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カテゴリ:歴史学習会( 297 )
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2017田中道(大木町~小犬塚の一里塚)を訪ねて・千寿の楽しい歴史
田中道(大木町~小犬塚の一里塚)を訪ねて

平成29年5月8日(月)午前9時~

金子俊彦氏と久保田毅で大川市からの3人の女性を案内する。

妙行寺  大木町上牟田口

紫雲山妙行寺は、浄土真宗大谷派の寺院で、受嘱は、代々田中氏が継承して来ました。

慶長元(1596)年、下牟田口に創建され、宝永3(1706)年当地へ移転しました。

山門の奥の欄間部分には、立花家の家紋「祇園守」が彫ってあり、山門をくぐって見返りの欄間の部分には、田中家の家紋「左三ツ巴」が彫ってあります。

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兵部神社  大木町横溝

天正16(1588)年3月17日、田中吉政は「従五位下、兵部大輔」に叙任しています。

税金の一部を免除され、優遇された横溝町の住人たちは、吉政の没後、「兵部神社」を建立し、「座」をつくり、「御免地祭り」を催してきました。

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住吉神社 大木町土甲呂

現在の三潴郡大木町の「土甲呂」は、田中吉政の筑後入国後に新しく造成した「田中道」筋に、慶長8(1603)年に設けられた町です。

近くの住民から集められた住人には、税金の一部が免除されました。

往還沿いの住吉神社の境内に、小さな祠「吉政社」が祀られています。「天保五午年十月吉辰 拾七ケ所半産子中」「田中筑後守吉政」と朱書されています。

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小犬塚の一里塚 三潴町玉満

久留米市三潴町玉満の剣道23号線の小高い丘の上に、「小犬塚村一里塚跡 三潴町大字玉満字道端」と墨書された木柱が立っています。

側面には、「慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦に勝利を収めた徳川家康は、征夷大将軍となり、江戸幕府を開くと、江戸日本橋を起点に主要街道の一里毎に道の両側に小塚を築き、榎等を植えて旅人の里程の目安とした」と。

もう一つの側面には、「関ヶ原合戦で東軍として功をあげた田中吉政は、筑後一円の領主として柳河に入城すると、東海道の例に従い、柳河往還にも一里塚を設け、久留米札の辻を起点に安武目安町の次にこの地を定めた。以前は塚上に松が植っていたが、大正3年の耕地整理で用水路幹線土居の敷地になり、破壊された」とあります。

しかし、この説明文には疑問が残ります。

久留米柳川往還(田中道)に残る二つの一里塚のうち、小犬塚の一里塚は、久留米寄りにある目安町の一里塚からの距離が一里単位に乗らず、半端になります。

そのため、柳川を起点とし、立花時代に設置されたものか、有馬時代の久留米藩が設置したものか、詳しいことは分かりません。


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続きます。




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by kusennjyu | 2017-05-19 20:30 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介5

本村精二著

下の写真は柳川郷土研究会で黒門橋付近を研修した時のものです。

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2・ 黒門前の決闘についての考察

④討たれた肥後の隈部一党について

隈部氏の祖は清和源氏で代々菊池家の三執老(赤星氏、城氏、隈部氏)の一つとして仕えていたが、隈部刑部介但馬守親永の代の頃になると山鹿郡の永野城(山鹿市菊鹿町)を本拠として勇躍していた。

主家の菊池氏が滅んだ後の戦国末期になると、大友氏の 介入や家臣間の下克上的勢力争いがあったが、永禄2(1559)年、赤星親家を合瀬(あわせ)川に破り親永が旧菊池家の覇権をほぼ手中に収めた。そして天正6(1578)年、隈府城に入り、菊池・山鹿・山本三郡を領する有力な肥後国人になっていた。

秀吉の九州統一後に新しく国主となった佐々陸奥守成正から、他の国人衆と共に隈本城に呼ばれた親永は、成正の領地政策に異議を申し立て天正15(1587)年7月1日、隈府城に立て籠った。この籠城が肥後国人一揆の発端とされる。

佐々勢に攻められ形勢が不利になった親永は隈府城を脱出して、長子の隈部式部太輔親泰(安)の山鹿城村(じょうむら)城に入った。8月12日に激烈な攻城戦があったが落城せず、10月9日にも平山の付け城に兵糧を運ぶ立花勢との間に激しい戦闘があったが、その後大きな戦いはなく一揆終結までここに籠城することになる。

安国寺恵瓊の策略により講話開城した長子の隈部親泰(安)は家老の有働大隅守兼元と重臣の山鹿彦次郎重安、北里三河守与三兵衛、同能登、同志摩、小場道庵、甲斐武蔵以下15名(一説では80名)と共に小倉の毛利勝信に預けられた。他方隈部親永と二男(一説では三男)の親房ら12名は立花宗茂に預けられることになった。

豊臣秀吉が天正16(1588)年1月5日に小早川隆景に宛てた書状(小早川文書)によれば「12月17日書状、昨日4日、至大阪到来、加被見候、一、有働大隅守(兼元)、隈部式部太輔(親安)事、子供召連走入、城可相渡之由、申付而、安岡寺ニ人数相添差遣わす之由候、彼両人事者、一揆張本人候間、非可彼助置儀候、城を請け取候て、・・・」とあり、秀吉は有働兼元と隈部親泰(安)が肥後一揆の張本人であるから、開城したら速やかに両名を処刑するように命令を出している。

親泰(安)・兼元一行は、秀吉に申し開きをして所領安堵を誓願するために、小倉浜で上阪の船を待っている所を毛利勢に襲撃されて謀殺されたとされるが、その時期については不明である。親泰(安)が11月まで生存していた事を示唆する資料(原口家文書)もあるが、秀吉の書状の内容を考慮すると小倉に着いた後、すぐ誅殺されたと考えるのが妥当であろう。

隈部親永は隈部一族の家長であったが、高齢でもあり一揆の戦いに積極的には荷担していなかった。また秀吉は九州下向の折に謁見した親永を評価して、一物の武将であると述べている。秀吉は親永を来るべき朝鮮出兵の先手に使おうとしていたとの節もある。

このような状況を考えると秀吉はこの時、親永に対する処分をまだ決めかねていたのではないだろうか。故に親泰(安)と兼元ら山鹿城村(じょうむら9城の武将を小倉の毛利に預け、親永ら12名を筑後の立花に預けて両者を二分したのではないかと思われるのである。

事実柳川蟄居中の隈部一党が黒門で討たれたのは、5月14日に佐々成正が切腹させられた日から13日後になるのである。また佐々成正に自害を命じた後も親永に対して何の沙汰も出さない秀吉に、近臣が世の公平のために親永処罰の進言をしたので、秀吉は仕方なく親永の処刑を命じたとの説もある。

一揆終結後、四ケ月という長いようで短い時間の経過の中、上方の指示を待たずに上阪した成正と面会を許さなかった秀吉との互いの心理状態の機微を感じさせられる。


歴史に「もしも」はないが佐々成正の切腹がなかったら、親永も助命されて黒門の決闘はなかったのかも知れない。

黒門の決闘が行われた天正16(1588)年に、筑後柳川で死亡したとされる隈部側の人物について、諸資料を参考にして判明した名前を列記してみる。

筆頭はもちろん首領の隈部但馬守親永(立花家旧記や小野文書ではなぜか筑後守と記される)以下二男(一説では三男)の隈部親房、娘婿の隈部正利、隈部善良、内空閑鎮房、有働某、牧野某、辻某、長谷川某、本荘某、落合某、鶴某、福島某の計13名である。

隈部家代々物語によると親永には鎮房という二男があり、山本郡霜野城主の内空閑鎮資の養子となり内空閑権太夫鎮房と名乗ったという。一方隈部物語では、この内空閑鎮房は親泰(安)の妹婿と記されるが、いずれにしても親永に近い関係の人物である。

一揆勢による隈本城の包囲を知り、成正が山鹿から急ぎ隈本へ引き返す時に、佐々軍の勇将佐々与左衛門宗能(むねよし・成正の甥)は、成正のおとりになって本道の鹿子木(かなこぎ)を突破しようとして内空閑鎮房に討たれている。そのために鎮房は成正にいたく憎まれていたらしい。

一揆後の鎮房の消息はよく解らないが、筑後に隠れているのを捕らえられて誅されたとの説(佐々伝記)や筑後柳川城で討たれたとの説があるが、親永一行と共に柳川へ送られた可能性も考えられる。

柳川で討たれた隈部一族について調べるために平成18年の秋、山鹿市菊鹿町にある隈部館跡を訪ねた。隈部館跡の奥に、最近柳川から移したという柳川隈部家当主(初代成真から7代真博まで)の墓があり、同所には柳川黒門橋の六地蔵尊にあった隈部親永以下12名の霊も分骨して祀ってある。その墓誌碑には「隈部親永、隈部親房、隈部筑後守正利善良、牧野某、辻某、本荘某、落合某、鶴某、有働某、外2名(不明)」と記してある。

娘婿とされる隈部正利は隈部筑後守正利善良と記してある。新田義貞の末裔で法師武士(新田掃部介の実弟)だった隈部善良と親永の娘婿隈部筑後守正利は同一人物ということになる。筑後善導寺の僧だった善良は肥後で修行中、親永に半ば強制的に還俗させられたと伝えられるが、善良の剛勇さはもとよりその血統の貴稀さを請われて親永の娘婿に迎えられたことは十分考えられる。隈部善良が筑後入道、隈部正利が筑後守と称したことも相通じるところがある。旧柳川藩志にも「肥後の叛将隈部親永某の養子善良以下12人」の記載がありこれを裏付ける。この2人が同一人物とすると黒門で討たれた隈部一党は丁度12人となり数が合う。やはり両方12名による決闘だったと考えられる。別の資料を考慮すると墓碑の不明2名は、内空閑鎮火房と福島某の可能性があるが定はできない。今後の調査を待ちたい。

菊鹿町の資料には、隈部親永とその一党は柳川で切腹した、自刃した、あるいは抵抗しないで討たれたと記されたものが多い。郷土の英雄に対する愛情がそういう表現になるのだと思う。しかし立花側にも戦死者や多数の手負いが出ているので、やはり激しい決闘が行われたことは事実であろう。そして隈部一党は勇猛な肥後武士として戦場で最後を遂げたのであり、立花宗茂もそれを望んだのである。

立花家臣で戦死した森又右衛門の相手をして生き残った隈部側の1人は許され、国境まで送られ肥後へ返されたとの通説があるが、立花側の12名の討つ手は全員生き残っており、また秀吉の一揆処理に対する過酷さを考えるとその説は考え難い。肥後の方の資料にもその事実は見当たらない。決闘の後、1名が肥後へ返されたとの伝えは後世の創作と思われる。

隈部館跡は詰城のあった猿返し(さるがえし)山(標高682m)の中腹にある。館といっても両脇は深い谷で守られ、正面に石垣造りの枡形(ますがた)虎口があり、大規模な堀切や切岸、空堀、土塁を備えた山城にちかい構造である。隈部氏の勢力の大きさが窺える。0

標高350mにある館跡の眼下には肥沃な菊池平野が広がり、遠く有明海や雲仙まで望むことができる。この雄大な景色を、若い頃の親永は如何なる野心を持って見たのであろうか。

人の運命は不思議なものである。後年筑後柳川で悲運の死を遂げ、そこに骨を埋める事になると親永は予測しなかったであろう。父祖伝来の土地を離れ、筑肥国境を越えた隈部一行の心境はいかばかりであったろうか察するに余りある。

晩秋の隈部館跡に立ち、すすきの穂波が広がる麓の景色を眺めていると、ふとそんな思いに誘われた。

隈部親永と共に討たれた二男(一説では三男)の親房(山鹿西牧村の領主)には成真と云う男子がいて、この成真は後年柳川藩主に招かれて立花家に仕えたと伝えられる(柳川の隈部一族はこの成真の子孫である。)。そしてその子孫は代々柳川に永住し、現在は三池に住んでおられる。この事実にも宗茂の義がかいま見られる。

約400年前に柳川城内にあった黒門前の広場で立花家臣と隈部一党の武士12人による苛烈な決闘があった事を考えながら、忙しく車が行き交う黒門橋のたもとに立つと、往時の状況と現在の風景が交錯して時代の推移の妙を感じざるを得ない。

三,おわりに

黒門の決闘は、立花宗茂について論ずる時に必ず記述される代表的な逸話である。本稿ではこの決闘の舞台となった黒門前広場と、決闘を行った立花・隈部双方の武士達について若干の考察を試みた。

黒門の戦いに関する従来の記述は、宗茂の武将としての信義や立花主従の絆、また相敵して戦った新田兄弟の心理的葛藤に重点を置いたものが多い。そして討たれた肥後武士の隈部親永一族についての記述は、単に一揆の張本人で罪人としての取り扱いが多いように思われる。

今回、熊本県菊花町を訪れて感じたことは、隈部親永は秀吉が目をつけたと云われる程の器量を持った人物で、武勇だけでなく知略も兼ね備えた相当な武将であったということである。現在も隈部親永(公)は菊鹿町上永野の館跡の神社に武勲の神として祀られ、土地の人々から「くまべさん」と呼ばれて慕われ、郷土の誇りとされているのである。

肥後国主として入国した佐々成正と、本領安堵の朱印をもらった国人領主との領地対決は必然的な結果であった。それを見越して指図した秀吉の二重支配が国人一揆の主な原因であり、佐々成正と国人領主達に非はなかったと思われるのである。

親永にしても武士としての意地を通したのであり、一揆の首謀者とされるのは不本意ではなかったろうか。柳川城内黒門で討たれた隈部親永とその一族の無念さを感じずにはいられない。

ともあれ時間的経過について述べるなら、隈部親永の隈府籠城が肥後国人一揆の発端であり、柳川城黒門で親永が討たれた事により、事実上一揆の全てが終了したことになる。宗茂の義によって行われた「黒門の放し討ち」は、肥後国人一揆全ての事象の終結を意味する歴史的出来事であったと言えるかも知れない。

すでによく知られた話を今更論じるのも恐れ多く、また少ない文献と拙(つたな)い検証のために重大な事実誤認をしているかも知れないことを懸念する。諸先生方に御指摘と御指導をいただければ幸いである。

本稿は柳川郷土研究会発行「瓦版第十八号」(平成19年2月)に掲載した。資料の提供をいただいた柳川郷土研究会会長 武松豊先生、山鹿市教育委員会菊鹿分室 岩井賢太氏に深謝する。


有難うございました。






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by kusennjyu | 2017-05-13 17:49 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017山鹿市研修の記念写真集・千寿の楽しい歴史
山鹿市研修の記念写真集

柳川郷土研究会主催  参加者32名(4名は新大牟田駅乗車)

平成29年4月25日午柳川出発午前9時

田中城跡で説明する

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一本松公園 石のかざぐるま

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鞠智城(きくちじょう)

昼食と資料館見学

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あんずが丘公園  隈部親永銅像

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隈部氏墓へ向かう

柳川城の黒門広場で放し討ちで亡くなった12名と家族の墓

私と話をしているのは南関町にあった大津山城主の末裔の大津山氏。

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隈部氏館跡


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写真の送付、有難うございました。





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by kusennjyu | 2017-05-09 18:15 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017山鹿市研修(鞠智城5)・千寿の楽しい歴史
山鹿市研修(鞠智城5)

柳川郷土研究会主催  参加者32名(4名は新大牟田駅乗車)

平成29年4月25日午前9時柳川出発

貯水池跡


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資料編は終ります。

有難うございました。






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by kusennjyu | 2017-05-07 06:45 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介4・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介4

本村精二著

2・ 黒門前の決闘についての考察

③立花側の討手について

柳河藩立花家分限帳の立花家旧記の中の細目に「天正16年5月27日隈部筑後守親永黒御門ニテ御成敗之節出会候人数」の記載があり、ここには15名の名前が載っている。上段に「御人数引廻由布壱岐守」とある。この壱岐守は実際に戦闘に参加しないで、責任者として総指揮を執り行ったものと思われる。

以下「十時摂津守、十時伝右衛門、池邊彦左衛門、安東善右衛門、十時勘解由、池邊龍右衛門、安東五郎右衛門、石松安兵衛ら」の名があり続いて「手負 原尻宮内、内田忠右衛門、新田掃部、森下内匠」とあり(計12名)、下段に「他ニ通掛戦死森又右衛門、跡押小野和泉守」と記される。

跡押と記された小野和泉守は支城の蒲池城督で城持分の武将である。決闘には直接参加しないで、万一討ち損じた場合のために後詰めとして手勢を率いて後方に備えていたと推定される。

通説では、立花側の討手は12名とされるが、通掛戦死と記される森又右衛門を含めると13名になる。けだし「外ニ通掛戦死」と記された森又右衛門という人物は正規の討手ではないが、何かの原因で(文字通りに考えると通り掛かりに)決闘に巻き込まれ、斬られたのであろう。

菊鹿町史資料編に掲載された小野文書にも「隈部親永成敗出会人数覚写す」の細目がある。ここに記された人名と人名は立花家旧記とほぼ照応する(安東善右衛門、石松安兵衛が安東宮右衛門、原尻宮内が古庄宮内と記されているが)。戦死したとされる森又右衛門についての記述は「〆十弐人外ニ掛通り」とある。

旧柳川藩志にも、森又右衛門は偶発的に切り払われて戦死したと記してある。やはりこの人物は正規の12人の討手
ではなく、決闘に巻き込まれて戦死したと考えられる。

諸資料に記載された立花武士の人数はいずれも12人だが、人名の記載は各資料で異なり一致しない。しかしながら立花家旧記に記される名簿が最も信頼出来るような印象を受ける。

立花側の出会人の中に新田掃部(かもん)という人物の記載がある。この人は清和源氏の血を継ぐ新田義貞の末裔で、新田掃部介と名乗り立花家に仕えていた。

運命とは不思議で残酷なものである。討たれた肥後衆の中に隈部筑後入道善良と名乗る剛強の若い武士がいたが、この法師武者は新田掃部介の実弟であったという。筑後の善導寺の僧だったが、肥後で親永に請われて還俗して隈部善良と名乗っていた。

佐々伝記の「大津山・和仁・邊春設伏兵与柳川勢戦事」の項に「家稜が舅内空閑鎮房が方より、新田善良といふものを使として・・・」とあるように、この時善良は隈部勢と行動を共にしていたようである。城村(じょうむら)城を出た後親永に従い柳川へ来ていたと思われる。この決闘で兄弟が相方に分かれて戦ったことになる。戦国の世の武士の掟の厳しさを感じる。

立花側の武士で戦端に隈部親永を斬った十時伝右衛門は、よほどの剛勇だったらしく、立花関係の他の武勇伝にも登場する。天正12年の夏、高良山下の筑後陣においてあまりの猛暑のために水浴びをしている所を敵方の草野勢に急襲され、慌てて逃げる味方を尻目に味方の加勢が来るまで素っ裸で槍を振り回し2人の敵を突き伏せたとの逸話がある。ちなみにこの時裸で敵に応戦した者の中に池邊龍右衛門の名もあり、黒門の決闘に参加した立花勢は家中でも最強の武士達を選抜して事に当たらせたことが推測される。

もう一つ伝右衛門に関する武勇伝は、高島居城攻防戦での出来事である。天正14年の夏、九州制圧に乗り出した秀吉軍に追われ退却する島津軍の後援として、粕屋郡の高島居城に籠った星野兄弟を立花勢が攻めた時のことである。伝右衛門は城主星野中務大輔吉実を見事に討ち取ったが、一緒に戦った立花次郎兵衛と手柄を譲り合ったという美談の逸話を残している。惜しいことにこの十時伝右衛門は、文禄2(1593)年の碧諦館の戦い(朝鮮役)で先鋒将を務め、池邊龍右衛門と共に戦死している。

ちなみにこの黒門の決闘に参加した安東五郎右衛門、石松安兵衛も慶長5(1600)年10月の三潴八院の戦い(江上役)において、先鋒として鍋島陣深く突撃して戦死している。両人とも血気盛んな青年武将(足軽頭)だったという。

新田義貞の末裔の新田掃部も八院合戦で戦死したと云う。戦国の世を強く生きた武士達の生き様が感じられる。

十時右衛門は戦端に隈部親永を斬ったと記したが、「柳川史話」で伝右衛門は肥後郡主隈部正利を斬ったと記載されている。隈部正利は親永の娘婿でこの戦いの場にいたので、伝右衛門は親永と正利の2人を斬ったのかも知れない。そう考えると黒門の戦いは厳に一対一の決闘ではなくて12名の集団による戦いで、結果的に一対一もしくは少人数どおしの斬り合いになったと考えられる。

立花宗茂は十時伝右衛門や池邊龍右衛門ら、筑前以来立花家に仕えて戦国の乱世を戦い抜いて来た最強の武士達を選び必勝の体制で、命を懸けたこの決闘に当たらせて隈部一党の誅殺に義を持って対処したと考えられるのである。


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続きます。






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by kusennjyu | 2017-05-07 06:15 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017山鹿市研修(鞠智城4)・千寿の楽しい歴史
山鹿市研修(鞠智城4)

柳川郷土研究会主催  参加者32名(4名は新大牟田駅乗車)

平成29年4月25日午前9時柳川出発

城門跡・土塁跡


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by kusennjyu | 2017-05-06 19:11 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介3・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介3

本村精二著

2・ 黒門前の決闘についての考察

①黒門について

柳川城はもとは蒲池城の出城であったが永禄3年頃、蒲池鑑盛(あきもり)が本格的に拡張して本城に造り直して、現在の堀割に近いものにしたと云われる。 寛政3年の柳川城下図に見る城郭は、関ヶ原の戦い(慶長5年)後、入封した田中吉政が慶長年間に筑後32万石の身代をかけて大々的に増改築したものである。

天正15(1587)年に筑前から立花宗茂が入城した当時の柳川城は規模も小さく、堀と土塁を主にした城で、寛政の絵図に見る城郭とは多少異なっていたと推測される。しかしながら天正8年の龍造寺勢、天正12年の大友勢の2度に渡る猛攻にも陥落しなかった堅城だったことに違いはない。


元来、宗茂は野戦を好み、籠城に重きを置く城郭建築にはあまり関心を持たなかったと伝えられるが、豊臣大名としての立花宗茂も、入封後、城の増築と改修を急いだようである。二の丸の前の内堀に架けられていた通称欄干橋の擬宝珠に慶長4年の銘が刻してあり、関ヶ原以前にすでに三の丸があり、その東南隅に黒門があったことは事実であろう。

秀吉による天下統一が成ったとはいえ、臨戦態勢の解けない時代だったから、城の内郭を守る重要な役目を持つ黒門は特に厳重な造りであったと思われ、時代的にも狭間と櫓を備えた枡形(ますがた)門であったと考えられる。

②決闘の場所について

立花家旧記に「黒門前ニテ御成敗」とある。黒門前とはどこを意味するのか、その場所について考察した。可能性として3ケ所が考えられる。

一つは中堀の外、黒門橋の手前で現在「黒門前戦場」の石碑が建っている付近である。しかしこの石碑は大正時代に建てられたものであり、横にある六面地蔵(六地蔵尊)と隈部親永の供養塔と伝えられる石塔はずっと昔からあったとの事(庭の持ち主で年配の住人の話)で、また六地蔵は死者を冥土へ導く入り口に置かれるとされるから、むしろこの場所は隈部一党を供養した場所ではないだろうか。またここが決闘の場なら、資料にも黒門外の戦いと記されるのが妥当ではなかろうか。

次に考えられる場所は、黒門橋を渡った門前の溜まり場で、堀に囲まれた枡形の空間である。文字どおりに解釈するなら、ここは正しく黒門前になる。しかしこの場所は最大に見積もっても、一辺が5間(9メートル)以上の幅はなく、双方合せて30人近くの人数で戦うのには狭すぎる。決闘が行われた場所とは考え難い。

最後の考えられる場所は黒門の中、三の丸東南隅の広場である。ここなら少なく見積もっても22間(40メートル)四方の面積があり、20数人が同時に戦うのに十分な広さがある。宗茂を随行させた検視役の浅野長政も、二の丸東南隅の櫓から掘越に決闘の一部始終を検分することが可能である。門を閉ざすことにより隈辺側の逃亡を防ぐことも出耒たであろう。やはり三の丸広場を決闘の場所とするのが妥当と考えられる。

黒門橋を渡った隈辺一党12名は枡形の溜まり場に立ち、右側(北側)の黒門が内開きに開くのを待って三の丸へ入ったのであろうか。決闘の行われた場所は現在の城南町交差点付近を中心に柳川消防署辺りまでの範囲と推測される。


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by kusennjyu | 2017-05-06 11:31 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介2・千寿の楽しい歴史
『黒門前の決闘(放し討ち)について』の紹介2

本村精二著

1.黒門前の決闘の概要

③黒門前広場の決闘

この様な事態の経過の後、柳川城内の黒門前広場で、世にも珍しい「放し討ち」による決闘が行われたのである。

天正16年5月26日、秀吉の使者により、柳川に蟄居中の隈部親永ら12名に対する処刑命令が伝えられた。検現役の上使として浅野長政が来柳した。命令を受けた立花宗茂は辛い立場に立たされた。

本領安堵を信用して講話開城した隈部一党である。これを処刑にするのは騙し討ちに等しい。宗茂には実父高橋紹運(じょううん)から引き継がれ、養父立花(戸次・べっき)道雪に養われた信義を第一とする武門の血が流れている。恥ずべき騙し討ちの汚名を後世に残すことは断じて許されない。しかしながらもとより忠誠を誓った恩ある秀吉の命令に背くことはできない。誉れ高い肥後武士である隈部一党の面目を立て、かつ立花家の名誉を守る方策は一つしかない。討手にも甚大な犠牲を強いる手段である。

その夜、宗茂は検使役の浅野長政翌日の「放し討ち」を願い出た。討手側にも大きな犠牲を出すかも知れない前代未聞のこの申し出に長政は驚いたが、武士の信義を貫こうとする宗茂の決意に心動かされ「放し討ち」を許可した。来柳した上使が秀吉の正室(ねね殿)の妹婿、長政であった事も立花家に幸いした。

開けた天正16(1588)年5月27日の朝、黒門前の広場で史上まれな「放し討ち」の決闘が行われた。立花家からも隈部一党と同じ数の12人の討手が選ばれた。十時(ととき)摂津、十時伝右衛門、池邊龍右衛門、安東善右衛門、十時勘解由、池邊彦左衛門、安東五郎右衛門、石松安兵衛ら、家老分や母袋(ほろ)分として宗茂の直下に仕える名だたる歴戦の勇者達であった。

隈部親永以下12名は柳川へ送られた正月以来、三の丸から中堀を隔た所に特別の屋敷を与えられ蟄居していた。罪人とはいえ肥後52人の国人衆の旗頭と注目された隈部親永である。宗茂は彼らを武人として手厚く処遇していた。

八女の山々の峰の端が白みはじめた払暁(ふつぎょう)、蟄居中の隈部親永の下へ使者が派遣されて、隈部一党への登城要請が告げられた。身志度を整えた一同は、帯刀を許されて威儀を正して屋敷を出た。

使者に案内された隈部一党が黒門橋を渡ると門が開けられた。そこに彼らを待っていたのは、抜刀した12人の立花武士だった。にわかに辺りは殺気に包まれた。

十時摂津が進み出て「関白秀吉様から隈部一党処刑の命令を受けたが、宗茂公の情けにより決闘により討ち果たす」の旨を口上したある肥後の隈部・有働一族も名の勇者達だったので騒ぐこと無く静香に太刀を抜いて身構えた。時は巳の刻(午前10時)、初夏の空を太陽が照らし始めている。上使の浅野長政と城主立花宗茂は二の丸の辰巳櫓から、今まさに始まる決闘を凝視していた。堀を隔てた隅櫓(すみやぐら)に立つ宗茂の姿を見た隈部親永は、この処遇に対して深く感謝の念を持ったのではないだろうか。

間をおかず凄惨な戦いが始まった。立花家中きっての剛勇十時伝右衛門が隈部親永の前に出て姓名を名乗り太刀を構えた、親永も刀を構えた。陽に照らされた双方の額に汗が光る。すかさず伝右衛門の太刀が上段から勢いよく振り下ろされた。肥後国人として戦国の世を豪胆に強く生き抜いた親永だったが、いまや囚われの身でまして高齢で、この度の戦いで足に傷を持つ身だった。伝右衛門の一撃をかわす力はなく、振り下ろされた刀は身体を切り裂き親永は絶命した(親永は抵抗しないで悠然と討たれたとの説もある)。

それに呼応するように各所で決闘が始まった。南北朝の騒乱以来、菊池家に仕え、戦国の世にその名を馳せた隈部一党である。肥後武士の豪腕さは立花勢に劣るものではなかった。しかし戦いに敗れて囚われ困憊(こんぱい)し、刑場に引き据えられたも同然の身である。今はただ無念と絶望の中での死に様を考える術しか無かった。

他方討手側は前夜からぬれ刃を合わせ、目釘を整えて入念に戦いの準備をしている。それにもまして選抜された者は立花(戸次)道雪の時代から仕え、家中でも指折りの戦歴錬磨の気鋭の武士達である。決闘とはいえ戦いの結果は明白だった。それでも肥後勢の中には、武士の意地と本能で最後まで奮闘する者もいた。激しい息遣いと摺り足の砂音に混じり、耳を裂くような 刃と刃のぶつかる音が響き渡る。高く上がった初夏の太陽はじりじりと容赦なく、戦う勇者達の顔を照りつける。刀身が空に光り、各所で力の限りの刃合わせが行われる。そして隈部側の侍が一人、また一人と倒されていった。

半時も要せず決闘は終わった。広場には隈部一党12名の遺体が横たわっていた。立花家にも戦死者が一人出た。家臣の森又右衛門である。残った者も大小の手傷を負い、息づかい荒く茫然と立ち尽くしていた。

このすさましい決闘の一部始終を目の当たりにした検視役の浅野長政は大阪へ帰った後、事の顛末を詳しく秀吉に報告した。世にも稀なこの「放し討ち」の話を聞いた秀吉は宗茂の罪を問うどころか、さすが西国一の弓取りよと誉め讃えたという。

この決闘で死亡した隈部側の遺体は黒門橋近くに立花家の名目で丁寧に埋葬された。その後も線香の煙が絶えることがなかったという。

それから四百年余りが過ぎた・・・・。柳川城の広い内堀が埋められ、決闘が行われた三の丸広場付近は城南まち交差点になっていて当時の面影を探すのは難しい。しかし
中堀は今も残る。そしてその水面(みなも)の上には車道となった黒門橋が架かっている。

橋の側の小さな路地を南に入った民家の庭の隅に、いつも花を供えられた古い六面地蔵尊と一つの石塔がある。その横に「黒門前の戦場」と刻まれた石碑がひっそりと建ち、往事の出来事を物語っている。


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by kusennjyu | 2017-05-05 10:07 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017山鹿市研修(鞠智城3)・千寿の楽しい歴史
山鹿市研修(鞠智城3)

柳川郷土研究会主催  参加者32名(4名は新大牟田駅乗車)

平成29年4月25日午前9時柳川出発

鞠智城(出土遺物)


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by kusennjyu | 2017-05-05 07:18 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017山鹿市研修(鞠智城2)・千寿の楽しい歴史
山鹿市研修(鞠智城2)

柳川郷土研究会主催  参加者32名(4名は新大牟田駅乗車)

平成29年4月25日午前9時柳川出発

鞠智城(建物遺構)


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by kusennjyu | 2017-05-04 16:58 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る