千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:みやま市の功績者( 8 )
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2009與田凖一児童文学まつりとコンサート(みやま市瀬高町の偉人)・千寿の楽しい歴史
與田凖一児童文学まつりとコンサート

平成21年10月18日、午後から「まいピア高田 多目的ホール」で行われました。

第2部 與田凖一文学祭り

表彰
   
       與田凖一児童文学賞   1名

       学校賞    18名

       学年賞     9名

       佳作     80名

献詩 児童生徒の作品発表(1名づつ朗読する。)
    
       與田凖一児童文学賞 1名 ・ 学校賞  18名 


第3部 童謡デュオ:DOYO組コンサート  

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    彼女たちは今、熊本県のNHK「童謡コレクション」にレギュラー出演中です。

    海外でも童謡ツアーを行うと活躍中のお2人です。

    子供たちに歌を教えて「プチDOYO組」ができました。

    童謡カルタを発売。「あ」から「ん」までで始まる童謡を全部集めている。

    今日の演奏曲目は上左側の21曲です。
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彼女たちは「ありがとうは私から」の歌の題名で感謝をこめてうたっています。

最後は「手のひらを太陽に」で大人も子供も手の動作をまねながら、会場が一体となり歌いました。


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by kusennjyu | 2016-09-28 08:21 | みやま市の功績者 | Comments(1) |Topに戻る
2015伊藤整一海軍大将記念碑除幕式・平成27年4月6日
伊藤整一海軍大将記念碑除幕式

平成27年4月6日 生家前にて 天気:曇り一時小雨

神事

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神事終了後のあいさつ・記念写真

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この後、朝日新聞社からの取材がありました。

除幕式が無事に終わりました。皆さん、ありがとうございます。


明日(4月7日)は墓前祭の後、伊藤整一海軍大将を偲ぶ集いの大祭が行われます。

佐世保海軍自衛隊の音楽隊の出演があります。







みやまいいまち会  クリックして見て下さい。

 「みやまいいまち会の学級活動について(平成27年4月)」

「平成26年3月 定例学習会の報告」   「みやまのモノづくり展」   
         
みやま市観光協会公式WEB

梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。


梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

季楽 廬山(ろざん)

久留米の廬山(ろざん)で楽しみ方を紹介

久留米の季楽 廬山(ろざん)の石焼き膳紹介

私の目標   皆さんに感謝します。
by kusennjyu | 2015-04-06 17:52 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る
2011山川町原町に生まれた人たち・千寿の楽しい歴史
山川町原町に生まれた人たち    

中村祐興(なかむら・すけおき)

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文政12(1829)7月10日:山川町原町に生まれる。

中村家は原町郵便局の裏手で地域特産の櫨生産に従事する。

母・千代子は柳川藩第9代 藩主・立花鑑賢の側室で猷子(ゆうこ)姫を出産。実家の中村家が、後継不在の井ため、側室を辞し中村家に戻る。

西田一甫と結婚し、2男4女を授かる。祐興は長男。

明治7(1874)年、初代紙幣寮(後の大蔵省印刷局)抄紙部長となる。

紙幣の原紙の問題に取り組み、改良して「中村紙」と呼ばれ、証券や公債にも用いられるようになる。

(柳川藩時代のみやま市瀬高町唐尾の藩札発行所での経験が生きたものといわれる。)

中村三郎(天風)は祐興の3男である。

柳川藩士、多田長市

多田家の日記に第一次長州戦争の出兵状況が書かれている。

元治元(1864)年、長州藩兵による蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、徳川幕府は長州征伐の戦争を行い、九州各藩に出兵を要請した。

多田氏は十時摂津(ととき・せっつ)組に属する。

多田氏は、在居住の武士で150石、居住地はみやま市山川町原町に居宅があり、家族は原町に、当主は勤務の都合で主として城下町に住していたようである。

多田長市氏は、明治4年廃藩置県後、家禄を失った以後は、旧飯江村(明治22年に町村制施行により亀谷村、舞鶴村、飯江村、田浦村が合併した後の飯江村)の字平に住所を移す。

大正中期まで平に居住、その後は他所に転出する。

野田卯太郎(大塊)

山門郡山川村(現山川町)武宮興七方に生まれる。戸籍上は三池郡高田村伊七長男。親族野田森右衛門の養子となる。

  平成8年3月31日発行 高田町立岩田小学校・創立120周年記念誌より。

嘉永6年岩津の一商家に生まれる。   高田町誌より。(昭和33年10月発行)

嘉永6年11月、本郡岩津の一商家に生まれる。   三池郡誌より。(大正15年初版)

私のブログ(2月)を見て下さい。

武藤徳蔵

天保14年山川村原町に生れ、武藤孫一氏(高田村田尻)の養子となる。

農業にありと信じ、土壌の改良、品種の選択、肥料の研究に志す。

明治32年、斎戒沐浴して丹精になる精撰米を献納した。

滅多に臣民の献納を許されぬ当時として、立花伯を通じ宮中に請い異例の御聴許を得たという。

明治39年に緑綬褒章を賜い、その篤行を表彰された。

明治44年、特別大演習の砌(みぎり)、大元帥陛下の御召米献納の光栄に浴する。

私の家の真南100mの家です。


高田町誌より。(昭和33年10月発行)
by kusennjyu | 2011-02-25 19:10 | みやま市の功績者 | Comments(2) |Topに戻る
2010久保田治臣(言罕)高田町の勤皇志士・千寿の楽しい歴史
久保田治臣(言罕)高田町の勤皇志士  

先祖代々の墓地に記念碑を建立する。
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裏側
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久保田治臣 (くぼた はるおみ )1828-1864幕末の尊攘(そんじょう)運動家。

文政11(1828)年生まれ。筑後国三池郡江浦村の医師。
嘉永年間の横尾玄蕃の三池郡倉永村に亀山義塾を設けると高弟になる。
同学生の志賀喬木・西田幹次郎・栗森長作等と議論を上下し天下の形成を痛論する。
皇室の式微を嘆き勤皇を唱え、一度家を出れば各藩の同志を歴訪し家に帰らなかった。

久留米藩の真木和泉,福岡藩の平野国臣に師事。
元治元年長州藩兵にしたがい禁門の変に従軍するが敗れ,同年8月末周防中関で切腹した。
37歳。通称は言罕。

国を出る時に当り首袋を作り、その袋に和歌一首を書き印した。

 鳥がなく東(あずま)しこつのしこ首を
  取り獲たときはこれやこのつと(包)


この遺品は福岡市住吉町の久保田家に保存している。

一女一男あった。長女に養子をとる。一男は三池郡甘木(現大牟田市)に住むと云われる。

by kusennjyu | 2010-07-09 18:15 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る
大城雪造氏の功績(千寿の楽しい取材)
大城雪造氏の功績   6月24日夜  お孫さんの自宅にて。

a0137997_7485386.jpg大城雪造さんの経歴
生誕地   みやま市瀬高町高柳151-2(北高柳)
生年月日  明治19年12月28日  昭和47年薨去。  

明治32年6月 瀬高高等小学校第3学年在学中に眼疾のため退学。
明治37年4月 官立東京盲亜学校普通 科及び鍼按科入学(1人での旅立ち)。
明治42年卒業。
明治43年4月 教員練習科入学。
明治44年3月 教員練習科卒業。
明治44年4月 私立香川県盲亜学校教諭。
大正3年4月  私立福岡盲亜学校訓導。
大正13年4月 福岡県立福岡盲亜学校教諭。
昭和21年   福岡県立福岡盲亜学校退職。

除幕式の写真a0137997_831298.jpga0137997_832433.jpg


a0137997_873412.jpga0137997_874846.jpg左~結婚写真(妻は江崎ヨシ・江崎酒造から嫁ぐ)。
右~晩年の雪造氏(上段左が長女)


第7回国会 地方行政委員会 第10号  昭和25年3月25日(土曜日)
盲人に対する附加価値税軽減の陳情書(福岡市 東薬院一番町福岡県盲人会館内福岡県盲人会長
 大城雪造)(第628号)

第10回国会 厚生委員会 第23号  昭和26年5月10日(木曜日)
福岡に国立光明寮設置の陳情書(福岡市東薬院一番 社団法人福岡県盲人会長大城雪造)(第66号)

昭和  年に福岡県盲人協会の 設立 

昭和25年 光明寮設立
当施設の前身は、昭和25年、生活に困窮する視覚障がい者が入所し自活する為に、福岡県盲人協会初代会長大城雪造氏により、福岡市薬院に開設された施設でした。

以来、中途失明者のために『視覚障がい者更生施設福岡光明寮』として、その役割の一端を果たしてきましたが、時代の趨勢に応じて光明の及ぶところを拡げる。

平成5年度より名称も『身体障害者授産施設福岡光明園』と改め、再発足致する。

昭和27年 福岡点字図書館設立  自宅の建物と盲教育者として収集された点字図書を提供する。

「情報は“情”(こころ、気持ち)と“報”(報いる、しらせ)である」というコラムがありました。「情報」ということばが氾濫している今こそ、それぞれの漢字がもつ意味を忘れないようにしなければと改めて思いました。今日までの福点の歩みを思うとき、「図書館は一日にしてならず」、まさに心ある「情報」がめんめんと伝えられてきたからこそと思います。

家族  
息子 3人・娘 1人  息子さんは修猷館で大城三兄弟として有名だったそうです。

金夫氏(三男)の活動状況
東京湾横断道路株式会社 会長として「東京湾アクアライン」建設に貢献されています。


本協会では会員を対象に、広く世界の優れた道路整備の事例調査、情報収集を行い、 知識の普及、技術の向上を図り、さらに我が国の道路技術の発展に資することを目的として海外道路調査団を派遣しております。
なお、調査結果は毎回海外道路調査団報告書として作成しています。
第10回調査団 道路建設と沿道開発 昭和 49. 5.27~ 6.24   団長・大城 金夫 ・ 団員  25名

息子さんは3人共、亡くなられて、娘さんは4番目で平成22年に84歳、福岡市で元気に過ごしておられます。















 
by kusennjyu | 2010-07-04 07:45 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る
與田準一記念館(みやま市瀬高町)千寿の楽しい歴史
與田準一記念館訪問  3月24日  雨

a0137997_19361589.jpg上京から”赤い鳥社”退社まで。
與田準一は大正12(1923)年4月に初めて雑誌「赤い鳥」に投稿した童謡が入選して以来、この雑誌の常連投稿者として活躍しはじめた。偶然にも「赤い鳥」の投稿童謡の選者は、同郷の詩人・北原白秋であった。
與田は、生涯師事することになる白秋に才能を見出され、白秋の勧めで昭和3(1928)年に上京することになる。

上京後は、北原家に寄食し、長男隆太郎の家庭教師をしながら「白秋全集」の校正を手伝うなど、公私にわたって白秋の身辺に仕えていたこともあり、最愛の弟子と言われた。
この頃、作曲家の細谷一郎も音楽の家庭教師として北原家に寄食していた。

子供の読み物に限らず、出版会全体が不景気を迎えていた昭和4(1929)年に一度帰郷したものの、書き手としての情熱に背中を押されるようにして、翌年再び上京し、白秋の後ろ盾を得て昭和5(1930)年・同人雑誌「乳樹」(のち「チチノキ」と改題)を発刊する。

同じ年、「赤い鳥」出身の書き手としてすでに才能を認められていた與田は休刊していた「赤い鳥」復刊のために主催者である鈴木三重吉の要請で、8月に”赤い鳥社”に入社し、昭和8(1933)年2月に退社するまで平塚武二らと編集にたずさわることとなった。この間毎号のように新美南吉の童謡が掲載され、その後、南吉も「チチノキ」の同人に参加した。

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活躍期 書き手として、児童文学の開拓者として
與田準一は、雑誌「赤い鳥」の出版母体であった”赤い鳥社”退社後の昭和8(1933)年6月に、処女童謡集「旗・蜂・雲」を自費出版する。序文を寄せた白秋は「わたくしはつくづく思ふが、わたくしの周囲にあって、わたくしの童謡の種々相を理解し感光する者は、彼を措いて先ず他に無いであろう」と、彼の創作に対する貪欲な姿勢や真面目な性格をたたえた。

この頃までは、白秋のもとでのびのびと創作に励むことが可能であったが、いよいよ子どもを対象にした読み物の売れ行きが衰退の一途をたどるようになると、ほとんどの発表機関が失われ、白秋の後ろ盾も細々と続けていた「チチノキ」のみとなった。
しかしながら、「チチノキ」時代は、童謡の他にも少年詩の創作や、時代にあった詩の創作を試みるなど、書き手としての今後を見据える機会となった。

昭和11(1936)に鈴木三重吉が亡くなると、多くの子どもを対象として、一大センセーションを起こした雑誌「赤い鳥」もついに終刊し、児童文学冬の時代を迎えることとなる。「コドモアハヒ」や「コドモノクニ」に細々と発表の機会を得ていた昭和14(1939)年に、帝国教育会出版部の依嘱により「コドモノヒカリ」の編集のみならず、出版物の企画にかかわるようになると、自作ばかりでなく、多くの子どもの読み物の書き手たちに出版の機会を与え、比較的戦時色の薄い良質な著書の出版に尽力した。その中には、新美南吉の「ごん狐」を収めた童話集「花のき村と盗人たち」も含まれている。

昭和15(1940)年に「山羊とお皿」で第一回児童文化賞を受賞するなど、書き手としても高く評価されていた。このときの審査員からは「単なる児童文学の世界ではなく、遥かに高い芸術の世界である」と絶賛された。なお、審査委員の1人には、小川未明がいた。

與田は言葉のリズムに誰よりも敏感で、白秋や西條八十、野口雨情たちによって拓かれた童謡をさらに洗練させ、芸術としての童謡、あるいは、少年詩として読むに耐えうるうたへと高めることに心血を注いだ。

童謡から出発した與田は、その後童話の創作へと関心を広げ、「父の手紙」や「小さな町の六」、代表作となる「五十一番目のザボン」や「十二のきりかぶ」などを発表した。

昭和25(1950)年に日本女子大学児童科の講師に就任してからは、後進の指導にも力を注ぎ、岩崎京子、あまんきみこ、生源寺美子(しょうげんじ はるこ)、宮川ひろなどの多くの書き手を育てた。さらに、日本文学者協会会長に就任し、小学館文化賞や野間文学大賞の審査委員や、児童文学の講演者として全国各地をまわった。平成2(1990)には長年の業績により、モービル児童文化賞を受賞した。

児童文学というジャンルの開拓や確立のために晩年まで力をつくした與田準一は、鈴木三重吉や坪田譲治などとともに日本の児童文学史上に不滅の足跡を残した書き手であった。彼の遺品や、葉書・書簡からは、文学仲間との幅広い交流や几帳面でありつつも温厚な人柄が偲ばれる。なお、彼の詩には、当時の著名な作曲家によって曲がつけられ、今でも子ども達に歌われているものが数多くある。

パンフレットより

與田準一記念館開館へ    リンクします。
by kusennjyu | 2010-03-24 19:55 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る
2010文化みやま(創刊号)みやま市文化協会
文化みやま(創刊号)  

平成22年3月24日 雨

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郷土史部  平成21年度各町の活動状況紹介
当面は3町独自の活動を続けていくことにしました。郷土史会は各町の活動状況には違いがあり、同一歩調の研究は無理であるという理由から、当面は従来の活動を続け、連絡を蜜にして、連携すべきところは連携していくということです。

高田町郷土史会  現会員 26名 
高田町に文化協会が設立されたのが昭和52年です。郷土史部は当初、部員5名の発足だったそうです。今年で32年目になります。
具体的な事業は町内外の史跡探訪、文化祭への参加展示、歴史(郷土史)講座への積極的受講、町外との交流です。

町内史跡探訪として、校区毎に年1回、史跡巡りをしています。今までに6校区2回以上は巡っているようです。他に近隣市町の文化財史跡の現地探訪や歴史講座への参加をしてきました。
年1回は大型貸切バスでの史跡探訪をしています。部費の大部分をこれに当てていて、部員以外の方も、格安なので喜んで参加されています。県内の史跡は勿論のこと、佐賀県、熊本県、大分県、長崎県へと足をのばして見学しています。

瀬高郷土史の歩み  
本会は昭和32年、邪馬台国郷土史会と称して、瀬高・柳川・大和町の有志により結成されました。
昭和46年、九州縦貫自動車道の建設にともなう大道端の発掘調査を機に新たな瀬高郷土史会が発足し現在に至りました。同年瀬高文化協会が創立され、本会も「社会科学部の郷土史部」として加入し、以後毎年の産業文化祭には公民館ロビーを会場に郷土史展を開催し大いに町民の関心を集めました。

平成10年、町立図書館と郷土史資料館及び企画展示室が完成し、展示会企画も企画展示室に移り、平成19年のみやま市に至る間の歩みを見てみます。

平成10年は瀬高の年中行事、11年は九州の神籠石、12年は瀬高の石造物、13年は瀬高の絵馬・天井絵・彫刻、14年は和紙の紙すきと矢箇部新左衛門展、15年は薩摩街道と周辺の史跡展、16年は成合寺谷装飾1号墳と古墳展、17年は瀬高の民俗史料展、18年は瀬高の文化財展を展示してきました。

平成19年に3町合併により「みやま市」が誕生し、文化協会も「みやま市文化協会」となり新しい企画のもとで開催されることでしょう。

山川町郷土史会  現会員  21名
山川町郷土史会が発足したのは昭和59年8月24日で25年前のことです。
平成21年8月23日に25周年記念行事を山川市民センターで開催しました。記念事業として、「25年のあゆみ」を会員のみに配布しました。記念講演として、天台宗清水寺住職に「清水寺に関すること」をお話していただきました。みやま市を中心に大牟田、柳川からも参加していただき感謝しています。
同時に「與田準一と牡丹長者の屋敷跡展」も開催し、多くの人々の関心をよんだようであります。

定例行事としては月1回の会議・年2回の日帰り研修・年1回の1泊研修・近隣の探訪を年1~3回実施しています。平成21年の日帰り研修は7月に吉野ヶ里へ、2回目は2月に実施予定です。
1泊研修は11月に広島県竹原市行きを計画しています。近隣探訪としては中村祐興ゆかりの地を尋ねました。
研修のみでなく懇親も目的としていて、4月の花見の宴、12月の忘年会を行い親睦を深めています。

終りに
現在の日本は過去の積み重なりの上になりたっているという認識です。自分の原点に触れてみませんか。

中村祐興
文政12(1829)年7月10日、現山川町原町に生まれる。慶応元年、長崎の操練伝習所へ遊学の後、明治元年に徴士となって大津県(現在の滋賀県)の権判事に就任。明治3年に大津県が大洪水にみまわれた際、祐興の責任において国の公金を救助金として緊急に支出し、多くの県民を救った。
また、中央官と地方官の意志の疎通と地方の実状にあった政策を行うことを目的とした「地方官会議建白」をし、明治7年の大蔵省主催の「地方官会議」に発展した。地方官として活躍した後、明治3年に大蔵省に転身して監督正(現在の会計検査院の長)に任じられ、日本で初めての官営模範工場となる富岡製糸場に関わった。
明治7年、当時の大蔵省紙幣寮初代抄紙部長に任じられ、紙幣用紙の開発に取り組んで透かし入れに最適な「中村紙」を開発。幕末から明治への新旧交替の時代、贋札造りの横行や旧幕府以来の各種硬貨・藩札などの流通による混乱の中で、弊制の統一・近代化に貢献した。その後、明治31年に官を辞して福岡に隠棲。

明治33年に中村紙の開発と紙幣用紙の改良が評価されて正五位勲四等瑞宝章を受け、明治42年10月14日に82才で没した。

郷土の人物  リンクします。    
  
中村天風(なかむらてんぷう)(中村祐興の息子)
1876年、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。
父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。
王子村(現北区王子)や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。
立花家伝の随変流の剣術と居合も修行した。
幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。
柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。
その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得る。

16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。
軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。
1904年(明治37年)3月21日コサック兵にとらわれた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。
113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。

日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。
33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。
途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。
イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。
1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。
そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。

1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。
その謝礼として財産を得た。
東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。
街頭にて教えを説き始める。
政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。
1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。

1968年12月1日死去。享年92。

by kusennjyu | 2010-03-24 18:33 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る
2009與田凖一記念館開館(みやま市瀬高町の偉人)・千寿の楽しい歴史
與田凖一記念館開館

みやま市立図書館内で平成21年10月18日午前10時からオープン式典があり、参加しました。

與田家の方々、教育委員会、文化協会、観光協会など100人位、出席されていました。

 
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”山上永遠”は東山とそこから展望される矢部川、有明海。 ”白雲霊夢”は清水寺と乳父観音の由来を表象した。 ”花影月露”は春と秋を象徴するものとして、第一連の空間に対比して時間を表す。 ”乳父”は観音と両親の重映。

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皆さんのお越しをお待ちしています。

      

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by kusennjyu | 2009-10-19 11:11 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る