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カテゴリ:三池街道( 45 )
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2016三池街道せたか道(太神の神々)・千寿の楽しい歴史
三池街道せたか道(太神の神々)

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宇津良姫社(宇津良比女神) 宇津

景行天皇、筑紫国巡行の時黒崎より宇津に至る航路を守護した女酋長、よって浮島に墳墓を営んだ。飯江川、緑川の合流点、宇津海域を領有する大地主神の娘である。

塚の手前の石塔が宇津良姫塚、地蔵尊が父神、大地主神を祀る。飯江川の安手橋を南(高田)方向に渡ると左が天満神社があり右の奥20mにこんもり木が茂った場所で鉄板の架け板を渡る。

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天満神社  宇津 

飯江川の南岸側にある。学問の神様、菅原道真公を祀る。宇津部落の産土神である。

田中の神(物部の田中神)  長島東(字日出)

古代信仰のごとく、御神体は石を3つ並べてあるのみ、12月25日に長島東の田中昭宏家が祭典を行っているが、昔は北の端の鬼木組6,7軒の人が中心にある各宮に出向き祭事を続けたが民俗行事として興味ある伝承である。

祭祀方式は稲藁と青竹のみで神前の飾りし、御供飯はご飯5合を黒と朱色の盆にのせ梅の新枝を黒盆には垂直に朱の盆は水平にさして供える。お供え物として米、酒、野菜、果物をそえる。

古代稲作住民が天地自然の恵みを神に感謝の心を捧げる古来の祭りの形式である。ここを中心に西に野田天神(金錠の神)南に出店天神(大神社)東に日出天神(田中神)北に中小路天神(田中社)の天道さまが祀られている最も古い信仰形式である。

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御幟の杜(みはたのもり)(太神神) 長島東

この所は天智天皇、御幸の時に御幟を奉祀(し)した所である。現在も毎年例祭の時には釣殿宮の御幟を建て祭祀を行っている。

場所は長島東部落の飯江川の安手橋から瀬高方面に150mの東の道路沿いにある。釣殿宮はここから田んぼの先東100mに見える。
 
鉾楯の杜(ほこたてのもり)(ひろたけさん)(野神)

昔、高貴な方の行列には鉾と楯と旗を奉持してお供をした。その神鉾をご神体として祀った宮。戦国時代、島津の武士が持ち去った「金の鉾」があり宮元家の先祖、荘丹八段が奉納した記録がある。神紋は八弁の菊花紋。

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釣殿宮(長島国玉神)  長島東(字釣殿)

釣殿宮は昔には腹赤宮(はらあかみや)と呼ばれた。天智天皇(皇太子の時)が西国修業の折、筑後江の崎(大和江崎)より船で小佐島(長嶋)に着かれた時、里人が網を引き赤い腹の魚を食事に出し気に召され名を尋ねられたところ、にべ(鰚はらか)と答えた。天皇になられてから毎年、大宰府にこの魚を献上し、また祝いの魚とした。後年に天皇の行在所の地に釣殿を建立し、付近に旗を立てられた所を御幟(みはた)といい、鉾をたてられた所を鉾立の宮森(ひろたけさん)と称して今に残る。例祭には漁民の参拝者多く御神幟を神体として崇めた。社記には天皇の御親翰(ごしんがん)一軸を社殿に納めてあったが鹿児島の島津家の手にはいり家宝となったと記されている。また東方の古島には神籠水を安置された。
腹赤魚をめぐる古文献があるほど由緒深い土地柄で見逃せない。社には豊漁を祈願し、これを象徴したとみられる日月と釣針をえがき「次 宮元土佐守 文明十九年(1487)之八月吉日」と書かれている旗が伝えられている。

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釣殿宮内 西の宮(阿志賀野神) 長島東(字釣殿)

釣殿宮境内にあり、古文書(天慶神名帳)に残る山門二十六前の一つ「物部阿志野神」(大黒さん)と思われる。

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太神宮(だいじんぐう)(太神国玉神) 長島東(字宮ノ前)潟橋東50m道路北沿い)

天智天皇、小佐島(長嶋)に行幸の時、仮の御室(むろ)として神籬木(ひもろぎ)を建て毎朝東方の朝日を拝まれた地。三宅連得許(むらじ)が奉祀し、のち宮元長者が崇拝してきた。祭神は天照大神で、社紋は八つ日足(ひもろぎ)である。
場所は釣殿宮の脇の大根川を北に80mさかのぼり潟橋を東に渡り二軒先の北側にある。

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天満宮 古島

天満宮は長島古島地区の産土神である。以前は下小川のお宮の系統で、下小川祭礼の風流行列の座組に入ったと聞く。現在は12月10日に古島だけのお祭となっている。

若宮さん 古島

村の中心部の林に若宮神社の小堂がある。若宮さん、よどひめさん、カッパさんの三体を祀る。天満宮と一緒に祭礼を行っている。お祭りの日は昭和30年位までは、お座(宿)の当番の家で朝食の会食が行われ、天満宮の境内では鉦や太鼓をならし賑わっていた。

旧暦の5月が「水の神」を祀る月で、現在春の彼岸に古島地区では「河童まつり」300年以上続いている。わらで作った大たこ、大いか、盃、と、竹作りのひさご(徳利)、を笹竹に吊るして川岸から川上にたらすように供える。村人はお宮で彼岸ごもりをして河童まつりをする。秋彼岸を過ぎると河童は山に行って山童(やまわっぱ)となり、春になると川へ帰って来る河童さんから人々がひかれないように(水難よけ)との願いをこめ、酒肴をお供えしてお祭りをする。

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河童まつりの河岸の飾り

長島の周辺の民家では井戸神のことを水神様と呼ぶ。5月5日はその祭で、「河童さん祭り」と呼ぶ。川や各家の井戸、汲場に篠のついた竹を立てて、藁苞に塩・イリコ・米を包んで下げ、酒を竹筒に入れて祭るという。

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こうやの宮(磯上物部神社) 栗の内(鬼木)保育園そば

太神鬼木(おおがおにき)部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている小さな祠がある。中に五体の御神体が安置されていて異国風の服を着て「七支刀」を持った男神と鏡を持った女神、カッパ像などがある。

奈良県天理市で七支刀が発見される以前からこうやの宮に七支刀を持つ神像を祀っていたことからマスコミで話題となり見学人で賑わったこともある。町指定有形民族文化財に指定されている。

七支刀とは、現在奈良県天理市石上(いそのかみ)神社に国宝の鉄鉾で刀身の銘文から泰和4年(369)百済の太子貴須から倭軍派兵によって高句麗を討った御礼に倭国王旨に献上された刀である。

「日本書紀」に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮・百済(くだら)から献上されたとしるす「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられている。七支刀は、いったん邪馬台国の発祥の地として有力視されているみやま市太神の「こうやの宮」(磯上物部神社)に安置され、大和朝廷が安定後、物部一族により天理市の石上神社に奉納されたものと一部の郷土史愛好家の中で推定されている。


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終ります。有難うございました。





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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

女山史跡森林公園は史跡と紅葉の穴場。

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-10-03 08:45 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2016三池街道せたか道(三軒屋~下庄宿)・千寿の楽しい歴史
三池街道せたか道(三軒屋~下庄宿)

正保年間(1644~1647年)の三池往還

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筑後国の項目の正保国絵図の編集過程と交通路によれば

柳川城下から三池陣屋へのルートがもう一つ確認できた。柳河から矢部往還を使い瀬高町で南下してA海津、B田尻、C下楠田を通過し、橘で三池往還と合流して、三池陣屋に至るルートである。(梶原伸介文章より)

田尻から原への山の南側を通る道は、私が小学生の時、学校帰りに通学路から外れて通ったことがある道です。

三池街道せたか道

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始点(三池郡三軒屋の追分石)と終点(伊能忠敬測量基点の石柱)

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楠田川の左岸に建つ追分石の正面に「せたか道」、左横に「やなかわ道」と刻まれています。

柳川札の辻始点と山門郡下庄宿始点は、三池郡三軒屋で合流して三池陣屋まで行く三池街道です。

三池陣屋からの三池街道は、三軒屋で分かれ「せたか道」と「やなかわ道」となります。

当時は瀬高橋と柳川橋の2つの橋が楠田川に架かっていましたが、現在は追分石の横の柳川橋だけになっています。

古賀橋(飯江川に架かる橋でここまでが三池郡)

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山門郡長島(おさじま)村   

次回に神様の話として紹介します。

井手の上村(現在のJR鹿児島本線南瀬高駅西側)

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真木村(国道209号線すぐ東側のせたか道)

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下庄村枝なかだえ村(国道209号線を交差してすぐの所)

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二里石(柳川札の辻から二里)

a0137997_115750100.jpg平成4年5月建立

瀬高町教育委員会と瀬高郷土史部で建てる。


思案橋(八幡町の下庄宿に入る橋)

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明治初期の下庄地図

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「なかだえ」は「中田江」と図示している。

下庄八幡町の三池街道図示地図

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八幡町は大正年間まで「土居」「犬ごろ土居」と呼ばれていた。

当時の三池街道は田代から南に出ると、堤防(土居)が現在の八幡町、元酒屋の武宮さんの四ッ角に続いていて、両側は湿田や水路であったという。

大正7年から着工して出来上がったのが、栄町から八幡町までの談議所新道である。

明治40年代の地図

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この当時は田代町から直線の道路がないので、すぐ東側から南へ入る三池街道が始まります。


続きます。






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by kusennjyu | 2016-09-30 12:55 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2016三池街道せたか道(伊能忠敬地図)・千寿の楽しい歴史
三池街道せたか道(伊能忠敬地図)

平成28年9月27日(日)午後2時から講演

まいピア高田 3-1と3-2の教室

出席者  55名

私が講演会で説明した分を数回に分けてブログに紹介します。

伊能忠敬地図  上が北になります。


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江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745-1818)が作成した日本地図を原寸大で楽しめる「完全復元伊能図全国巡回フロア展」が平成23年10月21-23日、八女市馬場の市総合体育館で開かれる。その時に撮った写真です。

この地図の中に三池街道・薩摩街道・矢部往還(柳川瀬高道)・清水山へ参る道・福島道が描かれています。
江戸時代の村名が分かります。

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第八次伊能忠敬測量日記により、文化9(1812)年2月8日、三池街道山門郡瀬高町内下庄町村追分を高印(起点)として枝土井・枝一里木・真木村・井手ノ上村・長嶋村地先下小河村枝鬼木・長嶋本村・山門郡長嶋村・三池郡古賀村界まで測る。高印より一里〇三町五十七間。・・・・・・

三池郡古賀村から始め。宇津川幅十二間。枝下古賀・とある。


説明1  高印  山門郡下庄町村追分之地

説明2 枝1里木 柳川札の辻から三池陣屋への三池街道の里程は石造である。ここは下庄宿から三池陣屋へ行く脇道で里程は木で造られていたのだろうか。

説明3 枝土井・枝一里木・真木村・井手ノ上村・長嶋村地先下小河村枝鬼木・長嶋本村・山門郡長嶋村・三池郡古賀村を通り測量したことが記録されている。

説明4 高印より古賀村堺(飯江川に架かる橋)まで一里〇三町五十七間(約4430m)

説明5  宇津川幅十二間  現在の飯江川の当時の川幅は約21mであった。この川には渡し舟があった。


界川(本郷村) 川幅14間 現在の矢部川の当時の川幅は約25mであった。

瀬高川(上庄町村枝三軒屋) 川幅51間  現在の矢部川の当時の川幅は約92mであった。

江戸時代の矢部川は下から中島川。瀬高川・界川(これから上流は久留米藩領と柳川藩領の境を流れていたため)と呼ばれ、矢部川と統一したのは明治4年頃です。三潴県通達発令に記載されています。


続きます。






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by kusennjyu | 2016-09-29 16:59 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2015三池街道(三池町と三池新町)大牟田市・千寿の楽しい歴史
三池街道(三池町と三池新町) 大牟田市

三池町 旧柳川藩領

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地図の一番下付近が藩境です。標識の南側に東西に道路があり水路が畉田されていますが、この水利で藩境になっちました。

弥剣(やつるぎ)神社

弥剣神社鳥居と宮地嶽神社鳥居が並んで建つ。 弥剣神社右側の倉庫に大蛇山山車が収納されている。
三池の弥剣神社(祇園さん)の祭りは、例年1月15日に行なわれます。

臼かぶり行事は明治元(1868)年、三池の上町、寺町(明正寺付近)に80戸が焼失する大火があり、火災よけ行事として始まった民間行事です。
青壮年の臼かぶりは、70Kgもある大臼に挑戦。ほら貝を合図に臼を持ち上げて水を頭からかぶり、空になった臼を後方に放り投げます。

明正寺(みょうしょうじ)

この寺の境内に、昭和42年、市の文化財に指定された「明正寺六地蔵幢」があります。
いつ頃のものか「仏師周養」の作者銘からみてもだれの作かよくわかりません。

願敬寺(がんきょうじ)

この寺は万治3(1660)年、吉弘宗念(よしひろ・そうねん)が建てました。
宗念は豊前の武士で、立花家の紋を許されていました。

安照寺(あんしょうじ)

三池藩主(種周)が文化3(1806)年、奥州下手渡(しもてど)へ国替えになり、再び三池新町に帰って来たのは嘉永4(1851)年の正月で、その時この安照寺が宿泊所となり、陣屋復興の総本部でした。山門は石炭長者・藤本伝吾邸の門です。

藩境付近

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三池陣屋跡  旧藩主住居の玄関遺構(東向き)のみが現存する。

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今の三池小学校運動場の西端に、石段だけが残っています。そこが三池陣屋の大手門跡です。
嘉永4(1851)年、下手渡の一万石のうち三〇七八石を返上し、代わりに三池郡五カ村(新町・今山・稲荷・下里・一部)五〇七一石を再び領することになりました。

三池新町(現在の大字新町)~陣屋の西側一帯。
三池本町(現在の大字三池)~昔からの宿場町。

明治22年以前の三池郡内は、三町(新町・三池町・江の浦町)五十一箇村です。

立花兄弟生家跡

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三池藩主最後の家老、立花碩(藩主の分家)は7人の子福者であり、長男小一郎、三男銑三郎は特に秀でていた。

兄は藩校修道館、弟は御木小学に学び、長じて小一郎は陸軍大将のち貴族院(現参議院)議員となり、銑三郎は学習院教授に就任したが、欧州留学の帰途、船上で亡くなった。チャールズ・ダークウィン著「種の起源」の我が国最初の訳出者でもある。
                   
昔の水路遺構とめがね橋

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三池陣屋跡(現三池小学校運動場)より南へ100mほど行ったところを流れている堂面川に架かかっている橋を「陣屋めがね橋」といいます。

三池藩で「早鐘めがね橋が架けられたのが、延宝2(1674)年です。
元和7(1621)年説には少し無理がありますが、木造の橋だったらうなずけます。
立花種周(たねちか)が、三池郡五カ村を再び領するようになった頃の嘉永5(1852)年とも云われています。

この橋の石材、石工はすべて檪野(いちの)です。

新町 旧三池藩領

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新町は文禄4(1595)年、高橋直次(初代三池藩主)に与えた領地の朱印状の村名には、町、大間、ひらの、高泉、今山とあります。
元和7(1622)年、二代藩主種次が、常陸国柿岡(現茨城県八郷町)から一万石で三池十七カ村に復帰した時には「新町」はあります。
そして「新町に陣屋をつくる」とありますので、三池町より分かれて、陣屋一帯を新町と呼ぶようになったと思います。

寿光寺(じゅこうじ)

ここは大字歴木(くぬぎ)東内畑で、この寺の山門は、もとの陣屋の正門で、明治9年にここへ移しました。
この寺は河内国(現大阪府)の高木九郎という人が僧となって建立したということです。

三池新町弥剣神社

旧三池藩に属し、田町の祇園さんとして親しまれている。
当社の大蛇山を飾る山車(御前山)の龍の彫刻は特に有名。
延宝年間、早鐘眼鏡橋の完成に伴い住民の協力に対し藩主立花種恭公が下賜されたものである。
毎年7月第4土・日には大牟田夏まつりが盛大に催され当社の大蛇も街を練り歩く。

古地図の新町と三池町

発生と藩領のことなる新町と三池町

三池の町は、大きく新町と三池町に分かれています。江戸時代には新町が三池藩領で、三池町は柳川藩領でした。

三池の真ん中で藩がことなり、違う殿様が支配していたのです。また、新町は元和7(1621)年に三池立花藩成立の時に陣屋とともに町立ちされたもので、三池町はすでにそれ以前の中世に成立していました。

新町は、標高18mほどの地点に直線的な道に直角に家並みが整然と並ぶのに対して、三池町は標高16から18mの起伏があり、曲線を描く道に町並が雑然と並んでいます。また、三池町の東西には堀がめぐらされ防ぎょが施されている点も興味深い点です。

江戸時代に作られた新町が計画的であるのに対して、中世の三池町はあまり計画性がありません。

三池の町は、発生の時代と藩領のことなる新町と三池町の二つからなり、そしてそれぞれにユニークな町並が作られているのです。

三池の町を古地図でさるくばい。

それでは北から南へさるくばい。古地図の番号と説明は同じです。

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⑪三池の町の北の出入口です。柳川藩の高札場があり、土塁がありました。

⑩三池町の祇園神社です。三池の町に大蛇山が二つあるのは、三池藩であった新町と柳川藩の三池町があり、それぞれに祇園神社があったからです。

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⑨三池初市の発祥と考えられる妙見宮です。

➇大間城に行く道です。この付近が、三池新町ができる前までの三池の中心であったと考えられる。

⑦柳川藩の本陣です。江戸時代の末期に日本地図を作った伊能忠敬は、この柳川藩の本陣に泊まりました。

⑥ここの小さな川が三池藩と柳川藩の境界でした。町の真ん中に藩境があるといい全国的に見ても特異な町です。この付近には、古い商家の家並みが続いています。

⑤三池藩の本陣跡です。本陣は、江戸時代に幕府の役人や大名が泊まる施設でした。この周りには、馬や荷物を管理する施設もあったと考えられます。

④大牟田へと向う交差点です。三池小学校へ行く道は、なかったことが分かります。ここには、三池藩の高札場がりました。高札場とは、町の規則や犯罪者の似顔絵などを貼り出した現在の掲示板です。

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③堂面川に架かる田町橋の前で、もう一度曲がっています。ここも兵隊が隠れる場所でした。また、戦いの時には堂面川の田町橋を壊して渡ることが出来ないようにしました。陣屋町には、このような防御を考えた町作りが見られました。田町橋の南づめの東側の家には、壁の漆喰に「砥石屋」の名前を見ることができます。

➁今は、熊本県荒尾市へと抜ける道路は、真っすぐに進んでいますが、昔は大きく曲がっていました。いざ戦いが起こった時に、町の中の様子が分からないように、わざと道を曲げていたのです。道が曲がったところに兵隊が隠れ、敵を攻撃しました。

①三池新町の祇園さんの付近です。三池の夏まつりの大蛇山をまつる神社です。江戸時代には、この前の道が筑後国と肥後国を結ぶ「三池往還」でした。また、明治になってからは「三池街道」とも呼ぶようになりました。

                            
ありがとうございました。






みやまいいまち会  クリックして見て下さい。

 「10月定例学習(出前講座 高田拠点地区活性化計画)について」

「みやまの直近ニュースと出来事(H27年10月上旬)」 「みやまいいまち会 10月の活動計画について」 

みやま市観光協会公式WEB

梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2015-10-25 06:17 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2015三池街道(渡瀬町)・みやま市高田町・千寿の楽しい歴史
三池街道の渡瀬町  みゃま市高田町下楠田

旧柳川藩時代の「在町」13の中の一つです。三池街道の中では、中島町(柳川市大和町)・江浦町と渡瀬町(みやま市高田町)・三池町(大牟田市)の4つがあります。

「在町」は柳川城下を出れば田舎ですが、在町は沢山の商店があり宿屋・風呂屋・製造業者がいて、街だけで生活が出来る組織体となっています。

渡瀬町家並み図・渡瀬の町は『宿場町』  

明治40年頃の渡瀬町

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明治時代の家並み図が上のものです。

商人宿、旅籠屋、木賃宿が7軒。車力屋、馬車屋、車屋が10軒。桶屋、米屋、菓子屋、呉服屋、味噌醤油屋、鍋屋、床屋等々が軒を並べて、大変な賑わいぶりが分かります。

宝塔を過ぎて渡瀬北町に入った所に二川村役場跡』 の刻字の門柱がある。
二川村役場跡と料亭 堺屋が向かい合って建っていた。

明治22年4月、上楠田村、下楠田村、濃施村を合併して二川村となった。区域内に楠田川と唐川(からこ)の二川貫流していることから二川村と命名されたそうである。

明治22年の人口と戸数と平成元年(100年後)の比較

上楠田  752人・136戸  769人・193戸     
下楠田 1217人・230戸 1734人・490戸
濃 施  475人・ 84戸 1745人・477戸
合 計 2444人・450戸 4248人・160戸

昭和6年10月に岩田、二川、江浦の三ケ村が合併して高田村が誕生するまでの40年間を、この門柱の奥の建物で行政がなされたのである。

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堺屋前の三池街道と産業道路記念碑(八剣神社境内) 昭和9年に開通する。
三池街道は堺屋前を通り過ぎると国道208号に出て三池街道と市堺まで同じである。

商人宿 松尾屋  現在は『止宿人名簿』の1冊だけが残っている。

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八剣(やつるぎ)神社 

渡瀬祇園大蛇山(北町の囃子組)  昭和40年代

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渡瀬祇園での大名行列  大正時代か昭和初期

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産業道路記念碑  八剣神社境内にあり、昭和9年に開通する。

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三里石   「三里 江浦町通」と刻まれている。

渡瀬南町福正寺参道入口(国道横)

渡瀬南町福正寺の参道入口に、石の標柱がある。これが藩政時代の三池街道筋に建てられた道標である。
地上高さ140cm、巾30cm角の砂岩石柱で、正面上部に『三里』と刻まれ、下部にやや小さく『江浦通』と刻まれている。
この石は地上80cm余りの個所で折れているものの、復修されて原形を留めているのは何よりの幸である。

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福正寺

福正寺は寺小屋を開かれていたし、すぐ前の家は、二川小学校が開設された所である。

倉永へ行くには、干潮時を利用して隈川の浅瀬を渡ったので、後にこの辺りを『渡瀬』と呼ぶようになったと言われている。今日でも、倉永と渡瀬を結ぶ橋名は『干渡橋』と名付けられている。

隈川の干渡橋と横の水門

この付近一帯は海辺の一帯でした。昔、干渡橋がなかった頃は、潮が引いた時に、裸足で渡ったことから干渡の地名が付きました。みやま市が渡瀬で瀬を渡った所です。隈川の干渡橋と横の水門の間を渡っていた。

次は三池町を紹介します。







みやまいいまち会  クリックして見て下さい。

 「10月定例学習(出前講座 高田拠点地区活性化計画)について」

「みやまの直近ニュースと出来事(H27年10月上旬)」 「みやまいいまち会 10月の活動計画について」 

みやま市観光協会公式WEB

梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。


梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2015-10-24 09:19 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史
三池街道(高田町渡瀬南町)

三里石   渡瀬南町福正寺参道入口(国道横)

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渡瀬南町福正寺の参道入口に、石の標柱がある。これが藩政時代の三池街道筋に建てられた道標である。

地上高さ140cm、巾30cm角の砂岩石柱で、正面上部に『三里』と刻まれ、下部にやや小さく『江浦通』と刻まれている。

この石は地上80cm余りの個所で折れているものの、復修されて原形を留めているのは何よりの幸である。

福正寺

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a0137997_4125862.jpg渡瀬町家並み図・渡瀬の町は『宿場町』

鎌倉、室町時代までは、隈川、楠田川の河口であり、倉永の山下市場では、当時、島原、天草方面から産物を満載した舟が、隈川を上って運んで来て市場が開かれていた。

西鉄渡瀬駅の南西部の麓の集落に市場という地名が残っている。
渡瀬は後ろに小高い山があり、有明海を隔てて多良岳が眺められ、満潮はすぐ足元までよせていた。山の根にへばりつくようにして人家が点々と並んでいた。

倉永へ行くには、干潮時を利用して隈川の浅瀬を渡ったので、後にこの辺りを『渡瀬』と呼ぶようになったと言われている。
今日でも、倉永と渡瀬を結ぶ橋名は『干渡橋』と名付けられている。

陸地化していまい、3・4百年前までは海であったとは想像もつかず、今では5km余り西へ行かないと海岸に出ない程に干拓が進んでいる。

藩政時代の町並みはどうであったろうか。明治時代の家並み図が左のものである。

商人宿、旅籠屋、木賃宿が7軒。車力屋、馬車屋、車屋が10軒。桶屋、米屋、菓子屋、呉服屋、味噌醤油屋、鍋屋、床屋等々が軒を並べて、大変な賑わいぶりである。

福正寺は寺小屋を開かれていたし、すぐ前の家は、二川小学校が開設された所である。

松尾呉服屋には、『止宿人名簿』が残されている。


渡瀬町の東の家並みに特に目を引くのは、白壁づくりの家や土蔵が永い年月の風雪に耐えて、ある家は蔦を絡ませ、ある家は壁土が落ちて、赤茶色の地肌や骨組みを無残にさらしながら、懸命に地上にとどまっている姿である。

明治の渡瀬町の様子から、遡(さかのぼ)って、藩政時代を想像すると

柳川と三池の街道筋に栄えた宿場町である。

日常生活に必要なものは何でも揃っている商業の町である。

水天宮のお祭の折には近郷近在から人が集まって『』が開かれ、三池初市と並んで農具、竹細工、日用品、菓子、飴などの出店が並び、大勢の人出で賑わった産業経済の中心町であった。
今日でも、5月5日の水天宮祭には、昔の名残をとどめる出店や人出で混雑している。

隈川の干渡橋と横の水門

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十年一昔の言葉のとおり、過ぎ去ったものは次第に人々の記憶から遠ざかり、風化していくのが世の習いである。

高田町にはまだまだ沢山の埋もれた文化遺産があり、その発掘、保存に町民こぞって努力すべきである。

郷土を大切に守り育ててきた先祖の偉大な遺産(文化財)を受け継ぐことは、ふるさとを愛し、ふるさとの良さを再発見し、『文化の薫り高い、心豊かな町づくり』 の創造の原動力となることを信じて疑わない。

『ふるさと学習1号 ぶらり歩いた三池街道』の編集者 西山吉之助氏や高田町郷土史部会員の皆様に感謝します。

私は今、高田町郷土史部の会員ですが、これからは先輩の沢山な資料を引き継いで、郷土史を次代に引き継ぐように努めていきますので、よろしくお願いします。





by kusennjyu | 2011-05-19 05:08 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
三池街道(高田町渡瀬北町)・千寿の楽しい歴史
三池街道(高田町渡瀬北町)

二川村役場跡と料亭 堺屋 向かい合って建っていた。

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渡瀬北町の二川村役場跡

宝塔を過ぎて渡瀬北町に入った所に『二川村役場跡』 の刻字の門柱がある。

明治22年4月、上楠田村、下楠田村、濃施村を合併して二川村となった。

区域内に楠田川と唐川(からこ)の二川貫流していることから二川村と命名されたそうである。

       明治22年の人口と戸数    平成元年(100年後)

上楠田   752人   136戸        769人    193戸     

下楠田  1217人    230戸      1734人    490戸

濃施     475人    84戸       1745人    477戸

合計    2444人   450戸       4248人   1160戸

昭和6年10月に岩田、二川、江浦の三ケ村が合併して高田村が誕生するまでの40年間を、この門柱の奥の建物で行政がなされたのである。

堺屋前の三池街道と産業道路記念碑(八剣神社境内)    昭和9年に開通する。

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三池街道は堺屋前を通り過ぎると国道208号に出て三池街道と市堺まで同じである。

八剣神社  渡瀬祇園で大蛇山がある。  

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平成22年渡瀬祇園へリンクします。

新興寺本堂と『一石一字塔』

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渡瀬中町にある新興寺は日蓮宗のお寺で、本尊は大曼荼羅である。

本寺院は嘉慶2(1387)年の創建で、元天台宗安穏寺と号して、山門郡大江村真木にあったが、寛文年間(1670年頃)、顕寿院日久領主の寄進を得て、日念は寺を現在地に移転して平等院新興寺と称した。

元禄15(1702)年、領主立花公の帰依深く、寺地9畝を寄進された。現在の境内地がそれである。

一石一字塔

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一代目  元禄15(1702)年   河童の神意を鎮め、亡者の霊を慰めるため。

二代目   嘉永7(1854)年

三代目   昭和40(1965)年   今までの祈願に交通安全を加える。

a0137997_9271243.jpg『一石一字塔』

山門左側にある宝塔は宗祖日蓮大士の六百年遠忌法恩供養のために、明治14(1881)年10月に境内に建立したものである。
  

石灯籠

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台座の側面に、北に妙見大菩薩、東に三十番神、南に清正神像(共に海の神様)の刻字が見える。

胴部の北側に『丸に桔梗』、南側に『七曜』の紋が刻してあり、東西方向だけを丸型にくり抜いてある。

この石灯籠が建立された江戸時代初期の頃は、新興寺のすぐ後ろは小高い丘があり、西は有明海を隔てて肥前の多良岳を眺め、潮はそばまで満ちて来て付近に人家はなく、暗夜の海を往く舟は灯籠の日を目標にして航行したとのことである。

次回は三池街道(高田町渡瀬南町)の三里石から紹介します。





by kusennjyu | 2011-05-18 08:52 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011三池街道(高田町三軒屋・向田)・千寿の楽しい歴史
三池街道(高田町三軒屋・向田)

濃施 三軒屋の柳川橋と南側袂の道標(道案内)

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溝尻茶屋で一休みして、地蔵堂に一礼したのち、川幅の街道を南に進み起路免喜(きろめき)を過ぎると、大きく曲った川岸に沿った街道に出る。

この楠田川に架かる橋が『柳川橋』である。橋の少し上にもう一つの橋を『瀬高橋』といって、三軒屋部落は交通の分岐する大切な場所であった。

現在、柳川橋の南側袂に石の道標があり、『左柳川』、『右瀬高』の刻字がある。

このあたりの川は河川改修工事で大きく様変わりして川巾も広くなり、柳川橋と瀬高橋が一緒になり、昔の土橋はコンクリート橋になったのが、写真の柳川橋です。

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三軒屋の『米ん神さん』 

楠田川の川岸に、米粒の形そっくりの岩石(高さ1m、幅50cm、厚み20cm)が立っていて、永い年月の間に石の重みと出手の流失などで、少しずつ川の方へ傾き始めていた。

この地方の人々はこの石を『土ん神さん』といい、『米ん神さん』とも呼んで三軒屋みんなで崇拝し、毎年新しい注連縄を奉納して祀っている。

現在は河川改修の折に三軒屋の北端(柳川橋の下流左岸)に移転して安置したが、元の場所はもう少し南に寄った川岸であった。


『土地神』(とちしん)

村落の土地や住民の平安や幸福を守る神。
もとは五穀豊穣をもたらす神であったが、後には、その地域の人々の幸福全般を守る神とされるようになった。

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三軒屋の『恵比寿さん』

七福神の一人で、大黒天とともに福徳の神様であり、商売の神様として今日でも12月の祭礼には、商店街では売り出しをして賑わっているが、三軒家でもその昔、いろいろな店があって商売繁盛を祈って祀ったのであろう。


三池街道と川に下りる階段

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今は立派な護岸工事がなされて昔の『くみず』の面影は残っていない。
毎朝の洗面も、野菜や米洗いも、すべてが汲水(くみず)であった。

食器洗いの時などメダカやハヤや小魚が集まってきて、ご飯粒を奪いあっていた。
夏には子供たちが素裸で水遊びをして歓声をあげて賑やかであった。

この辺の地下水は、昔は海底だったので、水質が極めて悪く、飲み水や炊事の水は遠く濃施行山下の八竜さんの湧き水を毎日汲みに行ったものである。

どの家の炊事場にも水瓶が置いてあり、毎日桶を天秤棒で前後に荷い桶の水が揺れないように水面に木片を浮かべて、八竜さんの水汲みに行くのが日課であった。

三軒家の飴形屋

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三池街道沿いの米屋(精米所)と地蔵さん

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南濃施橋付近の三池街道と楠田川

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向田の『屋須田さん』

安政年間(今から150年余り前)に、街道筋に並んだ向田集落に火事が発生しました。
折からの北風に煽られて火の勢いは瞬くうちに広がり、向田の大半は焼失してしまった。

里人は談合した結果、火伏せの神様を祀って家内安全を祈願することになった。

この社が『屋須田さん』あり祭神は『火之夜芸速男神』 で、向田橋から南へ20m余の道端にある。


向田の『宝塔さん』

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日土出樋管(南新開への水路)

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向田と渡瀬北町の境の街道筋に、家並みが途切れたあたり、楠田川の反対側に川幅が少し広くなった場所がある。その土手の上に大きな石造の塔がある。
これが一石一字塔で、近所の人は『宝塔さん』と呼んで崇拝しています。

毎年、春秋の彼岸には今日でも南新開の農家の人が集まって供養をされている。

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この場所は、楠田川の水を南新開地方の干拓水田の灌漑用水を確保するための取水口で、街道の下を横切って、厚い岩板を組み合わせた導水路が二つ大きく口を開けている。

現在は『日土出樋管』になり、道はアスファルトになり、厚い岩板と二つの大きな口は見当たらない。

立花藩主がm渡瀬の新興寺(日蓮宗)に命じて家内安全と水難防止のために祈願させたといわれている。

明治9年3月になって宝塔が建立されています。


次回は三池街道(渡瀬町)を紹介します。 ご期待下さい。

by kusennjyu | 2011-05-17 11:05 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011三池街道(高田町江浦町・溝尻)・千寿の楽しい歴史
三池街道(高田町江浦町・溝尻)

この三池街道には、柳川藩の十三の「在町」(農村に町立された集落)のうち、中島町・江浦町渡瀬町・三池町の四つが形成され、宿場町としてに在町は、渡瀬町と三池町でした。

     家数  在店 藩に納める運上銀 丁間(在町の長さ)

江浦町 102軒  9店  32貫600文  7町34間(約830m)

渡瀬町 120軒  9店  19貫600文  5町43間(約630m)

明治12年江浦町職業別調査

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昭和初期 江浦町店舗

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昭和初期職業別調

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昭和初期の三池街道の点景   「郷土江浦町」より。

渡里を出て四箇所を通り二里石を左に見て櫨と柳の往還を江浦町へ入る。

お宮の大榎の下まで来ると常夜燈の横の鍛冶屋からトンカントンカンと槌音が長閑に響いて来ます。

するともうすぐそこに赤い郵便箱の掛かった穀物と雑貨の老舗があります。いよいよこの所から店が続くのです。

隣は床屋、その隣はタバコの軒看板を下げた綿屋です。店と並んだ綿打直し工場では、凄い綿埃の中に目ばかり出した23人の女たちが忙しげに働いていました。

綿屋の向いは荒物と雑貨の店で、軒先には所狭しと旗竿と釣竿が立てかけてあり、その奥にダブス栓のついた酒の小売用の甕(かめ)が見え、山の様な商品の中でいつも元気な叔母さんの声がしています。

隣は蝋屋です。通りに沿う工場で夕方になるとスイッチを切った回転機のベルトが、あゝやれやれと言うように、グググーっと音を立てて停止します。と、表の通りはしーんと鎮まり返るのです。

向いは飴型屋、その隣は傘屋、その前は油屋です。
油の絞り船から湯気の立つ油粕を、裸の親父さんが一人で汗みどろになって掻出しています。

隣は屋台を仕事にしている家で、雨の日は土間に屋台が引き入れられています。

向いは海鼠(なまこ)壁のある呉服・反物の店で物腰の静かな刀自の店番で、隣は人力車、その向いは果物屋で西瓜や柿の頃は、店中てんてこ舞をします。
柿の渋抜きの時期は渋抜きの五衛門釜の藁蓋からぽーっと柔らかな湯気が表の通りへ流れてきます。

隣は間口のひろーい塩物屋で、その隣は左官屋です。
流行の改良くどや万年風呂を前の空地に干し並べてある日もあります。

空地の隣は元砂糖屋さん、その隣は染物屋さんで大きな藍甕(かめ)が十ほども並び、藍甕の縁(ふち)を歩いているのを見ると、いつ甕の中へ落ちるかと心配して覗いた時もあります。


隣は電球の取換えをしてくれた電業所で、仕立て屋、菓子屋と並び出張病院があり、駐在所と続き、分限者の多い吉原の中心になります。

弓の矢の様な鉄の柵の立つ銀行の跡があり、やがて潮湯があります。
この風呂は手拭いがすぐ茶褐色に変色するので、色の濃いほど潮湯の常連さんです。

こうして田中へ入ると、やっぱり少林寺までずーっと鰻屋、菓子屋、雑貨屋など店が連らなり、少林寺手前の自転車屋を右に折れる角が茶碗屋です。

向いは肉屋で、隣は精米所が2軒も並び、向いはお菓子屋で、隣は薬屋です。
薬を入れる抽き出しの多い大きな箪笥がすわっていました。

向いは酒の醸造店です。やがて二階建ての郵便局へ来ます。その向いは江浦村役場です。
代書人さんも、ちゃんと役場の隣に居ます。田中を過ぎると光萬寺です。

光萬寺の前まできますとマルエの醤(ひしを)の匂いと鰻の蒲焼の匂いがぷんぷん漂っています。

そんな町中に呉服屋、饅頭屋、鶏屋、塩物屋、それに昼も明々と電灯の灯っている提灯屋、砂糖屋、隣に酒屋、向いは造り酒屋、そこを左へ折れると小間物屋あり床屋、菓子屋と続きやがて店がつきれば溝尻です。

懐かしい風景ですね。

平成3年 江浦町店舗

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平成2年職業別調査

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左~三池街道横のマルエ醤油   右~三池街道(溝尻)

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伝承行事

祇園祭  大蛇山の動画へリンクします。

臼かぶり 臼かぶりの動画へリンクします。

三池街道の出店

柳川城下から三池御陣屋までの四里十二町八間に三ケ所の『出店』があった。

四十丁出店(大和町)・溝尻出店(高田町江浦)・倉永出店(大牟田市倉永)
 
この出店は街道筋の眺望の良い場所で、お茶屋、お菓子屋、宿場、日用品その他出店に行けば何でも用事が満たされた。

街道を通る人々は、出店の茶屋に休憩してお互いに四方の話をし合うのも又楽しみであった。
宿泊者は旅の苦労や用件を語り、途中の注意を教え合い、明日の無事を祈ったりして木賃宿の一夜は話しの中に更けていった。

「加護で行くのは家老さん、飛んで行くのは飛脚さん、越中富山、田代、高瀬の薬屋さん」という言葉が残っているが、街道を旅する人々の様子が創造される。

溝尻出店には永江家、益城家が居られて、長崎で蘭法医学を学び溝尻に開業された。
内科、外科、骨節科があって、入院患者が多くなり、遠方からの患者の宿屋もあった事である。

溝尻の北向き地蔵さん

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溝尻出店の東方の出外れに小川が流れていて、その橋の袂に北向き地蔵尊が祀ってある。もう一つは三界万霊と刻んである。
この地蔵尊は天保4(1833)年に建立されたものである。

民話 北向き地蔵さんへリンクします。

次回は三軒屋から紹介します。

by kusennjyu | 2011-05-15 17:34 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2011三池街道(高田町江浦町)・千寿の楽しい歴史
三池街道(高田町江浦町)

三池街道(二の丸)横の地蔵さんと淀姫神社の灯籠

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左は平成23年5月の写真で、右は平成5年5月に発行の「郷土江浦町」の表紙写真です。

しかし、同じ場所に右の写真は大榎がなくなっています。

お宮の大榎    「郷土江浦町」より抜粋。

江浦の土地が古いか榎が古いかと思われる淀姫神社の榎は樹齢どの位だろうか、根廻り8m以上、四方に拡がる。

昔ここが海であった時分は、船人たちが船を繋いだための、こぶこぶだとの言い伝えがある。

明治の末頃までは榎の下に一軒の腰掛け茶屋があり、三池街道を往来する商人や旅人が、この樹陰に腰掛けて、額の汗を拭きながら一服したであろうと想像される。

常夜燈  「郷土江浦町」より抜粋。

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西鉄電車線二の丸踏切の南5m位の所に、常夜燈が立っていたが、昭和12年電車線敷設により撤去され、淀姫宮参道内に移された。

昔この所が海であった時代に船の航行の目印に在ったものと言い伝えられている。

台場の南方と西方にかけて地面が1m位下った田圃になり遠く向野、前開の方へ広がっている。


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猿田彦大神

江浦町淀姫宮の大鳥居の前に、高さ2m以上の大石に『猿田彦大神』と刻した祭神が祀ってあり、台石に『古町』の文字が読みとれる。

中世期以降は、道祖神と結びつき、庚申(かのえさる)の日に祀られるようになった。

『道祖神』は、村境とか山の峠から異郷人と一緒に、禍や流行病が入って来ると考え、これを防ぐ関守りの役目をする神として祀られたと言われている。

江浦町の猿田彦大神の位置は、西は徳永村に隣接し、北は徳島村に通づる街道筋である。

当時この辺を江浦村古町と呼んでいたことから、住民の平穏無事を祈り、併せて旅人の安全無事を願って建立したのであろう。


淀姫神社を中心に柳川方面(左)と三池方面(右)の三池街道。

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曲り道の三池街道とその近くの幹の部分が曲った大樹

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田中の道標  現在は江浦小学校にある。

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三池街道の江浦町田中の三叉路(少林寺前)に30cm角の道標がある。

側面に『左原町』、『右渡瀬』の刻字がある。

この道標石はいつ、だれが、どうしてか不明であるが、地上部分がポッキリと折れてしまった。


左~原町方面の田中橋  右~渡瀬方面の恵比寿さん。

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光萬寺前(左~三池街道  右~地蔵さんと恵比寿さん)

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光萬寺の山門(左)と本殿(右)

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左~地蔵さん  右~恵比寿さん

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次回は昭和初期の江浦町店舗と溝尻までを紹介します。

by kusennjyu | 2011-05-14 23:00 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る