千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:楠田川( 2 )
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2010楠田川2(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史
楠田川2
 
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地蔵堂と横の楠田川。この上楠田には数ケ所に地蔵堂が建てられています。

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坂口酒造
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左(北側)と右(南側)。

創業 明治11年 昭和60年ごろに廃業。     会社組織  昭和26年1月。  
原料米  昭和30年代から熊本県の菊池米・鹿本米等を使用している。
工程  仕込みは12月中旬から始め、2月中旬に甑倒し(こしきたおし)を行なう。3月下旬に製成、4月上旬に火入れを済ませる。早仕込み分は2,3月には市販される。
商標 「富士の夢」 先代の富士の霊夢により命名されたという。   (高田町誌より)

ニコニコのり株式会社  楠田川の横から入る(JR鹿児島本線の東側)。 会社名をクリックすると会社案内が出ます。

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左(正面西側)と右(北側)


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左(北側入口からの桜並木)と会社正面入口南側の藤棚)。
会社内は広々としており清清しい感じがします。


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ニコニコのり株式会社北門から西側を見る。
左(JR鹿児島本線のガード下に道路と楠田川がある。)と右(大雨が降るとすぐ洪水になり通行不能になり回転灯が備えられて注意を促しています。特に小学生の通学路になり危険な場所です。)


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左(国道208号線に架かる楠田川橋の楠田川の上流を見る。)と右(楠田川の下流を見る。)
楠田川は2・3年前に河川拡張工事を行ない、それに伴って、国道の楠田川橋も新しく架けられた。

渡瀬祇園祭  見て下さい。

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左(楠田川橋の南側にあった料亭 堺屋・現在は料亭はやめている。)と右(料亭 堺屋の西側にあった「二川村役場跡」と石柱。)

楠田川の西側を通る両脇に2つの施設はありましたが、この道路が三池街道です。

a0137997_1516499.jpg濃施三軒家の道標
有形民俗文化財 
 
所在  高田町濃施字三軒家

楠田川に沿う三軒家集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所です。
柳川橋の袂に追分道標が建っている。
「やなかわ道」、「せたか道」の印刻字が残っている。
詳しくは 濃施三軒家の道標  リンクして下さい。


地図の 江浦(宇佐)八幡神社 粥占い リンクして見て下さい。
以下は鶴記一郎文書より。
3・平野部
楠田川が山地を抜けた地点は濃施(ノセ)、渡瀬で、この地帯は遠く律令時代から開けていたところでしょう。そこから数100m西行すれば新開地名の近世開拓集落となります。
北新開集落の宝満神社の案内板には大要、次の文言がありました。
「開の地は旧柳川藩時代に有明海を干拓したものである。鎮守であるこの神社に藩の能(喜多流)を奉納して豊饒を祝った。寛政17年(1640)この神社が創建された。」と。
新開能 見て楽しんで下さい。

この新開の開拓は、田中吉政が17世紀の初頭、有明沿岸に大規模な堤防を修築した後から本格的に始められたのですが、中世からも次第に開拓はされつつあったものとみています。

宝満神社の西方の集落が弾正屋敷(ダンジョウヤシキ)です。高田町の平野地帯における集落には開、潟などの開拓的地名が多い中で弾正屋敷とその北に連なる集落名の安笛(アブエ)は異色といえます。弾正は弾城だったという人もありました。いずれにしても、この集落には中世の小豪族が居を定めた館があったらしく、今でも集落の周囲は堀が廻してあります。集落の中心は現在、浦問いう姓の民家がありその付近が豪族の住居跡と推定されます。私は11月初旬にここを訪れましたが、浦家の北側は玉葱の苗圃になっていました。その苗圃に続いた屋敷森には小堂の天神さまがありその側の自然石が弾正さんの御神体だということでした。

環濠屋敷跡(史跡)  南新開、北新開地区。 現在も濠が多い集落です。

ところで、この集落名の弾正とは往昔の地方官の役職名か、あるいは豪族の姓か名をとったものと思っています。この集落には、禁戸、門の内、城内などの小字名があって館のあったことの証となっています。この集落の中心生業は水田ですが、玉葱は特産で20数戸の農家が殆んど栽培をしています。稲作の後に盛んに苗を移植している風景が見られました。

この集落の北側が安笛。渡瀬の中心街から有明炭礦に向かって、この町には勿体ないような新装の巨大な道が弾正屋敷と安笛を隔てています。安笛の地名ですが、何かロマンチックな感じを受けます。この村に笛の達人がいて、その妙なる調べが夜毎、村人の円かな夢を誘ったのではないかと想像してみました。それで、笛との関係地名ではないかと村人に聞きますが分かりません。しばらく村を徘徊して笛との因縁を探しましたが無駄でした。

弾正屋敷のある人は安笛の元の地名は「阿部江」だったと説明しました。そうすると、アブは堤防、アヘは低湿地のことです。したがって堤防や湿地のアブ、アベに当初は阿部江の字を当てていたのが何時からか、安笛に改名されたものと判断しました。

安笛集落の北に楠田川を境として境目(サケメ)の集落があります。ここは旧新開村と旧江浦村との境界地点。安笛の西方300m程で田中吉政が築造した堤防(本土居)に達します。本土居には北から潟(ガタ)、四十丁、五十丁、竜宮島の集落があります。これらの集落西方一帯の黒崎開、永治開は楠田組の大庄屋樺島斗一が主任となって干拓したので一名を斗一開とも呼びます。

永治開の中に御手作(オテサク)という集落があります。ここは立花藩の直営による水田があったことで記名されたものです。この直営田の由来はこうです。干拓地ができて、農民に耕作させたが干天には水が不足し、梅雨時は湛水して処置なし、税金は取り立てられるということで終に返上したということです。

藩営になると、飯江川と矢部川の水を高田井堰から強引に水を引くことになりました。そして高田井堰の樋門の開閉権は藩に移りました。その結果、井堰上流の集落は度々洪水に見舞われたということです。平時は上流の水を取るが、洪水時は受け付けないという理不尽の政治がまかり通ったのも藩政だったからです。

4・三池干拓
三池干拓にふれる前に三池の地名由来を述べます。
旧柳川藩誌に
「景行天皇18年筑紫の国御木に至り、高田の行官に居す。時に僵れたる木あり。長さ九七丈百僚某木を踏んで往来す。一老夫、天皇の問に答えて曰く、此木歴木(クヌギ)なり。・・・天皇曰く、是樹は神木なり。故に御木(ミキ)と呼ぶべしと。是三池郡の起りなり。」とあります。

当時、当地方は湿地が多かったので、樹木を並べて道としたことが想像されますが、地名由来は付会説のようです。また旧柳川藩誌に「嵯峨天皇弘仁11(820)年、藤原朝臣師親に三毛郡を賜う。」とあります。このことは史実らしいからその頃概に三毛(ミケ)の地名があったことになります。

このミケは屯倉(ミヤケ)の変化したのではないかと思います。屯倉は三宅、三家などの字も当てられて、この場合の三は敬語、ケは収穫物の意だそうです。この地に屯倉があった確証はなさそうですが、肥後に存在していましたから、それとの関係の土地があったものと推定されます。そのミヤケのヤが欠落してミケとなりその音に三毛を当てたのでしょう。ところが、「建久3(1192)年、今出城に一夜に池三つが出来た。三池師貞は頼朝に乞いて『三毛』を『三池』に改む。」ということで、それから今日まで三池の地名が続いているものとみています。

ところでその三池郡は大部分が大牟田市に編入され、残るは高田町だけです。一郡一町というのも希少価値がありそうです。三池の地名がこれからも消えないために高田町が他の市町村と合併されないよう独立を全うして貰いたいものです。(現在は瀬高町・山川町・高田町が平成19年1月28日に合併して「みやま市」となる。)

ところで三池干拓は昭和26年着工、昭和43年30戸が入植して出来た集落で、昭和開と命名されています。1戸平均4.3ヘクタ-ルの水田が配分されています。

      
by kusennjyu | 2010-04-18 16:57 | 楠田川 | Comments(0) |Topに戻る
楠田川1(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史
楠田川    4月18日  晴れ
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鶴記一郎文書より
1・概要
楠田川はもともと、矢部川の支流ではなく、独立して直接有明海に注いでいました。ところが黒崎開(1677年完成)、文久開(1863年完成)が矢部川本流に沿うて出現すると、それだけ矢部川の流路は延長され、楠田川は新しく一支流となり、矢部川水系の家族となったのです。

a0137997_14494396.jpg上楠田字大谷 大池溜池
この川は標高百メ-トル程の低山地大谷付近を原流とし、大字楠田の集落を潤します。この辺では3メ-トル程の巾で川というより溝にすぎません。渡瀬で唐川の支流を併せ山地を抜けて沖積地の平野を流れます。渡瀬の西方では急に川巾を30メ-トル程に拡げて堂々たる川らしくなります。これは水量が増えたのではなく、洪水調節のためです。三開水門で潅漑の使命を終え、その下流は海水の侵入する江湖となり、西流して本流に注ぎます。


新幹線トンネル入口  
左(西から撮る)  右(東から撮る)  上楠田から田尻へ北側トンネル入口の写真です。
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帝釈寺  上楠田字垣田
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帝釈寺の石塔婆(考古資料)
民話 帝釈寺の子授け地蔵さん

楠田川は全長6KMの短い流れですが、流域の山地は老年谷で山陵は角が取れ、案外広い谷底平野を形成しています。辺春、矢部、星野方面の深い谷とは異なっています。そのため水田が多く当然潅漑水が不足します。それで大きいのに上楠田の後山下溜池をはしめ七ケ所も溜池があるのも珍しいことです。山地の水田用の水さえ不足するのに、近世に至って沖積地は干拓されて水田がドンドン造成されて行きました。

その水の補足は隣の飯江川と瀬高町の余り水を利用することになりました。その水を調整するのが飯江川に設けられた高田井堰です。この井堰はもと田方井堰と呼ばれていたもので寛政4(1792)年に完成したものです。高田町の生命の水がこの井堰から引水されるので、町名は井堰と関係があるのでしょうか。

2・丘陵地帯
上楠田天満宮と大藤  上楠田
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上楠田天満宮の大藤  町指定 天然記念物  平成7年1月10日指定
上楠田天満宮の大藤は菅原道真を祀る天満宮の境内正面右側に「坂口酒造」の祈願成就に植えられたもので、東西約21.3m、南北約7.5mに達する藤棚です。

花は枝先から20cmから90cmの花房が垂れて咲くが、年によっては1mを越え、4月の終りから5月にかけて美しい淡紫色の小花が穂状に咲き壮観である。

樹齢は約300年と推定され、幹回り1.1mにもなる。
藤はマメ科のつる性の落葉樹で、山野に生え、他の木などに巻きついてのぼり、茎は右巻きである。

楠田川(クスダガワ)の川名楠田はこの辺の大字名でもあります。この地名は上楠田の地にある石神山で有名な天満宮の社名を探ることによって解明できそうです。この天満宮は当初栗栖田(クリスダ)神社と呼んで石神山に葬られた豪族を祀っていたものらしく、一族の氏神だったのです。

ところで、天満宮はこの辺一帯の産土神で規模の大きいものですが、この神社の権威を高めたのは、藩政時代に立花藩の大庄屋樺島家が付近に居を構え、面倒をみて来たからでしょう。樺島家は立花藩に忠節を致したことによって、庄屋の職は本郷の檀家とともに世襲という破格の待遇で明治初年まで続き、その後は大地主として当地一帯に君臨して来ました。

現在の樺島家の住居は天保15年の火災によって再築されたもので、当時としては豪壮なものだったのでしょう。現在では土蔵の大半は崩れ落ち、廃墟に帰しています。それでも山麓を利用した堅固な石垣による広い屋敷跡は小さな城の感があり、ありし日の栄光を偲ぶことができます。

大注連縄送り  上楠田天満宮(無形民俗文化財)  見て下さい。

石人山古墳と石棺  上楠田
a0137997_15585640.jpga0137997_1633810.jpg武装石人と石棺3基(参考資料)   
民話・石人山の温石
一般には石人といわれますが、土地の人は石神として畏敬して来ました。石神にふれると祟りがあると伝えられ、明治15年古墳から天満宮境内に移したところ、疫病が流行したので再び現位置に復したというのです。

この石神は高地の先端、標高70メ-トル、眺望絶佳の地、円墳と石棺とともに発見されました。石神像は凝灰岩に刻まれたり立体、武装したもので高さ1メ-トル余。
浜田博士は石神を次の様に説明しています。
「此等の甲ちゅうの具合は、埴輪土偶にも多少現れているが、此の石神程明瞭ではない。・・・・神功皇后、武内宿彌の如きは正にこの様な武者振で、韓国と戦争あらせられたであろう。」

この石神のある古墳は、三毛国の国造の墳墓といわれ、八女吉田、一条の石人と同時代のものと推測されるそうです。してみると、この石神は、大和朝廷を凌ぐ勢いを張っていた磐井王国と関連するものでしょうか。

石人山の東方に垣田(カキダ)、平原、陣内などの集落があります。垣田は谷戸、峡戸(カイト)と同類の谷間の小平地か、古刹帝釈寺の領地としての「垣田」の意でしょう。陣内はこの集落の北方に中世の山城があっことから集落名戸なり、城の前、馬場の上の地名も城との関係と思います。

垣田にある帝釈寺は、黄檗宗で弘仁2年(810)の創建で古い寺です。往古は七堂伽藍があり、規模の大きい建物があったそうです。

帝釈寺の東方山地に椎原の地名があり、そこの一角に姥ケ懐(ウバガフトコロ)という面白い地名があります。土地の人はバカツクラと呼んでおります。

ツクラとはふところの意で、ここは古い窯場があり、その窯場の空洞をツクラと呼んだのでしょう。バカとはハケすなわち崖のことです。また、ハカは墓で付近に古墳があったのではないかと考えられます。バカツクラ窯跡を探索に出かけましたが、発見できませんでした。楠田地方は古来から陶業が行われていたらしく、それは大陸との交易による文化の流入か、あるいは帰化人によって始まったという人もあります。

因に黒崎開が出現するまでは、石神山の西方2粁のところまでは海で帆前船が盛んに出入りしていました。その港のあったところは現在は市場(現大牟田市倉永・西鉄渡瀬駅の西側)という集落になっておりますから、古い時代は大陸と関係あったことが首肯できます。

楠田川の支流に唐川(カラコガワ)があり、その流域に唐川(カラコ)、唐川原(カラコバル)の集落があります。辞典によると「カラコ」とは大陸からの帰化人の入植地ということですから大陸関係の地名と考えられます。また、カラ、ガラなどは小石、砂利のことですから石ころの多い川原につけた地名ともいえます。唐川原集落には古墳が点在し、中には大きい石室のあるものがあって農家の納屋に使用されていました。
by kusennjyu | 2010-04-18 15:04 | 楠田川 | Comments(0) |Topに戻る