千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:歴史学習会( 304 )
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2017福津市の古墳(講師・西谷正氏)・千寿の楽しい歴史
西谷正氏講演会

講師 海の道むなかた館長 西谷正氏

とき 平成29年8月12日(土)午後2時~

場所 大川市酒見  風浪宮

宮地嶽古墳

現状で南北27m、東西34mの楕円形を呈する。本来は35m前後の円墳と推定されている。埋葬施設は全長23mの横穴式石室であり、全国第2位の長さである。石室奥が幅・天井高ともに狭まる構造に横口式石槨の影響が指摘されている。金銅透彫冠、頭椎大刀、金銅鏡板付轡(くつわ)、金銅製杏葉、金銅製壺鎧、金銅製鞍金具、ガラス板、ガラス玉、蓋付銅鋺、銅盤等が付近から出土したと伝えられており、副葬品と考えられている。唐草文で装飾された馬具、冠など国際色豊かな優れたものを含み国宝に指定されている。築造時期は7世紀前半から中頃と推定される。

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津屋崎古墳群

玄界灘に面した福津市北部の丘陵や台地上に、5世紀から7世紀にかけて築かれた古墳が、南北8km、東西2kmの範囲に分布しています。これらを総称して津屋崎古墳群と呼んでおり、前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基からなります。約200年にわたる地方豪族の首長墓群(しゅちょうぼぐん)であり、平成17年3月2日に国指定の史跡となりました。

古墳群の変遷

津屋崎古墳群では保存を前提としています。そのため埋葬施設を調査しているものが少なく、表面採集遺物によって年代推定しているものもあります。古墳築造時期の決定にはさらに詳細な調査を要しますが、大型前方後円墳に注目すると、5世紀に勝浦・奴山において築造が始まり、6世紀に須多田・在自に移ります。続いて宮司・手光に7世紀の古墳が築造されます。古墳群は大筋として北~南への変遷をみることができます。

胸形君一族

かつて津屋崎古墳群は広い入り海に面していました(地図参照)。古墳群を築いた人々は、天然の港を持ち、伝統的に培った航海技術で船舶を操り、時代の要請に応え対外交渉にも深く関わって活躍したと考えられます。

津屋崎古墳群の被葬者について、文字史料などの物証は出土していません。しかし、『古事記』や『日本書紀』に、三女神を祭る「筑紫の胸形君」という豪族が登場します。地理的状況や古墳群の規模、出土品などを考え合せると、沖ノ島祭祀に関わったと伝える胸形君一族(むなかたのきみいちぞく)の墳墓群である可能性が考えられます。また、『日本書紀』には、「胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)が女尼子娘(むすめあまこのいらつめ)を納(め)して、高市皇子命(たけちのみこのみこと)を生(な)しませり」とあり、「胸形君徳善」を宮地嶽古墳の被葬者に、近くで見つかった火葬墓の被葬者を尼子娘に当てる節もあります。

対象古墳の概要

津屋崎古墳群(第1図、2図)

津屋崎古墳群は、玄界灘に面した福岡県福津市北部の丘陵および台地上南北8km、東西2kmの範囲に分布する。北から勝浦井ノ浦古墳、勝浦峯ノ畑古墳、新原・奴山古墳群、生家大塚古墳、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、在自剣塚古墳、宮地嶽古墳などからなる。現存する古墳の総数は60基(前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基)で、規模と密集度に関して九州北部における代表的な古墳群と言える。築造年代は5世紀から7世紀にわたり、大形墳に注目すると北から南への変遷が窺える。なお、本古墳群の臨む低地は近世に干拓が行われるまで、入海が深く入り込んでいたことが判っている。

これまでに調査された勝浦峯ノ畑古墳や新原・奴山古墳群では、朝鮮半島の影響を受けた特色ある埋葬施設が確認され、豊富な副葬品が出土している。なかでも宮地嶽古墳は奈良県石舞台古墳などと並ぶ我が国を代表する巨石を用いた横穴式石室(全長23m、全国第2位)を有し、国際色豊かで豪華な副葬品は国宝に指定されている。

本古墳群は、その規模から有力地方豪族が築いたとみられ、被葬者については地理的条件などから、『古事記』・『日本書紀』に三女神を祭る氏族として記される胸形君一族とする節がある(福津市教育委員会、2013)。

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1・勝浦峯ノ畑古墳

勝浦峯ノ畑古墳は、墳長100mの前方後円墳で埴輪と葺石を備える。1975年、道路建設に伴い発掘調査された。埋葬施設は中軸線上に2本の石柱を立てる横穴式石室で、国内に類例がない。内部の壁面から天井まで赤色顔料を塗る。築造時期は5世紀中頃と推定される。細線式獣帯鏡、画文帯同向式神獣鏡、内行花文鏡、獣像鏡、乳文鏡、金銅製冠帽、金銅製歩揺、金銅製花形飾金具、円環系有刻銅釧、ガラス玉(15427点)、翡翠製勾玉、琥珀製勾玉、琥珀製棗玉、丸玉、鹿角製装具付大刀(40振以上)、鹿角製装具付剣、鉄剣、銀製装具付素環頭大刀、鉄」鏃(285点)、短甲、小札、木心鉄板張輪鎧、柄杓形木心鉄板張壺鎧、刀子などが出土した。

本古墳出土の金銅製装身具は細片となっていたが、近年、詳細な検討によって龍文透彫金銅製冠帽、銅釧の存在がほぼ確定し、金銅冠、垂飾付耳飾、金銅製帯金具が存在した可能性がある。このことから、本古墳の副葬品は熊本県江田船山古墳に相当する構成が想定されている。

金銅製冠帽は、漢城期百済からの舶載品と推定され、被葬者の対外交流を窺わせる資料と位置付けられている(福津市教育委員会、2011)。調査報告書で見ると、石室の天井石と奥壁および側壁の腰石が板状玄武岩と思われる。個々の板状玄武岩の重量は推定で1~5トン。総重量は16トンである。その他の石材は、主に柱状玄武岩である。試料採取した石材は、天井石(KTMN―①)である。

2・新原・奴山1号墳、21号墳、44号墳

新原・奴山古墳群は、東西800mの台地上に総数59基が確認されている。そのうち41基が現存し、内訳は前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基である。1975年以降、県道(現国道495号)改良工事や農協施設建設、圃場整備に伴い、9次にわたる発掘調査などが行われている。台地西寄りに22号墳など前方後円墳と大形円墳が分布し、その周辺に中小の古墳が分布する(第2b図)。これらは5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたと推定されている(津屋崎町教育委員会、1989)。ただし、保存を前提としているため未調査の埋葬施設も多く、年代や変遷については未解明な点がある。

有難うございました。





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by kusennjyu | 2017-08-31 13:50 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島と朝鮮通信使・千寿の楽しい歴史
相島と朝鮮通信使

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

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藍嶋図(岩国藩の武士が描いた)

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朝鮮通信使行列

平成14年8月4日対馬厳原町アリアン祭にて

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1・朝鮮通信使

相島は、新宮港から海上約7.3kmの沖合にある東西に長い半月形の小島です。江戸時代には鎖国をしていましたが、朝鮮とだけは国交を結び、福岡藩ではその使節をここで接待し、文化交流の舞台となった島です。

朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝からの国書(信書)を持って訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者です。通信使とは、「信(よしみ)を通わす使節」の意味で、つまりお互いに信頼関係を深め合う使節で、12回来日しました。

第9次の来日記録が『海遊録(かいゆうろく)』(姜在彦著・平凡社)に詳しく記述されています。それによると、相島については「御馳走は、壱岐よりさらに倍する。諸物すべて華美で景色のよいこと神仙境である」と書かれています。

一行の経路は、首都漢陽(現在のソウル)を4月14日に出発し、6月20日釜山を出帆しました。対馬には22日間滞在、7月19日未明に次の寄港地壱岐へ向かい翌日、勝本に入港しました。7月24日台風来襲、12日間滞在しています。この台風で相島でも新築した宿泊施設や船・波止も一部壊れ水死者が出ました。代わりの船舶の準備、水夫の補充、宿舎や波止の修理などが大変だったようです。8月1日勝本を出帆し、福岡藩の領海に入ると相島から藩の迎護船が出てとも綱で曳航(えいこう)し、真夜中に相島に到着しています。

8月3日は早朝から暴風雨になり、停泊していた船は荒れ狂う波にほんろうされ、さらに東風のため出帆することができませんでした。

『黒田家譜』によると、8月10日相島を出帆、次の寄港地赤間関に向きましたが、芦屋沖で北風に阻まれ航海中3回目の大風雨に遭遇、緊急時の避難地である地島に引き返しました。8月18日出帆、小倉藩に迎護を引き継いでい、ます。一行が福岡藩領を通過するのに17日かかっています。

一行と案内警護役の対馬藩士合せれば1200~1300人の集団となり、通信使一行の接待に藩は膨大な費用と労力を掛けました。一方通信使も第9次では、日数にして285日間の長旅で、その苦労も大変だったと思われます。

江戸時代の朝鮮通信使往来一覧表

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朝鮮通信使行列

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朝鮮通信使旅程図

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2・朝鮮通信使客館

通信使一行300~500人を迎えるため毎回新しく官人小屋(かんじんこや・客館)を新築し、帰国後に取り壊しています。第10次来島時を描いた藍嶋図には、官人小屋は板葺きで棟数は大小40ほどと記録されています。寛永元年(1624年)の記録「東槎録(とうさろく)」には、「官舎は新築し、軒・柱・梁・垂木・垣根に至るまで皆竹で作り」とあり、青々とした竹が大変美しかったようです。『黒田家文書』では、畳数931畳半を新調したと書かれています。藍嶋図に基づき平成7年に官人小屋の場所と思われる畑の発掘を行ったところ、江戸時代の建物跡や井戸跡、漆椀、陶磁器などが見つかりました。

朝鮮通信使客館は、若宮神社横から南西の位置にあり、その敷地は東西65間(約117m)、南北70間(約126m)でありました。発掘調査は、今は畑に戻され案内板だけが目印となっています。

写真は細長い廊下状の建物の柱の跡です。この建物跡は島の中心部に向かってまだ続いていますが、部分的にしか確認できていません。

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3・供応食と食材の準備

幕府は、沿道の各藩に対し通信使を手厚く接待するよう通達しました。官位によって献立の基準を示し、信使と上々官に対しては儀式用の『七五三の膳』と食べるための『引き替え膳』を出すように指示しています。

写真は『引き替え膳』です。食材は、山海の珍味を集め、華やかに飾って出しました。特に珍しい食材では、いりこ(ナマコの乾物)、キジ、ウズラ、ウス(鯨の心臓)、コササイコクシ(菓子の膳のサザエを串にさしたもの。小栄螺小串)、博多そうめんなどで、食器やさかずきなどは全て新調し、金銀を塗っています。

一行に提供する食材は、米・酒・味噌・醤油・酢など1人1日に渡す量が指示されていました。魚・肉(豚・猪)・鶏・鳥(キジ・五位サギ)・山菜・野菜・果物・菓子など種類も量も多く、食器や器などは1年前から準備しました。夏に来日したときは、料理に使う「生魚」の集め方や鮮度保持に大変苦労したようです。往復時に相島で使った食料費の総費用は、第7次来日記録を現在の人件費で試算してみると約8億6800万円と膨大な額になっています。

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4・航海と通信

通信使は正使船・従事船とそれぞれの供船6隻を中心に、将軍に献上する馬や鷹を積んだ5隻の献上船や長老船・荷物船で、合計13席で来島しました。これらの船に福岡藩の迎守船団がそれぞれえい航船団としてつけられました。

通信使の連絡には、烽火(のろし)を使いました。福岡藩では、各地の島に火立て所を設けました。通信使一行の船影が見えたら、小呂島―姫島―玄海島―藍島(相島)-残島(能古島)-荒戸山(現在西公園)と、次々に烽火を掲げ藍島と福岡城に知らせるようにしました。藍島では2カ所に烽火台が設けられ、草や生の松葉をくすぶらせ、煙によって島々と連絡を取り合いました。

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烽火(のろし)図

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5・通信使関係の史跡

通信使を迎える準備として、福岡藩では天和2年(1682年)3月4日波止場の構築に取りかかり、島民が述べ3850人の約2ケ月間で先波止と前波止2つの波止場を造りました。前波止は現在町営渡船「しんぐう」の船着き場で、対馬藩主や随行者が上陸しました。先波止からは通信使一行が上陸しました。

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享保4年(1719年)7月24日、第9次通信使が来日の折、その準備をしていた相島に台風が来襲しました。そのため多くの被害を出し、迎護船40隻余が破損し、藩士12名、浦水夫49名が亡くなりました。

墓碑拓本は平成7年の相島積石塚群調査時に発見され、刻まれている内容がその時のものだということが確認されました。

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相島は、深い山や大きな川もなく、用水の確保も大変でした。水が不足しないように以前からあった4つの井戸のほかに、用水のため丸井戸6ケ所と、角井戸6ヶ所を掘りました。現在は2ケ所残っています。


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続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-30 08:26 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島の積石塚群3・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群3

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

120号墳

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北群1号墳(最北)

一部、墳丘面が崩れているところがあるが、方墳として捉えている古墳である。1辺が約8mを測る。斜面に築造してあるため墳高は約2~3mを測る。天井石は無くなっており、主体部いっぱいに石が崩落していた。

主体部は横穴式石室である。長軸約2m、短軸約1.5mを測る。そして、長さ1.3m程度、巾0.7m程度の羨道(羨道)部を持つ。

玄室は、羨道部から見て左側が直線に、右側が胴張り気味というように左右の壁面の造りに違いがみられるおもしろい造りをしている。

出土遺物は、落石により破片となっている鉄剣?片、鉄鏃(やじり)片、刀子(とうし)片、金銅製の耳環(みみわ)が3個、水晶製の切子玉が1個、須恵器が数個体、それに人骨片である。

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北群のその他墳

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南群と朝鮮通信使関連墓地

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鼻栗瀬(めがね岩)

島の東300mの海上にそそり立ち、全体が玄武岩でできています。

鷹さ20m、周囲100mで海食洞があり絶好の釣り場となっています。


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by kusennjyu | 2017-08-29 17:06 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島の積石塚群2・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群2

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

ガイドの山口さんの相島古名説明

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1・玄海灘に浮かぶ島の古名

小六島についての拙稿を九州古代史の会で発表させていただいています。

9吉備児島=相島

理由①相島の古名が阿閇島。古事記が奏上されたときの元明天皇の諱が阿閇皇女。さらに、その娘が吉備皇女。つまり、吉備児である。

理由②元明天皇の勅命によって建てられた九州一の大伽藍であった脊振山霊仙寺の現存する乙護摩法堂は、その主軸を相島に向けている。つまりお参りすると相島方向となる。

10小豆島=玄界島

理由①玄界島の古名は、月海島。これを逆にすると、海月⇒あまつき⇒あづき

理由②玄界島に残る伝説、百合若伝説の百合若の妻が春日姫。小豆島の古事記に記載される又の名が大野出姫。福岡の春日市と大野城市は、隣接しお互いに入り組んでいる。大正時代までは、春日村と大野村であった。春日姫=大野村出身の姫であろう。

11大島=宗像大島

理由 古事記での大島の又の名は大多麻流和気=大霊流別。宗像三女神は、天照と素戔嗚の誓約によって、生まれたのであるから「大霊が別けられた」の表現にぴったり。

12女島=糸島姫島

理由①大分姫島には古事記の国生み神話とつながる伝承はないが、糸島姫島には、山幸彦の妻である
豊玉姫の誕生伝説がある。昭和天皇即位時の祭祀に使った主基田(福岡市早良区脇山)の祭殿は、姫島に向けて祭祀を行った形跡がある。

理由②姫島神社の相殿、生島神社の祭神は「天一根」であり、これは古事記表記の女島のまたの名と一致する。

13知訶島=志賀島

理由①志賀島を古来からチカノシマと呼んだ形跡あり。神功皇后伝説、博多古図などより。

理由②志賀島には君が代の意味が解る神事が行われている。「詞」を「知」る島である。古来安曇族の本拠地であり、白村江の戦い前は朝廷に絶大な影響力を持っていた。

14両児島=糸島二見が浦

理由①古事記表記では「両児島、又の名を天両屋」となっている。この二つの名をあわせると天児屋根命となる。天児屋根命を祭るのは春日神社、福岡春日市の春日神社の参拝方位は、糸島二見が浦を向く。

理由②糸島二見が浦は、伊勢二見が浦の伝承の元である可能性が高い。
 その1 夫婦岩の向こうから天孫降臨⇒糸島の方が適切
 その2 岩の向こうに沈む宝が眠る興玉神石⇒宗像沖ノ島のことか(糸島海岸からは水平線の下で見えない)
 その3 神の使いがなぜかカエル⇒夏至の夕日が沈む(かえる)のは糸島二見が浦。

2・宮地嶽古墳(宮地嶽神社)の羨道(参道)から一直線上に相島の積石塚120号がある。

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2017相島の積石塚群1・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群1

1・西谷正講演会

内容 相島積石塚群について


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講師 海の道むなかた館長 西谷正氏

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とき 平成29年8月12日(土)午後2時~

場所 大川市酒見  風浪宮

新宮町相島

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2・相島研修

平成29年8月26日 天気:晴れ

大川歴史会37名

渡船  11時30分(新宮港発)→11時50分(相島港着)

案内者  今村さん、山口さん他約4名


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2017いわいの郷(八女市岩戸山歴史文化交流館)見学・千寿の楽しい歴史
いわいの郷(八女市岩戸山歴史文化交流館)見学

平成29年8月26日  天気:雨

大川歴史会37名

大豪族「筑紫君磐井」

北部九州最大の前方後円墳である「岩戸山古墳」。

今から約1500年前、この巨大な古墳を築いたのは八女を拠点とし活躍した古代九州の大豪族「筑紫君磐井」でした。

『古事記』や『日本書紀』にはヤマト王権に背き、九州の豪族とともに「磐井の乱」を率いた反乱者として記されていますが、はたしてこれが真実の姿だったのでしょうか?

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磐井、海を駆ける

磐井をはじめ北部九州の豪族たちは、弥生時代から海を制し、大陸の中国や朝鮮半島と交流を持っていました。特に、鉄を生産し豊かだった伽耶諸国や、高度な文化を誇る中国との交流は意義深いものでした。ヤマト王権に比べ有利な地の利を活かしたものです。

もう一つのポイントは船師。船を造る「造船技術」と、船を操る「航海技術」は高度な先進技術でした。それらを手に、目の前の有明海から大海に出て行ったのです。

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「磐井の乱」

527年に始まり、翌528年ヤマト王権により鎮圧された日本古代史上最大の内乱と言われています。

朝鮮半島の西南部の国「百済」を助けるため、やまと王権が大きな軍事的負担を強要した事に強い不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し、起した反乱であると伝えられています。

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磐井敗れし後は・・・

戦いに敗れた磐井は、『古事記』や『日本書紀』には切り殺されたと記述されています。しかし、これら記紀は戦いの勝者であるヤマト側の立場を重視して書かれたものです。

これに対し『筑後国風土記』(逸文)には、磐井は豊前の国上膳の県(かみつみけのあがた:現在の豊前市周辺)に逃れたと記述されています。豊前市周辺には当時新羅からの帰化人が居住していたとも言われており、信ぴょう性が高い内容が一部含まれています。

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主を守る「石人・石馬」展示

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男根をもつ石人

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アクセス

〒834-0006 福岡県八女市吉田1562-1

TEL  0943-24-3200


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続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-27 11:17 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017オノ・ヨーコの生き方(テレビ)・千寿の楽しい歴史
オノ・ヨーコの生き方

テレビ ファミリーヒストリー

平成29年8月18日放送

オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本・東京出身のアメリカで活動する芸術家、音楽家。

ビートルズのメンバーであり夫であるジョン・レノンと共に平和活動を行ったことや音楽面でも創作活動を行い共作を行ったことが知られている。ジョンの暗殺後も自らの音楽作品を発表し続けている。また著名な前衛芸術家の1人として、多くの前衛作品やパフォーマンスを世に送り出した。息子にミュージシャンのショーン・レノンがいる。

1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。

レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。

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芸術


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by kusennjyu | 2017-08-22 14:14 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017田中道(大木町~小犬塚の一里塚)を訪ねて・千寿の楽しい歴史
田中道(大木町~小犬塚の一里塚)を訪ねて

平成29年5月8日(月)午前9時~

金子俊彦氏と久保田毅で大川市からの3人の女性を案内する。

妙行寺  大木町上牟田口

紫雲山妙行寺は、浄土真宗大谷派の寺院で、受嘱は、代々田中氏が継承して来ました。

慶長元(1596)年、下牟田口に創建され、宝永3(1706)年当地へ移転しました。

山門の奥の欄間部分には、立花家の家紋「祇園守」が彫ってあり、山門をくぐって見返りの欄間の部分には、田中家の家紋「左三ツ巴」が彫ってあります。

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兵部神社  大木町横溝

天正16(1588)年3月17日、田中吉政は「従五位下、兵部大輔」に叙任しています。

税金の一部を免除され、優遇された横溝町の住人たちは、吉政の没後、「兵部神社」を建立し、「座」をつくり、「御免地祭り」を催してきました。

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住吉神社 大木町土甲呂

現在の三潴郡大木町の「土甲呂」は、田中吉政の筑後入国後に新しく造成した「田中道」筋に、慶長8(1603)年に設けられた町です。

近くの住民から集められた住人には、税金の一部が免除されました。

往還沿いの住吉神社の境内に、小さな祠「吉政社」が祀られています。「天保五午年十月吉辰 拾七ケ所半産子中」「田中筑後守吉政」と朱書されています。

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小犬塚の一里塚 三潴町玉満

久留米市三潴町玉満の剣道23号線の小高い丘の上に、「小犬塚村一里塚跡 三潴町大字玉満字道端」と墨書された木柱が立っています。

側面には、「慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦に勝利を収めた徳川家康は、征夷大将軍となり、江戸幕府を開くと、江戸日本橋を起点に主要街道の一里毎に道の両側に小塚を築き、榎等を植えて旅人の里程の目安とした」と。

もう一つの側面には、「関ヶ原合戦で東軍として功をあげた田中吉政は、筑後一円の領主として柳河に入城すると、東海道の例に従い、柳河往還にも一里塚を設け、久留米札の辻を起点に安武目安町の次にこの地を定めた。以前は塚上に松が植っていたが、大正3年の耕地整理で用水路幹線土居の敷地になり、破壊された」とあります。

しかし、この説明文には疑問が残ります。

久留米柳川往還(田中道)に残る二つの一里塚のうち、小犬塚の一里塚は、久留米寄りにある目安町の一里塚からの距離が一里単位に乗らず、半端になります。

そのため、柳川を起点とし、立花時代に設置されたものか、有馬時代の久留米藩が設置したものか、詳しいことは分かりません。


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by kusennjyu | 2017-05-19 20:30 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5

本村精二著

下の写真は柳川郷土研究会で黒門橋付近を研修した時のものです。

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2・ 黒門前の決闘についての考察

④討たれた肥後の隈部一党について

隈部氏の祖は清和源氏で代々菊池家の三執老(赤星氏、城氏、隈部氏)の一つとして仕えていたが、隈部刑部介但馬守親永の代の頃になると山鹿郡の永野城(山鹿市菊鹿町)を本拠として勇躍していた。

主家の菊池氏が滅んだ後の戦国末期になると、大友氏の 介入や家臣間の下克上的勢力争いがあったが、永禄2(1559)年、赤星親家を合瀬(あわせ)川に破り親永が旧菊池家の覇権をほぼ手中に収めた。そして天正6(1578)年、隈府城に入り、菊池・山鹿・山本三郡を領する有力な肥後国人になっていた。

秀吉の九州統一後に新しく国主となった佐々陸奥守成正から、他の国人衆と共に隈本城に呼ばれた親永は、成正の領地政策に異議を申し立て天正15(1587)年7月1日、隈府城に立て籠った。この籠城が肥後国人一揆の発端とされる。

佐々勢に攻められ形勢が不利になった親永は隈府城を脱出して、長子の隈部式部太輔親泰(安)の山鹿城村(じょうむら)城に入った。8月12日に激烈な攻城戦があったが落城せず、10月9日にも平山の付け城に兵糧を運ぶ立花勢との間に激しい戦闘があったが、その後大きな戦いはなく一揆終結までここに籠城することになる。

安国寺恵瓊の策略により講話開城した長子の隈部親泰(安)は家老の有働大隅守兼元と重臣の山鹿彦次郎重安、北里三河守与三兵衛、同能登、同志摩、小場道庵、甲斐武蔵以下15名(一説では80名)と共に小倉の毛利勝信に預けられた。他方隈部親永と二男(一説では三男)の親房ら12名は立花宗茂に預けられることになった。

豊臣秀吉が天正16(1588)年1月5日に小早川隆景に宛てた書状(小早川文書)によれば「12月17日書状、昨日4日、至大阪到来、加被見候、一、有働大隅守(兼元)、隈部式部太輔(親安)事、子供召連走入、城可相渡之由、申付而、安岡寺ニ人数相添差遣わす之由候、彼両人事者、一揆張本人候間、非可彼助置儀候、城を請け取候て、・・・」とあり、秀吉は有働兼元と隈部親泰(安)が肥後一揆の張本人であるから、開城したら速やかに両名を処刑するように命令を出している。

親泰(安)・兼元一行は、秀吉に申し開きをして所領安堵を誓願するために、小倉浜で上阪の船を待っている所を毛利勢に襲撃されて謀殺されたとされるが、その時期については不明である。親泰(安)が11月まで生存していた事を示唆する資料(原口家文書)もあるが、秀吉の書状の内容を考慮すると小倉に着いた後、すぐ誅殺されたと考えるのが妥当であろう。

隈部親永は隈部一族の家長であったが、高齢でもあり一揆の戦いに積極的には荷担していなかった。また秀吉は九州下向の折に謁見した親永を評価して、一物の武将であると述べている。秀吉は親永を来るべき朝鮮出兵の先手に使おうとしていたとの節もある。

このような状況を考えると秀吉はこの時、親永に対する処分をまだ決めかねていたのではないだろうか。故に親泰(安)と兼元ら山鹿城村(じょうむら9城の武将を小倉の毛利に預け、親永ら12名を筑後の立花に預けて両者を二分したのではないかと思われるのである。

事実柳川蟄居中の隈部一党が黒門で討たれたのは、5月14日に佐々成正が切腹させられた日から13日後になるのである。また佐々成正に自害を命じた後も親永に対して何の沙汰も出さない秀吉に、近臣が世の公平のために親永処罰の進言をしたので、秀吉は仕方なく親永の処刑を命じたとの説もある。

一揆終結後、四ケ月という長いようで短い時間の経過の中、上方の指示を待たずに上阪した成正と面会を許さなかった秀吉との互いの心理状態の機微を感じさせられる。


歴史に「もしも」はないが佐々成正の切腹がなかったら、親永も助命されて黒門の決闘はなかったのかも知れない。

黒門の決闘が行われた天正16(1588)年に、筑後柳川で死亡したとされる隈部側の人物について、諸資料を参考にして判明した名前を列記してみる。

筆頭はもちろん首領の隈部但馬守親永(立花家旧記や小野文書ではなぜか筑後守と記される)以下二男(一説では三男)の隈部親房、娘婿の隈部正利、隈部善良、内空閑鎮房、有働某、牧野某、辻某、長谷川某、本荘某、落合某、鶴某、福島某の計13名である。

隈部家代々物語によると親永には鎮房という二男があり、山本郡霜野城主の内空閑鎮資の養子となり内空閑権太夫鎮房と名乗ったという。一方隈部物語では、この内空閑鎮房は親泰(安)の妹婿と記されるが、いずれにしても親永に近い関係の人物である。

一揆勢による隈本城の包囲を知り、成正が山鹿から急ぎ隈本へ引き返す時に、佐々軍の勇将佐々与左衛門宗能(むねよし・成正の甥)は、成正のおとりになって本道の鹿子木(かなこぎ)を突破しようとして内空閑鎮房に討たれている。そのために鎮房は成正にいたく憎まれていたらしい。

一揆後の鎮房の消息はよく解らないが、筑後に隠れているのを捕らえられて誅されたとの説(佐々伝記)や筑後柳川城で討たれたとの説があるが、親永一行と共に柳川へ送られた可能性も考えられる。

柳川で討たれた隈部一族について調べるために平成18年の秋、山鹿市菊鹿町にある隈部館跡を訪ねた。隈部館跡の奥に、最近柳川から移したという柳川隈部家当主(初代成真から7代真博まで)の墓があり、同所には柳川黒門橋の六地蔵尊にあった隈部親永以下12名の霊も分骨して祀ってある。その墓誌碑には「隈部親永、隈部親房、隈部筑後守正利善良、牧野某、辻某、本荘某、落合某、鶴某、有働某、外2名(不明)」と記してある。

娘婿とされる隈部正利は隈部筑後守正利善良と記してある。新田義貞の末裔で法師武士(新田掃部介の実弟)だった隈部善良と親永の娘婿隈部筑後守正利は同一人物ということになる。筑後善導寺の僧だった善良は肥後で修行中、親永に半ば強制的に還俗させられたと伝えられるが、善良の剛勇さはもとよりその血統の貴稀さを請われて親永の娘婿に迎えられたことは十分考えられる。隈部善良が筑後入道、隈部正利が筑後守と称したことも相通じるところがある。旧柳川藩志にも「肥後の叛将隈部親永某の養子善良以下12人」の記載がありこれを裏付ける。この2人が同一人物とすると黒門で討たれた隈部一党は丁度12人となり数が合う。やはり両方12名による決闘だったと考えられる。別の資料を考慮すると墓碑の不明2名は、内空閑鎮火房と福島某の可能性があるが定はできない。今後の調査を待ちたい。

菊鹿町の資料には、隈部親永とその一党は柳川で切腹した、自刃した、あるいは抵抗しないで討たれたと記されたものが多い。郷土の英雄に対する愛情がそういう表現になるのだと思う。しかし立花側にも戦死者や多数の手負いが出ているので、やはり激しい決闘が行われたことは事実であろう。そして隈部一党は勇猛な肥後武士として戦場で最後を遂げたのであり、立花宗茂もそれを望んだのである。

立花家臣で戦死した森又右衛門の相手をして生き残った隈部側の1人は許され、国境まで送られ肥後へ返されたとの通説があるが、立花側の12名の討つ手は全員生き残っており、また秀吉の一揆処理に対する過酷さを考えるとその説は考え難い。肥後の方の資料にもその事実は見当たらない。決闘の後、1名が肥後へ返されたとの伝えは後世の創作と思われる。

隈部館跡は詰城のあった猿返し(さるがえし)山(標高682m)の中腹にある。館といっても両脇は深い谷で守られ、正面に石垣造りの枡形(ますがた)虎口があり、大規模な堀切や切岸、空堀、土塁を備えた山城にちかい構造である。隈部氏の勢力の大きさが窺える。0

標高350mにある館跡の眼下には肥沃な菊池平野が広がり、遠く有明海や雲仙まで望むことができる。この雄大な景色を、若い頃の親永は如何なる野心を持って見たのであろうか。

人の運命は不思議なものである。後年筑後柳川で悲運の死を遂げ、そこに骨を埋める事になると親永は予測しなかったであろう。父祖伝来の土地を離れ、筑肥国境を越えた隈部一行の心境はいかばかりであったろうか察するに余りある。

晩秋の隈部館跡に立ち、すすきの穂波が広がる麓の景色を眺めていると、ふとそんな思いに誘われた。

隈部親永と共に討たれた二男(一説では三男)の親房(山鹿西牧村の領主)には成真と云う男子がいて、この成真は後年柳川藩主に招かれて立花家に仕えたと伝えられる(柳川の隈部一族はこの成真の子孫である。)。そしてその子孫は代々柳川に永住し、現在は三池に住んでおられる。この事実にも宗茂の義がかいま見られる。

約400年前に柳川城内にあった黒門前の広場で立花家臣と隈部一党の武士12人による苛烈な決闘があった事を考えながら、忙しく車が行き交う黒門橋のたもとに立つと、往時の状況と現在の風景が交錯して時代の推移の妙を感じざるを得ない。

三,おわりに

黒門の決闘は、立花宗茂について論ずる時に必ず記述される代表的な逸話である。本稿ではこの決闘の舞台となった黒門前広場と、決闘を行った立花・隈部双方の武士達について若干の考察を試みた。

黒門の戦いに関する従来の記述は、宗茂の武将としての信義や立花主従の絆、また相敵して戦った新田兄弟の心理的葛藤に重点を置いたものが多い。そして討たれた肥後武士の隈部親永一族についての記述は、単に一揆の張本人で罪人としての取り扱いが多いように思われる。

今回、熊本県菊花町を訪れて感じたことは、隈部親永は秀吉が目をつけたと云われる程の器量を持った人物で、武勇だけでなく知略も兼ね備えた相当な武将であったということである。現在も隈部親永(公)は菊鹿町上永野の館跡の神社に武勲の神として祀られ、土地の人々から「くまべさん」と呼ばれて慕われ、郷土の誇りとされているのである。

肥後国主として入国した佐々成正と、本領安堵の朱印をもらった国人領主との領地対決は必然的な結果であった。それを見越して指図した秀吉の二重支配が国人一揆の主な原因であり、佐々成正と国人領主達に非はなかったと思われるのである。

親永にしても武士としての意地を通したのであり、一揆の首謀者とされるのは不本意ではなかったろうか。柳川城内黒門で討たれた隈部親永とその一族の無念さを感じずにはいられない。

ともあれ時間的経過について述べるなら、隈部親永の隈府籠城が肥後国人一揆の発端であり、柳川城黒門で親永が討たれた事により、事実上一揆の全てが終了したことになる。宗茂の義によって行われた「黒門の放し討ち」は、肥後国人一揆全ての事象の終結を意味する歴史的出来事であったと言えるかも知れない。

すでによく知られた話を今更論じるのも恐れ多く、また少ない文献と拙(つたな)い検証のために重大な事実誤認をしているかも知れないことを懸念する。諸先生方に御指摘と御指導をいただければ幸いである。

本稿は柳川郷土研究会発行「瓦版第十八号」(平成19年2月)に掲載した。資料の提供をいただいた柳川郷土研究会会長 武松豊先生、山鹿市教育委員会菊鹿分室 岩井賢太氏に深謝する。


有難うございました。






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by kusennjyu | 2017-05-13 17:49 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017山鹿市研修の記念写真集・千寿の楽しい歴史
山鹿市研修の記念写真集

柳川郷土研究会主催  参加者32名(4名は新大牟田駅乗車)

平成29年4月25日午柳川出発午前9時

田中城跡で説明する

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一本松公園 石のかざぐるま

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鞠智城(きくちじょう)

昼食と資料館見学

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あんずが丘公園  隈部親永銅像

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隈部氏墓へ向かう

柳川城の黒門広場で放し討ちで亡くなった12名と家族の墓

私と話をしているのは南関町にあった大津山城主の末裔の大津山氏。

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隈部氏館跡


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写真の送付、有難うございました。





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by kusennjyu | 2017-05-09 18:15 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る