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カテゴリ:豊前街道(熊本)( 28 )
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肥後一揆と南関の史跡を訪ねて7(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関・和水の史跡を訪ねて7   10月20日

辺春親行の墓

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「南関紀聞」には、「一説に辺春親行は本領安堵の沙汰がなく、却て誅せらるべき風聞しければ、あんたこなたさまよひありき(歩き)しが、程なく病死しけるゆへ、その子次郎(或云熊市)九歳になるを、その家老芋生攝津守といふ者伴ひて吉地村に蟄居し云々」とある。

浄満院址と大津山家稜(いえかど)の墓

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「南関紀聞」によれば、肥後一揆に際し、佐々成政は大津山家稜を策略によって吉地村の浄満院に誘い出し、家来2人を遣わしてこれを殺したという。

この墓は、江戸時代後期の文化年間に建てられているが、没年16年7月23日となっており、史実と合致しない。

福山右京・夫婦木(めのとぎ)の墓

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説明書きによれば、両人は大津山家稜の家来で、肥後一揆の時は家稜の舎弟家直に供して厳宮に参詣していたが、家稜が謀殺されたと聞き、後を追って自殺したという。

「南関紀聞」には家稜の臣に二人の名前は見えるが、自刃のことは記されていない。地元の伝承であろうか。

厳宮(かざりのみや)

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熊野権現社ではあるが、赤坂村の厳(かざり)にあるので地元では「厳宮」と呼んでいる。

「南関地誌略」には、大津山経澄、正長元(1428)年に紀伊国より熊野権現を勧請す。

天文17(1547)年、大津山掃部頭重経が家人大蔵駿河守頼種再興といへり」という社記を紹介している。

肥後一揆では、大津山家稜が浄満院で殺された時、弟の信濃守家直は厳宮に参詣していたが、兄の死を知って彼は「小勢にては叶い難し」と、諏訪の江から船で肥前の諫早に落ち行き、大嶋という所で死んだ、とある。

しかし、家直の子は母と共に母の実家である柳川の三池氏を頼り、成人の後、三池龍介と名乗って立花宗茂に仕えている(柳河藩大津山氏先祖書)。

          三池史談会  大城美知信資料より
by kusennjyu | 2010-10-22 22:10 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて6(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて6   10月20日   三池史談会史跡探訪

田中城址(和水町和仁)

左~登り口の石柱   右~親子の石像(以前は山の上にあったもの)

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登り口北側の田んぼは収穫が終わりワラを干している。

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お年寄りだからゆっくりと急坂を登る。

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左~つげの木は昔のとりでの柱跡に植えてある。   右~三池史談会会員12名。

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戦国期の在地領主(国衆)和仁氏の居城。

天正15(1587)年の国衆一揆では、和仁氏と辺春氏(坂本城主)とが一緒に立て籠もり、秀吉の命を受けた西国大名の連合軍に攻め囲まれたが、一揆の主導者隈部氏が降伏した後もなお執拗に抵抗を続け、一揆最後の拠点となった。

しかし、辺春氏の内応により12月5日に落城した。和仁親実一族は討ち死にしたと言われるが(佐々軍記ほか)、生け捕られて後日打ち首に処せられたともいう。(北肥戦誌)。

       三池史談会 大城美知信資料より。

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所在地   和水町和仁字古城・田中
指定日   平成14年3月19日

天正15(1587)年に起こった、いわゆる「肥後国衆一揆」の舞台となった城です。

戦いの様子は、平成元年に、山口県文化館で発見された「辺春・和仁仕寄陣取図」によりはっきりしました。

豊臣秀吉は、小早川秀包・安国寺恵瓊など毛利勢のほか立花氏や鍋島氏など九州の豪族との連合軍、約1万人で二重の柵を設け、城を取り囲み、兵糧攻めを行っています。

対する和仁軍は、和仁三兄弟(親実・親範・親宗)のほか姉婿の辺春親行など数百から千名程度と伝えられています。

このような状況の中、36日間の籠城後、辺春氏の裏切りで天正15年12月5日に落城してしまいました(「柚子留木文書」)。

今では、このような激しい戦いがあったことは、全く想像できませんが、周囲の山々には攻め手の陣地が作られ、陣旗がなびいていたことでしょう。

陣取図には、方位や城と各陣との距離が書かれていますので、おおよその配置が想像できます。

田中城の東側の水田の中を流れる小田川は、戦いの際に流された血で真っ赤に染まった水が何日間も流れていたといわれ、別名「血波川」とも呼ばれています。

また、秀吉は、この一揆を平定した翌天正16年には「刀狩令」を出し、兵農分離を進めていくことになります。

   平成22年3月   和水町教育委員会
by kusennjyu | 2010-10-22 16:55 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて5(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関・和水の史跡を訪ねて5   10月22日  ちょっと一休み。

和水町  古墳の里・肥後民家村に入る。   玉名郡和水町江田

左~若園橋    右~肥後民家村入口
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水車小屋    ゆったりと聞いて下さい。

       

       

小林美術館
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木工館

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中原家

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by kusennjyu | 2010-10-22 15:50 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて4(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関・和水の史跡を訪ねて4   10月22日  ちょっと一休み。

和水町  古墳の里窯元展    展示しますので、ゆっくり眺めて下さい。

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by kusennjyu | 2010-10-22 15:37 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて3(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて3  10月20日

鷹ノ原城跡

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左~休憩所から南関町遠望   右~坂道を登る(御茶屋から約7分で鷹ノ原城跡へ到着。)

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左~鷹ノ原城跡石垣   右~官軍墓地東側の鷹ノ原城跡指標

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加藤清正が自ら縄張(なわばり)したと言われています。築城が慶長5(1600)年で廃城が元和元(1615)年であり、この城が使用された期間は15年程度の非常に短命の城でした。城の取り壊しは、いわゆる幕府からの一国一城令によるものでした。

南関町役場裏側に東西に長く伸びる標高約100mの台地を4本の堀切が分離し、東から二の丸、本丸、三の丸と配置されており、東西訳00m、南北約200m、その面積は90000平方メートルを越えています。

関町は城の南側裾部に形成された城下町といえます。

            南関町説明案内より。

肥後一揆平定後、肥後の国主となった加藤清正が熊本城の史城の一つとして築城し、加藤美作守治次(正次)を城代とした。

「南関紀聞」には、慶長5(1600)年に清正が立花・鍋島合戦の検使として柳川へ来た帰りに南関の高原に立ち寄り、自ら縄張をして築城を開始したとある。

    大城美知信資料で後半の説明を省く。

城(じょう)ノ原官軍墓地

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明治10年の西南の役で薩軍と交戦して死亡した政府軍(官軍)将卒77柱の墓地です。主として高瀬(現玉名市)・木葉(現玉東町)での戦いで死亡した人たちです。

西南の役当時、野戦病院に当てられた関村の西宗寺(さいしゅうじ)に仮埋葬されていましたが、翌11年にこの墓地に本葬されました。墓石には階級、氏名のほか、死亡事由や所属部隊名、出身地などが刻まれています。
    南関町説明案内より。

a0137997_4352657.jpg正勝寺(しょうしょうじ)西南の役本営跡

明治10(1877)年の西南の役では、本町で直接の戦闘は行われませんでしたが、交通の要衝として、官軍の駐留、後方支援、野戦病院(関村西宗寺)の設置などでにわかに喧騒となりました。

2月24日には乃木希助少佐の部隊が着陣し、翌3月22日には征討総督有栖川宮熾仁親王も来着、正勝寺に宿営しました。

     南関町説明案内より。
  
by kusennjyu | 2010-10-22 04:30 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて2(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて2  10月20日

御茶屋跡

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まちのあゆみ するさと南関   南関町教育委員会より。

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a0137997_3155130.jpg肥後一揆の説明(大城美知信氏)

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近世熊本藩が、殿様の参勤交代や領内巡視、あるいは上級武士たちの休息・宿泊施設として建てられた施設で、御客間とも呼ばれた。

江戸時代を通して何度か立て替えられたが、現在残っている御茶屋の建物は、幕末期の嘉永5(1852)年に建てられたもので、明治以降は一般住宅として使用されていた。

近年、空き家となって老朽化が進み、倒壊寸前の状態であったが、平成15年に文化庁より「豊前街道南関御茶屋跡」として国の史跡指定を受けたのを機に、南関町が全面的な修築・復元工事を行い、平成17年5月に落成した。

            大城美知信氏資料より。               
by kusennjyu | 2010-10-22 03:18 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
2010肥後一揆と南関の史跡を訪ねて1(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関の史跡を訪ねて1  10月20日 曇り 参加者13名

三池史談会史跡探訪  

大城美知信より。

南関大津山公園内にある史跡

大津山城
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地図内をクリックすると拡大します。

a0137997_2023119.jpg写真~御茶屋からの遠望(南関富士とも言われる。)

大津山の山頂にある。中世南関の領主大津山氏の居城。

天文19(1550)年に大友義鎮が菊池義武を滅ぼした後、重臣の小原鑑元(宗惟)が南関城督として在城したが、弘治2(1556)年、謀反の疑いで討伐された。

その後、大津山氏の居城となったが、豊臣秀吉の九州統一により、肥後熊本城主となった佐々成政が、佐々藤右衛門を置いて城代とした。

肥後一揆後は加藤清正により鷹ノ原に南関新城が築かれたことにより廃城となった。

太閤水
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大津山公園の一角にある泉。

豊臣秀吉が島津討伐の途上にこの地で休息し、茶を所望したが、供の者が「生憎水がございません」と答えると、「よいか、見ておれ」といって近くの岩をキッとにらみつけると、やがてそこからこんこんんと清水が湧き出し、その水で茶をたてちて渇きをいやしたという。(太閤伝説

a0137997_20591137.jpg麻扱場(おこんば)橋

おこんば橋は、南関町大字下坂下、北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋で、平成5年に圃(ほ)場整備に伴う河川改修により、解体撤去のやむなりにいたり、ここ大津山公園内の太閤水の地に移転復元されました。

建築年代は不明ですが、江戸末期か明治の初期と考えられています。石工名も残年ながらわかっていません。

橋名は、昔内田川で麻のさらしが行なわれていて、橋の近辺を「麻(お)扱(こ)き場」と呼んだことによるものです。

撤去前は農道として近隣の人々が利用する程度でしたが、昔は肥猪(こえい)方面から高瀬に出るには、この橋を渡り、上坂下、三ツ川を抜けるのが最短でしたので、多くの人々が利用する大事な橋でした。

[測定値] 橋長11.9m、幅員2.77m、スパン8.9m、拱矢4.7m。

大津山神社(阿蘇神社)

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階段を上がって煩悩(108)を清めましょう。

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鎌倉時代の正治元(1199)年の勧請と伝えられ、大津山氏が代々崇敬した神社である。

一説には大津山三代経稜(つねかど)が勧請し、永禄年間に八代家稜(いえかど)が再建したという(南関地誌略)。

阿蘇家文書によれば、恒例の田祭に奉納される初米はの料田が玉名郡内に17箇所定められており、その村の中に「きたのせき」「みなみのせき」「うすまな」などが見える・

すなわち、南関や北関は中世阿蘇神社の社領であった。
「うすまな」は「臼間野」のことで、今の坂下一帯であるから、坂下阿蘇神社も同様に阿蘇社領に勧請された鎮守社であろう。

正法寺跡
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大津山の麓にある廃寺。

「肥後国誌」には、正法寺祉に「至徳三年五月八日」と南北朝末期の年号をもつ石塔があると記してある。

秀吉が南関に一宿した時(天正15年4月11日)本陣とした寺院と言われ(南関紀聞)。

白秋歌碑

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芭蕉神碑

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by kusennjyu | 2010-10-21 20:47 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
2010豊前街道11(熊本市②)千寿の楽しい歴史
豊前街道11(熊本市②)

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追分石

是れより左きとめ道きちしこえたかせ道」とある。

この道は、西南の役の激戦地「吉次峠」を越えて高瀬(玉名)へ向かう往還であった。

すぐ先の馬々挟からは、菊池往還が東へ分かれていた。

一里木跡

徳王というバス停のところが一里木であるち言われている。

出町弁天堂

「出町」とは、ここから熊本の町を出るということから付けられたもので、構口があり番所が置かれていた。

弁天堂には、元禄4(1691)年寄進、天保11(1840)年補修の石塔籠や元禄6(1693)年の銘の鰐口などが残っている。

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清正のまちと街路づくり

清正は肥後の領主に着任後、茶臼山に熊本城を築き始めたが、これと並行して城下町としての町づくりにも力を入れた。

京町とは都の意味で清正が茶臼山(現在の古京町付近)にあった町家を移したものであり、南北に走る街道に沿って京町1~2丁目、2丁目筋の西に今京町、そのもう1筋西に金峰山町の町人が形成された。

この京町台地のほぼ中央部には、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れた柳川立花藩や宇土小西藩の家臣団を清正が預かり、この地に住まわせたことから、この地をそれぞれ、柳川小路、宇土小路と呼ぶようになったということである。

これらの配置は敵の襲撃を常に念頭に入れたものとなっており、これは道路づくりにも現れている。

ここの釣形状の街路も清正が自兵の動きを敵にさとられないように戦略上の意図から造られたものといわれ、今日までその姿をとどめていたが、交通渋滞が徐々に激しくなったため、その解決策として現在のように改良されたものである。   

平成5年3月
                
豊後街道との追分

京町の四ツ角が追分で、左がぶんご街道、右が豊前街道で、すぐに左へ曲り愛染院の前を通ると新堀橋である。

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新堀御門

熊本城は、南が表で大手口があり、豊前街道が入ってくる北は、裏口、つまり搦手口であった。

新堀御門は搦手口を守る楼門があったところであるが、大正12年に上熊本と藤崎宮との間をつなぐ新道を掘削し、新堀橋を架けたものである。

百間石垣

熊本城の石垣で、長さが百間(180m)もあることから、この名が付いている。

豊前街道は、この百間石垣の下を通り、三の丸の細川刑部邸前を通る道と、二の丸を通る二つがある。

札の辻(清夾園)

護国神社を右に見て、城内を通り抜けて行くと、二の丸から来た道と出会う。その角に庭園があり石造りの元標が立っている。ここを札の辻という。この元標が熊本からの起点となっている。

この庭園を清夾園と言い、乃木将軍が、西南の役の戦死者の慰霊碑を建立し、庭園を造ったことに始まっている。
昭和4年に荒廃していた庭園を整備し清夾園と名付けたものである。








by kusennjyu | 2010-09-01 18:05 | 豊前街道(熊本) | Comments(1) |Topに戻る
豊前街道11(熊本市①)千寿の楽しい歴史
豊前街道11(熊本市①)    7月31日  晴れ

豊前街道(国道3号線と国道303号線)を車で行く。車が多く、適当に駐車する場所がない。

史跡を見落として写真を撮れない所もある。

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鹿子木神社(菅原神社)・鹿子木宿

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鹿子木は、熊本と味取宿との中間の宿で、参勤交代などで小休止をする場所であった。

ただ、味取新町(植木)ができると、その繁栄は、奪われていったようだ。

なお、鹿子木神社の境内に高札場があり、細川綱利の時代には、町の中央東側に御茶屋があったという。

二里木跡

二里木跡は、鹿子木宿の南構口、西福寺の前にある。

ここから少し進むと、右側に「杵築宮」への道しるべが建っている。

御馬下の角小屋(みまげのかどごや)(熊本市指定文化財) 昭和61年1月24日指定

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堀内家寄贈の通称「角小屋」は、江戸時代後期の建築です。その廣造は町屋部分と座敷部分が合わさったもので、建築史上貴重なものです。

特に奥の座敷は、島津・細川藩公の参勤交代などの休息所にも用いられ、このような建築は、今では他に見られません。

高い木組みの吹き抜け天井、年を経て光沢(つや)びかりする見事な大黒柱、用材、それに施した珍しい木像眼。
簡素ながら藩公を迎え入れた御成の間等々、一歩なかに入ると現代人が忘れ去った、日本古来の木造建築の良さが心をひきます。


御馬下の阿蘇神社

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殿様が下の角小屋で休憩している時には、家来たちは神社の境内が休息場所であった。

四方寄(よもぎ)六地蔵付庚申塔 市指定有形文化財
御馬下の角小屋の前に建てられている。

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地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を六道といい、人間には罪深く生前も死後もこれに迷う。地蔵が六つの地蔵に分身してこの愚かな人間を救われるという六地蔵説は平安時代からある。

石艟型のこの六地蔵は室町時代のもので大きさでは県内有数で県内最古である。寺の門前、道の辻に立てられた。

横の庚申塔も江戸時代の庚申信仰を知る貴重な文化財である。

                           熊本市教育委員会
by kusennjyu | 2010-09-01 12:22 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る
豊前街道10(熊本市植木町⑤)千寿の楽しい歴史
豊前街道10(熊本市植木町⑤)    8月31日撮影  晴れ

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三池往還(高瀬通り)大津町通りの分岐点である。

分岐点近くの植木小学校の地は、手永役所の跡である。

細川藩では、郡にあたる範囲を統括する手永(惣庄屋)が置かれていた。

左~植木天満宮。ここから豊前街道は斜め左に下る。   右~佛厳寺(植木天満宮南側)

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植木天満宮(西南の役緒戦の地)

植木では薩軍が熊本城を包囲し、さらに北上しようとした時、2月22日、まずはこの地で激戦が行なわれた。

この天満宮の由緒は、元禄8(1695)年に味取新町ができた時、この地に松の巨木があり、そこに小さな祠(ほこら)があった。

それから年を経て嘉永4(1851)年に落雷があり松の木が裂けたが祠は無事であった。人々は天神様の神威を祀ったと言う。

a0137997_21123984.jpg明徳官軍墓地
この官軍墓地は、合計123基の墓碑が存在するが、そのうち92基は明治10(1877)年の向坂(植木町)の戦いで戦死した熊本・大坂・東京の各鎮台及び近衛所属の将兵の墓碑である。

向坂は福地源一郎(桜痴)が、その従軍日記の中で「植木よりは熊本へは三里にして近く、且向ふ坂さへ取切れば、其跡は平坦の地にて、つま先下りの路」と記した様に重要拠点であった。

ために政府軍 薩軍ともにその確保に全力を尽くしたが、3月16日の戦いは薩軍有勢に展開し、乃木希典率いる歩兵第14連隊の軍記が薩軍に奪取るされている。

被葬者出身地
熊本7、長崎5、、福岡5、大分2、山口5、広島1、岡山5、島根13、愛媛4、高知3、大坂1、兵庫5、京都5、和歌山7、三重7、愛知3、岐阜3、長野4、石川11、新潟3、神奈川5、東京3、埼玉24、群馬1、栃木3、千葉1、福島3、山形3、不明1 (計123)

なお、近くの寄鶴には軍夫30名を合葬した墓があるが、氏名、出身地等は全く不明である。

      熊本県教育委員会(昭和62年3月建

明徳官軍墓地は豊前街道から少し東側に入った場所にある。

この地を豊前街道に引き返してすぐに、国道3号線に出る。
by kusennjyu | 2010-08-31 21:13 | 豊前街道(熊本) | Comments(0) |Topに戻る