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カテゴリ:みやま市の民話と伝説( 47 )
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民話 紫君泉(しくんせん)・千寿の楽しい歴史
民話 紫君泉(しくんせん)

竹飯にきれいな水の湧き出る紫君泉という泉があります。周りを石垣で囲まれ、こじんまりした池だが、今でも清水がコンコンと湧き出ています。

「紫君泉」、この得も言われぬゆかしい名を持つ天然の湧き水は、いつの時代から、この地にあるのか、はっきり分かりません。おそらく、数千年も昔からあったに違いありません。

この泉は、いかなる大干害にも枯れることなく、また、どんな大雨にも濁るということはありません。真夏の土用にも、スビクように冷たく、真冬の寒中にも、かえって暖かく感じるほど、1年中、温度に差がありません。

近くの百姓たちは、夏は飲み水として農作業に疲れた喉を潤(うる)おし、冬は
お茶の湯として、炊事用としても欠かせぬ存在でした。

昔、柳河の殿様がこの水を愛用し、夏の盛りに樽(たる)に詰め、周りを綿やわらで包んで、直射日光を避けながら、数々の人夫が交代で担ぎ、早駕籠(はやかご)並みにリレーして、御屋敷まで運び、殿様が飲まれるときは、まだ冷たくて、大変喜んで召し上がられたそうです。

千古の謎(なぞ)とロマンを秘めながら、コンコンと湧き出る、この優雅な名の「紫君泉」は、今後とも変わることなく、静かな営みを繰り返すことでしょう。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。

米今もコンコンと出ていますという内容のところが、水が出なくなり民話の話です。
 現在は、九州自動車道工事と九州新幹線工事の時、水の流れが変わってしまったのか、水が出なくなっています。

扇状地から平野に出る場所で、山川の御牧山からの伏流水ですが、工事のときに伏流水が枯れたか、流れが変わったのかで、出なくなったものと思います。

矢部川の地名の旅(鶴記一郎著) p43飯江川より。

山川町の中心地の野町から竹飯一帯は飯江川が搬出した土砂によって形成された扇状地で肥沃な畑となっています。その扇状地は海水によって侵蝕され急崖をなして平野に没しています。その侵蝕面に此君泉(シュクンセン)などの湧出する井戸があります。此君泉は大字竹飯字竹井にあり往昔は竹泉と呼んでいたようで、竹井、竹飯などの地名もこの泉に由来するものです。この泉はいかなる旱魃にも乾いたことはなく、また大雨に際して溢れることがなかったそうです。というのは広い扇状地の地下水が徐々に流れ出る井戸だからです。

旧柳川藩志によれば、「往時八幡山松花堂猩々翁此の地に来り、この水を以って硯滴となして書画を作って其の清潔を称賛して曰く、此れ石清水の水質と同じと。鑑通公之を此君泉(タケイズミ)と命名した・・・・。」とあります。ところが、現在では泉には粘土や落ち葉が流れ込み利用する人もないのでしょうか。案内板の文字は消えて判読できません。

旧柳川藩志  P541の名所(山門郡分)  此君泉

山川村大字竹飯字竹井にあり。同所満願寺の西方幽邃(ゆうすい)の地に冷泉湧き出す。池水6間の4間にて面積凡そ24坪、元と竹泉と云う。この地竹井の称もこ れより出る。干ばつに渇すことなく、大雨に溢れることなし。

伝に言う、「往時八幡山松花堂猩々翁此の地に来り、この水を以って硯滴となして書画を作って其の清潔を称賛して曰く、此れ石清水の水質と同じと。鑑通公之を此君泉(タケイズミ)と命名し、日本諸名家にこの詩を求む。」

これを此君泉詩集と云う。これより、この名、益々世に顕れる。泉の中央に碑を立つ。此君泉の3文字を書く。書家関淇寧の書する所たり。

題此君泉而奉応中大夫柳河候之需  

国子祭酒  林 信言

雅景清流称古今、泉声自是似鳴琴、尚思丘壑将添色、応洗筬人名利心 

寄題此君井  深津 友常

遠聞西海竹林辺、甘井潺渓正可燐、愧我短才無俊句、徒令詞賦負清泉

此君泉   橋地蒙庵

竹廻水流秀、水出竹間清、艶々抱珠媚、澄々若鑑盈。

金山泉可此、淇澳句堪続、非是丹沙井、飲数人寿栄。

現在は、保育園の駐車場になっています。








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by kusennjyu | 2011-09-27 02:55 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
民話 海津と鯰(なまず)・千寿の楽しい歴史
民話 海津と鯰(なまず)

数年前、山川町から分離して高田町に合併した2つの地区、竹の飯と、もう1つが海津です。

毎年、10月の水落の後の堀干しと、3月のゴミ掘りのとき、魚が沢山とれます。村人たちは、食べきれないほど取れた魚を、串(くし)に刺して炭火で焼き上げ、藁束に刺し、天井に吊り下げて保存食としています。

ところが、海津では鯰だけは絶対に食べません。折角とれた鯰を道端に放り出し、堀干しが済んでから、また水に放します。

ほかの魚は喜んでみな食べるのに、鯰だけは不思議に、食べるどころか殺しもしません。通りかかった人が、もったいながって、くれと言っても決してやりません。

しかし、面白いことに、人々がだまって持って行くのは見て見ぬ振りをして済ましています。自分たちは食べなくても、よその人の食べるのまで干渉しないのです。なぜ海津の人は鯰を食べたり殺したりしないのか、それは氏神様の御神体と深い関係があります。

その昔、氏神様が危ない命を鯰に救われたという古事によるものです。ここの氏神様は阿蘇内輪山、中岳の中腹に鎮座の阿蘇神宮の御霊(みたま)を分霊して祀ったといいます。阿蘇には12の宮があり、その第一番が建磐竜命(たけいわたつのみこと)です。

神武天皇の第一皇子、草ケ部吉見の命の御子、阿蘇都媛(あそつひめ)を妻として阿蘇に向い、国見山から行くてを見ると、広野の果てに大きな湖水が見えます。
火山灰が溶けてノロノロしたノロ湖だったそうです。

「この湖水を干せば、よい田地になり、十分な米も取れよう」と、命はこの湖水を干そうと思って、湖水の西の尻に回り、二度、三度、力いっぱい蹴(け)ってみたが、どうしても崩れません。よく見ると、火口の壁が二重になっています。今日、二重峠というところです。

今度は少し南の立野の上を一蹴りに蹴り破ると、スカッと穴があいて、ノロ湖の水はドウドウと流れ落ちました。今の数鹿流(しかる)滝というところです。

このとき、建磐竜命は、ノロ湖に巻かれ、危うく命を落すところでした。そのとき、1匹の大鯰が出てきて、命(みこと)を背中に乗せて助けたという話があります。

また一説には、翌朝、命(みこと)が湖水の跡を見ると、半分だけが水が引いていますが、よく見ると大鯰が真ん中に横たわって、あと半分は水がひあがっていません。

そこで今度は建磐竜命の鯰退治となり、ノロ湖は全く乾いて、阿蘇谷、南郷谷を連ねて東西16kmの火口原、草千里、内の牧、外の牧が出来あがったのです。

阿蘇の人々は、この神武天皇の孫であり、外輪山を蹴破って阿蘇谷開発の基を作り、農耕を進め、現在の阿蘇の繁栄をもたらした建磐竜命を阿蘇大明神として尊崇し、神慮を慰め、神徳にあやかろうとしています。

阿蘇神宮の祭神が、どういう経緯で海津の地に分霊されているか、そのうち、海津の古老に確かめようと思っています。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。

昭和33年8月1日に町制を施行し、高田町となり、昭和34年4月に山川村大字竹飯、大字海津地区を編入しました。





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by kusennjyu | 2011-09-26 04:58 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
2011清水寺霊験記・足達八郎の武勇伝・千寿の楽しい歴史
清水寺霊験記・足達八郎の武勇伝(民話)

筑後川の上流、蜂の巣城で有名な下筌(しもうけ)ダムの近くに、熊本、大分両県境にまたがった杖立(つえたて)温泉があります。この温泉の名前について、次のような2つの説があります。

昔、足のなえた病人が、温泉の効果で健康になり、杖を立てかけて自力で帰ったという説と、弘法大師が旅の途中、この川岸に杖を立て、ここを掘れば必ず温泉が出ると教えられ、村人がそこを掘ってみると熱い水が噴き出したという説です。

昔、この杖立川の川原で、1人の武士が数人の若侍を相手に、決闘をいどみました。いかに武勇の士といっても、多勢に無勢、1人2人倒しても敵はなかなかひるみません。

激烈な切り合いの最中、敵の1人が繰り出した槍(やり)先が、サッと武士の胸元に突き立てました。遠巻きにしていた人々の口から、ハッと驚きの声があがった、その時です。上記の武士は少しも騒がず、槍の千段巻きをパッと切り落とすやいなや、前の2人を斬り倒しました。

この勢いに恐れをなした敵は、一度にどっと浮き足立って、ついに6人とも斬り殺されてしまいました。戦い終った武士は、全身綿のように疲れ、十数か所に切り傷を負いましたが、その精神力は大したものです。

先ほど槍で突かれた胸元を開けて見ると、錦(にしき)の袋に入れていた木のお守りがあり、袋を開けて見ると、お守りは真っ2つに割れ、汗でグッショリになっていました。人々は「無事に助かったのは、お守りさんのお陰だ」と口々に語りました。

槍先は、このお守りに当って、皮膚には届かなかったのです。このお守りこそ、霊験あらたかな、本吉山清水寺のお礼だったのです。武士の名は足達八郎(柳川藩立花家の藩士)という人でした。

江戸時代に「東国の武は笠間にあり、西国の武は柳川にあり」と、その武勇を謳(うた)われ、また、幕末動乱期に名君と仰がれた島津成彬(なりあきら)公が、将軍に戦力を問われたとき、「今日、戦闘能力のある藩は、日本中どこにもありません。しいて上げれば、柳川の立花藩ぐらいでしょう」といった話は有名です。

日本中はおろか、朝鮮、明(みん=中国)国にまで、その武勇を轟(とどろ)かせた尚武(しょうぶ)の国柳川で、5代にわたって剣術師範を勤めた、誉れの足達家の4代目が、この八郎です。この八郎盛永の子、盛義(5代目師範)も、なかなかの剣豪でした。

幕末に6尺の竹刀(しない)を振り回し、江戸中の剣道場を席巻(せっけん)し、名だたる剣士を倒し、当時、剣聖といわれた幕府講武所の男谷精一郎さえ、一本も取れなかったと言われる有名な大石進が、生涯(しょうがい)に一度だけ敗れたのが、この茂兵衛盛義でした。そして、この盛義を鍛え導いたのが、父の八郎でした。

足達八郎は、当時、母の病気治療のため、家族を連れて杖立温泉に来ていたのです。宿屋に預けた刀の取り違いから、同宿の佐嘉藩の若侍6人と争いになり、ついに1対6の決闘に及び、杖立川の川原で、竹矢来を結んで果し合いを行いました。

足達八郎は25歳の男盛りとはいえ、相手も葉隠れ武士道に鍛えられた鍋島藩士。延々数刻の激闘の末、1人また1人と倒し、やっとの思いで勝ち抜きました。世にこれを「杖立騒動」と呼び、足達八郎の武勇と共に、清水寺のお守りの霊験が、広く喧伝(けんでん)されることになりました。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。




地名の由来

つえ~崖や崩壊地をさす「つえ」から生じた。

古代語が、のちに「つぶれ(潰)」、「くずれ(崩)」にかわる。急な斜面でまさに崩れそうな土地が、「きり立ったつえ」つまり「つえたて」であった。

「津江」(大分県など)の地名が多く残っている。





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by kusennjyu | 2011-09-24 04:17 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
伝説 清水観音の「撫で仏様」・千寿の楽しい歴史
伝説 清水観音の「撫で仏様」

「撫で仏様」は、清水観音本堂の東側の崖の下にまつってあります。この仏様は今から約200年前大城七右衛門の発願(はつがん=願いを起こすこと)によってできたものです。

七右衛門は、宝暦13(1763)年、山門郡北海津村(現在の三池郡高田町海津・現在はみやま市)に生れました。幼少のころより身体が弱かったけれども頭がよくて、利口な少年でした。

15歳の時、仏道(仏の説いたみち。仏教)を志し瀬高町下庄大竹にある由緒ある寺、二尊寺(にそんじ)に入門します。

病弱ながらも厳(きび)しい修行を積み重ね、住職の勧めにしたがい、托鉢行脚(僧が修行のため経を唱えながら鉢を持って家々をまわり、米やお金の施しを受けながら各地を歩きまわること)の旅に出ます。

筑後一円はもちろん、肥前(佐賀)、筑前(福岡)、豊後(大分)を巡礼しますが、とても苦しくてつらい旅でした。

旅を終えて故郷に帰りついた七右衛門は、仏様が迷い苦しむ人々を救い、悟りの境地に導いてくださるようにとの発願を立て、地蔵尊寄進を計画します。

この計画を聞いた上庄の鋳物師、平井九郎兵衛尉(ひょうえのじょう=菅原重俊)は、喜んで賛成し、地蔵堂を作りあげました。

寛政元(1789)年5月吉日に落成式を行いました。しかし、この地蔵さんも雨ざらしであったため、善男善女(ぜんなんぜんにょ)の信者の皆さんが、お堂を建立したと言われています。

念願を果たした七右衛門は、その後も、二尊寺で修業を積みましたが、寛政7(1795)年4月27日、享年33歳の若さで当寺においてこの世を去りました。

七右衛門の死後、彼が残したお地蔵様は、これから後もなお「撫で仏様」として大衆信仰の中に生き続けることでしょう。

身体の痛むところを仏様を撫でた手でさすると、痛みをとってくださる「撫で仏様」は、優しいほほ笑みを浮かべながら、ますます光沢を増されることでしょう。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。

清水歴史散策3   清水寺・撫で仏様・三重の塔などが出ています。





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by kusennjyu | 2011-09-03 15:15 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
伝説 清水の観音さま・千寿の楽しい歴史
伝説 清水の観音さま

大同元(806)年、今から約1,200年前、伝教大師というえらいお坊さんが、唐の国(現在の中国)での勉強を終えて、日本に帰ってこられました。
そして、九州において仏教を広め、盛んにするところはなおかと、あちらこちらと探しておられました。

その時、瀬高をお通りになった大師はふと、東の山の中ほどに光り輝くものを見つけられました。大師は不思議に思い、山の中へと入っていかれました。

山はけわしくて、道らしい道もなく、木はうっそうと繁っています。大師は、昼でも暗い所をかき分けながら進んでおられました。ところが、道がわからなくなり、山中で迷ってしまわれました。
「これは困ったことになった。」と仏様を念じ始められました。すると、どこからともなく、一羽の雉が飛んで来て、大師の前に降りたちました。

それから、「こちらへおいでください。」とでも言うように、大師の方を振り返りながら飛んで行くのです。大師はそのあとを追って行かれました。

しばらく行くと、とある木立の中に輝く大きな木が立っていました。それは「ネムの木」という木でした。その美しく、こうごうしい木の姿に、思わず息をのみました。それに木の表面には、観音さまの姿が、大師の目には、はっきりとみえるのです。

大師はありがたく、伏し拝みながら、これこそ観音さまのお告げであろうと思われました。この木で観音さまを刻み、ここを、観音さまをお祭りする地にしようと決意されました。

早速、木がたっているままに根元の方で、うやうやしく心をこめて千手観音さまを刻み、お堂を建てられました。これが清水寺のはじまりです。

また、この木の上の方で二体の同じ観音さまを刻まれました。一体を京都の清水寺に、もう一体を佐賀県基山のふもとの小松観音に納められ、本尊としてまつられていると言われています。

その後、伝教大師の弟子の慈覚(じかく)大師という人が唐の国へ勉強に行く時、ある夜、観音さまの夢のお告げがありました。そのことを深く心にとどめて、やがて、日本に帰られた時、夢のお告げを実行するため、早速、清水山に登られました。

そして、お堂を立派に建て直されました。しかし、その後、度々の戦によってお堂は焼かれました。源氏と平氏が激しく戦った源平合戦の時は、平家に味方したということで、源氏方の大将、緒方三郎に焼かれたのです。
また、戦国時代には、佐賀の竜造寺隆信が、筑後地方に攻め込んできて焼きました。
近代になると、大正10年、ある人が放火して焼きました。

しかし、いずれの火災の時も、本尊の観音さまは焼けることがなかったと言われています。

千手観音

身体に千本のいつくしむ手と千のいつくしむ眼を持って、人々を助けるという観音さまのこと。

この像は中国から伝わったもので、初めのころは千本の手を持つ像が作られました。しかし、後には真ん中の2本を除いて、左右は20本ずつ合わせて40本の手を持つ像が作られるようになりました。

これは一本の手が25の世界の人々を救うという考えから生れたものです。40手×25で千になるところから千手観音と呼ばれるようになったのです。

それから後、42本の手を持つ観音像が作られるようになりました。清水の千手漢音像も42本の手を持つ観音さまと言われています。

岡茂政著『柳川史話』より。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。



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by kusennjyu | 2011-09-03 09:16 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
2011伝説 本郷の行基(ぎょうき)橋の話・千寿の楽しい歴史
伝説 本郷の行基(ぎょうき)橋の話

本郷を流れる沖の端川に架かる「行基橋」のお話です。

今から約千二百年~千三百年前のことです。ある日、ひとりの旅のお坊さんが、本郷の村へ立ち寄りました。お坊さんは、川のほとりに立って、村人たちが難儀しながら川を渡っている様子をじいっと見つめていました。そして

「さぞかし難儀なことよのう。橋があったらのう。」とつぶやきました。

その頃、川には橋がなく、村人たちは、着物をからげ、重い荷物を背負い、流れの速い川の瀬を確かめながら渡っていました。

お坊さんは、村人たちの難儀している姿を見かね、何とか橋が架けられないものかと考えました。

お坊さんは、この村に留まり、托鉢(たくはつ=お坊さんが修行のため、お経を唱えながら歩き、米や金銭の施しを受けて回ること)を続けながら
「この川に橋を架けて進ぜるほどに、力を貸してくださらんか。」と説いて回りました。

しかし、村人たちは、
「そんなことができるはずがない。このお坊さんは、気でも狂ったのか。」と言ってとりあいませんでした。

そのうちに、お坊さんのあまりの熱心さにうたれ、ひとりまたひとりと助力者が現れ、やがて、多くの人々が協力を申し出しました。

お坊さんの指図で、苦労を重ねながらもがんばり通し、見事に橋ができ上がりました。今までの難儀はなくなり、村人たちは、楽々と川を渡ることができるようになり、喜びと有難さで、お坊さんへの感謝の気持ちでいっぱいでした。お坊さんは、村人たちの喜びを後に、いずこかへと旅立っていきました。

それから何年か後、このお坊さんは、諸国行脚中(お坊さんが諸国をめぐり歩いて修業すること)のあの有名な行基菩薩(ぎょうきぼさつ)であることがわかりました。

村人たちは、その遺徳(後世にのこる人徳)をたたえ、この橋の名を「行基橋」と言うようになったということです。

そののち、村人たちは、橋のたもとに小さなお堂を建立し、高僧「行基菩薩」の遺徳を偲ぶと共に橋の安全を願ったということです。

※南筑明覧には「下妻郡本郷村の行基橋は、往古行基僧正諸国巡行の際、橋を渡せり。故に、後人呼びて、行基橋というなり。」とあります。

※お堂は橋拡張工事により、橋の北東に移転して立派になっています。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。




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by kusennjyu | 2011-08-29 08:16 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
2011伝説 きじ車の由来・千寿の楽しい歴史
伝説 きじ車の由来

その昔、最澄(伝教大師)が唐(中国)の遊学(よその土地で勉強すること)からの帰り道に、本吉山のふもとに立ち寄られました。

その時、山の中腹にひとすじの光明がさしているのをごらんになって、「これは不思議、ありがたい仏様のおしるしにちがいない。」と信じ、光を求め樹木や植物の生い茂る山中に足を踏み入れられました。

しかし、道とてない山の中、それに生い茂る樹木にさえぎられて、光の方向もわからず途方にくれてしまわれました。

するとその時、どこからともなく1羽の雉子(きじ)が大師の頭上に舞い降りてきて、大師を道案内しながら、光を放つところに導いていきました。

光明を発しているのは1本の合歓木(ねむのき)でした。この木こそ霊木(れいぼく)だと大師は悟り、この木の幹の根元で十一面四十手観音像を刻みあげ、清水寺に納められたのが観音様の由来とされています。

雉子は昔から瑞兆(ずいちょう=めでたい鳥)とされ、親子の愛情が深い鳥として慈しみ尊ばれてきました。

唐から連れてきた竹本翁助(ちくほん・おうすけ)という人に命じて、道案内の雉子の姿を作らせたのが、現在では、「きじ車」または「雉子馬」と呼ばれ親しまれている郷土玩具であると語り伝えられています。

昔は、木材を集め、木地(きじ=木材を用途に応じて切り分けたもの)にして糸車(ろくろ)を操り食器やその他の生活用具を作って、それで商売をした人を「木地師(きじあい)」と呼びました。

明治の初めまでは、山の8合目までの樹木の伐採は自由でしたので、木地師たちは、全国の山を尾根伝いに渡り歩き、木を求め仕事をしながら生活を営んでいました。

子供が生れても両親は、昼間は樹木の伐採、運搬の仕事、雨の日、夜仕事には糸車で食器などを作る忙しい毎日でした。

子供は1人で遊ぶしかなく、いつも寂しい思いをしていました。父親は子供をかわいそうに思い、何かなぐさめるものはないかと考えました。

そうして考えついたのが、運搬に使っているそりに似たキンマ(ウマともいう)と呼ぶ道具を作って子供に与えることでした。それを作って与えたところが、子供たちはあまりさびしい思いもせず、1人で遊ぶことができるようになりました。

両親は、夜のうちに作った食器や道具類を近くの市(いち=品物の交換や売買をする場所、近くでは三池や南関の町など)に並べて商いをしていました。

その道具類の中にこの雉子ウマを一緒に並べて見たところ、珍しいと言って買われ、だんだん数多く売れるようになりました。

木地師たちは気をよくして色を塗ったところが、いっそう評判がよくなり、たくさん売れるようになりました。

色は樹皮(じゅひ)や植物の茎(くき)、葉などをしぼり、赤・青・黄色を作って、思い思いの色を塗っていましたが、いつしかその土地の色づけを一定してきたと思われます。

また、子供が喜び、遊びやすいようにウマに2つあるいは4つの車が付けられ、俵を背中に乗せたものなどいろいろなウマに変わり、雉子馬がきじ車へと呼び名まで変わっていきました。

雉子は昔から幸先(さいさき)のよい鳥、親子仲のよい利口な鳥として大事にされていたので、木地=雉子と呼び名が同じところから、雉子馬、雉子車と呼ぶようになったと思われます。

木地師達のうちで北に向かった人々は「こけし」を作り、南に行った人達は「きじ車」を作りました。それらは、各地で今に伝わる代表的玩具として、土産品として人々に親しまれています。

雉子馬、雉子車は、主に九州各地に種々の形、色使いがあります。その中でも清水の本吉の雉子車は、昭和33年ベルギーのブリュッセルの万国博覧会で銅賞を獲得しました。その栄誉は郷土の誇りとして記憶しておきたいものです。

参考文献
「木地屋のふるさと」橘文策 著
「木地師の制度」杉本寿 著

「生きている民族探訪」 第一法規出版
「ろくろ」  橋本鉄男 著
「きじ馬聞書」 畑野栄三 著

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会出版より。

次回は九州各地のきじ車を紹介します。


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by kusennjyu | 2011-08-26 17:44 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
伝説  一番鶏の勝ち戦(神功皇后と田油津媛の戦い)
伝説  一番鶏の勝ち戦(神功皇后と田油津媛の戦い)

神功(じんぐう)皇后と土蜘蛛(つちくも)の戦場は、現在の草場・大塚・女山一帯ではないかと思われます。なぜかというと、現在の草場は「戦場(いくさば)」という伝えがあるからです。

この地方には、景行(けいこう)天皇の御代(みよ)の頃から、強い勢力を持った土蜘蛛という集団が住んでいました。彼らは、田油津媛に率いられて、この地方を制覇(せいは=他をおさえつけ、かしらとなること)して、勢いを誇っていました。

当時は、この土蜘蛛や葛築目(くずちめ)の豪族(ごうぞく)などが、独自の地方国家達成に向かって競いあい、はげしく争っていました。

このような時代の動きのなかで、大和朝廷軍は、地方の豪族をせ制圧(おさえて)して、全国制覇を達成しつつありました。

そういうときですから、神功皇后は、九州で一大勢力を誇っていた土蜘蛛を制圧するために、兵を率いて、現在の大和町鷹尾に上陸しました。

戦場に向かう途中、現在の藤尾で軍儀(戦いの方法を話し合うこと)を開きました。そこは。車坂または車塚と言われています。

いよいよ戦が始まりましたが、両軍とも互いに死力を尽くして、なかなか勝敗がつきません。陽(ひ)は西に沈みました。その時、田油津媛は皇后の陣に使いを送って「明朝一番鶏の鳴くまで一時休戦しよう。」と申し入れました。

皇后もこれを承諾(願いをききいれること)しました。ところが、田油津媛の軍は女山(ぞやま)に数メートルもある城壁を築いているのです。あと西南の隅を残すだけになっていました。

多くの人々を使って、高田町の飯江(はえ)から堅固な巨石を運ばせて、残りの城壁を作りあげようとしているところでした。

このことを知った神功皇后の軍は「今、何とかしなければ不利になる。」と急いで軍儀を開き方法を考えました。

その時、軍の参謀である武内宿禰(たけのうちのすくね)が、竹皮で作った二つの笠を両手で持ってたたき合わせ、鶏の羽ばたきに似せ、鶏の鳴き声を巧みに真似てみせました。

この方法を実行しますと羽音、鳴き声に付近一帯の鶏ははや夜が明けたかと鳴き合わせたので、工事途中の田油津媛軍は驚いてあわてふためき、防ぐかまえもそこそこになりました。

そこで、待っていましたとばかりに、皇后軍が一気に攻め入りましたので、土蜘蛛軍は敗走して田油津媛はとうとう戦死してしまいました。

田油津媛の兄の夏羽が、妹を援けようとかけつけた時は既に遅く、しかたなく引き返したということです。

この田油津媛の墓は蜘蛛塚ではないかと言われています。雨の日には塚から血がにじみ出たそうです。

また、ごんげん塚は皇后軍の兵士の墓ではないかと言われています。

田油津媛が率いる土蜘蛛を滅ぼした神功皇后は、再びこのようなことが起こらないようにと、諏訪(諏訪)宮を建立して、この地を鎮めました。この諏訪宮は後に移されても本吉に鎮座したということです。

(日本書記または伝説・伝承による)

葛築目~大和朝廷に従わなかったために、景行天皇軍に討たれた葛築目は権現塚に葬られたという説があります。

武内宿禰~相撲の元祖とも言われる大和時代の強力な武人。最初の大臣で、史上最長寿の人といわれています。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝承―瀬高町教育委員会より。


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今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
by kusennjyu | 2011-08-26 05:02 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
2011伝説  林操(みさお)の仇討(あだう)ち・千寿の楽しい歴史
伝説 林操(みさお)の仇討(あだう)ち

林操の仇討ちは、江戸時代の初め、慶長―元和年間(1596-1623年)の事件として語り伝えられています。

柳川・山門地方では、ただ1つの仇討ち物語ですから、明治時代以降、特に昭和時代中期から太平洋戦争当時は、婦人の鏡(模範)としてもてはやされました。

その頃、柳川藩の殿様の家来の娘に、林操(みさお)と言う美しくて気立てもやさしく、また、武家の娘として文武両道にすぐれた若い女性がいました。

まだ16歳になったばかりでしたが、父の同役の息子・京都(みやこ)幾之助(いくのすけ)との婚約も整って、結婚式を目前にひかえていました。

そんなとき、操に思いを寄せていた宮川(みやがわ)右内(うない)はそのことをうらみ、幾之助と京都三左衛門(さんざえもん)が、福島(今の八女市福島)に福島城建設の様子を見学に行ってのその帰りを船小屋近くの尾島(筑後市)の松原で待ち伏せして、幾之助父子を鉄砲でうち殺しました。そして、その罪をおそれ、その夜のうちに逃亡して行方不明になりました。

操は、将来、夫と誓った幾之助の無念をはらすため、柳川藩の役所に仇討ちを願い出ました。かたきの宮川は柳川藩一番の武芸者なので、両親からも、女の細腕では本望をとげ討ち果たすことは思いもよらないことだ、ただ幾之助父子の霊を弔(ともら)うことが大切だ、といさめられました。

それでもあきらめきれなかった操は、来(らい)・国光(くにみつ)の太刀1本を頼りに仇討ちの旅に出かけました。

両親にもいわずに家を出るとき、家の門のそばに、こっそりと柳の枝を逆さに地にさして・・・・

「私の念力が通じて見事仇討ちがとげられるならば、この枝はかならず生い茂って大木になり、もし不運にしてかたきに討ち果たされるようなことになれば、この枝枯れ果てても仕方ない。」

と観世音菩薩に祈願しました。

―このことが、後世、柳川市の柳町・柳小路の地名の由来になっているとのことです。-

操のかたきを求めての旅は、柳川を出発して久留米の高良山玉垂宮に参拝し、神のご加護(守り助けること)を祈念し、豊後(大分県)、豊前(福岡県)より本州・長門(山口県)、山陰道(島根県~鳥取県)を周り、但馬(兵庫県)、丹後・丹波(京都府)、大阪、越前・越後(北陸地方)、三河・尾張(東海地方)の諸国を遍歴しました。

最後に、四国に渡り、放浪10年、困苦(こんく)・欠乏(けつぼう)に負けず、阿波の国、徳島城(徳島県)近くの鹿野ケ原でかたきを討ち取り本望をとげ、急ぎ柳川に帰り着きましたが、仇討ちの許可を下さった藩主田中家は断絶していましたので報告もできませんでした。

両親には親不幸をわび、仇討ちについてのできごとを詳しく報告し、両親と共に婚約者幾之助の墓前にかたきの首を供えて供養しました。

その後、操は出家して尼僧になり、清水山のふもとに草庵を建立して、先祖や京都(みやこ)父子、ならびにかたきの宮川右内の供養のため、千体仏を自分できざんで弔いました。

83歳で生涯を終えたと伝えられています。千体仏堂は、今日も称名庵(しょうみょうあん)の名で残っています。

操は、先祖の墓所のある上庄西念寺に葬ることを遺言したと伝えられています。

「列女 林操」柳川市昭和堂書店刊」 浅川漏泉著による
(ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より)


称名庵はきじ車を売る店の上横の庵です。五百羅漢の下になります。



みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。

by kusennjyu | 2011-08-22 19:25 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
民話 なぜか祟った黒木の殿(とん)さん・千寿の楽しい歴史
民話 なぜか祟った黒木の殿(とん)さん

430年ほど前の戦国時代の頃のお話です。

ある年の霜月(今の11月)、暖かい日が続いていましたが、そんなある日、急に雲行きが悪くなり、珍しく雷が鳴り響き、一晩中大雨になりました。

雨があがった翌朝、瀬高の庄の大竹を流れる川はにごり、水かさがましていました。大竹の1人の村人が川を見てみますと、なんと、鎧(よろい)を着けた死体が浮いているではありませんか。

「さあ、大変だ!」と村長(むらおさ)に知らせ、村人を呼び集めて相談の末、4人がかりで死体を引き上げました。死体には頭がありませんでした。たぶん、敵が功名(てがら)にしるしに持っていったのでしょう。

二尊寺の和尚さんに死体を見てもらったところ、鎧が立派だから、きっと身分の高い武将にちがいないということでした。和尚さんの読経のあと、村人の作った棺(ひつぎ・死体をおさめる箱)にねんごろにおさめ、寺領(寺の土地)にひとまず埋葬することにしました。幸いなことに戒名を刻んでいないお坊さんの卵等(らんとう・卵形の墓石)がありましたのでそれを墓石としました。

それにしても、近ごろ大竹川の上流で戦があって、死人が出たとは誰も知りませんでした。

翌日、村人によって、前々日の夜中に、大塚付近でちょっとした戦(いくさ)があったらしく、頭のない鎧を着た死体が2つ、雨にぬれて転がっていたという話が伝わってきました。

大竹の2つの死体と大竹の寺領に埋葬した死体は、主従(主人と家来)ではないかということになりました。

また、別の村人は、肥前(今の佐賀県)の竜造寺隆信の軍勢が、瀬高の庄に攻め入ってきたので、瀬高城の城代(城主に代わって城を預かる人)は、矢部川沿いに八女の黒木城へ助けを求めに行かれたらしいという話を聞いてきました。

大竹に葬(ほうむ)った鎧武者は、瀬高城からの知らせに、瀬高城を救おうと、僅かな家来と共に馬を飛ばしてきた黒木城15代城主、黒木鑑隆(あきたか)であることが後でわかりました。

黒木の殿さん(鑑隆)の墓は、年が経つとともに竹やぶになってしまいました。

ある年、村人の1人が、壁かき竹にと墓の竹を切っていたところ、まむしにかまれ命を落としてしまいました。

また、ある村人は、何気なく墓地に入ったところ、急に寒気(さむけ)がして高熱にうなされるということがあり、誰いうとなく黒木の殿さんの祟(たた)りだということになりました。

そんなことがあって以来、村人は黒木の殿さんの祟りを恐れ、毎年お祭りをするようになりました。

墓の横の供養の墓碑は、黒木鑑隆が戦死してから170年後、子孫の黒木睦実(むつざね)の時、建立されたようです。

施主は賀右衛門(がうえもん)とありますが、賀右衛門は、鑑隆と共に討ち死にしたゆかりの者ではなかろうかと思われます。

黒木の殿さんの墓は、明治になって、柳川、南関道路の用地にかかり、仕方なく二尊寺の門前に卵塔と供養の墓碑が移されました。

昭和12年、黒木の殿さんの子孫によって卵塔に家型の石の覆いが作られました。

大竹の「黒木の殿さんまつり」は、現在も続けられています。

 ふるさとの昔ばなし「瀬高の民話と伝説」-瀬高町教育委員会発行より。
by kusennjyu | 2011-07-21 16:55 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る