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カテゴリ:みやま市の歴史( 127 )
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2017中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内2・千寿の楽しい歴史
中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内2 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P466~469より

みやま市教育委員会発行


大木城跡 瀬高町大広園

大木城跡については『筑後将士軍談』によると(文献10)、「蒲池鎮連の臣大木兵部少輔拠る」とあります。『旧柳川藩志』では、「大木に在城した大木主計頭」と称す。南北朝の頃落城す。降って資綱を大木の旧城に居らしむ。天正年間、蒲池氏滅ぶや城主大木兵部少輔開城肥前に赴き・・・」とあります(文献1)。『旧柳川藩志』の柳川偉人伝(六)には、城主は知長・政長・久輝・親光・資光・統光(政光、知光)と続きます(文献1)。大木兵部少輔がこの統光にあたります。
 さて、大木城のことですが、瀬高町北大木の八幡神社辺りにあって、宇都宮頼綱が治承(1180年頃)年代に、西下し大木に城を築いたといいます(文献1)。城は東西1町20間(160m)南北50間(90m)で、今も大木ノ内(本丸か)、陣畑やキンド(城戸)、寺屋敷(菩提寺跡か)の地名が残っています。城は粘土質が強くて深い薬研堀の濠の内濠を巡らし、両濠の土を高く盛り上げて造った土塁が取り巻いていたようです。防塁は幅13間(23m)、さらに本丸を囲んで濠が見られます。

堀切城跡 瀬高町河内

堀切城跡は、「田尻氏の臣福山藍物守る。鷹尾城の砦。」とあり(文献10)、天正6(1587)年ごろのことでしょう。また堀切城のことは、島津氏の北上にともなう一次資料である薩摩の武将の『上井覚兼日記』下(文献8)の天正13(1585)年9月6日条から9月19日条には「江之浦」・「堀切」の記載があり、江浦城とともに堀切城が当時は存在したことがわかります。また、『旧柳川藩志』の古城址の項には、「島津の将山田有信等筑後に出て掘切城を攻めて(大友氏の属将、平井)鎮経を破り、三池鎮実・蒲池鑑広を降す。其の後廃城たり。」との記述があります(文献1)。付近には、玉垂神社があります。

浜田城跡 瀬高町浜田

浜田城跡は、「田尻氏の臣田尻大蔵拠る。」とあり(文献10)、『旧柳川藩志』によれば、「東西10間5合、南北21間半地より高きこと1間半なり。・・・天正年中田尻氏の家臣田尻大蔵之が城番たり鷹尾の田尻氏滅びて廃城となり」と記述しています(文献1)。付近には浜田南の天満神社があり、すぐ西側には高まりが見られて浜田城の跡かと推定できます。

瀬高庄城 瀬高町上庄

瀬高庄城は、「太平記理尽抄・筑後志、黒木兵庫の臣守る」とあります(文献10)。また、『旧柳川藩志』によれば、「瀬高町大字上庄にあり。天正12(1584)年黒木兵庫頭の臣某之に拠ると。未だその所在を詳にせず。一に上の庄の西北に牛御前森あり。森中一碑石あり。是れ即ち此の城跡なりと。或は云ふこの森は古戦場なりと。其の創築廃頽は未だ詳かならず。」とし、上庄の牛御前森を城跡ないし古戦場にあてています(文献1)。しかし、確たる証はなく、瀬高庄城について詳細はわかりません。

竹井館跡 高田町竹飯

『筑後将士軍談』によると、高田町では、竹井村館跡ほか5か所の城館の記載があります(文献10)。竹井館跡は「牡丹長者屋敷跡(長者原)とあり」とあります(文献10)。伝承の域を出ず、実体がはっきりしません。しかし、現場に立つと、小高い丘陵に明らかに土塁などの遺構と思しきものがあることがわかります。近年には長者原遺跡の範囲確認調査にともなって、7・8世紀須恵器の杯蓋が数点出土しています(文献12)。西海道のルート上にある狩道駅の推定地でしょうか。その居館が中世まで豪族の館として存在していたのでしょう。また、次に述べる舞鶴城については「牡丹長者」との関連で捉えられることもあります。

飯江村城跡(舞鶴城) 高田町舞鶴

飯江村城跡については、『筑後将士軍談』では「花山院の時武智源太春倫拠る。後田尻氏」とあります(文献10)。また、『旧柳川藩志』に同様の記述がなされており、「降って天正年間田尻氏肥後(肥前か)軍を防ぐため之を築いて支堡とす。址は山川村飯江にあり。」としています(文献1)。『旧柳川藩志』には、舞鶴城址の記述があって、「飯江村にあり往昔牡丹長者の居城なり。孤立する山嶺の上にあり。」として、牡丹長者と関連性があることを述べています(文献1)。『筑後将士軍談』にも同様の記述があることから飯江城と同一のものかと推定できます。「後田尻伯耆守鑑種肥後(肥前か)軍の来襲を恐れ厳重なる砦を築造せりと云ふ。」とあります。

縄張りは主郭など四郭あって帯曲輪や堀切が残っていて、階段状遺構が東側に見られるといいます。白峯神社(琴平さん)が頂上付近にあります(文献7)。

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竹井城跡・竹井今城跡 高田町竹飯

竹井城跡は、「菊池の住人西原石見守天文15(1546)年に来住す」とあります(文献4)。これは『旧柳川藩志』の「竹井の今城址」の項の記述と同一のもので(文献1)、「肥後菊池の住人西原石見守武雄天文15(1546)年正月晦日筑後に来りて北の関竹井海津を押領し仝年(同年)今城を築く」と一致するものです。「萱津の城址」は別に項目があり、竹井萱津の城について述べています。

今福城跡 高田町今福

今福城跡については、「正治元(1199)年摂津守築く。三池氏の臣小山左衛門尉守る」とあり(文献10)、同様のことが『旧柳川藩志』にも記述があります(文献1)。『高田町の文化財』(文献4)の「今福城址」の項には鎌倉時代に三池南郷の地頭として三池氏が入部したのがはじまりで、北郷にある今福に居館を構えたのは疑問が残ることとしています。戦国時代には、三池氏の出城として、田尻氏と対峙した三池氏の臣小山山城守の記述が「田尻家文書」に見られます(文献8)。このことから、今福城は三池氏の北辺の備えで三池城の防衛線であったでしょう。いまでも今福公民館の裏山には、「城ノ山」や「城ノ下」などの字名が残って土塁なども見られるといわれ、城地跡には水天宮が祀られています。

田尻城跡 高田町田尻

田尻城跡は、『筑後将士軍談』では「田尻氏代々の居城、永禄中鷹尾城に移る」とあります(文献10)。『旧柳川藩志』によると、田尻飛塚城址の項には「当城水乏しく多衆を籠め難し。故に大友宗麟(義鑑の誤りか)の命を受け永禄年中田尻親種山門郡鷹尾城に移る。仍ってその臣田尻左京をして此の城番とす。田尻氏は原田の一族なり。」としています(文献1)。『田尻文書』では天文17(1548)年ごろ、田尻親種が大友義鑑から鷹尾に250町の知行を得て、鷹尾城を築き移ったといいます。森山八幡宮は城地の一角にあって「龍造寺文書」によると、田尻鑑種が龍造寺に差し出した起請文に「氏神森山大明神」とあり、田尻氏が崇敬していたことがわかります(文献4)。縄張りは主郭や帯曲輪が見られるということですが、後世の開墾などで明瞭ではないようです。なお、境内地の小字は「陣内」といわれています(文献7)。

江浦城跡 高田町江浦町

江浦城跡は、「永江勘解由・田尻了哲守る。天正15(1587)年高橋統増入城」と『筑後将士軍談』に記載があります(文献10)。『旧柳川藩志』によれば、「土豪永江氏代々の居城なり。天文19(1550)年田尻鑑種之に拠る。天正12(1584)年永江勘解由・田尻了哲二氏之に居る。鷹尾城の支堡たり。天正15(1587)年高橋統増三池郡を賜はり、之に居る。田中吉政の代其の臣田中河内守城番たり。田中氏滅びて城廃す。」とあります(文献1)。江浦城は、田尻親種が築いた山門郡鷹尾城を本城とした総構えの一つで、江浦・浜田・堀切・津留の四支城からなっています。類型としては平城タイプの範疇といえます(文献3)。田尻鑑種(城番田尻了哲)は龍造寺軍の攻囲のなか1年間籠城したことから堅固な要害であったようです(文献4)。その後、高橋統増(後の三池藩主立花直茂)が居城とし永江氏は家臣に編入され、田中吉政の代に田中主水正が城番を勤め、その後田中河内が入城し、元和年間には廃城となりました(文献6)。「慶長7(1602)年台所入之掟」では、吉政から櫓や門の普請が指図されたといいます(文献3)。今もなお、本丸や二ノ丸などの小字名が残っていることから、縄張りは「本丸」が現在水路で囲われた南北120m、東西160mの方形の曲輪で、水路は水堀の跡としています。今では、淀姫神社が城郭跡の一角にあります。

北関城跡 山川町北関

北関城跡は、『筑後将士軍談』によれば、所在地不明とされ(文献10)、『旧柳川藩志』北の関城址によれば、「山川村大字北の関にあり。今之を城山と称す。高さ50丈周廻り30丁、山脈孤立す。樹木茂生し登路一条あり。北の関字瀬戸の坂よりのぼれば3丁余にして山嶺に達す。天文13(1544)年小田山城守親元菊池義武に与し此の城を構へ大友氏に抗す。高橋鑑種(中略)城主小田氏以下一族郎党数10人奮戦して死す。城因って陥る。」とあります(文献1)。小田氏なる人物が北肥地域の国衆に連なるのかについてはまだ詳らkぁではありません。所在地不明というよりは城としての機能である堀切などが確認できていないのではないでしょうか。また、正式な調査は行われていません。

続きます。






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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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by kusennjyu | 2017-08-16 07:57 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内1・千寿の楽しい歴史
中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内1 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P465~471より

みやま市教育委員会発行


中世の城館は、中世城館としては南北朝内乱期以降に出現します。それ以前は館(タチ・ヤカタ)として存在します。)竹井城(竹井萱津城・溝口禅院城は中世の城郭です。

竹井城・竹井萱津城  高田町竹井

竹井城あるいは竹井萱津城は同じものと見られ、萱津は竹井と隣接する高田町海津のことでしょうか。竹井城合戦は康永2(1343)年に始終しています(文献1)。合戦に関例した軍忠状は15点ほどあって、それらによるとかなりの激戦であったといいます。竹井城に立て籠った武将は、中院侍従義定・菊池武茂・大城藤次(草野一族)らの南朝勢力です。ちなみに、竹井には「大手畠」「土井ノ内」など中世の城館に関連する小字がありますが、南北朝期の竹井城に由来するものなのか『南筑明覧』(文献4)に記載がある西原石見守武雄の居城跡と伝える戦国期の竹井今城にあたるものなのかは断定できません。

溝口禅院城 瀬高町広瀬

また、南北朝の溝口氏が籠る溝口禅院城は、竹井城合戦の開始直前に、焼き討ちで落城しています。溝口禅院城は、矢部川中流、城の左岸にある廣瀬禅院地区にあると推定できます。

室町から戦国期の筑後は、国人領主が割拠していましたが、城館は、みやま市域では田尻親種以前(鷹尾移住以前)の田尻城のみです。田尻城以外は、すべて国人(田尻氏・上下蒲池氏・溝口氏・三池氏)の支城で、城将や城番が配置されて支城化されています。

矢野一貞が幕末に著した『筑後将士軍談』(文献10)では、瀬高町内では、本郷村城跡を含めて10か所、高田町内では6か所の城館の記載があります。

本郷城跡 瀬高町本郷

本郷城跡は、「蒲池鑑広の臣壇大炊助守る」(文献10)とあり、また天正12(1584)年に山下城主蒲池家恒(鑑運)に本郷城を築かせたとあります(文献10)。壇大炊助は後の立花宗茂の時代(天正15(1587)~慶長5(1600)年)には、本郷城の城番であったと思われます。平成の初めごろまで、本郷集落の西側にある堀を隔ててさらに西側には江戸時代に大庄屋を勤めた壇氏の住宅があり、この辺りが本郷城跡かと想定できます。

吉岡城跡  瀬高町吉岡

吉岡城跡は、「蒲池鑑広の臣吉岡加賀守拠る」(文献10)とあり、現在でも周辺には吉岡川が流れていて、当時の堀割りと関係したものでしょうか。『旧柳川藩志』(文献1)によると、「瀬高町大字吉岡の中央にあり。境界判然たらず。今僅かに東西3間半、南北3間位の不毛の地を存す。天正12(1584)年吉岡加賀守・・・肥前軍を防ぐため之を守る」とあります。古文書や絵図はなく詳細は分かりません。ただ、吉岡集落の中心地域には通称「ヤブノウチ」や西方には「アン」という地域があります。「アン」という地域には長宝寺なるものが所在していたといわれています。

小田城跡 瀬高町小田

小田城跡は「明応・文亀の頃(1500年前後)溝口常陸守・同帯刀拠る」(文献10)とあって、伊藤彝足が編集した『太宰管内志』によれば、南朝方として延元元(1336)年には「溝口太郎入道」、正平14(1359)年には「溝口丹後守」の名前が見えます。また、『旧柳川藩志』「古城跡」の項には「永正の頃(1504~21)溝口薩摩守領地五丁を有し之を守る。小田城跡にあり。一は小田の奥山あり。一は禅院山の城跡あり。それ或は上代の城墟ならんと察す。」とあり(文献1)、小田の山中の北西斜面には現在でも小田城があったと伝えられ、空堀の堀切などが残っているといわれています。

宮園城跡 瀬高町大広園

宮園城跡は、「蒲池鑑広の臣今村氏拠る」とあって、また『旧柳川藩志』「古城跡」の項には、「時に此城を設く。山下城滅して此城を廃す」とあります(文献1)。天正12(1584)年肥前龍造寺軍を防ぐため、蒲池鑑広の家臣今村某に守備させています。『瀬高町誌』によれば、「今は累濠を残し堀で隔てられた多くの島が寄り合って一つの要害を形成している」とし(文献13)、文中年間(1372~75)から応永年間(1394~1428)の初めごろまでに今村大隅なる人物を宮園の地に封じています。今でも、東照寺境内地の一角には「本丸」・「東二ノ丸」・「西二ノ丸」の地名が残っています。

松延城跡 瀬高町松田

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松延城跡は、『筑後将士軍談』によれば(文献10)、「蒲池鑑広の臣樺島式部拠る」とあり、『旧柳川藩志』では「東西50間、南北40間、楕円形をなす。櫓跡今猶認むべし。城濠は埋れて水田となり僅かに小溝を餘巣のみ。本丸・二ノ丸・三ノ丸の称は地名に存す。天正12(1584)年山下城主蒲池氏加勢のため、且つ肥前軍を防ぐため支堡とす。」とあります(文献1)。天正年間(1573~92)に樺島式部益運が拠り、その後、立花氏の城番として立花三郎右衛門が勤めています。関ヶ原の戦いを経て田中氏が筑後国主となると、松延城は支城として松野主馬重元(小早川氏鉄砲組頭であったが関ヶ原の戦いで主家と意見が合わず離脱)が寄合組頭になり、在勤しています。

縄張りについては、平城タイプの範疇です。明治20年代の「筑後国山門郡松田村絵図」・「筑後国山門郡山門村絵図」の旧地形図から推定している、木島孝之の研究「城郭の縄張り構造と大名権力」(文献3)や、字図・地籍図(図3)・米軍撮影空中写真(昭和23(1948)年ごろ)と圃場整備などによる調査結果『山門前田遺跡』所収「松延城跡について」によって復元されています(図3・文献2)。前掲の報告書によれば、発掘調査の成果として「築造時期は、16世紀前半に遡る可能性があるものの、廃城時期については文献の記載通り」としています。松延城の周辺には、「本丸」・「東二ノ丸」・「西二ノ丸」・「北三ノ丸」・「南三ノ丸」・「城内」といった小字名が残っています。主郭(本丸)は水田からの比高.2m、南北87m東西97m(台地上は南北60m東西60m)で南東部が突出した台地にあります(図一)。木島は虎口や累線の形状は不明とし、また前掲報告書(文献2)によれば「南北に虎口を設けるが、南側の虎口は食い違い虎口となるか」とその痕跡が後世の削平や耕作によって変形してわかりづらいようです。主郭分を取り囲む南北260m東西290mの方形の形状の曲輪(くるわ)があります。その南側には「今屋敷」・「掛畑」という小字名があって、「東西340m南北200mで南側の累線には横矢掛けが一ケ所に認められる」といいます。しかし、主郭や二ノ丸(曲輪)に比べると不明確な箇所も多くあるようです。また、発掘調査によって、城跡の北側には旧河川が貫流して堀の役目を果たしています。また、北側の旧河川との間には小さな水路(外堀の一部)があり、松田地区はしゅめどん(主馬殿)川、藤ノ尾地区は城川といったようです。「今屋敷」との境は馬入れ川と呼称したと伝えられています。また、城跡内では、石組と木枠を併用した井戸が発掘調査により確認されています。

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長尾良一氏作成地図を借用しています。

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続きます。







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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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by kusennjyu | 2017-08-14 17:29 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017陣内遺跡(高田町上楠田)・千寿の楽しい歴史
陣内遺跡(じんないいせき) 高田町上楠田 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P463~464より

みやま市教育委員会発行 
 

陣内遺跡は、二川地区圃場整備事業に伴い、平成3(1991)年に高田町教育委員会により発掘調査が行われました。

調査では、古墳時代の竪穴式住居跡1棟と土杭2基、奈良・平安時代の8世紀後半~10世紀前半の竪穴住居跡4棟と土杭2基、中世戦国期の空濠が検出されました。特に、9世紀後半~10世紀初頭に比定される3号竪穴住居跡からは鉄鏃をはじめ、ヘラ切りの須恵器坏が一括して出土し、本地域の標式資料となります。また、溝から8世紀ごろの縄目タタキの平瓦が出土しており、上楠田松浦・垣田遺跡の関連が注目されます(文献1)。 

戦国時代の空濠は2条あり、いずれも台地の北側を東北方向に、中央部をU字形に巡っています(図1・2)。空濠の中からは、出土遺物は出土しませんでした。

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空濠1は長さ約60m以上で、最大幅4.40mで最短の部分で2m、深さ1.6mを測り、断面はU字形を呈しています。出土遺物はありませんでした。

空濠2について平面形はU字形を横にした形で、長さ30mで折り返されます。幅4~8mが島状に残るもので、北側断面で見ると幅4.50m、深さ1m前後を測ります。南側断面を見ると幅が3.7mで北側に比べ若干狭くなっています。深さは南北とも約1mです。断面から2・3回ほど堀り直されています。出土遺物はありません。

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空濠は空濠2の前面に楠田川があるために、二重・三重の防衛線が構築され、守りやすく攻めにくいものと考えられます。北側は9世紀前半の溝状遺構の年代は文献などからこの空濠は15世紀後半~16世紀前半ごろの戦国時代の遺構と推定されますが、時期は確定できません。田尻家文書「田尻鑑種本領村数等覚書」によると、天正10(1582)年の田尻氏関係の城郭は34か所となっています(文献1)。この遺跡と田尻氏の関係については、天正3(1575)年に、田尻鑑種と龍造寺隆信が協力して大友方に組する三池鎮火実を攻めています。このときの詰城として当遺跡が存在した可能性があります。

背景として北側の山を越えた場所には田尻氏の本貫地があり、本遺跡は、三池氏に対する防衛要地であったのではないかと思われます。この遺跡は、田尻城の南に備えた出城の空濠の可能性が指摘されています。


続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-10 22:39 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017西海道跡(みやま市)・千寿の楽しい歴史
西海道跡(みやま市)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P445~448より

みやま市教育委員会発行


みやま市内の西海道跡

矢部川以南の西海道の研究については、日野尚志(文献1)・木下了(文献2)の研究があり、この地域の西海道推定線を現わしたのが図4になります。

鶴田中市ノ塚遺跡から南下する西海道は、矢部川を渡河後、女山神籠石の西側の低地部分をやや東寄りの南北方向に直進します。権現塚古墳(円墳で径45M)の東側や発掘調査された野入遺跡と南ノ前遺跡付近を通ることが推定されます。
 
さらに、南下して、条理地割が変化する瀬高町山門のA地点で南東方向に屈折し、そのまま直進します。山川町清水を横切る大根川を渡り、クワンス塚古墳(帆立貝型前方後円墳で約84M)のB地点付近を通過し、C地点の肥後国方向へ向かう飯江川沿いを通るルートが想定されています。

唯一この地域の西海道推定線上で発掘調査され、道路痕跡の可能性がある野入遺跡(文献25)では古墳時代後期の竪穴住居を切る幅50~70cm、深さ20~30cmの1号溝を検出しています。また、南ノ前遺跡(文献25)でも幅30~95cm、深さ20cmの1号溝を検出しています。それらは、共に南北方向を示し、西海道推定線上で検出されていることから、西海道跡の西側側溝の可能性があります。特に南ノ前遺跡では、西海道が廃絶される時期の平安時代末期~鎌倉時代の遺物が出土しています。

この地域の西海道について、木下は駅路の痕跡を求めることはできないとしながら、「山門郡南部の条理がN-33度―Wを示し、飯江川谷の軸に合致するとし、低地では条理に沿い台地ではその延長戦となる直線の駅路が推定される」とします(文献2)。

また飯江川沿いのルートについて、日野はみやま市山川町重冨の小字名で「車地」や大字甲田の小字名「大道ヨリ東下原」が沿うことから現在の国道443号線が古代の駅路を踏襲すると指摘しています(文献1)。

飯江川沿いに西海道が推定された理由には、先に記した「車地」地名の存在があります。「車路・車地」地名は、空中写真や条理地割以外に西海道跡を示す痕跡です。

木下によれば「車路・車地」地名は律令期官道の遺称と見ることができ、『福岡県史資料編』所収の「明治十五年字小名調」には筑後地方で7か所あると指摘しています。久留米市内では野中町字車地・藤光町字車地・荒木町字車路の3か所、筑後市内では大字一条字車地・大字熊野字車路・大字前津字車路の3か所です。残り1か所は、先に記したみやま市山川町重冨字車地になりますが、現在この地点での西海道に関する痕跡は発見されていません。

これら7か所の「車路・車地」地名について、

①筑後・肥後連絡路の最短路に位置する。

②五地点の車地で大字界に接し、直線の部分がある。

③一直線上にあり、御井・三潴・上妻郡の主要条理の方位に合致する。

などを指摘しています。このうち、6か所では西海道跡を確認しており、西海道を推定する上で重要な手掛かりとなります。

そのほかに、西海道は、道路本体だけでなく、付属する施設の一つである駅家の存在も重要になります。市内では駅家の発掘調査は行われていませんが、『延喜式』に5匹の駅馬が置かれた狩道駅が推定されています。この狩道駅の想定地は諸説あり、高田町海津・山川町原町・山川町尾野・山川町清水が想定されています。

特に、山川町尾野は長者原伝説と地名「立石・馬見塚」などからこの場所を駅家の有力な想定地です。段丘の末端に位置して矢部川流域の低地を臨む立地から、葛野駅と共通するのではないかと木下の指摘があります(文献2)。

また、駅家以外の郡家の位置についても需要です。現在まで発掘調査は行われておらず不明ですが、日野によれば山門郡家は、坂田の地にあると推定されています。

なお、坂田からやや南側に位置する御二田遺跡の発掘調査では、奈良・平安時代の土器と石器や圏足円面硯片も出土しており、山門郡家に関連する遺跡ではないかと考えられます(文献26)。

最後に、西海道ではありませんが、西海道に接続する道路についての指摘もあります。山川町尾野の西側の低地には、斜行する周辺地割と異なる東西に通る一本の明瞭な線があります。その線に沿って「造り道」の小字名もあり、駅家と港津との連絡路の存在についても、今後の発掘調査で明らかになることが期待されます
(文献2)。

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続きます。





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by kusennjyu | 2017-08-10 11:56 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017西海道跡(久留米市・筑後市)・千寿の楽しい歴史
西海道跡(久留米市・筑後市)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P441~445より

みやま市教育委員会発行


太宰府から南下した西海道は、『延喜式』によると筑後国府(久留米市)から御井駅・葛野駅・狩道駅を通過後、肥後国大水駅(熊本県南関町)に向かいます。現在の行政区域によると久留米市・筑後市、みやま市を縦断します。みやま市内では旧瀬高町と旧山川町の地域に推定されていますが、これまでの発掘調査で西海道に関する道路跡は発見されていません。

筑後国の古代道路研究は、明治時代の吉田東伍『大日本地名辞書』、大槻如電『駅路通』から始まりますが、その後途絶えて1970年代後半には歴史地理学の面から詳細な古代道路研究が進みます。日野尚志(文献1)、木下了(文献2)、高橋誠一(文献3)の歴史地理学者が、条理の復元、地名(車路・車地など)、空中写真、古地図、現在も残る道路痕跡などから西海道を推定しています。

1980年代以降、久留米市教育委員会、筑後市教育委員会が発掘調査を行い、西海道に関する道路遺構が次々と発見されており、松村一良(文献4・5)、水原道範(文献6)、小林勇作(文献7)、神保公久(文献8)らによって筑後国の西海道についての研究が行われています。ただし、筑後川を渡河する地点により、西海道の筑後国府へのアクセスは、木下良・松村一良の二説にわかれます。しかし、筑後国府から南下する西海道については発掘調査で道路跡が発見され、詳細に復元されています。

久留米市

a0137997_1015168.jpg筑後国府を通過した西海道は、南西方向へ下り、久留米市内では北から西海道跡一次・古賀前遺跡・車地遺跡・西海道跡二次の四遺跡で検出されています。

①西海道跡一次 久留米市(文献9)
道路状遺構は、南北に長さ68m、路面幅7m前後あり、両側溝も検出されています。路面は削平されていますが、一部に径3~5m程度の小礫によるバラス敷きが見られます。また、側溝には、何度も掘り直した痕跡を確認しています。また、この遺構の南東500m付近には「車地」の地名があります。

②古賀前遺跡 久留米市(文献10~13)
③車地遺跡 久留米市(文献13)

②・③では、両側溝の芯々間で幅約10mの道路跡を幅約350m間の一直線上に検出
しています。路面は、削平されていますが、両側溝は少なくとも一度掘り直された痕跡があります。

④西海道跡二次 久留米市(文献14)
久留米市と筑後市との市境近くで、路面は検出されていませんが、両側溝をもつ道路跡
を検出しています。道路の築造方法としては、側溝を含む幅15mを約1m近く掘削し、路面に砂利を敷き、版築状に突き固め、溝部分をさらに掘り下げています。道路幅は、側溝が3回ほど掘り直され、時期が新しくなるにつれて幅12.5m→11m→9mと狭まる状況を確認しています。

久留米市内①~④を通過した後の西海道は、筑後市北部で検出されています。そこから南に向かう道路跡は、国道209号線と一部重なりながら、筑後市中部の八女丘陵にある羽犬塚山ノ前遺跡で検出されています。

筑後市

羽犬塚山ノ前遺跡より南では、山ノ井川口遺跡・山ノ井南野遺跡・鶴田木屋ノ角遺跡・鶴田牛ケ池遺跡で西海道に関連する遺跡を確認しています。さらに、南の鶴田中市ノ塚遺跡では、帯状の硬化面や両側溝などの道路跡が確認され、側溝からは8~9世紀前半ごろの遺物も出土しています。筑後市内では、これら8遺跡が検出されています。
 
⑤西海道跡 筑後市(文献15)
西側側溝のみを検出しています。路面は、検出されていませんが、現在用水路になっている東側側溝との間で、幅約6~8mの道路跡が復元できます。またここでも、側溝は一度掘り直した痕跡を確認しています。

⑥羽犬塚山ノ前遺跡 筑後市(文献16)
道路跡としては両側溝以外に、硬化面・波板状の連続土杭・帯状硬化面・帯状硬化面を
覆う小礫や土器微小片・突き固め痕跡を確認しています。この遺跡は、葛野駅との関連があり、時期が下るにつれて道路幅が拡張していく状況を確認しています。付近では、葛野駅と推定された■14羽犬塚中道遺跡があります。この遺跡では、奈良~平安時代の掘立柱建物群を検出し、土杭から「□郡符葛野」と書かれた墨書土器が出土しています。

⑦徳久アサミノ遺跡 筑後市(文献17)
東西両側溝および溝の芯々間で幅9~10.5mの路面を検出しています。路面は削平
されていますが、路盤形成時の突き固め痕跡を検出しています。

⑧山ノ井川口遺跡 筑後市(文献18・19)
道路状遺構に伴う両側溝・路盤・路床を確認しています。道路幅は溝の切り合いから、12.1m→8m→6.3mと縮小傾向を示しています。

⑨山ノ井南野遺跡 筑後市(文献20)
⑦の100m南側に位置し、ここでも両側溝を持ち、溝の芯々間で11m、路面幅9m
を検出しています。側溝は2回以上の掘り直しや路面部分には帯状硬化面や波板状の連続土杭などを検出しています。

⑩鶴田木屋ノ角遺跡 筑後市(文献21)
⑪鶴田牛ノ池遺跡 筑後市(文献22)
⑩では、両側溝を検出し、溝の芯々間で12.5mを測れます。⑪の二次調査では明確な西海道跡は確認されませんでしたが、道路側溝の可能性がある溝を確認しています。なお、五次調査では、路面は削平されていましたが、東側側溝を検出しています。

⑫鶴田中市ノ塚遺跡 筑後市(文献18)
一次調査では、道路状遺構に伴う両側溝と帯状硬化面が検出され、四度にわたる道路の
変遷が想定されています。また側溝内からは8世紀代の遺物が出土しています。道路幅は、溝の芯々間で10m→8・5m→7.65mと縮小傾向を示しています。13世紀後半~16世紀代の遺構に切られていることから、13世紀前半には廃絶したと考えられています。三次・四次調査では、道路幅について若干差がありますが、同様の状況を確認しています。

これら発掘調査の結果より、筑後国の西海道は、平地部分に道路幅9m前後で両側溝を備え付けられていたと考えられています。側溝は、数回の掘り直しを行い、道路幅の縮小などの変遷を見ることができます。また、葛野駅周辺では道路幅の拡張を行うなどの特徴があります。

なお、⑬羽犬塚射場ノ本遺跡(文献23・24)は、西海道ではありませんが、西海道に繋がる伝路の可能性が指摘されています。

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続きます。





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2017宮ケ浦古墳群(高田町下楠田)古墳時代・千寿の楽しい歴史
宮ケ浦古墳群(みやがうらこふんぐん) 古墳時代

高田町下楠田

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P321~324より

みやま市教育委員会発行


宮ケ浦古墳群は、愛宕山を頂点として、南西に延びた丘陵地の先端に位置し、現状では「髙田濃施山公園」内に5基存在します。本古墳は、公園の造成に伴い平成4~6(1992~94)年に高田町教育委員会により、5基の古墳群の発掘調査が行われました(図1)。

古墳群は、標高31mに4号墳、標高28.6mに1号墳、標高28mに5号墳、標高25.4mに2号墳、標高25mに3号墳が南斜面に3段に造成された丘陵地に位置します。石室の開口方向は1号墳、2号墳、4号墳は南西、3号墳と5号墳は南東の方向を石室の入口とします。

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1号墳(図2)は、5基の中で2番目に大きな円墳と推定されますが、東に地形の制限を受けているため、円墳の規模は確定出来ませんでした。周溝は、石室の西より北に延びます。埋葬施設は、羨道部入口が西南西に開口する複室の横穴式石室です。

敷石は、玄室と前室で検出されました。石室全体の規模は全長9.75mを測ります。石室内からの遺物の出土は少なく、玄室内では須恵器の把手付甕・大甕など、羨道部より完形の須恵器の直口壺が出土しました。周溝からは、坩・坏・平瓶・高坏・胴部最大径96.6cmを測る大甕など多くの須恵器が出土しました。他に鉄鏃が石室・羨道部・周溝より、装身具は耳環が玄室より7点・勾玉1点・切子玉1点・ガラス玉数点、前室より耳環1点出土しました(図3・4)。 

 2号墳(図8)は、墳丘と前室と羨道部の一部が削平されており、天井石は失われていました。埋葬施設は、南西に開口する複室の横穴式石室です。敷石は、玄室と前室で検出されました。玄室は長さ2.25m、幅2.1mの正方形のプラン、前室は長さ1.45mを測ります。出土土器は少なく、石室より須恵器の●・坏が出土しました。鉄製品が多く、前室より馬具、羨道部と周溝より鉄鏃が出土しました。装身具は玄室より一対と推定できる耳環が2点出土しました(図3・4)。 

3号墳(図5)は、周溝を伴うやや胴張りの玄室を持ち、古墳群の中で一番大きな古墳です。墳丘は大部分が削平されており、天井石が石室内に落ち込んでいる状態で検出されました。周溝は石室の南西より北に延び、幅4m、深さ1.4mと深く、平面の規模は北西部分で21mほどを測ります。埋葬施設は、南東に開口する複室の横穴式石室です。敷石は、玄室・前室・羨道部で検出されました。石室全体の規模は全長10.73mを測ります。石室
自体の造りは粗く、羨道部のプランもかなり乱れています。出土遺物は、石室内からは土師器甕頸部破片・瓦器椀、羨道部より須恵器の坏などが出土しました。周溝からは、胴部最大径80cmを測る須恵器の大甕が出土しました。鉄製品は、玄室では鉄鏃の茎先端部のみでしたが、前室から広根(ひろね)定角式鉄鏃や、広根箭定式鉄鏃、羨道部より圭頭鏃が出土しています。馬具も多く出土し、中には鉄地金銅張剣菱形杏葉(けんびしかたぎょうよう)や杏葉の留金具、鞍金具(くらかなぐ)があります。装身具は、耳環が玄室より4点・勾玉1点・管玉2点・丸玉・ガラス玉(図6)、前室より耳環1点・・丸玉・ガラス玉が出土しました。羨道部では耳環2点・・丸玉が出土しました。耳環は、金・銀の安定が良く現在でも鮮やかな光沢を放っています(図7)。

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4号墳(図10)は、古墳群の中で三番目の大きなもので一番高所所に位置します。また、埋葬施設は、複室の横穴式石室で羨道部が立ち切られたような急斜面に面し、遠方の有明海を望む南西に開口しています。石室も他の古墳の石とは違い、面取りしたものを使用しています。また、唯一天井石が残る古墳です。墳丘は削平されて、前室と羨道部にわずかな墳丘を残すのみです。石室全体の規模は全長7.15mを測ります。主軸方位はN―41度―Wです(図10)です。石室玄室からヘラ記号を有する須恵器坏蓋が、前室と羨道部より須恵器坏蓋・身が出土しています(図12)。鉄製品は、前室より鉄鏃の圭頭鏃と広根箭定式で鏃身に山形刃部が付くものなどが出土しました。また、前室から馬具も多く出土し、その中には環鏡板付轡金具(かんかがみいたつきくつわかなぐ)・鐙(あぶみ)の絞具から吊り金具などがあります(図11)。装身具は、耳環が玄室と羨道部で各1点、玄室でわずかでありますが、ガラス玉2個が出土しました。

5号墳(図9)は、周溝を伴う単室の横穴式石室です。墳丘がかなり削平され、石室は袖石のみ確認し、現存長さ3.15mを測ります。出土遺物も須恵器高台付壺の底部破片と耳環のみです。

本古墳群では、4号墳前室より完形の須恵器坏を2枚重ねた形で出土し、他の古墳とは異なり丁寧なヘラナデを施した坏が出土したこと、面取りした石材を利用したことなどから、4号墳の被葬者は本古墳群の中で最も有力者かと想定されます。

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これらの古墳群は6世紀後半ごろに築造され、長くは11世紀初頭まで追葬されたのではないかと推測されます。また、この古墳の築造された地点が現在でも有明海を望む場所であることから、有明海と関係する被葬者像も考慮する必要があります。

続きます。






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2017東濃施古墳(高田町下楠田)古墳時代・千寿の楽しい歴史
東濃施古墳(ひがしのせこふん)古墳時代

高田町下楠田(市指定史跡)  

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P318~320より

みやま市教育委員会発行


東濃施古墳は、三池郡高田町が国の地域づくり推進事業の指定を受けて、JR渡瀬駅東側の濃施山一帯に『髙田濃施山公園』を建設することに伴い、平成4~7(1992~1995)年に公園予定地内に所存する遺跡の発掘調査を高田町教育委員会が行いました。東濃施古墳は平成5(1993)年に発掘調査を実施しています(文献1)。

東濃施古墳は、公園予定地の中央部、東側に舌状に緩やかに延びる丘陵上の標高32.6~35.2mに位置します。この古墳は踏査では10m程度の円墳と推定されていましたが、調査を開始すると当初推定していた墳丘は石室の部分のみ残存し、かつ墳丘は南側と北側が旧斜面で、大部分が削られていました。周溝は確認できなかったので、墳形を円墳と判断する根拠は乏しいですが、両袖の複室の横穴式石室を有し、石室の規模から22m程度の円墳と推定されます。調査開始時点では、奥壁と前門の天井石を確認し、玄室の天井石は石室内に落ちている状況であったため、石を取りのぞき、掘り下げて調査を行っています。

石室(図1)は現存する全中長は11.7mを測ります。石室の主軸はN―6度―Wで、南に開口する複室の横穴式石室です。

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玄室は両側壁の長さともほぼ4m、幅奥壁3.1m、玄門側2.6mを測り、やや奥壁側に開く長方形のプランです。天井石はほぼ失われていました。

玄門には、高さ37cm、横87cmの框石(かまちいし)を敷き、玄門の幅90cm、框石から楣石(まぐさいし)まで1.35m、天井石が残っている部分で高さ2.65mを測ります。また前室側に最大幅1m、高さ82cm、厚さ16cmの駒形に閉塞石を立てていました。前室は、右側壁0.95m、左壁側1.24m、幅2.64mを測り、長さに対して幅の非常に横長の長方形のプランです。前門は、高さ60cm、横38cmの框石を敷き、玄門の幅60cm、框石から楣石まで1.2m、天井石まで2mを測ります。羨道(せんどう)は、框石から長さ5.53m残り、幅1.5mを測ります。

出土遺物は、玄室内では右奥隅より、完形の須恵器提瓶(1)が、また口縁部が一部欠損していますが、ほぼ完形の外器面にヘラ記号を有する須恵器坏蓋(2)が出土しています(図2)。

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前室では右袖部より、須恵器の台付長頸壺・短頸壺・鉄鉢・埦・埦蓋、土師器では須恵器の模倣形態の高坏と丹塗りの壺・丹塗り皿が出土し、そのほかに須恵器つまみ付坏蓋・坏身が出土しました。羨道部では、須恵器の小壺・坏・高坏・甕の破片・把手など、土師器では高坏・小皿が出土しました(図3・4)。

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鉄器は、玄室より鉄地金銅張無脚雲珠(てつじこんどうばりむきゃくうず)をはじめ、前室、羨道部より馬具・鉄鏃ほか多くの鉄製品が出土しました(図5)。

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また、羨道部より青銅製の三累環が柄尻被せ金具を二分の一欠損した状態で出土しました。(図6・口絵)。環の全幅4.8cm、全長2.8cm、環径は中央2.3cm×2.7cm、厚さ5.2cm、左2.1cm×2.1cm、厚さ4.6mm、右2.2cm×1.9cm、厚さ4.1mmの半球形環3個を三つ葉状に連接させています。柄尻被せ金具は左右幅4.8cm×4cmを測ります。幅3.5cm×3cm、厚さ1.8mmの楕円形青銅板柄尻金具を装着しています。この金具の両縁には二条の隆状帯が巡ります。この三累環は柄尻被せ金具に三累環を接着し、環が割合薄手で、柄縁金具とともに鋳造し、茎をもたないものです。

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そのほかに痩身具では、銅釧・耳環は玄室より銀環7点・金環1点、前室より銀環1点・金環1点、羨道部より金環3点、計13点が出土しました。玉類は、羨道部よりガラス製の小玉・羨道部より碧玉の管玉・水晶製の切小玉が出土しました。

三累環は小田富士雄「九州発見の三累環頭柄頭」によると、長崎県北松浦郡生月島生月町山田(現、平戸市生月町山田免)987番地の古墳から出土した三累環頭柄頭と酷似しています(文献2)。また、福岡市の三苫古墳群1号墳出土の三累環も同様の形態です。
 
三累環の型式は、新谷武夫の「環状柄頭研究序説」内の型式分類では三型式にわけられており、その中で、「外環の断面が薄造りで扁平なもの。柄縁金具とともに鋳造し、茎をもたない。柄の先端に被せる方式のもの。」に本例も属します。新谷によるとこの型式は日本化した作りのもので、6世紀後半ごろから作られ、広く用いられたものであろうと指摘されています(文献4)。

東濃施古墳の築造年代は、特に九州では出土例が少ない三累環や馬具などの出土品が多様で、有明海を望む丘陵上の古墳という立地から政治的・経済的な有明海交流面の
一端を担った在地首長墓であると想定されます。

横穴式の名称

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古墳の構造

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2017城道遺跡(弥生時代)・千寿の楽しい歴史
城道遺跡(じょうみちいせき)高田町舞鶴 弥生時代  

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P235より

みやま市教育委員会発行


城道遺跡は、みやま市高田町舞鶴字城道に所在する中細形銅剣出土推定値です。中細形銅剣は平成7(1995)年、高田町教育委員会に高田町大字舞鶴在住の故野林一美より持ち込まれました。野林によると、昭和25(1950)年頃に野林一美の父、羊郎が飯江川上流の井堰付近河原にて土石を再集中に発見し、家に持ち帰り大切に保管していたとのことで、出土地点は聞き取りにより三池郡高田町大字の舞鶴字城道飯の飯江川上流付近であることがわかりました。詳細な場所は特定できず、銅剣そのものも上流から流されてきた可能性がありますが、出土場所から城道遺跡としました。城道遺跡の周辺は銅剣発見当時に遺跡の分布はあまり確認されていませんでしたが、遺跡南側に緩やかに延びる丘陵地にある日当川遺跡では、弥生時代の石斧が出土しており、また近年、竹飯馬見塚遺跡と原町西小路遺跡で縄文時代・古墳時代の遺跡が発見されています。さらに、飯江川に沿った西方2kmほど下流の北側に位置する広大な扇状地である竹飯遺跡群では、甕棺墓を検出した犬ノ馬場遺跡、堺遺跡など遺構密度が高い弥生~古代の遺跡があります。

中細形銅剣は鎬 (しのぎ)が刳方(くりかた)までしか伸びず、刳方の一部が破損し、表面には部分的に黒色の錆が付着しています(図1・2)。現存長38.3cmのうち茎(なかご)部分は2.3cm、剣身長は36cmを測ります。刳方下端、突起部はそれぞれ関(まち)から8.2cm、12.9cmの位置にあります。脊は元部で1.3cmを測り、厚さも元部では1.1cmとなります。身幅は、関部で3.3cm、刳方下端は復元値4.6cm、突起部は3.6cmを測ります。剣身部の刃部研ぎ出しについては後世に再度研がれた痕跡があります。関は明確に直線をなさず、わずかに斜め方向に茎へ移行します。茎は少し扁平気味です。色調は全体的に緑青色を呈します。銅質は良く安定し保存状態は良好です。重量276gを測ります(文献1)。

銅剣は北部九州における弥生時代の「クニ」の成立と展開を考える上で重要な位置を占めるものです。出土例が少ない中細形銅剣が福岡県南端域で発見されたことは、北部九州の青銅器を考察していく上で極めて貴重なものです。

銅剣は平成8(1996)」年に野林一美から高田町へ寄贈され、同年2月1日に高田町指定文化財(現みやま市指定文化財)となりました。

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銅剣の名称

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2017今福貝塚(弥生時代)・千寿の楽しい歴史
今福貝塚(いまふくかいづか)弥生時代

高田町今福 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P233~P234より

みやま市教育委員会発行


今福貝塚は、平成5(1993)年、個人宅の浄化槽設置工事中に表土40cm下方より、中に人骨がある甕が出土したと、高田町教育委員会へ連絡があり、弥生時代の甕棺墓であることを確認しました。この土地は、以前より敷地内を耕す際、人骨や土器の破片が出土した場所でもあり緊急に図面を作成し、甕棺から人骨を取り上げました(文献1)。

発見時の甕棺墓(図1)は上甕のみしかなく、棺内に人骨がある状態でした。掘り方は砂地の層に掘り込んでいたため非常に確認が困難な状況でした。棺内の人骨の残りは良く、これは貝殻層の存在によるものであろうと考えられます。下甕は発見時には掘り起こされており、周辺に置かれていました。墓壙は長軸221cm、短軸125cm、深さ112cmを測る長方形のプランで合せ口式棺の大形棺が埋葬されていました。主軸はN
―24度―Eです。

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なお、貝塚は土層によると貝殻層と砂混じりの貝殻層が交互に堆積し、その下には1cm程の貝殻層が堆積していました。貝殻層にはカキ・ハマグリ・アオヤギ・マキガイが含まれていました。砂と貝殻により堆積した層に甕棺を埋置したと考えられます。

甕棺は上甕がほぼ完形で、底部のみ欠損しています(図2・3)。形態は、口縁部はわずかに外側に傾斜した三角口縁を呈します。胴部中位よりやや上部に、見かけは二条の三角突帯にみえますが、実際の造りは一条のヨコナデによるM字突帯を貼付しています。胴部の器壁は0.9~1cm程と薄く、調整は外側に横から斜めのヘラミガキ、口縁部上面にもヘラミガキ、内面はナデを施しています。口径(外径)63.8cm、(内径)55.4cm、復元器高84.4cm、胴部最大径64.8cmを測ります。

下甕(図2・3)は発見時にはすでに、掘り上げられていましたが復元すると底部のみ欠損していました。口縁部はわずかに外側に傾斜した三角口縁を呈します。胴部中ほどよりやや上位に見かけは二条の三角突帯にみえますが、実際の造りは一条のM字突帯にミガキを有したものを貼付し、最後にヨコナデを施しています。胴部の器壁は1~1。2cmを測り、
調整は外側には突帯下部は縦と横から斜めのヘラミガキ、突帯下部は横から斜めヘラミガキ、口縁部上面にもヘラミガキ、内面はナデを施しています。口径(外径)66cm、(内径)56cm、残存高86cm、胴部最大径69.2cmを測ります。全体的に丸みを帯び重量感があります。

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上下甕棺の色調は茶褐色を呈します。焼成は良好、胎土も精良です。

甕棺内出土の人骨について分析を行ったところ、形質的特徴として鼻は幅広であり、眉弓の強い発達とともに、高顔・高眼窩(こうがんか)でありながら広鼻という形質であり、弥生人と比べて顔面の印象は異なるという結果が報告されています(文献2)。

上下甕棺は橋口達也(文献3)による型式分類ではKⅡaの式に属し、三角口縁からKⅡaの式でも古相のものです。筑後から肥後にかけて特徴的に分布する地方色のある甕棺に比定され、弥生時代中期初頭と推定できます。甕棺墓制が南筑後に伝播した当初の甕棺として重要です。

続きます。






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by kusennjyu | 2017-08-02 20:04 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017長谷古墳群(④村山健治収集伝長谷出土資料)・千寿の楽しい歴史
長谷古墳群(ながたにこふんぐん)

瀬高町大草 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P332~P339より

みやま市教育委員会発行


④村山健治収集伝長谷出土資料(図16・17)

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この玉類2点は、郷土史家の村山健治が「長谷出土」と概要報告で報告しているものですが(文献1)、氏作成の古墳一覧表に記載はなく、長谷遺跡群での詳細な出土地点・遺構、出土年月日などの情報は不明です。

いずれも古墳時代のガラス製勾玉・翡翠製異形勾玉としては形態的・製作技法的にも類例がないことから、古墳時代以降に製作されたものの可能性があります。

ガラス製勾玉

ガラス製勾玉の法量は長さ6.5cm、幅4.1cm、厚さ1.8cm、孔径0.5cm、重さ79.14gを測る。かなりの大型勾玉です。全ての表面はヒビおよび凹凸が顕著に見られることから、鋳型ではなく、練り伸ばし(巻き付け)技法により製作されたと思われます。色調は明緑灰色で、ガラスの材質は分析により、鉛ガラスということがわかっています。かなりの大きさであることから、未研磨、鉛ガラス、明緑灰色であることから、古墳群に伴うものかどうかは不明です。

ヒスイ製異形勾玉

先のガラス製勾玉と同様「長谷出土」とされるもので、法量は長さ4.4cm、幅1.55cm、厚さ1.1cm、孔径1mm、重さ20.66gを測り、クサビ状を呈するものです。中央上部に穿孔を施しており、A面は穿孔部から先端部にかけて、B面は穿孔部を中心に、金属と鋭利な工具による細線の文様を刻んでいますが、A・B面とも何を描いたかは不明です。色調は緑色~緑白色で、材質は良くないものです。古墳時代後期の勾玉は、定型的な形態がほとんどであることから、古墳群に伴うものかどうかは不明です。


続きます。





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by kusennjyu | 2017-07-16 11:43 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る