千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:矢部川( 14 )
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2011矢部川の菜の花と九州新幹線の筑後船小屋駅
矢部川の菜の花と九州新幹線の筑後船小屋駅   

 3月8日午後    天気  晴れ

矢部川の菜の花と九州新幹線の筑後船小屋駅を遠望する

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矢部川の菜の花と九州新幹線の鉄橋を遠望する

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手前の橋はJR鹿児島本線の矢部川に架かる橋です。

矢部川と菜の花

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矢部川と幸作橋

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幸作橋(こうさくばし)ですが、幸せになるように願って名付けられたものと私は思います。

3月12日には九州新幹線の全線開通ですが、私も待ち望んでいる者の1人です。

by kusennjyu | 2011-03-08 20:28 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部往還(山下宿)千寿の楽しい歴史
矢部往還(山下宿) 八女市立花町山下

平成22年10月9日   曇り

八女市のべんがら村(温泉)へたまねぎ苗を買いに行った帰りに、山下宿を通る。

瀬高町唐尾を過ぎ、白木川を渡り右側に右折します。(現在の矢部川堤防道路は直進します。)

曲ってすぐに山下宿に入ります。柳川藩の在町13の中の1つです。

家数 70戸 茶・紙・出店の5店(運上銀高は13の在町で最下位です。)

左~八剣神社 右~天満神社

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左~稲荷神社(矢部往還は北へ曲る) 右~山下宿の通り

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四里石(山下宿を過ぎてすぐに田んぼの中にある。)とその前の道
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里程表示石柱 立花(四里石) 町指定文化財(歴史資料)

関ヶ原の戦い(慶長5年、西暦1600年)の後、筑後の国を領有した田中吉政は領内かくちにの道路の整備や河川の改修、干拓事業を行い、領民のために尽くしました。

柳川城の辻の門(柳川市辻町)を基点として矢部川の南岸に沿って矢部村まで36町(約4km)を一里として、一里ごとに石柱を建てさせました。

この山下の四里石は柳川の辻の門から四里(約16km)を示すもので、この場所を矢部街道が通っていました。

橘町にはこの他に五里石が原島付近に、六里石が田形に建てられていたようですが、現存していません。

この四里石は当時の交通・通路の様子を知る上で貴重な資料です。

石の大きさは 高さ110cm、幅29cm、厚さ23cmです。

平成11年3月 立花町教育委員会

by kusennjyu | 2010-11-09 12:56 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川(瀬高町広瀬)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町広瀬)

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地図をクリックしますと拡大します。

広瀬の渡し
みやま市での矢部川の最上流部の位置にある広瀬の渡しです。
文禄4(1596)年、行脚僧の日源上人が溝口(筑後市)で和紙製造を始めて栄えましたが、和紙材料のコウゾウを対岸の溝口へ、また木蝋の原料の櫨の実を広瀬へ運搬するのにも重要な渡しでした。

元和6(1620)年、筑後藩主田中家が断絶し、久留米藩・柳川藩に分藩され、再び立花宗茂が柳川藩主になると、自分の藩領、山中・唐尾に和紙製造を移し90軒の家内工業を造り全国に名をはせ栄えた。

また広瀬堰から取り入れた用水は、瀬高町の北東隅から南西へ縦に貫く「広瀬水路」によって配分され瀬高町の水田に重要な役割をしています。

矢部川の治水事業(千間土居を築いた田尻惣馬)

1・柳河藩の生命線だった矢部川
矢部川は、八女郡の矢部村からみやま市高田町と柳川市大和町の境界に流れる河川で、福岡県内では、筑後川、遠賀川につぐ、第三の長流です。

江戸時代には、この矢部川が久留米藩と柳河藩の境界となっていました。そこでこのかわは「御境川」ともよばれました。当時は両藩の間でしばしば水争いがあり、交互に堰を造り、回水路を開削して、おのおの自藩領内に水を引いていました。とくに、柳河藩の場合は他に頼りとなる水源がありませんでしたので、矢部川の水利は何ごとにもまして重要なことでした。

柳河藩と矢部川との関係について、有名な伝承があります。
元和6(1620)年に立花宗茂が再び南筑後の大名に返り咲いたときに、石高の減少は覚悟の上で、三潴郡の水田地帯(関ケ原の戦い以前には、柳河藩に属していた地域)と、矢部川の最上流である矢部・黒木地方の山岳地帯や川の左岸の地域との交換を幕府に願いでて許され、矢部川全水域にわたる完全な水利権を確保した、というものです。

この伝承については、立花氏が関ケ原の戦い以前に支配している点や、この再封に際してもそのまま完全に認められるということを前提にしている点や、この再封に先立って、筑後一国を仮に支配していた幕府の上使衆が示した「上妻郡割り定の事」という指示の中で、川(矢部川)の中央を藩の境にすべきことをはっきり命じている点などから、内容的には充分な吟味を要するものですが、柳河藩にとって矢部川がいかに大事な川であったかはよくわかると思います。

このように、矢部川は柳河藩にとってまさに「聖なる川」であったわけですが、一方ではとても困ったこともありました。それは洪水です。藩は水資源を大事に活用していくとともに、しばしば洪水を起こすこの川と闘っていかなければなりませんでした。

2・千間土居の苛酷な大工事
昔の矢部川の堤防は、あまり高く築かれたものではなかったので、大雨が降るごとに川が氾濫をおこし、被害が出ました。

今の八女市に位置する北山地区もそのような地域の一つでした。北山の矢部川沿岸の北70町歩(約70ヘクタ-ル)は、大雨が降ると出水して、水の底になってしまうのです。

柳河藩は元禄8(1695)年、曲松(よごまつ)から山下(立花町)までの約千三百間(約2364メ-トル)の堤防を築き、川成の荒れ地を良田とする計画をたて、実行に移しました。この堤防のことを一般には「千間土居」とよんでいます。この千間土居の工事の責任者となったのは、当時、藩の普請役(普請奉行)であった田尻惣助惟貞という人で、この惣助の次男惣馬惟信がその助手を務めました。

藩が千間土居の工事を命じたのは子の惣馬の方であったという伝承も残っているようですが、田尻氏が藩に提出した系図などを見るかぎり、工事の総責任者は父親の惣助だったようです。惣馬が築堤を命ぜられたという誤解は、実際の工事で惣馬がめざましいかつやくを示したことや、あとで触れるように惣馬が藩内随一の水利土木の名人として有名な人物であったことなどによるものと考えられます。実際、この千間土居の工事について、現在まで伝えられる話は子の田尻惣馬の働きぶりに関するものばかりです。それらを紹介してみましょう。

惣馬は、まず川の流れを調べるため、大雨の降るたびに半切(タライのようなもの)に乗って渦巻く激流を下って、流勢を見きわめました。このほかにもいろいろな事前の調査を、綿密におこなったようです。実際の工事が始まると、これは昼も夜も続けられる突貫工事でした。これは最初にも述べたように、矢部川が柳河藩と久留米藩との「御境川」であり、利害関係のある久留米藩の側から抗議が出る以前に、すべての工事を終わられておく必要があったからです。実は惣馬は水勢の激しいところには、堤防にかくして「羽根」を造り、洪水に備えました。この羽根というものを造ることによって、堤防を完全にし、水の勢いを転じて、対岸の久留米藩領に向けることになります。このような工事が発覚すれば、久留米藩から工事中止の抗議がおこなわれることは明白です。そこで、惣馬はことさらに工事を急いだわけです。また、彼は数名の部下を久留米藩領内に潜入させて、警戒を怠らなかったといいます。

多くの農民たちが人夫として徴発されましたが、かれらの苦労は大変なものでした。惣馬は工事を急ぐため、かれらをこれ以上ないほど駆り立てました。人夫たちを食事と用便のほかは一切休ませませんでした。そこで人夫たちは疲れると、他人の大便の上にかがみこみ、用便中のふりをして休みをとるようなこともありました。しかし、しばらくして、農民たちのそうした抵抗がばれると、今度は便の新旧までも調べるというような厳しい態度で人夫たちの仕事ぶりを監督しています。すべてにこんなふうでしたので、惣馬は「鬼奉行」と農民や人夫たちから恐れられ「切るときは木六、竹八、葭九月、惣馬の首は今が切りどき」などと怒りをこめた唄までつくられる始末でした。しかし、惣馬には工事を敏速にそして完璧に終了させようという信念があったのです。

惣馬についての悪評は藩主立花鑑虎の耳にまで達しており、家老たちのなかにも、惣馬を工事から外すべきだという意見を述べるものもありましたが、結局、藩主鑑虎はそれらの意見を退け、最後まで馬に工事を担当させました。

間もなく堤防が完成すると、さらに楠などを植えました。その後は大雨が降って大水が出るようなことがあっても、「千間土居」は決して決壊せず、この地方の人々の生活を守りました。従来の荒れ地は良田と化していき、ここにおいて人々は、何ものにも妥協せず工事をやり遂げた叢馬の偉業をほめたたえるようになったのでした。

現在は、堤防には青々と茂った大木が高々と天に向かってそびえています。この壮観な景色を目の当たりにするとき、惣馬の不屈の精神と彼の下で働いた農民たちの必死の労苦を思わないわけにはいきません。

3・田尻惣馬の水利・土木工事
最後に、「千間土居」築堤の大工事をなし遂げたこの田尻惣馬という人について、述べてみましょう。
惣馬は柳河藩の普請方を勤めた田尻惣助惟貞の次男として、延宝6(1678)年に生まれました。

田尻氏は戦国時代の頃までは、田尻河内守鎮春という人の代に戸次(別記)道雪に召し出されました。道雪は大友氏の有力家臣の一人で、立花宗茂の義父(養父)にあたり、柳河藩の藩祖というべき人です。鎮春以後、田尻氏は立花氏のもとにあり、惣助惟貞は鎮春から数えて6代目にあたります。

惟貞が藩の普請方を勤めたことは述べましたが、彼の長男新右衛門惟定もやはり、普請役を命ぜられています。惣馬惟信は次男で惟定の弟です。この惣馬が次男であったのに別家をたてることを許されたのは、父の惣助が藩主鑑虎の命で彼の別邸(今の「御花」の前身)を建てたその功績によるといわれています。こうしたことからも父惣助自信がかなり優れた土木・建築家であったことがわかります。

惣馬は幼いころ、雨が降ると庭にでて、雨水を曲がりくねった川のように流し、小石を積んで土を塗り、木の葉を浮かべて、その流れかたを熱心に工夫したといい、この遊びを最も好んだともいいます。後年の彼の活躍ぶりをヒントにしての話でしょうが、惣馬の才能が天賦のもので、まさに天才的であったということを伝えるエビソ-ドといえるでしょう。これに、父である惟貞の指導を受け、藩政時代随一の水利・土木家となっていったものです。

彼の業績として現在も知られているのは「千間土居」の築堤ほか、正徳3年(1713)藩内各所が大潮によって被害を受けた際、黒崎開の普請方に任ぜられて、その復旧に努めたことです。また、蒲池山溜め池の構築も難工事でした。これは享保2年(1717)のことですが、池は東西260間(約512メ-トル)、南北100間、周囲900間にもおよぶ大きなものでした。とくに水田の感慨用として利用され、旱魃時にも水のかれることはありません。これらのほかにも、本郷権現(今の瀬高町)の羽根、磯鳥(今の三橋町)の井堰、浜武崩道(今の柳川市)の瓢箪開、唐尾(今の瀬高町)の井堰などの構築をおこなっており、さらに大根川の流水をよくしたり、回水路を新しく掘ったりしたのも惣馬の偉業とされています。

こうして、藩内のさまざまな水利土木工事を完成させて、郷土の発展に尽くした惣馬でしたが、宝歴10年(1760)に亡くなりました。墓は山門郡瀬高町本郷の九品寺にあります。

                      「人づくり風土記(福岡)」より。
by kusennjyu | 2010-07-27 11:45 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町小田)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町小田)

矢部川のハネ公園から新旧(取り壊し)の南筑橋

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ハネ公園へ リンクします。

八幡神社と神社の横から唐尾の渡しへ

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地図をクリックすると拡大します。

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瀬高の和紙製造の歴史

矢固部新左衛門記念碑(禅院への入口に建つ)


文禄4(1596)年、安土桃山時代の末期、対岸の溝口で和紙の製造が始まり、江戸期に有馬藩と立花(柳川)藩に分藩されると、柳川藩の唐尾でも和紙の製造を始めさせた。

唐尾は対岸の溝口・福島(八女市)や矢部村への街道筋の宿場町として発展したが、薩摩街道の道筋変更などにより旅人が減少したために唐尾宿は寂れました。
街道には境川(矢部川)の渡し舟があり、橋が架かるまで船賃を払っていました。

南筑橋上流には、元禄8(1695)年に田尻惣馬が築いた千間土居があります。全長1、300間(約2・7㌔)にわたる土居は、別名「惣馬が土居」と呼ばれることになりました。

千間土居が完成したあとも、惣馬の治水事業は終わらず、千間土居から船小屋にかけて、水流の勢いを弱めるための水刎(みずはね)(水羽根)の建設や植林などを実施。柳川藩の土居は強固なものとなった。

幕末以降資料はないが、木橋が架けられ、昭和年代にはコンクリート橋に架け替えられたであろう。昭和28年の大洪水でこの南筑橋は流され昭和30年に改修されたが老朽化の為に50m下流に新しい橋(平成22年6月)が完成する。

小田の和紙を製造された家へ  リンクします。

by kusennjyu | 2010-07-27 10:55 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川(瀬高町長田)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町長田)

船小屋の中ノ島公園のクスの木a0137997_17123731.jpga0137997_1713130.jpg


矢部川河川敷にあり、元禄の造林より300年を過ぎた、幹廻り3m,樹高15m~20mにおよぶ巨木の林はクスノキ林がうっ蒼と2kmに及ぶ遊歩道をおおい行楽客に森林浴を満喫させてくれる。

このクスノキ林は元禄8(1695)年に田尻総助・総馬親子が柳川藩の晋請役として通称千間土居を築堤し、引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田土居を築堤し、樹林を植えたものです。これが広瀬河端・小田野林・長田孤林と呼ばれ、現在に残る国指定天然記念物である。

公園の中央を国道209号が貫き散策道、野球場、ゲートボール場、遊具など、子供から大人まで楽しめる施設を整備している。春には菜の花や桜が咲き、夏は釣りや川遊びが楽しめる。

長田の鉱泉と温泉(新船小屋温泉)
徳川末期、元治年間(1864)熊本の勤皇の志士、中田多一郎が上洛の途中この地を通り、当時、不思議の水と恐れられ、だれも触れないようにしていた湧水(鉱泉)を飲んで持病の胃痛に特効を認め、村人に薬効ありと勧めたのが始まりといわれている。

別の説には、郷土の木本正蔵が慶応3年(1867)に発見し、明治3(1870)年、旧藩(立花藩)に願い出て入湯場を開設した、とも言われている。

船小屋温泉大橋(国道209号線)と長田の渡し
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地図をクリックすると拡大します。

船小屋温泉大橋が開通  平成14年8月13日 

国道209号線の矢部川に架かる橋「船小屋温泉大橋」が11日、開通した。

中の島橋(延長80.2m)と船小屋橋(延長82.1m)は、昭和4年に完成し、幅員5.5m。昭和43年に幅員1.5mの自転車と歩行者専用の側道橋が設置された。

昭和初期に架橋されたのは幅員が狭く,年々増加する交通量に対応できなくなった。大型車同士が橋上で離合できず、一方が橋のたもとで待機し渋滞や事故の床因となっていたという。 また洪水時には橋桁付近まで水位が上昇し、流下物による災害発生が懸念されていた。

新橋は中ノ島橋と船小屋橋が連続した山本の橋になり、延長231.5mで片側二車線、全幅14m。交通渋滞対策で車道の幅員を5.5mから8mに広げ、自歩道3mを両側につけて、交通の流れをスムーズにし歩行者などの通行の安全性を高めた。

洪水時の安全確保で旧橋よりも高い位置にし、矢部川に浸かる橋脚をなくすことで流下物のひっかかりがなくなる。

地元が「赤い橋」に思い入れが強いことから、筑後市側には赤いアーチ状でワイヤを張り巡らした「二手ルセンローゼ橋」を導入。景観が実しく九州でも十橋しかない。

江戸時代の往還
寛永12(1635)年、三代将軍家光の時に武家諸法度が改定され参勤交代が確立され、野町(山川町)から清水~山麓の本吉(瀬高町)の清水寺の門前町を通り、矢部川を渡り尾島(筑後市)~羽犬塚宿~府中宿(久留米市)に至る道が参勤交代の街道として利用されていた。

元禄9(1696)年、薩摩街道は野町~在力村(清水)~吉井~大竹~下庄~上庄(本陣)~本郷~尾島(久留米藩領)~羽犬塚宿の西寄りのコースに変更され一里(4Km)ほど遠回りの道筋となる。

長田の地名の由来

ナガはインドシナのチャム語のnaga(竜、蛇)、タは助辞でナガ.タは竜神の意で、竜神を祭ったところの地名という。

沖縄などの方言では蛇のことをナガムン、ナガムシ、ナガモノと呼ばれている。また「竜蛇」の意が「長、永」の意味だけに使用したと考えられる。

下長田集落周辺には「八竜」(下長田の娘村の名称でもある)、「福竜」の小字名があります。

大牟田の大蛇山、長崎の蛇踊り、ベーロンの祭りや龍宮説話、竜神の小童の姿の河童伝説など沢山あり、縄文時代から古墳時代まで海人族が竜文化を持ちこみ、ひたすら竜神にすがり、祭祀を怠りませんでした。

明治13(1880)年、下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。
by kusennjyu | 2010-07-26 17:09 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町本郷)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町本郷)

大化の改新の地方制度として「およそ五十戸を里となし、里ごとに長を一人をおく」の里は霊亀元(715)年、郷に改められました。

本郷の郷も大化の改新に由来するものです。沖端川の北岸は条理制の実施をみた所です。柳川藩志によれば仁和年間(885-888)、本郷村に岩神将監なるものが居城したとあるから、その頃から、本郷の地名は、定着していたのでしょう。
いずれにしても「本郷」とは元の村の意味であるから、付近では重要な役割を果たしていた集落であったろう。

明治13(1880)年、下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。

幸作橋の下流。 左~名鶴堰  右~八幡神社

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幸作橋の上流。 左~松原堰  右~矢部川の松原跡

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明治初期の地図

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江戸時代は沖端川が主流の交通路であったため、松原堰で沖端川に水流を流しています。

朝鮮松原付近が本郷の渡しで、木橋がありました。

本郷から橋を渡り下長田を通過して、壇ノ池(瀬高町下長田)~小田村唐尾(瀬高町)~山下町(立花町)~黒木町~矢部村(柳川藩領)の矢部往還が利用されていた。矢部村周辺では柳川城に通じることから柳川街道と呼ばれた。


沖端川の行基橋の下流右岸に柳川藩最後の家老、壱岐立花の本郷邸跡があり、記念碑が建っています。

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立花壱岐の句碑   

堰落ちる 水に渦巻く 曼玉沙華 

立花壱岐は、幕末明治の激動期において、柳川藩家老として卓越した指導力を発揮した人物である。

また、熊本の横小楠や福井の橋本左内らと国事に奔走し開国通商を唱え、明治維新機には岩倉具視に対して新しい国家体制についてさまざまな提言を行なった。

晩年はこの岩神の旧居で悠々自適な生涯を送った。  平成10年9月建立。

文久元(1861)年3月4日、31歳の時に再び発熱し、文久2(1862)年9月15日、32歳の時に全権を辞職した。これ以降、隠居して療養に専念することとなった。

隠居期間中、「胖亭(はんてい)」あるいは「髑髏(どくろ)」と称して、政治の第一線から身を退いていたが、ひそかにその思想に磨きをかけ、明治維新に先立って、藩を解体した統一国家構想、能力主義による人材の登用、身分制度の撤廃などを骨子とする政治思想を有するに至った。

その一方で「逆枝(さかえ)の柳」など多くの大衆向けの小説を書いた。

by kusennjyu | 2010-07-25 16:17 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町文広)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町文広)  

平成22年7月23日 快晴

左~大和堰(上庄) 右~案内板。

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大和堰は旧国鉄佐賀線鉄道橋のすぐ上流にある。
この堰の上をどんきゃんきゃん祭の行列が通る。文広の廣田八幡神社から矢部川を渡り本郷の聖母へ行く祭。 

左~千出樋管(上庄)  右~樋管(対岸は文広)

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千出樋管(上庄)から岩神堰、二ツ川堰、磯鳥堰から柳川市三橋町へ分流している。

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地図をクリックすると拡大します。

芳司(ほうじ)→文広(あやひろ)(大字名)(行政区名)

芳司の地名は古墳、奈良、平安時代にわたり、この集落で土師器(はじき)を造る窯場(かまば)があったことに起因するといわれている。
平安朝、白河院政の頃ですが、荘園制度が次第に朝廷の財政を圧迫していきます。その対策として、朝廷側は、在地領主を公権的にひきつける為の徴税機関としての「」を成立し、その役人を「保司(ほじ)」と言った。

その役所が一時、今の文広に置かれ、その役人の保司に広田氏が就任したと思われる。その保司が芳司になったのだと思います。

文広(あやひろ)とは、保の役所のことを公文(くもん)と呼び、その公文の文と広田の広をとって文広ができたと思っています。文広は大字名で明治9年吉岡村と合併してできたものです。

その頃の保または公文と呼ばれる役所の所在の証明となるのが、文広の印鑰(いんやく)神社です。印はいんかん、鐱は鍵で、役所を象徴する言葉です。
                     
故鶴記一郎文書より。

by kusennjyu | 2010-07-24 14:43 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町上庄)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町上庄)

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矢部川の右岸に一部下庄が入り込んでいます。

瀬高宿

瀬高の渡しを渡った住吉の浜には柳川藩の法令の公示に用いた高札(制札場)があり今町と称し、家屋が160軒あった(旧柳川藩志)。

現在は河川拡張で川や堤防となり消滅している。祇園宮前を通り本町の福島屋には馬継場があった。馬は上庄に29疋、下庄27疋、があった。

瀬高町上庄出口

薩摩街道と柳川街道に分かれる上庄出口の三叉路に追分碑が立てられていた。(近藤氏宅中庭に保存)。
東面に「是(これ)より北 宿町通り」南面に「是(これ)より西、柳川通り」と刻まれている。(高さ186cm幅30×30cm)

文化9年(1812)伊能忠敬の測量日記に、「筑後山門郡瀬高町上庄村字出口、追分碑より初・・・・」とある。薩摩街道は祇園さん通りから出口の三叉路を北方向に曲がり瀬高御茶屋の表御門のある「宿町通り」を通る。

瀬高御茶屋 瀬高町上庄出口

宿町通りには本陣の「御茶屋」があり、大名及び幕府の旗本、日田の代官等の高級武士の宿泊、休憩所として用いられた。

瀬高宿は薩摩の島津藩や人吉の相良、肥後の細川などの参勤交代の宿に利用されている。

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上庄の八坂神社

地元では「上庄の祇園さん」と親しまれている神社で、祭神須佐之男命(素戔嗚尊とも表記・すさのおのみこと)・<応神天皇(おうじんてんのう)・武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)を祭ってある。

安元2年(1176)6月11日に、この地に鎮座されているが、祭主は宇都宮弥三郎の子小太郎藤原中次<と弟の重国とある。この両人は京都祇園の分霊を奉護し、筑後へ来て持参した藤鞭を3つに切り、久留米、柳川、瀬高に植えたところ、瀬高のものが繁ったので、この地に社を建てて祀ったという。

戦国の乱世には美しい社殿も多くの戦火にあい大破され、荒れ果ていたが、文禄5年(1596)に藩主立花宗茂は社頭30石を寄進し、宗茂改易後は、慶長7年(1602)に田中吉政が50石を寄進している。

元和7年(1621)立花宗茂が柳川城に再封され、翌年の正月には社殿などを新築された。現在の鳥居も立花宗茂の寄進であり、途絶えた祭礼を初め、大人形の神事も始めた。

旧暦の6月15日は多くの参拝者が集まるので上庄街道の一般の通行を禁止することを幕府に願いを出す程に盛大であったという。立花宗茂が柳川再城の時、この社の社殿を新築して祀ったのは宗茂・奥州棚倉在城の元和6年(1620)正月元旦の夢の御告げ(祇園神ノ符扇上ニ在リ)によって再度柳川に帰れたことによるものである。

大人形は白旗を小わきにはさんだ源義家(みなもとのよしいえ)(八幡太郎義家)を向って右に安倍宗任(あべのむねとう)もしくは安倍貞任(あべのさだとう)を毎年交互に左にたて、そして中央に社壇を安置して祇園の神を祭ってある。

立花宗茂の奇夢に現れたる徳川家康を宗任に、宗茂公自身を八幡太郎義家に擬し、武運長久を祈願せられたるに基づくものとする。

7月24~25日の祭日は「うう人形さん」の名で人形の股をくぐりぬけると病気にならないと言われに行われる。本郷の古老の話しによると、毎年祭礼が近くなると昭和初期頃までは、八女の福島の人形師が制作した大人形が運ばれ本郷の行基橋のたもとで休憩して上庄に運ばれていたそうです。

祭礼の前の7月21日には「大提灯まわし」という献灯の神事大提灯(おおちょうちん)は人物、風景等が描かれ、材料に、魚鱗・魚皮・虫の羽・貝殻・木皮等が使われている高さ2,5m・直径1mの大提灯(県指定有形文化財)
です。

大提灯の由来は、安元2年(1176)上庄に祇園宮が勧請された際に、白武三郎兵衛という貧しい武士が、雨の降る闇の夜に粗末な提灯と破れた傘をさして御神霊を迎え、崇拝したという話がある。心から神を崇敬する彼の行為に感激して、後世彼が使用した提灯や傘にちなんで大提灯を作成し祭礼の初日(7月21日)に大提灯は氏子の若者によって町内を練り歩き祇園の祭礼期間(7月21日~25日)に献灯されるようになったとある。

明治末期に北原白秋の姉の加代が嫁いでいる。
昭和3年夏、白秋は、20年ぶりの郷土訪問飛行の折、菊美人酒造で姉、加代との再会を慶び「姉上」の長詩を詠んでいます。「菊美人」を酌みながら詠んだ白秋の詩歌が、菊美人酒造に数多く残されています。ラベルの菊美人の題字も北原白秋直筆のものです。

菊美人酒造と北原白秋へリンク

千寿の酒蔵探訪  菊美人酒造(蔵開き)へ

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高明(こうめい)神社

堤防の上に鎮座していたが矢部川堤防改修工事の為、下にこの場所に移設された。。
地元では「こうめいさん」と呼ばれ信仰されている。
古い時代から矢部川を舟で渡り柳川に行く街道の入口で商店や宿が建ち並び、賑わっていた時代を思わせる。

瀬口土居町
矢部川のちなんだ地名です。平安時代から明治時代まで栄えた町です。来迎寺の門前町でもありました。

本町
「本町」とは元の町の意味であるから、上庄の中心となる意の地名です。八坂神社(祇園宮)を中心として栄えた町です。

二百町(小字名)
商業の中心の役割をし、多くの店舗が並ぶ繁華街で夏の祇園祭りは人が通れない位賑やかでした。         
祇園池

新町(小字名)
藩政時代商業の発展した名残の街区名です。

瀬高堰   平成2年3月完成

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■管理者 国土交通省筑後川河川事務所   ■型式   シェルタイプローラゲート
■河口からの距離   10,200m  ■堰長  106m   ■目的 かんがい用水取水・塩害防止・河積確保 ■魚道   階段式

新町排水樋管と横町排水樋管

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一部、故鶴記一郎文書より。
 
by kusennjyu | 2010-07-15 12:16 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川(瀬高町下庄)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町下庄)

a0137997_9173545.jpg明治の地図  拡大します。
薩摩街道と三池街道の追分に伊能忠敬の測量基点の碑が立っている。

瀬高宿(下庄側)
飛岡・市場・新町・田代・中町
交通の要地にあって、宿泊のための設備や荷物を運ぶ為の人足や馬を集めておいたところを宿駅と呼んでいた。鎌倉時代以降発達し、江戸時代には宿場町となる。

元町入口の恵比須祠のある橋を渡った付近を飛岡出口と称していました。旧柳川藩志には先の下庄渡上り木戸(木戸門)まで471間(848m)とありこの道沿いが宿場街です。

下庄町村の旅籠(はたご)は、現在の元町(旧、市場)にあったとされている。商業の繁栄した所で東市場と中市場(片平町とも言った)と西市場に分かれていた。

職人・商人の宿場町があったと言われています。大正時代まで商業が盛んで昭和初期まで市場と呼んでいた。油屋(菜種)、紺屋、湯葉、豆腐、蒟蒻製造などの商家が立並び賑やかであったであろう。

酒蔵が多くを占め、町屋のロウ製造、米屋、石灰(肥料)屋、塩物問屋が点在していた想定されている。道路に面した昔の商家はいずれも間口が狭く取られているのが特徴です。これは、当時の家屋に対する地租が間口の広さで決められたため、間口を狭く取って奥に長い敷地となっています。



a0137997_13365442.jpga0137997_1337846.jpg新町の西端の現・菊久司の酒屋から南に三池街道が南に向って三池(大牟田)方面に延びる分伎点があり、伊能忠敬の三池街道測量の〇mの基点でもある。


a0137997_13364115.jpg松尾宮
1633年(寛永10)肥後国(熊本)菊池郡喜野村の松尾宮の分霊を背負って瀬高の北高柳村に奉安された後、瀬高町下庄松尾宮(現・元町)に奉祀した松尾宮は酒の神様です。
瀬高町は上庄と下庄に集中して酒造業が発展しました。


現在の国道443号線は明治42年に難関から柳川まで、八幡神社前を通っている。
現在の国道209号線は松尾宮の東側を通っている。

地図上の地名の由来
下御庄(しもおんしょう)→下庄(しもんしょう)(しものしょう)(大字名)
瀬高庄は平安時代のの保安2年(1121)に藤原俊忠が領有し、10年後の大治6年(1131)には上庄・下庄に二分された。下庄は三橋町・大和町(現在柳川市)まで広がる大庄園で鷹尾神社は下庄の鎮守社であった。庄とは荘園の荘の当て字として使われてきたものである。

平安時代の芳司市場(文広)からの道筋で藩政時代(江戸時代)には酒蔵の並ぶ酒造家で栄えた町です。明治時代は6軒の酒屋がありました。当時は矢部川の船着場から酒を各地に流通させていました。

中町(なかまち)(小字名)
藩政時代(江戸時代)矢部川に沿って商業の発展した名残の街区名で、肥後(熊本)からのの参勤交代の街道筋で矢部川の渡し場から上庄の街道に結ばれていました。

矢部川・恵比須町・栄町  明治時代に出来た町!
明治24年、鹿児島本線が瀬高町まで延びて、当時、駅の名を高瀬(玉名市)と混同しないように「矢部川駅」と付けられました。駅名から付近を矢部川と称するようになりました。今の行政区としての矢部川○丁目はその駅名から起こったものです。

明治42年に柳川~瀬高間に柳川軌道が開通し、矢部川3丁目から分町し、商売繁盛を願い恵比須神を勧請し恵比寿町ができている。栄町は商店が栄えるよう願いを込め起名された商業地域の町名です。柳川軌道沿線の新道路沿いに商店が移転したり、新規の店や劇場ができて下庄は都市化が進みました。
              
栄町

市場町→松尾宮町→元町(小字名)
現在の下庄の元町は江戸時代からの薩摩街道筋で「市場町」と称し、商業の繁栄した所で東市場と中市場(片平町とも言った)と西市場に分かれていた。大正時代まで商業が盛んで油屋・豆腐・蒟蒻屋・湯葉屋・青物屋・畳屋などあり昭和初期まで市場と呼んでいた。その後「松尾宮」があることから「松尾宮町」に変更、第二次大戦後は「元町」に改名された。

a0137997_2025937.jpg談議所水天宮談議所(だんきしょ)小字名)  
談議所は「ダンギショ」と読むべきですが地元では「ン」が欠落して、ダキショと呼んでいます。奈良時代の養老元年(717)創建の宝聚寺の談議所(天台宗の会談道場)に由来するものです。

その頃、この寺院で仏の慈悲によって農民の苦悩をやわらげ、明日に希望を持たせる如き大衆に説教が行われていなかったでしょう。大衆済度の法話を開始したのは、中世の宗教改革によって生まれた浄土、真宗、日蓮宗などです。天台、真言宗は鎮護国家の宗教として、行政に利用され、平安時代は貴族の宗教として栄えました。



八幡町(やわたまち)(行政区名) 
八幡町や談議所は矢部川の河港であり平安時代頃からで天草・島原方面との交易の港町として栄えた町です。

瀬高用水と瀬高樋管
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i一部は故鶴記一郎文書より。
by kusennjyu | 2010-07-15 09:43 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川(瀬高町高柳)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町2) 高柳

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上の地図をクリックすると拡大します。 上と下に続きます。

明治の地図の上部から左側にかけて川に沿って緑色の帯がありますが、矢部川の改修工事により川側は削られて川になっています。

高柳の日吉神社
1.前書き
高柳日吉神社は、瀬高町西端に片寄った矢部川左岸に位置する北、南高柳集落の産土神の2社です。その2社の代表として北高柳の日吉神社(旧村社)に的を当てて紹介して行きます。  
    
A, 高柳日吉神社の直接の母社と考えられるのが柳河の日吉神社でしょう。この柳河の日吉神社は、筑後土着の蒲池氏の創建です。その後、田中氏、立花氏が後を継ぎ崇敬を重ね、手厚い庇護をして今日に至っています。

柳川日吉神社は、その後柳河城内の産土神、さらには立花氏の氏神の様相を呈し、旧立花藩内では格式最も高く、一般藩民の信仰も吸収して来ました。

B、高柳の北・南集落は古来稲作の中心的存在のみならず上代には渡来人の上陸拠点の一つで縄文人・倭人の交流、すなわち日本民族形成の重要拠点として、筑後川岸の小保、沖端川流域の柳河、磯鳥などの河港と連携を保ちながら文化流入の窓口の役割を果たして来たのです。

C, 高柳舟三太夫事件などから類推できるように高柳の住人は誠実、勤勉、忍耐強い一面と勇敢にして、蒲池氏・立花氏から一目置かれていたふしがあったのです。
大正末期から昭和時代にかけて、高柳に発生した小作争議を垣間見て参考にしましょう。その当時、農民が立ち上がり団結して地主を相手として、警察まで巻き込んで闘った破天荒な事件を考えて下さい。
このことは高柳の人々が、往時から勇敢にして正義を愛した性格を物語るにふさわしい事件と判断してよいと思います。

D 瀬高町役場の地籍図による地名、或は古い寺院、神社の痕跡などからして、高柳には秘められた歴史が隠見されるからです。

2.柳川日吉神社
「柳川総鎮守日吉神社は42代伏見天皇の御代正応3年(1290)山門郡・社村の農長森山和左ェ門先祖が大江国滋賀郡坂本「山王大権現」を奉護し、社村に帰り清浄の地に鎮護、産土神として崇敬してより数百年を経て後、柏原天皇(1501~1519)の御代文亀、永正の頃、蒲池筑後守治久が社村の地内に出城(後の柳川城)を築き山王宮を柳河宋惣廟として崇敬した。

山王権現とは神仏習合時代の総本社日吉神社の呼称です。
「942年天慶5年には筑後国夜明庄の蒲池城に蒲池氏初祖がかまえ平戸松浦党と縁を結び1274年の文永の役には諸豪とともに功を立てている。

蒲池氏は筑後土着の豪族としての地位にあり、したがって先に見た森山和左ェ門なる人物は蒲池氏の一家来で、蒲池氏の意を受けて滋賀県の山王権現の分身を奉護して来たものでしょう。

蒲池治久(1501~1519)柏原天皇時代、現在の立花町の矢部川左岸の険阻な山上に山下城も築いているのです。

蒲池氏は筑後地方の経済基盤となる稲作には筑後川、矢部川下流の氾濫原(デルタ地帯)、灌漑水です。
蒲池氏はそうした大自然の恵に感謝と敬虔な祈りを捧げるべく日吉神社創建を思いついたのです。

3.瀬高の清水寺と柳川日吉神社
本吉の清水寺は伝教大師の開基とされております。
現在の清水寺三重塔の南面に向って建っているのが地主神です。この神様の機能は延暦寺と日吉総本社との関係に相似をなすもので、清水寺と周囲の山域の鎮護でしょう。

4.高柳の日吉神社
A.高柳村の由来と高柳日吉神社
矢部川地方も縄文時代末期から稲作開始とともに一挙に文明が進み、七・八世紀頃は堀切の八歳神社、芳司の汐井神社の周囲が河港として動きを見せるのです。その中間にある高柳村も河港として或は稲作の中心地として重要視されて来ました。

高柳の日吉神社の御神体とともに祭られている千珠、万珠の玉は潮の干満を司る神、航海安全を護ってくれる神に捧げられたものです。遠い国から船が碇を下していたのです。村内には現在でも「」という地名が残っています。

B.地名と高柳村
漁法の梁(ヤナ)に関係した地名です。梁とは、川の瀬などで、杭を打ち並べ水が一ヵ所だけ流れるようにして、斜めに張った木や竹の篭で魚を受け捕らえる仕掛で、こんな「ヤナ」がこの地帯に多く仕掛けられていたので、この地名がおこったのです。このヤナの材料には柳の木枝を利用したかも知れません。

高柳村北辺の矢部川河岸に「竜臥―りゅうが」の地名があります。竜は水神の意味です

高柳村にはその頃から、学問の僧が文化のい一端に尽力していたのでしょうか。
聖町、本坊、大工給、仏生、京田町などの地名、さらには「角源蔵―カクゲンゾウ」の地名は真言宗の元三大師(ケンゾウダイシ)にあやかったのでしょう。

真言宗寺院の所在した証として、下庄元町の松尾神社創建(1633年)があります。
「寛永年間喜野(熊本県)より松尾宮の分霊を授かり背負うて瀬高に来て、一時高柳に奉安し社殿が出来上がった後に遷座になったのが現在の松尾神社である。そして木野(喜野)より神様を背負うて来た」人が不動院さんという人で社殿の右側の小さい祠に祀ってある」とあります。

高柳の養安寺境内、北辺の角に高さ40Cm程の23夜塔が苔生して、暖かい冬日を受けてはうるが寂しそうに立っていました。
高柳を中心とした集落の婦人方の月待の名残です。瀬高町では高柳だけです.



村内(中)の地名、宮手、宮司町、亀ノ石(神の石の変化したもの)神社との関係地名でしょう。

C、その後の日吉神社までの経緯
「冶承2(1178)年7月5日付筑鷹尾宮後掃除役差定写には、瀬高下荘鎮守鷹尾八幡宮の掃除役奉仕人に高柳村から二郎、藤三郎、多次、士人道、小藤太、本司貫、高別当の7名が挙げられている。他に池里7名、吉原1名の計15家があり・・・・。同社に掃除役を勤仕する社人を出しており瀬高下荘に属した荘園

部落としては矢部川沿いの舟運に最も便な地理的環境にある」。 前文にある掃除役などは一見端役で重要な職務ではありませんが、その職務には人力、器具、舟などに経済力が必要で、当時としては無雑作に出来るものではなかったのです。

その職務の見返りとして、いろいろな報酬があったものと推察されます。その頃の鷹尾付近はまだ開拓が開始されたばかり、人家は稀で、神社の掃除などに従事する余裕がなく、従って既存集落で経済的に余裕のある村から応援に出労したことになったものです。

高柳村をはじめ付近の村からも新開地の開拓に従事していたのです。
高柳村は、その頃の矢部川畔開拓地速成の前進基地の様相を帯び活気を呈しておりました。そんなことから、村の中心となる神社を中心に結束し、名主が神官を兼務、神社は威勢を握っていたのでした。その頃の名主が、次第に頭角を現して鷹尾神社の支配権に迫って行ったのです。

「承久元(1219)年9月9日行事の勤仕人に高柳上三郎大宮司、同冬大使に高柳舟三太夫の如きが見え(鷹尾社礼記録・筑後鷹尾文書)、舟三太夫は建保4(1216)に商人勝陳房等と結び、高良社神人と争っている。(同前)年貢等水上輸送に関連する商業的活動活発であったと推測される」。

高柳の「団結」と表現しているのは、美辞麗句ではありません。当時の政府は弱体化して法律は有名無
実です。庶民、農民の団結の力は事を運ぶ上に不可欠な要素だったのです。

「瀬高」の条に「寛喜3(1231)年8月30日の六波羅裁許状には、瀬高下荘内の年貢送進・新開田をめぐって鷹尾別符政所と地頭大友秀直との間に相論が起っている。相論対象の中には律料、倉敷料のことも見え、瀬高下荘域が矢部川水運による文物の集散地であったことがうかがえる」とあり、瀬高地方の開拓と商業の盛んだった様子がうかがえ、このことは当時の高柳村を中心とした舟運、開拓にふれたものでしょう。 

「建武元(1334)年6月27日付沙弥某名主職充行状には「高柳四郎入道□□」瀬高下庄内熊丸名々主職を宛行
われた記事が見える(鷹尾神社文書)」とあります。前文にある高柳入道なる人物は不純な動機で名主職が宛行われた様子です。

高柳村の資料は16世紀に移り、「立花宗茂の一族立花三太夫が、北高柳の地で知行一千石を拝領する。彼の手で文禄3(1594)年日吉神社を再建山王十禅師権現御社の祈願棟木板の記録が残っている」とあります。この神社が、現在の日吉神社として続いている神社と考えています。

文禄3(1594)年はじめて、日吉神社という名称で従来の神社に代って改建されたと思います。「産土神、字河後町にある。・・・祭神は久富祖神である」ということで、従来の神様は、久富祖神とする久富家の氏神か、地域神(産土神)の混じり合ったもので、真言宗と神仏習合した神社だったと思います。

立花藩内で他の多くの日吉神社創建は既に見たように正応3(1290)
年社村の農長森山知左エ門が滋賀県坂本村から、日吉神社奉護して来て鎮護した前後か、さらに降って16・17世紀に創建されているからです。

注 立花藩内にも正応3(1290)年より早期の創建も少しあります。それは西浜武の日吉神社(1204年)・田脇の(1190~1198年)・野田日吉神社(1234年)があります。

徳川の藩政時代を迎えると凄惨な戦争は終止符を打たれたが、農民は厳しい幕府と藩政の掟に縛られることになりました。高柳村も中世の俤は既になく、稲作に励み、平和ではあるが地味な生活を送り明治時代の夜明けを待つことになりました。

日吉神社は産土神としての使命は果して来たが、村人の楽しみとなり活気を与えたのは養安寺で行われた年2回の祭礼(おこぼうさん)ではなかったでしょうか。

故鶴記一郎著 「瀬高町神社と幸若舞の横顔」から。 平成19年4月18日 千寿

文章中の赤字の地名は高柳村に存在しています。





   
by kusennjyu | 2010-07-12 16:45 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る