千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:薩摩街道( 30 )
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横隈宿とその本陣跡(筑前街道)・千寿の楽しい歴史
横隈宿とその本陣跡(筑前街道)   平成25年4月14日如意輪寺に来て

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a0137997_19465448.jpg横隈宿

筑前街道に沿った筑後最後の宿場で、参勤交代のため九州の諸大名はこの街道を往来していた。

有馬伊予守豊範が筑後の内一万石を賜って、寛文8(1668)年に入部するにあたり、その年12月28日に横隈宿に入り、その本陣に泊まった、その後松崎城を築城し、松崎宿が創建され、延宝6(1674)年に松崎街道が天下道となり、筑前街道が廃止されて脇街道となったため、横隈宿は次第に寂れて長い年月の間に宿場の構造は見られなくなった。

最近の調査では、旧三国村役場(横隈公民館)は昔の村蔵の跡であり、更に古井戸が最近迄あったことから、昔の「下のお茶屋」の跡であることが判明した。また横隈には宿場の構造である南北に「枡形」等が明瞭に残っており、昔の宿場の面影をしのばせるものがあり、更に風格のある町並み等が由緒ある横隈の歴史を物語っている。

昭和55年2月 小郡市教育委員会・小郡市郷土史研究会
現地、横隈公民館にある解説板を転載しています。
横隈は松崎藩の端になるので、有馬豊範は南南東へ4kmほどの松崎に城を構え、松崎宿を創建しています。

左~山江方面   右~府中方面

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享保19(1734)年稲次因幡(正誠)が蟄居した跡があります。後に津古に移ります。墓は松崎霊鷲寺にあります。

稲次因幡公彰徳

享保13(1728)年8月、生葉、竹野、山本、三郡の農民は藩の重税に堪えず、減税運動の一揆を起こした。総勢5700余人が凶器を持ち、善導寺に集まり御井町まで押寄せた。

27才の若年家老、稲次因幡正誠は単身主謀者と会見して、

1)農民の要求に応ずる。
2)以後の税は一割一歩減税。
3)主謀者の処刑はしない。
という約束の下に解散させて農民の苦しみを救った。

喜んだのは農民だったが、家老仲間の不満、藩公の怒りは後年藩主襲封の問題とからんで津古の庄屋斉田氏宅に幽閉させられ3000石の家老から十人扶持の士となり、2年後没した。行年35歳。罪ある身だったので、この墓地に葬った。

後年、久留米に五穀神社が建立されるにあたり、公の霊を合祀して永く農民の神として仰ぐことにした。

昭和50年2月   小郡市教育委員会   小郡市郷土史研究会

霊鷲寺にある稲次因幡墓前の解説板より。




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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

西日本新聞フォートサービスで梅野家庭園の写真(4月28日撮影分)を販売しています。

青輝園    御座敷梅   ユリ展    季節を楽しんで下さい。

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by kusennjyu | 2013-04-15 21:11 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
薩摩街道を歩こう(バスハイク)・瀬高~羽犬塚宿
薩摩街道を歩こう(バスハイク)・瀬高~羽犬塚宿    平成24年11月10日(土)午前中

参加者  バス2台(約40人)  みやま市女性倶楽部協力

薩摩街道歩こう資料表紙と薩摩街道(山家宿~南関宿)のルート   クリックすると拡大します。

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半田隆夫氏の説明文と晩秋の筑後路  クリックすると拡大します。

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瀬高(上庄・下庄)の渡しと「瀬高御茶屋」の復元図  クリックすると拡大します。

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瀬高公民館での説明

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上庄(矢部川の西側)

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江崎酒造(菊美人)に新酒が出来ました。

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八坂神社

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正覚寺前(反対側は旧郵便局跡)

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酒蔵

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御茶屋南側(裏御門)附近

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御茶屋西側(表御門)附近

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三橋町中山の二里石(移転後)

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この後は、バスにて薩摩街道を羽犬塚宿まで、私が街道筋の文化遺産などの説明を行いました。

羽犬塚宿から引き帰し、「川の駅船小屋 恋ぼたる」に寄り瀬高公民館に帰る。

瀬高公民館で質問と補足説明を半田隆夫氏が行う。    その後で解散する。

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女性倶楽部の皆さん、来年も。参加者の皆さん、ありがとうございました。






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by kusennjyu | 2012-11-11 04:39 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
薩摩街道(要川公園~矢部川)を行く・千寿の楽しい歴史
薩摩街道(要川公園~矢部川)を行く     11月30日午前中

高田町郷土史部員   8名参加(車2台で行く)

今回は写真のみです。補足は下の11月6日分も見て下さい。

11月6日の薩摩(篤姫)街道を行く

要川公園   薩摩街道は国道の西側を通る。  最後の源平合戦の地。

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日当川の地蔵堂  昭和62年に現在地に移転する。  

赤星安房守の子供が高田町地蔵渡橋付近で処刑され、それを哀れんで供養したと伝えられている。

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平家の塔(五輪の塔)  以前はあちこちに散在していたものを集めて供養しています。

要川合戦で破れて亡くなった平家の落ち武者の霊を祀ったと伝えられているが、誰かは分かりません。

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三里石と隈川鶴松の墓

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面の坂の処刑所跡地付近とその横の九折(つづら)へ下る坂道

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この後は清水・大根川堤防(南側の道)を通り、一旦国道へ出ます。

それから、大根川を渡ってすぐに東側の田圃道を進みます。薩摩街道は補助整備により残っていませんが、大根川から松延集落入口までほぼ真っ直ぐの道だと考えられます。

松延城跡地と松延神社を望む

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松延神社  松延城跡の東方「東二の丸」にある。

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左~松延神社から松延城跡を望む  右~二の丸橋(字西二の丸) 吉井へ行く途中。

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満福寺と鐘(昭和24年に復元)   字吉井にある。

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満福寺を過ぎると薩摩街道は国道の西側に入り国道と平行するように裏側の道を通っています。

築廻(つくもじ)の追分~東町郵便局の西側で、薩摩街道と清水観音へ行く道が分かれています。

鹿児島本線の大竹踏切の南側に「二里石」があります。

松尾神社(酒の神様)と壊れた鳥居の上の石(酒屋の名が刻まれている)

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伊能忠敬測量起点之地の碑  ここから薩摩街道と三池街道が分かれる。

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矢部川の土手下の酒屋と矢部川(昔の渡し場附近)

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約2時間で廻り、高田支所へと帰り解散しました。ご苦労様でした。











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by kusennjyu | 2011-12-07 06:21 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)4・千寿の楽しい歴史
薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)4

平成23年10月30日(日)  歩いたのは筑後市一条まで。

この文は「薩摩街道を歩く実行委員 金子俊彦」のを許可を得て使用しています。

相川(あいごう)交差点明治天皇御野立所跡

a0137997_5222165.jpg八女広川町に通ずる国道209号線に相川(あいごう)交差点があります。

そこには、明治天皇巡行の折の御野立所跡の記念碑が建っています。

明治天皇もお通りになった天下の街道(薩摩街道)も、大きな幹線道路が整備され、時代とともに寂れていく様子がよくわかります。


旧薩摩街道(坊の津街道)

a0137997_530760.jpg国道209号線の堤信号より右に入れば、旧薩摩街道がそのままの形で残っています。

大名の参勤交代、篤姫の江戸参府のおりには「羽犬塚宿」にて休息をして、この道路「赤坂」を通って江戸へと向かいました。

また、我が国で最初に「日本地図」を実測し、作成した伊能忠敬もこの赤坂で休憩しったと伝えられ、行乞の俳人として有名な種田山頭火もこの道を歩いています。


構口と枡形

a0137997_5381156.jpg羽犬塚宿場町の入口には北は屋敷外町ち南は藤島にありましたが南だけ構口という地名が残っています。

構口には宿場の入口の両側に堅固な石畳を築き櫓を構えた番所で、警備と改札にあたり宿場を守っておりました。枡形は、道路がL字形になっていて構口の内にあり、人馬の爆心爆突をとどめ軍事上、警備上の要害であります。

北は宗岳寺近くで12mのL字形であったそうですが、今はありません。
南のL字形は50mと長く曲がってあり、警備上北を重要視したためではないかと言われています。


種田山頭火の歌碑

a0137997_5513784.jpg筑後市の薩摩街道には昭和5年12月に滞在した種田山頭火の歌碑があります。

羽犬塚宿の北の構口があった上町の社日神社には「お経あげて お米もろうて 百舌鳴いて」の歌碑があり、また社日神社の北側には山頭火が宿泊した木賃宿「喜楽屋」跡があります。


社日神社

a0137997_5585682.jpg社日は、生まれた土地の神様を祀る日です。春分と秋分に最も近い戌の日を指します。「戌」という文字には「土」という意味があります。

春の社日には種まきの時期にあたり、秋の社日は収穫の時期にあたります。これらは農業においては忘れてはならない大事な時期です。そのため社日は全国的に重要な節目の日とされるようになりました。

春には五穀豊穣の祈願が、秋には無事に作物を収穫するための祈願が行われるようになりました。


羽犬塚の伝説

羽犬塚のまちは、昔から豊前(北九州)や筑前(福岡・筑豊地区)の国から、肥後(熊本)や薩摩(鹿児島)の国へ通じる薩摩街道(坊津街道)の宿場町として栄えてきました。

この羽犬塚の地名の由来については、次のような伝説があります。

天正15(1587)年4月、おりから天下統一をめざす豊臣秀吉は、数万の大軍をひきい九州に遠征してきました。そして、この地にさしかかりったとき、連れていた敏しょうで羽根が生えたようによく跳ぶ愛犬が、ここで敵の矢にあたり死にました。

秀吉は、この愛犬を弔うため塚を作り、この地の羽根の生えた犬の塚という意味で「羽犬塚」と呼ぶようにしたそうです。

六地蔵と羽犬の塚は、羽犬塚小学校北側の宗岳寺という、お寺の境内に現在も残っています。

羽犬塚宿の御茶屋跡

羽犬塚宿場には整備された休泊施設として「御茶屋」が設けられていました。御茶屋とは大名居城の御殿に対し、遊猟・領国内巡覧などのとき休泊する本陣のことで、久留米の直営の施設でした。

豪華な門構え、玄関は唐風造り、式台に駕籠が横付けされ貴賓客は、そのまま最上の間に案内されるように造られていました。施設の広さは、間口17間余、奥行き28間余の500坪5合で、更に付属地として691坪余がありました。

建物は平屋建てで四脚門を通って奥に本屋があり、本屋南の中庭三方を屋根付の土塀が巡り、ソテツ、ツバキカヤ、マキ、ナギが植えられていました。(御茶屋の跡が今の羽犬塚小学校になっています。)

来年は雨のために歩かなかった一条から羽犬塚小学校までが計画される予定です。











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by kusennjyu | 2011-12-06 06:33 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)3・千寿の楽しい歴史
薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)3     

平成23年10月30日 雨


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左~高牟礼市民センター(右側の看板の横に田中久重鋳砲所址) 右~信愛女学院附近

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田中久重鋳砲所址(久留米藩鋳砲所址)

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田中久重は、江戸時代の末期から明治の初期にかけて活躍した稀代の発明家であります。

青年時代には「からくり儀右衛門」として名を馳せた彼は、その後、西洋の最新の知識と機械技術を習得して近代機械技術者へと転身していったのです。

元治元(1864)年 、久重が66歳の時、富国強兵を急ぐ久留米、佐賀両藩より懇望され、両藩に仕えることになりました。久留米、佐賀藩話し合いの末、月の上半は佐賀藩にあり、下半は久留米藩に勤めました。

久留米では御井郡高良内村槍水に大砲製造所を設けて銃砲(アームストロング砲)を造りました。そこから、現在「信愛女学院」のある丘へ大砲の実射訓練をしていた話が残っております。この地区の字名を「大銃場(おおづつば)」と言われているそうです。

久重は明治6年、75歳で東京へ上り、日本で初めて電気工業の工場を東京市芝区金杉新浜町一番地に田中製作所として創設します。

その後、芝浦製作所と改称し、さらに、東京芝浦電気(株)となり、今日でいうところの(株)東芝となったのです。(株)東芝の創業者として有名であります。

左~高良川 右~下川原橋

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左~久留米大医療センター横を浦山公園への薩摩街道   右~久留米大医療センター   

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御奉戴記念館と横の薩摩街道

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明星中学校

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左~千束橋(桃太郎川に架かる) 右~千束橋前の(有)博栄畳商店

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浦山公園 昼食場所

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左~成田山慈母観音像 右~浦山公園への薩摩街道

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上津町二軒屋交差点付近の国道3号線

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浦山公園から500m下ると国道3号線を横切るところに上津町二軒屋交差があります。

陸上自衛隊高良台演習場の入口で、その先、曲がりくねった、上り下りの多い山道で徒歩では相当厳しいところであります。定かではありませんが、当時の旅人が行き来する時に、一息するための茶屋があったのではないかと思われます。

今はその面影を見ることは出来ませんが、名残りとして二軒茶屋という地名で呼ばれているのではないでしょうか。

左~上津小学校   右~上津小学校の横を通り陸上自衛隊高良台演習場への薩摩街道

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次回へ続きます。







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by kusennjyu | 2011-11-14 03:33 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)2・千寿の楽しい歴史
薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)2      10月30日     雨

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文は薩摩街道を歩く会実行委員の金子俊彦氏が何回も図書館などへ行き、まとめた資料を使わせてもらっています。ありがとうございます。

高良大社下宮社

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高良大社下宮社の祭神は、上宮(高良大社)と同じ高良玉垂命であり、創建も同じ履中天皇元(400)年、或は白鳳2(664)年頃と云われています。

しかし、天正14(1588)年、豊臣秀吉の九州遠征の際に、島津軍に攻められ、上・下宮とも焼失しています。

元和4(1618)年、上宮(高良大社)の神殿の造営があり、下宮社もそれに従って修理され、座主家の管理を受けるようになりましたが、時代が経つにつれて次第におちぶれて行きました。

その後、かなりの年月に渡り荒れ放題になっていましたが、安政3(1855)年、氏子の人達の手によって、元の神殿と拝殿の姿に修復され、今日に至っております。

えびす様

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御井町のあちこちにある「えびす様」は、旧府中宿の賑わいを物語っており、薩摩街道の中心地約1kmの路傍に13体の「えびす様」を見る事ができます。

ところで、「えびす様」は福の神(七福神の一つ)として、ひろく民間に信仰され、旧藩時代の町屋、街道筋でよく祀られている神様です。

神体は鯛を抱いた福々しい相好の像が一般的でありますが、異体のえびす像もあるようです。
狛犬のある「えびす様」も、何か珍しいような気がいたします。

石柱には「えびす様」を建立された方の名前が刻印されています。

大鍋屋

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府中宿は、薩摩街道の中でも当時としては往来賑やかな所でありました。

府中宿通りの中で、唯一しっくいの白壁となまこ壁の美しい古風な建物が残っています。

大鍋屋という屋号をもつ青柳氏宅で、他の場所で鉄鍋を製造しておられましたが、大正時代に56連隊に物資(野菜類)を納める仕事に変わり、第二次大戦後は質屋をされていたようですが、昭和53年に廃業し今日に至っています。

源正寺

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源正寺の開祖は、深溝源左衛門という下野国郷士であったが、流転の末、府中町において剃髪し、真宗大谷派に帰依し、天正9(1591)年に現在の永福寺の西側廃寺に寺院を開きました。堂は一軒で2間、3間の小さな萱葺でした。

江戸時代から源正寺は寺子屋を設け府中の子女の教育に尽くしました。しかし、明治23年、火災に見舞われ、同年現在の地に再建されました。

薩摩街道府中宿の町並み(大鍋屋・源正寺附近)

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府中宿南構口跡(矢取交差点附近)

府中宿の場合、南構口が矢取に、北構口が上町にあり、南構口は大小さまざまの石を間口2間、奥行3間、高さ7尺に積み上げた上に屋根をかぶせた番所が明治43年まで残っていたそうです。
しかし、同年南北両構口を解体して高良下宮社の石垣にそっくり再利用したそうです。

普通構口の内側、宿駅の出入口には防御的役割をもつ「枡形」と呼ばれるL字形の道がありますが、府中には見られません。

府中に枡形が設けられなかっいたのは、かなり古くから町の形態が出来上がり発展してきたので新たな道筋を造り変えるのが困難だったのではないかと思われます。

次回に続きます。










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薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)1・千寿の楽しい歴史
薩摩街道を歩こう(府中宿~羽犬塚宿)1    10月30日(日)    天気   雨

このシリズは資料と私の9月15日写真の両方で構成します。私は10月30日は久留米市草野を歩き、「薩摩街道あを歩く会」には夜の懇親会だけの参加でした。

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薩摩街道の旅(府中宿~羽犬塚宿)     半田隆夫文より。

松崎宿を南下し、光行茶屋、古賀茶屋を過ぎ、筑後川を渡ると、筑後国一宮高良大社の門前町「府中宿」に辿り着きます。

門前町であり、宿場町もある「府中町」の規模は、長さ480m(元禄8年の「久留米領郡中品々寄)」、家数142軒(文化9年の庄屋書上げ)でした。

町の南北には構口(かまえぐち)が設けられ、北から上町、中町、下町となっていました。上町には広手(ひろて)がありました。ここは高良大社の登り口であるとともに久留米城下からの道もここにつながり、薩摩街道に面して高札場がありました。

この広手の東には、大名が参勤交代の時に宿泊あるいは休息する御茶屋(本陣)が設けられています。御茶屋は、現在の久留米市立御井小学校敷地であり、遺構として「伊勢の井」と呼ばれる井戸が残っています。脇本陣は、上町の薩摩屋・小松屋でした。

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府中宿には庄屋・横目のほか町別当が置かれ、宿駅業務を扱う人馬問屋場がありました。そして、問屋役2名が置かれ、その下に馬や人足を差配する馬刺と人足差などの問屋場役人がいました。

さらに、府中宿には馬10匹、人足15人が置かれ、寛保2(1742)年には駕籠10挺も設置されています。

享和元(1801)年、府中町に入った名古屋の呉服商菱屋平七は、『筑紫紀行』の中で「人家二百軒ばかり、茶屋・宿屋多く本陣あり」と書いています。

明治3(1870)年4月、府中宿は廃止され、久留米城下の原古賀町(はらんこがまち)に宿駅が移されました。

高良大社大鳥居

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この大鳥居は、承応3(1654)年に有馬藩二代藩主忠頼の寄進により建立されたもので、高良大社一の鳥居です。高さ6.8m、柱間4.5mで花崗岩製の典型的な大型の明神鳥居です。

以来この鳥居は、鉄製だったそうですが、戦国時代薩摩の島津の軍勢が高良山を攻め、焼き払った時に、薩摩に持ち帰ったという。そのあとに立て直されたそうです。

鳥居横に「高良大社」とある大きな石柱の文字は、夏目漱石の親友の、菅虎雄の揮毫だそうです。

伊勢の井

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次に続きます。












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by kusennjyu | 2011-11-12 06:12 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011薩摩街道(篤姫街道)を行く(山川ー瀬高)・千寿の楽しい歴史
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薩摩街道(篤姫街道)を行く(山川ー瀬高)    

11月6日(日)午前10時~12時 天気 雨のち曇り

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山川市民センターで半田隆夫先生のスライドを使って説明(雨と道路での説明が危険であるため)。 左写真の真ん中が半田先生です。

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今回は歩くコースは「隈川鶴松の碑・面の坂・大根川」の1・1kmと「松延天満神社・松延城・満福寺」を歩き、残りのコースはブスの中から見ることになっています。

バス2台出発(1台は婦人クラブ会員・1台は一般参加者) この時は雨がやんでいました。

バスの中から「平家の塔(五輪の塔)・三里石)・太閤道」をみながら進む。

国道443号線から清水区への入口でバスを降りて歩きました。

面の坂を歩く

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処刑場跡(有志の方の看板・処刑場の位置を示したもの)   薄暗くて怖い場所です。

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忠義と悲しみの「坂道」における捕縛(ほばく)と処刑     半田先生の命名(説明は半田先生の分より)

場所はみやま市山川町西清水の「面の坂」

面の口・・・台地へ上がる坂道の麓附近 面の坂・・・長い坂道  面の上・・・坂の頂上

「面の坂」(「首切り坂」・「ハリモン場」)での事件

慶長7(1602)年7月10日の捕縛 7月11日の処刑

●本郷村 壇七郎兵衛  面の坂で磔刑(たっけい 磔(はりつけ)の刑
 
●松延村 樺島島彦左衛門  面の坂で磔刑(たっけい)磔(はりつけ)の刑

●父 壇大炊介(旧本郷城主・大庄屋)矢部川一本松の川原で斬首

●父 樺島式部(旧松延城主・大庄屋)面の坂で斬首(ざんしゅ)刀で首を切られること。

処刑の理由

旧主への糧食や金品の運贈発覚

●立花誾(ぎん)千代(肥後国玉名郡腹赤村庄屋市蔵宅寄宿)立花宗茂の妻

●立花宗茂(加藤清正の食客、玉名郡高瀬村清源寺)  

関ヶ原戦いで石田三成が敗れて、立花宗茂は領土を没収される。

瀬高(松延)から腹赤村(現在の熊本県長洲町)への道 大八で搬送した経路

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「面の坂」は薩摩街道を原町から北西に下る所にあり、両側は竹林が生い茂る鬱蒼とした小高い山であった。

今は開発が進み、その不気味さはないが、いくらかその面影を残しています。

江戸時代の初期の田中吉政の時に、関ヶ原の戦いで敗れ、加藤清正に一時預かりの身になった立花宗茂や誾(ぎん)千代姫に米や金品を隠れて仕送った罪で、松延村の庄屋の嫡男樺島島彦左衛門らが磔(はりつけ)の刑に処せられたところであり、昔から首切り坂と呼ばれています。

大根川を歩く会員と大根川のハゼの木

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大根川の伝説

その昔、土地の娘が大根を洗っていると「そこの娘さん、腹がへって困っておる。愚僧に大根一本恵んでくれまいか」と破れ笠をかぶり、ほこりまみれの衣をまとった旅の僧が頼んだが、そのみすぼらしい身なりを見て、娘は、家の中へ引きこもってしまった。旅の僧は「かわいそうな娘じゃ」と言って西の方へ去っていった。

翌朝、川を見てびっくり、流れているはずの水が干しあがっています。娘がお坊さんに大根をやらなかったことを打ち明けると、村の長老が「その人は行脚中の空海(弘法大師)とおしゃる偉いお坊さんじゃ」大根一本を惜しんで、困っている人を助けなかった村に、戒めを下されたのだろう。

村人たちは手分けをしてお坊さんを捜したが見つからず、少し離れたところに、きれいな水がわき出ているのを見つけた。これは空海和尚が恵んでくれた水じゃと言って、このわき水が出た地域を清水と呼び、川の名を大根川として、いつまでも旅人に優しく、そして水を大切にするように心懸けました。    (以上)

大根川の土手にはハゼの木が沢山植えられていましたが、切られてしまい、数本を残すのみです。

江戸時代はハゼの木から蝋を作り、大阪方面へ売られて藩の財政を助けていました。

国道443号線へ出て、再びバスに乗り「道の駅」まで行きました。

私は「道の駅」で降り、午後の「黒木瞳と八女市長のトークショ」へ行きました。

バスは松延天満神社まで行き、会員は降りて「松延城跡」から「満福寺」まで歩くことになっています。

再度、バスに乗り、「二里石」をバスの中から見て、山川町まで戻るようになっています。









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by kusennjyu | 2011-11-09 05:34 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011薩摩街道を行く(羽犬塚宿~府中宿)1・千寿の楽しい歴史
薩摩街道を行く(羽犬塚宿~府中宿)1    

平成23年9月15日 羽犬塚~相川間

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社日神社と俳人 山頭火 境内に上町公民館がある。

社日神社鳥居と山頭火詩碑(左)と北村三蔵翁之碑(右)

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社日神社

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山頭火詩碑と木標(宿泊地説明)

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詩碑   お経あげてお米もろうて百舌鳴いて 

羽犬塚 社日神社

木標  この地の北側に喜楽屋という木賃宿があって、ここに漂白の俳人山頭火が昭和5年に宿泊したとある。

熊野神社の方へ入る入口のロブスターと入ってすぐに木標(薩摩街道)がある。

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熊野神社前の薩摩街道と熊野神社鳥居

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中の鳥居と熊野神社

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境内には上原々公民館・13仏堂(大正15年建立)・恵比寿像・石碑などが建っている。

木標 旧坊津街道(薩摩街道) 

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赤坂飴本舗(国道へ入るところ)と蔵数赤坂の三五教九州総主会

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長照寺  一条信号の南側

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長照寺の境内

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一条と相川(あいごう)間は筑後市と久留米市が国道209号線付近で複雑に入り込んでいます。

筑後市と久留米市の境界を過ぎて広川に架かる永代橋を渡り相川の信号はすぐです。





みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。

by kusennjyu | 2011-09-16 05:24 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る
2010薩摩街道(山川宿~瀬高宿)瀬高編2・千寿の楽しい歴史
薩摩街道(山川宿~瀬高宿)瀬高編2

平成22年10月31日

主催  薩摩街道を歩く会

後援   みやま市教育委員会 特別協賛 郵便局株式会社


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清水道追分とその北側の地蔵尊(左の追分の写真に地蔵尊が見えています。

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二里石とその説明
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二里石

柳川藩では、全国にならって柳川城下、札の辻を基点に藩内に一里ごとに一里石などの道標を築きました。

三橋と御仁橋の中間あたりに、一里石を建て、瀬高町旧大竹村前田に二里石を設けました。

左~前田天満宮(線路の敷地まで境内がありました。)    
右~二尊寺参道(薩摩街道横から国道443号線を越えて参道がありました。)


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市場東の地蔵尊(ここから瀬高町下庄宿の入口です。)
市場通りの民家(古い民家と思われます。)


瀬高に2つの宿駅(人馬継所)がありました。

下庄宿・・・・上りの旅人。上庄宿・・・・下りの旅人。

理由 (1)旅人の通行量が多い。  (2)追分路を持つ。

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寺院跡(今は空地です。)の説明とその横に寺院の名残の13仏。

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松尾宮(酒の神様)

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松尾宮の以前の鳥居上部(酒屋の名前が刻まれています。)

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左~伊能忠敬測量基点之地   右~左の斜め前にある旧酒屋建物。

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伊能忠敬測量基点之地

伊能忠敬一行は瀬高町域を測量したのは、文化9(1812)年の2月と10月の2回である。

1回目は、2月8日で、坂部・今泉らは、久留米領今寺村(筑後市)から測量を始め、柳川領本郷・中山・瀬高上庄・瀬高川(矢部川)を計測し、瀬高下庄の三池街道追分に高印を残した。

そして大竹・上小川・吉井・松延・北広田・清水・竹ノ井・野町・立山・原町宿出口まで測り、一向宗松林山西乗寺と松屋喜兵衛宅に止宿しました。

伊能忠敬・永井ら一行は、羽犬塚を出立し、無測で瀬高下庄に来て、この地点(「伊能忠敬測量基点之地」)から測量を始め、真木・井手ノ上・長島まで測り、瀬高町本陣竹次郎、別宿喜三右衛門宅に止宿しました。

左~旧江崎銀行(現在、吉開蒲鉾店工場)  右~星隈酒造

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左~下庄の渡し説明  右~対岸(上庄)の渡し付近。

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瀬高(上庄・下庄)の渡し

中町の星隈酒屋を右に曲った枡形を街道は現在の国道手前付近の木戸門を通り瀬高の渡しに降りて対岸の住吉浜に渡ったと思われる。

文政・天保(1818~1843年)の頃、粗末な橋が出来て渡り賃を取ったので「賃取橋」または「ガタガタ橋」と呼ばれました。
洪水の時は、梁は橋脚から外れて岸に流され、減水すると元に返す橋でした。

大名など高級武士のためには岸まで舟を並べ、つなぎ合わせた舟橋を架けました。

  文は「薩摩街道を歩こう」の資料より。

下庄の渡しから瀬高図書館までの歩きコースは薩摩街道ではありません。集合地までのコースです。

by kusennjyu | 2010-11-05 19:47 | 薩摩街道 | Comments(0) |Topに戻る