで、洪水があるとその都度造りなおさねばなりませんでした。
 
 小刀井手は城道原に潅漑する井堰ですが、導水路の送中で城道の野田さんの水車場がありました。
 昭和50年代の圃場整備事業に際し、川と直角にコンクリ-ト壁を設け電気による導水に改良されていました。しかし、平成4年に廃止になりました。

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 現在は竹林(舞鶴城跡)城道より撮る。                玉水酒造風景(裏側)飯江川側から撮る。

城道の石飛と城道橋
 城道の金毘羅山方面に渡る里道の石飛が二ケ所にありました。
 城道とは城えの道ということです。
 奈良時代につくられた古代官道の狩路駅の駅長は牡丹長者で、館は竹飯の長者原におき、万一に備えて金毘羅山に砦を築いたと伝えられます。

 下って平安末期の要川の戦いの折りは平家方の大物見がおかれ、又六百年程前の柳川城主であった蒲池氏が肥後の菊池氏に備えて城を築いたところと伝えられます。

蒲池氏の家紋が大空に鶴が舞う舞鶴であったところからこの地方を舞鶴といい城を舞鶴城と名づけたとのことです。
 当時までは渡河する橋はなく石飛びを置いて川を渡っていたと思われます。
 以来城道の人達の通路でありましたが、平成4年の災害復旧工事により姿を消しました。

県道江浦、原町線の終点近く城道橋があります。
 現在の橋は平成4年河川災害復旧助成工事により架け替えられたもので、県道巾と同じ二車線です。

 この橋のもとは手摺りのない木でした。
 老人子供には危険を感じさせる橋であったとのことです。
昭和初期にコンクリ-ト橋に改修され、災害による修復も幾度かなされてきました。
 橋の近くに飯江小学校があり舞鶴区の鎮守老松宮があり、酒造場玉水のある城道の集落があります。

 この地の旧飯江村の役場が有りました。
 この橋の左岸上下には桜並木があって、桜の季節になると花のトンネルを通る感じでありました。 その桜も老化と堤防改修により、姿を消し、今は草おい茂る河岸となりました。

 私の母は飯江村亀谷の平(デーラ)の出身で、小学生頃の昔の木の橋や桜並木のことを話してくれました。(飯江川5・湯摺の「平の里」を参照して下さい。)
 
 次回は玉水酒造を特集します。今日、写真を撮りました。2月7日まで仕込み中です。

by kusennjyu | 2010-02-02 21:56 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
2009飯江川(6・みやま市山川町の要川公園)千寿の楽しい歴史
飯江川(要川公園)

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古戦場要川 伝承 源平最後の決戦場
  
みやま市山川町甲田
 
文治元年(1185)3月平家栄華の夢破れて、壇の浦で滅び、生き残った平家のゆかりの者達は、たのみの九州に落ちて来た。源氏追討の手は緩まず、太宰府でやぶれ、筑後尾島でも敗れ、ついに松風の関を背にした要川の要衡によって最後の決戦を試みんと陣を布いた。
 
しかし衆寡敵せず鎧はちぎれ、衣は綻び、矢つき刀折れて生き残る者わずか、或る者は山や谷にのがれ、或る者はなお南を指して逃れ行きちりぢりになって落ちて行った。ここ要川一帯はこの戦いによって、草も木も川面もあけに染まり、屍はるいるいとして目を覆うばかりであったという。このため要川一帯を血波川とも呼ばれた。

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地元の人々によって築かれた平家塚、要川の上流には平家七人の女官が、身を投げて果てたという七霊(しちろう)の滝と、その女官達を祭った七霊宮があり、訪れる人の涙を誘う。                                               
平成7年12月吉日


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要川公園は河川災害復旧助成工事による河川堤防の改修と共に平成4年に整備されたもので、休憩ベンチ、便所、駐車場、広場等が設備された水辺公園です。

2年毎に、山川町教委等による平家祭りが行われています。次回は平成22年3月第4日曜日です。

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待居川   

堺 勝 文書より

 待居川はお牧山山系の山から流れ下る川で、要川で飯江川に合流します。待居川、川口の集落をマテゴといいます。
 
 マテゴ橋はもとは手摺のない粗末な土橋でしたが昭和にいりコンクリ-ト橋に改修され、今回要川公園整備と共に美しい橋に架け替えられました。

 明治になり現在の国道が出来て、射的橋という大きな橋が架かりました。
大正時代に出来た東肥鉄道が射的橋の上流に構築され、今もわずかにその遺構があります。
 射的橋を渡りしばらく行くと上流に七霊滝があります。

「六騎伝説」へ。



by kusennjyu | 2009-11-17 22:35 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
2009飯江川(5・みやま市高田町の湯摺・平)千寿の楽しい歴史
飯江川(湯摺)

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谷川(たにご)から山川町小萩を通る里道に架かる橋です。以前は石飛伝いに渡っていました。それは昔から昭和40年代まで続きました。余りに不便である為に谷川(たにご)の有志の方々が近隣に呼びかけ、募金をして、巾のせまい簡易な橋を架け、石飛びは撤去されました。平成4年3月河川災害復旧助成工事に伴い、欄干のある鉄筋コンクリ-ト橋(1米程度)に改修され、橋の名を「わかみやばし」とつけられました。
 そのいわれは、この橋のすこし上流に小さな森があり、若宮さんといいます。ソンダ井手の下流に湯摺と山川町小萩を結ぶ里道の川面に石飛が置かれ、人々の唯一の交通路でした。しかし上流の若宮橋の開通や、堤防のコンクリ-ト壁化により石飛は姿を消し、里道の長い歴史を閉じました。
(堺 勝 文書より)

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民話と伝説 湯摺(ゆすり)の湯  高田町舞鶴
 
飯江川の上流水源をたどると、要川で左右に分かれ、左にたどれば山川町待居川(まてごがわ)となり、右にたどれば湯摺、谷川(たにご)、飛塚、亀尻へと集落を縫うように曲って源流へたどることができる。

むかし、この地に色白で、すらりと背が伸びた美しい娘が住んでいた。日も西の山に傾いたある秋の小寒い日のこと、川向こうの村へ急ぎの用があって、川中の飛び石を渡っている途中で、足をすべらせたはずみに川中に倒れて、足をくじき、怪我をしてしまった。

皮膚からは血がにじみ、立ち上がるのがやっとで、娘は顔をしかめて痛みをこらえ河原へたどりついた。幸なことにすぐ近くに温い清水の湧き出ているのを見付け、傷口を洗い、清水を手ですくっては足にかけ痛い足をさすっていると、とても気持ちがよくなり時の過つのも忘れてしまった。

ふと我にかえると何刻たっただろうか。秋の日の瓶(つるべ)落しの例のごとく、あたりはいつの間にか薄暗くなっていた。足の痛みはうそのように消え、赤く血がにじんでいた傷はきれいに治り、ささくれていた皮膚はすべすべしたもとの美しい膚にもどっていた。

娘はよろこんで河原に立ちあがり、二、三歩あるいたがあんなにひどかった痛みはうそのようになくなっていた。娘は、川向うの家に行き、今迄のいきさつを話し、遅れた事を詫び、用を足して家に帰った。

「この河原の湧水は、傷や皮膚の病に特効があるそうな。」

人々の間にこの噂が次第に広まって、病に苦しんでいる人が近くは勿論、遠方からも治療に来るようになったそうな。

「東に平山、西に広安、中にあるのが湯谷、湯摺」という言葉が流行したのも治療の効能があったからであろう。患部に湧水をそそぎかけることから、この地方を「湯摺」と呼ぶようになったそうな。

湯摺橋と湯摺橋堰     

堺 勝 文書より

高田町谷川から湯摺を通り、山川町原町に至る町道の飯江川に架かる橋です。もとは木桁(キケタ)に板を打ちつけただけの木橋でした。大水の都度流されるので、橋桁に鉄環を打ち込み、これにワイヤ-をとうして洪水に流された時、左岸に接岸して流失を防ぐ工夫がしてありました。

このころ毎年冬になると、原町に居住の浪曲師が弟子達を連れてこの橋の上で「寒聲」取りとて浪花節の稽古をする聲が聞こえていました。

昭和初期にコンクリ-ト橋に改修されましたが、昭和22年・28年の災害により橋桁陥没等の損傷があり、修理を繰り返しましたが、平成4年の災害復旧工事により現在の強固な橋になりました。

湯摺橋のすぐ下流に井堰がありました。これは上飯江の松尾さんの水車場に水を引く専用井堰でした。この水路は1米程の巾で水底には砂が敷きつめられ、シジミが無数に生息していました。電動による精米製粉が、行われるようになった昭和初期に廃業され、井堰もなくなりました。

平の里

民話と伝説   平(でーら)の現人神(あらびとがみ)様   高田町亀谷


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源平最後の決戦場、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の一部は九州へと落ち延びたが、勝ちに乗じた源氏の追撃は厳しく、怒涛の如く追う手をゆるめなかった。

築紫から筑後へとのがれた平家は、山門清水寺の僧兵をはじめ郷土の援助に暫く力を得て、飯江(はえ)障子 ケ岳の麓、要川(かなめがわ)一帯に布陣して物見塚(ものみづか・山川町)に兵を置き最後の一戦を交えんと待機した。

雲霞の如く打ち寄せる源氏の大軍の前には勝つ術もなく、たちまちにして戦列は乱れ、川原は屍でうまり、流れはみるみる血に染まっていった。 刀折れ、矢尽きて、最早これまでとある者は腹を切って果て、ある者は山奥へ、川下 へと命からがらに落ち延びていった。
 
そのなかで、障子 ケ岳の森深い谷に身をひそめた平家の一族は、相続く敗戦で離ればなれになった肉親や一族の安否を按じながらも、追手の厳しさに身じろぎすらままならず、昼間は森にひそみ、暗くなるのを待って食べ物を探しに山を下りる有様で、里人に会うことも避け、不安な毎日を過ごした。

かくして数年が過ぎ、ようやく追手の姿が薄らいだ頃になって、次第に里人とも言葉かわすようになった。しかし、平家と名乗って密告されるのではないかという不安は消えることはなかった。

「見知らぬ人じゃが、あんたは何ちいいなはるか?」

「わたしは坂無といいます。上方から来たもので何もわかりません。よろしくお願いします。」顔立ちといい、挨拶のしぐさといい気品のただよう姿は、誰がみても育ちのよさはかくせなかった。

「坂無」という意味は、坂がなくて平(ひら)たいということで、大へん頓智のきいた返事をしたものである。後日になって、坂無よりも坂梨という文字を使うようになったらしい。

おいおいと里の生活になじんだ頃になって、小さな石の堂を建てて、病死した者をはじめ、要川合戦で戦死した者、壇ノ浦で入水した平家一門の霊を慰め冥福を祈った。

今日、亀谷地区に「平(でーら)」という集落があり、20戸のうち18戸が坂梨姓を名乗っていて、毎年4月16日を定めて家族揃って石堂に参り、法要が営まれている。

今在る「現人神」は、大正7年(1918)頃までは、これより東約百米余り下った場所にあった。又、石堂裏の三基の墓石は、あちこちに散在していた墓石を、ここに移したのである。


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by kusennjyu | 2009-11-17 09:59 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る
飯江川(4・みやま市高田町亀尻)千寿の楽しい歴史
飯江川 4・亀尻

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川久保橋は北川橋の上流で飯江川(真弓川)に架かる橋で、亀尻から車1台が通り国道443号線に出ます。

堺 勝 文書より

北川の合流点 
山川町真弓から流れ下る真弓川と、高田町亀尻の奥から流れ下る亀尻川が合流するところを北川(キタゴ)といいます。ここから飯江川本流になります。合流点の真弓川側に架かるを北川橋(キタゴハシ)といい、亀尻から山川町物見塚に至る町道の橋です。むかしは木の橋の上に土を置いた土橋でしたが、昭和初期にコンクリ-ト橋に改修され、平成4年河川災害復旧助成工事により現在の橋になりました。
 
北川橋とその下流にあった旧大竹堰との間は広々として、夏は満々と水を湛えた水面は、子供達の水浴びで歓声が上がっていました。昭和50年代県営圃場整備事業が行われ大竹堰が廃止され、平成4年の堤防コンクリ-ト護岸となり、水量は激減し、川面は草茫々となり、かっての面影はなくなりました。

北川橋上流の真弓川が飯江川です。
母が亀谷の平だったので旧大竹堰で泳いだことがあります。左岸は広々として少し深みになっていました。 千寿文書挿入
 

亀尻川の地すべり
 北川橋より亀尻側すこし上流に亀尻橋があります。町道舞鶴~亀谷線に架かる橋で、むかしはテスリのない木橋でしたが昭和初期に、テスリのないコンクリ-ト橋に改修され、平成4年北川橋と同時に現在の橋となりました。
 この橋50米程上手に砂防ダムが設けられていましたが、平成3年の豪雨の時左岸上の山が崩れ、亀尻川をせき止め、右岸の住宅地は水びたしとなり、人々は突然の水害になす術もありませんでした。 
 上流域には堤防決壊もあり、その教訓に上流一帯は災害危険地域に指定されて、堤防のコンクリ-ト張りその他防災工事が施行され、その後の圃場整備事業とあいまって災害防止に貢献しました。

 しかし、一方、川の水が岸辺の草を洗い、小魚が群れていたせせらぎの風影はなくなりました。
亀尻川の上流に、この一帯で最もおそくまで操業していた水車場がありました。高田町誌に次のような記事があります。(昭和32年春)

山ん神(ヤマンカミ)の水車
 水車といえば今では昔を忍ぶ一つの風物詩となってしまった。かっては精米・製粉の大役を一手に引き受けた水車が、時代の波に洗われて一軒一軒ほろびていく。
 本村でわずかに残る亀尻の山下水車場を訪ねて名残りを惜しむことにした。山下さんの話によると、この水車は幾代続いたか不明であるが、ただ昔から山ん神の水ぐるまと呼ばれていた。

 以前この川筋に20数件の水車場があったが、世の中が進むにつれて電力による精米・製粉場が出来て、水車場は廃業し今ではここの水車一つになった。
 山下水車場は百臼が6個一列に並んで床に埋めてあり、それに杵が一本づつ取り付けてある。水車は直径14尺、心棒から放射状に36本の「ヒヤシ」がついて、「はけ板」が取り付けてあけてある。「はけ板」に水が落ちる力で心棒が回転し、歯車によって杵が上下する仕組みである。

 米一俵「60瓩)の精米に20時間あまりかかるという。現在は自家用の精米・製粉で主として線香原料の製粉に使つている。環境も静かだが、水車はのどかな春陽を浴びて、呑気そうにゴットン、ゴットンと回り続けていた。
by kusennjyu | 2009-11-05 13:15 | 飯江川 | Comments(0) |Topに戻る