千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:みやま市の歴史( 118 )
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2017長谷古墳群(④村山健治収集伝長谷出土資料)・千寿の楽しい歴史
長谷古墳群(ながたにこふんぐん)

瀬高町大草 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P332~P339より

みやま市教育委員会発行


④村山健治収集伝長谷出土資料(図16・17)

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この玉類2点は、郷土史家の村山健治が「長谷出土」と概要報告で報告しているものですが(文献1)、氏作成の古墳一覧表に記載はなく、長谷遺跡群での詳細な出土地点・遺構、出土年月日などの情報は不明です。

いずれも古墳時代のガラス製勾玉・翡翠製異形勾玉としては形態的・製作技法的にも類例がないことから、古墳時代以降に製作されたものの可能性があります。

ガラス製勾玉

ガラス製勾玉の法量は長さ6.5cm、幅4.1cm、厚さ1.8cm、孔径0.5cm、重さ79.14gを測る。かなりの大型勾玉です。全ての表面はヒビおよび凹凸が顕著に見られることから、鋳型ではなく、練り伸ばし(巻き付け)技法により製作されたと思われます。色調は明緑灰色で、ガラスの材質は分析により、鉛ガラスということがわかっています。かなりの大きさであることから、未研磨、鉛ガラス、明緑灰色であることから、古墳群に伴うものかどうかは不明です。

ヒスイ製異形勾玉

先のガラス製勾玉と同様「長谷出土」とされるもので、法量は長さ4.4cm、幅1.55cm、厚さ1.1cm、孔径1mm、重さ20.66gを測り、クサビ状を呈するものです。中央上部に穿孔を施しており、A面は穿孔部から先端部にかけて、B面は穿孔部を中心に、金属と鋭利な工具による細線の文様を刻んでいますが、A・B面とも何を描いたかは不明です。色調は緑色~緑白色で、材質は良くないものです。古墳時代後期の勾玉は、定型的な形態がほとんどであることから、古墳群に伴うものかどうかは不明です。


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by kusennjyu | 2017-07-16 11:43 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017長谷古墳群(③伝長谷遺跡群出土資料)・千寿の楽しい歴史
長谷古墳群(ながたにこふんぐん)

瀬高町大草 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P331~P339より

みやま市教育委員会発行


③伝長谷遺跡群出土資料

個人の方により市に寄贈された資料です。資料を収めた木箱の箱書きに「山門郡瀬高町大字大草女山 平嶋所有山林より採土中に発見したる品物なり 耳環10個、首飾27個 昭和46年3月」と記され、長谷遺跡群付近の横穴墓出土遺物と考えられます。

耳環(図14・15、観察表は表4)

箱書通り計10点現存し、銅錆が顕著なため、鍍金の痕跡が確認できない(3)と銅芯鍍金の(8)以外は銅芯銀箔貼鍍金のものです。

勾玉・管玉・ガラス玉(図14・15、観察表は表5)

箱書では「首飾27個」と記されていますが、現在は22点確認できます。

勾玉はヒスイ製2点、碧玉・メノウ製が各1点の計4点あります。いずれも材質は違いますが、質は良くないものです。特に、(14)は孔を上面と側面から穿孔していますが、上部の穿孔時に上部が欠損したため、上部を切り取り、上面と側面から穿孔し、勾玉として使用したものと考えられます。

管玉は、碧玉製5点が現存しており、いずれも孔は両面穿孔です。ガラス小玉はやや大きめの玉7点と小玉6点の計13点が現存しています。

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by kusennjyu | 2017-07-14 11:32 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017長谷古墳群(②村山健治収集資料)・千寿の楽しい歴史
長谷古墳群(ながたにこふんぐん)

瀬高町大草 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P330~P339より

みやま市教育委員会発行


②村山健治収集資料  

伝長谷古墳群8号墳出土資料 

資料が出土した8号墳は女山神籠石長谷水門の丘陵先端部に位置する古墳(図4)で、村山健治の概要報告の図面(図5)から小型の竪穴式石室であったと考えられます。概要報告(文献1)によると、8号墳から刀装具を含む大刀1振・馬具(轡)・耳環9点、水晶製管玉1点が出土したとされ(表1)、現在刀装具、大刀の一部のほか、8号墳出土とされる耳環15点が市および九周歴史資料館に保管されています。ここでは8号墳出土とラベルに記された村山健治収集資料について紹介します。

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大刀(図10)

(1)は、大刀の身先端部付近で、長さ12.9cmが残っています。(2)は長さ26cmほど残存する大刀の身で、鞘(さや)の木質が一部残っています。

刀装具など(図11・12)

(1)は金胴装鐔(こんどうそうつば)です。鎺(はばき)とは別造りのもので、鉄製
の鎺に厚さ1.5mm程度で、銅板で覆い、その後鍍金を施しています。鎺の裏面は現在剥離して、鉄部分が露出していることから、本来は表面と同じく銅板で覆っていた可能性があります。また、土圧により鐔(つば)が曲がっています。法量は長さ6.8cm、幅5.2cm、厚さ1.6cm、重さ42.5gを測ります。(2)は大刀の切羽で、厚さ1mmの銅板に鍍金を施して製作しています。裏面には鉄錆(てつさび)が認められます。法量は長さ5.9cm、幅3.5cm、高さ1.1cm、重さ6.6gを測ります。(3)は鞘尻金具(さやじりかなぐ)で、表裏2枚の板を銀蝋付(ぎんろうづ)けし、その後鍍金を施したものです。上面には幅5mmの責金具痕(せめかなぐこん)が残っています。法量は長さ9.7cm、幅2.8cm、厚さ1.9cm、重さ51.4gを測ります。

(4)は方頭環頭で、中央に1cm程度の円形の懸通孔(かけどおしあな)を開け、最後に別造りの銅板を銀蝋付けで蓋をして製作したと想定されるものです。鍍金は認められません。法量は長さ3.8cm、幅3.3cm、厚さ1.75cm、重さ5.3gを測ります。この(4)の方頭環頭は、概要報告(文献1)で情報は掲載されていませんが、この方頭環頭と(1~3)がセットで方頭環頭おお刀を構成していた可能性があります。

(5)も概要報告で情報はないものですが、刀装具の責金具と思われるものです。銅芯鍍金のもので、土圧により歪みとワレが生じています。法量は長さ4.0cm、幅2.4cm、厚さ0.25cm、重さ261gを測るものです。(3)の鞘尻金具には責金具痕が認められますが、(5)は大きさから鞘間の責金具と考えられます。また、(1~5)はセットであった可能性があります。

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耳環(図12・13、観察表は表3)

(1~15)は、8号墳出土とされる耳環15点ですが、一覧表(表1)には耳環8点出土したとされるため、少なくとも7点は他の遺跡ないしは本古墳群の他の古墳採集のものが含まれていると思われます。また銅芯銀箔貼の耳環が多くを占めており、意図的に銀箔貼のものが集められた可能性も考えられます。

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by kusennjyu | 2017-07-13 17:57 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017長谷古墳群(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
長谷古墳群(ながたにこふんぐん)

瀬高町大草 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P328~P339より

みやま市教育委員会発行


長谷古墳群は、古僧都山から西に延びた2つの尾根上および斜面に築造された石室墳と横穴墓からなる古墳群、縄文時代早期とされる大型礫器などが出土した散布地からなる遺跡です。古墳群は、国指定史跡女山神籠石の列石内、長谷水門付近の標高50~100mの尾根上および斜面に位置します。かつては、古墳時代後期を中心とする古墳が100基以上存在したとされますが(文献1)、戦後の蜜柑園造成により横穴墓を中心とする多くの古墳が失われてしまったと考えられます。そのうち、横穴墓から出土したとされるイモガイ製飾金具(指定名称は「貝製雲珠」)3点は昭和34(1959)年に福岡県指定有形文化財(参考資料)として指定されています。

古墳群の調査は、昭和33(1958)年の蜜柑園造成の際に3~11号墳が発見され、その後郷土史家の村山健治らによる発掘調査を継起として昭和34(1959)年に東京大学理学部人類学教室の鈴木尚・近藤四郎によって人骨収集を主目的とした発掘調査が行われています。なお、昭和33・34年調査の成果は、東京大学の調査にも協力した村山健治によって概要報告が行われています(文献1)。また、その後、調査結果の一部は『瀬高町誌』(文献2)や『誰にも書けなかった邪馬台国』(文献3)などの村山の著作に掲載されています。さらに、村山からの資料提供によると思われる、岩崎光による学会誌への本古墳群概要報告があります(文献4)。

村山が先の概要報告や著作に掲載した本古墳群の一覧表をもとに、内容を精査し、作成したものが、表1の一覧表です。表の調査主体が「○」のものは東京大学が調査主体、空欄は村山らが調査したものになります。今回、東京大学が調査以外の石室墳・横穴墓については存在した略測図を再トレースし、図5に掲載しています。

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本古墳群では、これまで石室墳および横穴墓が計54基以上確認されており(図4・表1)、墳墓は古墳時代中期と考えられる石棺系石室2基と小竪穴式石室ないしは石棺系石室と考えられる古墳4基を契機として、古墳時代後期後半~7世紀後半まで築造・追葬された横穴墓の主体となります。

石棺系石室と考えられる14・16号墳は、尾根上でも立地の良い平坦地に築造されています。表1で村山が「石積石槨」とした4・7・9・10号墳も小形の竪穴系石室ないしは石棺系石室の可能性があり、古墳時代中期に属する可能性が高いと考えられます。これらが全て中期に属するとなると、小形の竪穴系石室ないしは石棺系石室がまとまって展開する状況が推測されます。なお、石室規模が2.3m×1m程度の小形の竪穴系石室と思われる8号墳は、石室形態では古墳時代中期に位置づけられますが(図5)、村山の報告によると、出物が環頭大刀(かんとうたち)の可能性がある刀装具を含む大刀1振(図10・11・12)、馬(轡・くつわ)、耳環8点、水晶製管玉1点という古墳時代後期でも後半の副葬品構成であることから、石室形態と出土遺物の時期が一致しません。このため、8号墳出土遺物は、ほかの古墳のものが何らかの理由で混入した可能性があります。

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続く古墳時代後期前半には、古墳群が継続していたかどうかは不明です。後期後半には古墳群の主体となる横穴墓と、横穴式石室を主体とする円墳(54・56・57号墳そのうち56・57号墳は後に瀬高町教育委員会により発掘調査が実施された山内1・2号墳(文献5))が、隣接した位置に築造されています。また、盗掘は受けていましたが、正式な発掘調査が行われた56・57号墳(山内1・2号墳)と現在伝わる本古墳群の横穴墓の副葬品を比較すると、輻輳された馬具・武器類・土器累の構成・質・量などほぼ同様で、複室横穴式石室と横穴墓という築造に係る労働力という面からは大きな違いがあるものの、副葬品では大きな違いが認められないという特徴があります。

横穴墓は、東京大学調査のものも含めて、天井部がドーム状を呈し、平面形が方形を基調とする単室構造のもののみ認められます。杉本岳史によると、これまで正式な発掘調査が実施された八女市(旧立花町)を中心とする矢部川流域の横穴墓は、奥壁側の一方ないしは奥壁・両側壁を「コ」の字状に一段高くする屍床施設、天井形態は家形複室構造という地域性がみられることが指摘されていますが(文献6)、本古墳群の横穴墓の構造とは大きく異なるため、本地域の横穴墓は八女地域とは系譜が異なる可能性があります。

37号墳は、玄室の平面形が若干縦長を呈した方形で、羨道先端部には筑後地域の小郡市の花立山古墳群1号横穴墓に見られるテラス状の高まり(灯明の掘り込みは後世の改変の可能性が考えられます)が見られます(図2・5)。さらに、東京大学調査の30号墳では、遠賀川流域の横穴墓で特徴的に見られる羨門部石組み構造がみられることから、杉本が指摘するように、遠賀川流域の横穴墓の影響が認められます(文献6)。

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石室墳と横穴墓が隣接して築造され、この両者の副葬品の質・量の差がないこと、また遠賀川流域の影響が見られる横穴墓を有する本遺跡群は、遠賀川流域と菊池川流域という横穴墓分布地域とを結ぶ地域間交流の存在を推測できる遺跡として重要です。

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by kusennjyu | 2017-07-06 20:16 | みやま市の歴史 | Comments(2) |Topに戻る
2017堤古墳群(瀬高町山門)・千寿の楽しい歴史
堤古墳群(つつみこふんぐん)

瀬高町山門 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P214~P215より

みやま市教育委員会発行


堤古墳群は、標高7.5~8mほどの沖積台地上に立地し、東側には九州縦貫自動車道が南北に縦走しています。さらに、東には筑肥山地の一角である清水山が連なっています。

堤古墳群は、市瀬高町山門の堤集落の内にあり、その集落は周囲の田園に比べると0.5~1mは高い地形で東西220m、南北220mの方形ないしは円形状の台地を形成しています。

このような台地のほぼ中央を南北に狭い道路が貫通して、東側を東塚原、西側を西塚原と呼んでいます。台地上には、古墳(横穴式石室と思われる)の残欠(材質は緑泥片岩)や巨石・大板石といった石材が東塚原には4基、西塚原には8基の計12か所が痕跡として認められています(図2)。正式には、発掘調査や測量調査は実施されておらず、後世の開墾や開発などによって変形や削平された現状は否めません。

大正2(1913)年には、石田昌(さかえ)によって『堤の塚原の発見』として世に発表されました(文献3)。「東山村字堤は旧藩時代一村なり村内に巨石の人工的な併列せるあり、里人に問ふにその由緒を知らず、即ち之を古墳として世に発表す。」と記述されています。また、「数十年前同地の人その辺(一号墳)を発掘し一個の金環を発見」、「堤の地形を見るに平地よりも約二間位高く大体に於いて円形をなせり、されば堤の部落は古墳の上に在りてふ断案を下せしに果たしてその字は二つにして、東塚原、西塚原せり。」とも記されています。

同年8月には東京帝国大学の白鳥庫吉や郷土史家の渡邊村男らが調査に訪れて、渡邊は「其一部落殆んど円形にして四囲繞らすに竹藪を以てし、小径其下に廻り之を一周せば凡そ三丁あり、四方低くして中央高し。」と述べ、」また「嘗て之を同所の古老に聞く。東塚原の大石露出の地(一号墳)は20年前迄は、数十坪の芝原にして耕転せしものなく、いと荒廃せる状態なりしが其後之を拓らき傍に民家を建てたり。近年大石の下より金製のの腕輪を掘り出ししも恐れて再び之を埋めしと云。此石、地上露出面を測るに長凡一丈二尺(約3.6m)、高さ四尺八寸(約1.40m)、厚さ二尺七寸(約80cm)あり。此石の左右の直角に置かれたる大石は倶に長五尺位(約1.50m)也。」(文献5)と記述しています。また、古老の談話によれば、石棺(箱式石棺か)と思しきものが集落内の各所から出土したようです。これとは別に、東塚原からは、昭和39(1964)年に安山岩の石材を使った箱式石棺(文献3)、西塚原では昭和56(1981)年に甕棺墓2基が瀬高町教育委員会により調査されています。

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by kusennjyu | 2017-07-04 11:20 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017女山神籠石(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
女山神籠石(ぞやまこうごいし)

瀬高町大草(国指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P391~P397より

みやま市教育委員会発行


女山神籠石は、市の北東部にあたる市瀬高町大草字女山に位置します。筑後平野と有明海沿岸部まで俯瞰(ふかん)できる古塚山の山頂部(標高約190m)を最高所する西斜面に築かれ、馬蹄形に延びる列石が約1.5kmにわたって確認されています。北と東側には列石、土塁線は確認されていませんが、推定2.7~3kmに周ると推定されています。列石を横切る4つの谷を包谷しており、それぞれの谷には南より産女谷、源吾谷、長谷、粥餅谷(横尾寺谷)の水門が設けられています。

昭和28(1953)年11月14日に国指定史跡となりましたが、当初指定範囲は、列石両側幅10mおよび水門遺構の1万5427.40平方メートルでした。その後、同52(1977)年7月14日付で11万9828.51平方メートルを追加指定され、指定面積は
13万5255.91平方メートルとなりました。現在、一部が女山森林公園として市民に親しまれています。

神籠石の名は、明治32(1899)年に小林庄次郎が『東京人類学雑誌』に「筑後国高山中の「神籠石」なるものに就いて」で紹介したことで全国に知られるようになりました(文献1)。

この中で、福岡県久留米市高良山の列石について、列石は神霊の宿れる霊地、神聖に保たれた場所を区画するものとされました。しかし、明治33(1900)年に、山城説が提唱されたことにより(文献2)、明治・大正期に「神籠石論争」という形で激しい論争が展開されました。

その後、神籠石は、列石や土塁の有無などの検討が盛んに行われ、昭和38(1963)年に佐賀県武雄市の「おつぼ山神籠石」、佐賀市の「帯隈山神籠石」の発掘調査により列石上に土塁が構築されていることと、前面に柱穴を伴うことなどから、神籠石が古代山城跡であるとする山城説が有力となります。

女山神籠石においても、昭和42(1967)年、昭和46(1971)年、昭和56(1981)年の調査で、列石上に土塁がされていることと、前面の柱穴を確認しています。

古代山城には、「神籠石系山城」と「朝鮮式山城」があります。「神籠石系山城」は『日本書紀』・『続日本記』などの史書に記載がなく、列石と谷部に水門遺構を持つ史跡で九州から瀬戸内海沿岸に所存します。

神籠石という名称の国指定史跡は、山口県の石城山神籠石(1935年6月7日指定)、福岡県には、雷山神籠石(1932年3月25日指定)、鹿毛馬神籠石(1945年2月22日指定)、高良山神籠石(1953年3月11日指定)、御所ケ谷神籠石(1953年11月14日指定)、杷木神籠石(1972年12月9日指定)、女山神籠石(1953年11月14日指定)、佐賀県には帯隈山神籠石(1951年6月9日指定)、おつぼ山神籠石(1966年6月21日指定)の9か所です。
 
杷木神籠石指定以降の国指定名称は古代山城跡となり、県内では唐原山城跡(2005年3月2日指定)、阿志岐山城跡(2011年9月21日指定)が指定されて」います。

「朝鮮式山城」は、史書に城名が記載され、石累を巡らし、城門、・水門を備え、郭内に倉庫群などの建物の施設を有するものを指します。九州内には福岡県の大野城跡、佐賀県の基肄城跡、熊本県の鞠智城跡があります。「女山神籠石」の名は明治33(1900)年に八木奘三郎が『東京人類学会雑誌』に「九州地方遺跡調査報告」の中で、第二章神籠石の種類「筑前国糸山」・「筑前国嘉穂郡頴田村字鹿毛馬」・「筑後国山門郡清水村女山」・「筑後国御井郡高良山」の4つを報告したことで全国にしられるようになりました(文献2)。

八木奘三郎は、女山神籠石について、「彼の神籠石は右は右観音堂北方に連なる山嶺に起り、南面より西北に走りて渓谷を亘ること五,十数丁を廻り手て頂上に還れるが若し、予は社地の近傍なる築石を度りしに長さ2尺23寸より3尺8寸位のものが有り、厚さは1尺8寸内外にて高さは2尺を起こるもの多からざりき、此場処に出て居るもの総長さ12丈4尺有り、絶頂より東に面する箇所また多く見ゆ、而して頂上に近き邊は山の自然岩を其儘利用せるものを交え又上部の前面を一段り窪めたもの有り」と報告しています。

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女山神籠石の調査は、昭和10(1935)年に石南より産女谷、源吾谷、長谷、粥餅谷(横尾寺谷)の水門が設けられています。
野義助による列石の調査が行われたことにはじまり、この調査を第一次調査とします。調査結果は、産女谷・源吾谷・長谷・粥餅谷の4つの水門と列石766個を確認し、北側(山側)には列石は列石は存在しないとほうこくしています(文献3)。

次に、昭和42(1967)年の第二次調査では、昭和40(1965)年に土取り工事による列石線が約100m崩壊したことを契機に調査が行われました。調査は、神籠石北半部の列石未確認部分の確認調査が実施されましたが、列石はもちろん土塁の版築の痕跡すら確認できなかったと報告されています。また、この調査では、頂上部北側の東斜面列石は踏査で確認できなかったと報告されています。さらに、そのほかに粥餅谷水門南側にある日子神社の参道沿いに列石が一部露出しており、その背後に土塁状の高まりが認められた部分にトレンチ調査を行っています。その結果、列石前面に直径30cmの柱穴と列石背後には、列石の天端から約2mの高さの土塁版築を確認しています。東側列石の頂上部より南西へ約150mの部分の確認調査では、列石前面から20cm前後の距離、深さは列石下端面から70~80cmでやや内側に傾斜する柱穴が確認されています。これらの調査結果により、列石の全面に柱間隔3m(10尺)の柱穴の存在と版築による土塁の存在がわかりました。加えて列石は長方形の切石で、上端にL字形に切り欠き加工をしたものがあると報告しています(文献4)。

昭和46(1971)年の第三次調査は、昭和44(1969)年4月に源吾谷水門から産女谷水門間の土取りにより産女谷水門が工事用道路の下に埋没することを契機とするもので、産女谷水門の位置確認のための緊急調査と列石線の測量調査が実施されました。土取り工事のため地形が大きく変わったため、水門は位置の確認にとどまり、列石は落石し、露出した列石の裏には版築が観察されていますが、その主要部分は完全に取り去られ、水門跡から北へ35mの所まで工事によって列石は完全に失われていました。この地点から、さらに北方の100mの地点までの約65m間は抜き取りの痕跡も含めて35個の列石と版築を列石の裏側に入れたトレンチから確認しています(文献4)。
 
昭和56(1981)年の第四次調査は、山内古墳群の山内二号墳のすぐ東側の列石調査が実施されています(文献5)。この調査は、山内二号墳の墳丘と神籠石列石との関係の把握のため、墳丘断ち割りトレンチを列石の所まで伸ばしましたが、墳丘と列石裏込めおよび版築との前後関係はつかめませんでした。この調査により、列石の背後にある垂直に近い地山の岩盤を削り出して、そこから75mほど離して列石を据え置いた後、版築で裏込めていることが確認できました。版築は赤褐色土と、地山の岩盤を削り出した際に得られた灰褐色土を基調に交互に叩き占め積んでいます。列石前面のトレンチで、柱穴が9個確認され、柱穴間は10尺に近いものでした。列石は長方形の切石で、前面上端にL字形の段を造りだしていると報告しています。このp調査において神籠石の年代は、山内古墳群との関係から7世紀後半に位置づけられています(文献5)。

第五次調査は、平成22,23(2010,2011)年の2か年にかけてみやま市教育委員会が史跡の現状と周辺環境などの正確な把握のため現地調査を実施しました(文献6)。調査内容は同22年に列石を踏査し、馬蹄形に列石が配列していると想定される1.5kmのうち、列石が確認できる場所を平板測量による図化と、産女谷水門の図化を行いました。同23年は、粥餅谷水門・長谷水門の図化を行いました。同24(2012)年に第一次・第二次・第三次・第四次の調査内容を踏まえ、調査成果を史跡内容確認調査報告書として刊行しました(文献6)。ここで掲載する資料は、その報告によるものです。

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第五次調査の報告書には、発掘調査以外の市に残る関連資料の調査も行い、昭和29(1954)年11月15日付で東山村教育長(昭和31年に東山村は瀬高町に編入)から福岡県教育委員会教育長宛にて台風12・14・15号による文化財被害復旧費の申請書に添付された資料(図2)が発見されました。この申請書によると、このとき、神籠石の復旧工事で人力により崩土の取り除き作業が行われたことが記載されています。また、この図面は絣餅谷水門と判別できます。

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第五次調査の結果は、列石の配列は全体的に曲線を基調としています。石材は入念な加工を施し、面を直線的に揃えた切石が使用されています。「はつり」と「敲打」により、切り欠きの加工が見られます(図3)。敲打は、石材の表面をたたいて加工する手法で、精緻な整形がなされています。一部、自然石の利用も見られました(図4)。特に、自然石の切り欠き加工は、列石築造後に行っていた可能性があり、切り欠き加工と土塁の築造を考える上で重要な成果です。列石の上面は、赤色粘土層に置かれていました。版築は2種の土層を交互に積んでいます。

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水門は4つの水門のうち、源吾谷水門は土取り工事により崩壊しています。産女谷水門(図5・口絵)は、神籠石域内にY字形の谷から西に延びる谷に設けられた水門で、近年の源吾谷水門から産女谷水門間の列石
内部からの土取り工事により崩壊したため、積み替えられた状態で現存することがわかりました。

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長谷水門(図6・口絵)は、神籠石域内にある南東から北東方向に伸びる谷に設けられた水門です。この部分は昭和10(1935)年に発掘調査が行われています。現状では、約三分の一が埋没していましたが、清掃により吐く口を確認し、また断面観察から水門上に土手を構築していたことが想定されます。原状と比較して、石材が失われた状況は確認されず、今に至るまで良好に保存されてきたことがわかりました。

長谷水門の石積は切石により横目地を揃えて整然と積まれています。切石は、ほぼ正方形のものも多いですが、横長の長方形を多用しています。大きさは幅40~80cmに収まるものが大部分ですが、吐口部上部には、幅約110cmの大形の切石が使われています。吐口部は、底面となる部分に厚さ10cmの板石を据え、両壁は高さ40cmの切石を用いています。吐口上部は高さ約50cmの切石を用いていますが、これにより横目地が通らなくなり、この上部の切石は角を鍵形に形成された切石を用いています。現状で最大五段の石積が確認でき、高さ約2.5mを測ります。幅は7.5m程度です。

こうした大型切石の使用や鍵形の加工などから、水門の構築は吐口部を中心になされたと想定できます。水門の両面は地山の岩盤となります。北側は凹凸の多いほぼ垂直に切り立つ岩盤で、南側は巨石状をなしています。南側は積石の形状に合わせて岩盤を窪めるように加工しています。この岩盤の加工は、現状の積石より上位でも確認され、あと五段程度積まれていたことが想定されます。吐口は幅60cmを測り、内部はほぼ水平に伸びます。

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粥餅水門(図7・口絵)は、神籠石域内のY字形の谷から西へ延びる谷に設けられた水門です。南側の尾根斜面に列石線が確認されていますが、その直線の延長上に位置しています。

昭和10(1935)年の調査において確認された北側の一石が現在は埋まっていることが確認されました。現状での幅は、約7mで、高さは3mですが、幅から推測すると長谷水門と近い規模であろうと思われます。

積み石は、切石を用いています。その大きさは幅40~150cm、高さ40~80cmと変異の幅が大きい石を使用しています。北側は石材を縦に用いるものや、一石の横を二石使用にするなどの状況も見られ、鍵形に加工する造作も見られます。

吐口は高さ約35cm、幅約75cmを測ります。底面はほぼ水平ですが、排水側からみてわずかに北側に曲がっていると観察されます。側壁は、奥行1.3~2.1mを測る大型の切石を用い、南側側壁は一か所のみ二段で構築します。北側側壁は、手前の二石は切石ですが、それより奥は、比較的凹凸が多い石を使用していると観察されます。

女山神籠石は明治時代より存在が知られていましたが、昭和~平成時代と5回の調査においてもまだ未解明な部分が多い史跡で、今後の調査が期待されます。

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by kusennjyu | 2017-07-02 16:51 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
大道端遺跡(おみちばたいせき)

瀬高町大草  

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P240~P243より

みやま市教育委員会発行


大道端遺跡は、瀬高町大草の標高9m前後の安定した微高地に立地します。

九州縦貫自動車道建設工事に先立って、昭和47(1972)年に福岡県教育委員会が試掘調査しました。その結果、検出された遺構や出土遺物から見て、旧石器時代から平安時代にまたがる複合遺跡であることがわかりました(文献1)。

そのうち、古墳時代後期を中心として、弥生時代後期の集落遺跡が主要部分をなします(図1)。

まず、旧石器時代の遺物は、剥片尖頭器・ナイフ形石器を主体とする剥片石器を若干検出しました(図2)。遺跡地東方の東山(女山)一帯の丘陵地で、硅質凝灰岩の礫器(チョッピング・トゥール)が少なからず採集されているのに対し、低地という遺跡立地と剥片石器という石器形態の差異は、海退現象に伴う低地性遺跡の出現と理解できるでしょう。

縄文時代では、早期末から晩期にまたがる縄文土器や、石鏃・石斧などの石器類を多数出土しましたが、竪穴住居跡などの遺構は遺存しませんでした。おそらく弥生時代以降の集落造営によって削平を受けたのでしょう。縄文土器は、早期末の轟A式、前期前半の曽畑式、中期の並木・阿高式、後期の南福寺式・出水式、御手洗A式、ならびに、後期の磨消縄文土器である中津式・福田KⅡ式と、後期中葉の津雲A式、鐘式、北久根山式、西平式、さらに後期後葉の三万田式や、後期終末の御領式から晩期終末の夜臼式まで黒色磨研土器が認められます。そのうち、中心をなすのは、中期から後期にかけての土器です。

縄文時代の石器では、石鏃が圧倒的に多いのですが、スクレーパもかなり出土していて、狩猟活動を推測させます。一方、自然礫の両端を打ち欠いた大小の石錘があって、漁労活動への依存度も高かったことが推定できます。

弥生時代の土器は、中期初頭から後期末にものですが、遺構では後期の竪穴住居跡と溝を認めました(図3)。

竪穴住居跡は全部で8棟検出されましたが、4つのグループにわかれます。すなわち、後期前半のa・bグループ、後期後半のcグループ、そして後期末葉のdグループへと変遷しています。このような居住集団は、3棟またはそれに若干数を加えた単為が基本であったように思われます。なお、個々の住居跡は平面方形をなし、床面中央に炉を掘り込み、そして壁際に沿ってベッド状遺構を残すものも認められました。一辺の壁 面中央に掘られた竪穴は、貯蔵用でありましょう。

溝状遺構は、調査区をほぼ斜めにN―32度―の方向で続いていました。長さ64.8mにわたって検出されましたが、この方向は、遺跡が立地する微高地の主軸の方向と一致します。また、集落の南端を走りますので、用水施設というより、むしろ排水施設であったかもしれません。

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by kusennjyu | 2017-06-27 10:29 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017女山産女谷遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
女山産女谷遺跡(ぞやまうぶめたにいせき) 

瀬高町大草

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P236~P239より

みやま市教育委員会発行。


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瀬高町女山産女谷に所在する銅矛(どうほこ)出土遺跡です。銅矛発見者の杉本博によると、銅矛以外の遺物は発見されていないということなので、単独の銅矛埋納遺跡と考えられます。銅矛埋納地点は、女山の中腹というだけで、詳細な出土位置は不明です。発見された年月は、昭和29(1954)年3月で、杉本によると偶然、鍬に当たったとされることから、開墾か畑作業をしていた時に、発見されたものと考えられます。

杉本は、当時、女山西麓の瀬高町大草に在住し、平成20(2008)年に他界しました。杉本が所蔵していた銅矛は、現在、2本とも、その所在が不明になっています。

平成12(2000)年に筆者が、筑後地方の青銅器を調査していた際に、銅矛を実測させていただき、出土状況などを伺うことができました。その後、あらためて杉本に詳しく出土状況を伺ったところ、杉本から同年9月にいただいた手紙に、出土状態を示すメモが記されていました。今となっては、発見者によって残された貴重な資料なので、この機会に公表することにします(図3)(最初のあて先が「片山」となっているのは「片岡」の誤りです)。

出土した銅矛は2本です。関の少し上で2本に折れている方の銅矛を1号銅矛、折れていない大きな方の銅矛を2号銅矛としておきます。

出土状態は、他に例を見ないものでした。まず関付近で折れて鋒(きっさき)側しかない破片を、刃を立てずに水平に寝かせ、それに鋒を合わせるように、完形の銅矛を、やはり水平に重ね合わせ、さらにその完形の銅矛のちょうど真ん中あたりに、関付近から袋部側半分の破片を袋部を上にして垂直に立てて埋めていました。1号銅矛は、関付近で折れているものの割れ目はきちんと接合するので、袋部を上にして立てた銅矛と一番下に水平に埋置された銅矛が同一固体で、それが図2の1号銅矛にあたることは明らかです。もう1本の完形品が、2号銅矛にあたることも明らかです。

出土場所は、女山の斜面で「山に対して平行」であるので、等高線と平行な方向に埋置されていたことがこのメモによって分かります。このメモには記されていませんが、以前、杉本から直接聞き取った話では、1・2号銅矛の鋒は東に向いていたとのことでした。

この出土状況に対し、銅矛が垂直に立っていたのは、鍬で引っ掛けるるなどして、銅矛の一部が引っかかって立った可能性はないか、と杉本に確認しましたが、回答は、確かにこの状態で埋まっていたものを掘り出したということでした。そうすると、袋部側の破片の長さは約30cmくらいなので、仮に袋部まで全部が地面の中に埋まっていたとすると、水平に埋められた1号銅矛の埋置深度は、最低35cmを越すことになります。

1号銅矛は、全長79.7cm、袋部幅4.7cm、関部幅8.4cmです。銅質が良く、表面は黒褐色で光沢があります。耳には細かい穴が貫通しています。

鋒から49cm付近で折れていて、袋部側の折れ口は、古い段階の細かい欠けが多く、杉本が残したメモのとおりの埋納状態であったとすれば、2号銅矛の上に立てるよりも前に破損したものと思われます。この折れが、2号銅矛の上に立てるために意図して折られたものか、折れたためにこのような埋納をしたのかは不明です。

2号銅矛は、全長83.5cm、袋部幅5.6cm、関部幅9.7cmを測ります。

袋部から上に10.5cm付近と12.0cm付近の2か所には、表面の銅質と異質な部分がありました。上の方は径3mmほどの円形で、下のほうはやや楕円で、3×6mm程度です。その位置から見て銅ピンの可能性もあります。この裏側にはそのような痕跡は見当たりません。

この中広形段階では、刃部は良く研がれて鋭利に尖(とが)るのが常で、この2号銅矛の刃部も大概は良く研がれています。しかし、この銅矛は、鋒から25~27cm付近の左側刃先だけ、刃が研がれずに平坦面に残っている箇所があります。袋端部を覗くと、よく広形銅矛に見られるように、断面がヒトデ状のハバキをかませて、隙間から湯を流し込んだ痕跡が認められます。袋部入り口付近の真土は抜かれていますが、まだ内側の壁にかなりこびりついたままの状態です。表面は、1号銅矛のような光沢はなく、全体に深緑色をしています。保存状態は良好です。

2号銅矛の表面の中央付近に、1号銅矛の折れ口が接していた痕跡が残っているのかどうか、平成12(2000)年調査時点では、そこまで観察する意識がなかったために見逃していました。それがわかれば、どちらの面が上になっていたのかわかるのですが、写真を見直してもわかりません。現物が再発見され、確認したいところです。

2口の銅矛は、同時に埋納されたものですが、2号銅矛のほうが、全体に大振りで、一部に刃部の研ぎが不完全であったり、耳の穴が貫通していなかったり、1号銅矛よりもいくつかの新しい要素が見受けられ、製作時期には時間差が認められます。

筑後地方は、八女郡広川町天神浦遺跡から13本の中広形銅矛が出土したのをはじめ、中広形銅矛の埋納例が多く認められますが、女山産女谷遺跡も、この地にそうした埋納行為が及んでいたことを示す証拠になりました(文献1)。

青銅器埋納は、偶然の発見がほとんどで、その出土状態については、不明なものが多い中、幸いこの女山産女谷遺跡では、発見者の記録が残され、他に例を見ない特異な埋納状態であったことがわかかります。


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2017鉾田遺跡(瀬高町小川)・千寿の楽しい歴史
鉾田遺跡(ほこたいせき) 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P161~P164より

みやま市教育委員会発行。


瀬高町小川
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鉾田遺跡は、矢部川およびその支流である旧河川が形成した、現標高5.5m前後を測る自然堤防上に立地しますが、遺跡周辺は土取りによる地下げが行われる以前は現在より標高が1m程度高かったと考えられます(図1・2)。昭和31,32(1956,1957)に土取りによる多数の甕棺墓・箱式石棺墓が発見されたことから、九州大学の鏡山猛によって記録作成と報告が行われました(文献1)。

第1~3区に分けられた甕棺墓群は、第2区は甕棺墓群の配置を記録できましたが、第3区は一部のみ記録、大部分は未記録のまま破壊されていました。

鏡山が調査に入る以前に破壊された第1区では、甕棺墓・箱式石棺墓数十基が出土したということですが、鏡山による聞き取り調査の結果、後述する第2区と似た甕棺墓の配置状況であったと考えられています。

第2区では、甕棺墓48基を確認し、鏡山による配置からA~E群の6小群にグループ化されています。表1は鏡山が作成・報告した甕棺墓一覧表ですが、「口縁形」という項目で、△が弥生時代中期初頭、Lが弥生時代中期前半、Tが弥生時代中期中葉の甕棺と想定されるので、それを鏡山が作成した第2区甕棺配置図を時期別に塗り分けたのが、図3です。図3によると、BおよびB’群は形状ではなく、集塊状を呈し、そのほかの群とは空閑地があることから、一辺10m程度の方形区画(墳丘か)が存在し、その中に甕棺墓群が営まれた可能性があります。また、弥生時代中期初頭と推測される13号甕棺墓では細形銅剣切先一点(図6)、時期不明である10号甕棺では棺外で磨製石鏃一点(図6)の出土など、BおよびB’群でのみ副葬品が集中し、他の群に比べ優位な群と考えられることも、墳丘の存在を示す傍証になると思われます。市内では中園聡が権現塚北遺跡の甕棺墓群に墳丘が存在した可能性を指摘していますが(文献2)、本地域でも優位な集団の墓地に墳丘が伴った可能性を示すものとして注目されます。

その他の群は、D・E群およびA、C群がそれぞれ別埋葬を指向していると思われます。

第3区で鏡山が記録した甕棺墓は9基ですが、記録範囲以外の、特に範囲外北側で、相当数の甕棺墓が存在したようです。第3区を第2区同様に塗りわけたのが図5ですが、記録できた甕棺墓9基は並列状態かつ隣接して営まれており、列埋葬の可能性は低いと考えられますが、集塊状墓地ともやや異なる、甕棺墓配置としては珍しい事例と考えられます。

 鏡山は、本遺跡の各群の甕棺墓の規模から大―中―小に区分し、それぞれが属する集団構成を分析し、さらに環溝住居(方形環溝)の在り方と照合させることで、弥生時代の共同体論(文献1)を論じています。このことから、本遺跡は学史的に重要な遺跡です。

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by kusennjyu | 2017-06-25 07:40 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017車塚古墳(瀬高町山門)・千寿の楽しい歴史
車塚古墳(くるまづかこふん)  

瀬高町山門(市指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)P266~P269より

みやま市教育委員会発行。


車塚古墳は、返済川およびその支流の旧河川が形成した標高8m前後の自然堤防上に位置する前方後円墳です。古墳の原状は、後円部から前方部の墳項に祠(ほこら)と公園があり、その整備のため墳丘上部がかなり削られています。またかつて周囲の水田には古墳周濠の痕跡はわかりづらくなっています。

これまで古墳自体の発掘調査は行われていませんが、平成元(1989)年に瀬高町教育委員会が圃場整備に伴い、古墳北東周濠隣接地を藤の尾車塚遺跡として発掘調査をしています(文献1・2)。この藤の尾車塚遺跡では、弥生時代中期の甕棺墓群と、弥生時代後期~古墳時代前期前半ごろにかけて営まれた多数の竪穴住居などを確認しています。特に弥生時代後期~古墳時代前期前半ごろの集落は、古墳時代前期後半~中期前半に断絶していると考えられることから、本古墳の造営時期との関連が注目されます。

本古墳の規模は、大正15(1926)年刊行の『山門郡誌』によると、長さ27.5間(約49.7m)、幅15間(約27.1m)、高さ2間(約3.6m)の周濠、前方部の左右に陪塚とされる円墳が各一基存在していたようです(図4・文献3)。昭和49(1974)年刊行の『瀬高町誌』によると、本古墳の規模は南北約55m、東西約27m、高さ約3.5mで、明治22(1889)年ごろまでは周囲に幅3.6mの周濠が巡っていたこと、また享保20(1735)年に鏡三面が掘り出され、その後古墳中央の祠に収められていましたが、現在は残っていないことが記述されています(文献4)。

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図3の測量図は、福岡県教育委員会が、昭和40年代後半~50年代に県内主要古墳の総合的調査で実施した航空測量の成果品で、現在では、この図と原状の道路および田畑などと照らし合わせたところ、公園整備によりその後の改変を受けているものの、車塚古墳の測量図であると確認できました。

図3によると、本古墳は北北西に前方部を向ける前方後円墳で、墳丘主軸長51.5m、後円部径27m、高さ3m弱を測り、先述の『瀬高町誌』で記された南北約55m、東西約27m、高さ約3.5mに比べ、後の公園造成や田の耕作などのよって、さらに削られていることがわかります。後円部は長楕円形を呈しているため東と西が大きく削られたと思われ、また角張った円形状を呈する前方部先端部も墳丘裾部中心に大きく削られていると予想されます。標高10.5m余りを測る前方部先端はそこから1m近く削平されています。また、古墳に伴う段築成や埋葬施設は確認できません。

墳丘の周囲に残る周濠の痕跡は、その形状を残すと思われる南~東部分で幅17~20m程度と、先の『山門郡誌』および『瀬高町誌』に記載された幅3.6mとは大きく差があります。特に北東部がかなり広がっており、後に周濠部分を拡張したため、幅が広くなっている可能性があります。本来の周濠の幅は、古墳進入路として後円部先端に小さな橋が架かっている箇所とその南側の田との距離が5.5mであることから、この部分が本来に近い周濠の幅を示すと思われます。また、前方部先端北西の周濠痕跡の狭い部分も大きく削られた本来の墳丘からすると周濠の痕跡が残っている可能性があります。

出土遺物は現存していませんが、これまで先学により、本古墳から出土した銅鏡は『耽奇漫録(たんきまんろく)』に記載された「車塚神鏡」がそのうちの一面である可能性が指摘されています(文献5)。

『耽奇漫録』は、文政7(1824)年5月から翌8年11月まで20回にわたり開催され、珍奇な古書画・古器物などを持ち寄り、考証を加え論評しあった「耽奇会」という好古、好事の者の会合の記録です。その会合に江戸詰の柳川藩士であった西原一甫(1760~1844年)も主要メンバーとして、藩命により柳川に下向するまで(第一回~第十二回)参加していました(文献6)。

その第十回の会に、西原一甫は「車塚神鏡」として一面の獣帯鏡を出品したことが『耽奇漫録』に記録され、その図とともに解説として、車塚古墳から鏡三面が出土し、三面のうち一面を図示したことが記載されています。

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図7は西原一甫旧蔵で、現在伝習館文庫所蔵の『耽奇漫録』(計十二冊)に図示された車塚古墳出土鏡です。『耽奇漫録』はいくつかの写本が現存しますが、そのうち復刻されている国立国会図書館蔵版(文献7)は文様部分など原本に近い図7に比べ簡略化しており、以下では伝習館文庫所蔵のものにより検討を行います。

図7から、本鏡はこの当時すでに破片で、内から鈕(ちゅう)、鈕座、圏帯(けんたい)、内区主文部の約二分の一が欠けています。面径は不明ですが、『邪馬台国探検記』によると、径お二十二cm、取手(鈕座の径か)5.6cmで、天竜の尾(外区の獣文帯か)を刻んでいるとされます(文献8)。

文様構成は、欠損する鈕の外側には櫛葉文帯(くしはもんたい)、圏線、有節重弧文(ゆうせつじゅうこもん)、圏線からなる鈕座があり、その外側には内は細い圏線と外は圏線・櫛葉文帯で囲まれた狭い内区主文部、隙間の存在から内区から緩やかに傾斜し、一段高くなると考えられる外区は外向きの鋸歯文、圏線、流雲状(りゅううんじょう)の獣像で構成され、その外側の縁部は素文であったと予想されます。

鈕座は、有節重弧文までは距離があることから、最も内側の櫛葉文帯の内側に文様帯が存在した可能性があります。その外側の内区主文部は突線で獣像を細かく表現したもの(細線式)と思われますが、乳、獣像などが明確に図示されていません。突線で描かれた四神や獣像が西原一甫には理解されなかったとは考えづらく、図が描かれた時点ですでに内区主文部は破片になっており、図像が分かりにくかったため理解されず図化されなかったと予想されます。また乳は表現されていません。像の隙間は芝草文で埋められていると考えられます。

外区の流雲の獣像帯は突線で尾を表現し、左向きの可能性があります。

以上から、本鏡は細線式獣帯鑑の可能性が高いこと、圏帯の素文突帯+有説重弧文+素文突帯、内区主文部外側の櫛葉文帯、外区の鋸歯文+獣文帯というモチーフは、浮彫式ですが熊本県江田船山古墳出土鏡とよく似ており、車崎正彦による『六朝鏡』に本鏡も含まれると考えられます(文献9)。本古墳の年代は、この鏡と先述した藤の尾車塚遺跡の集落の断絶時期から四世紀後半~五世紀に属すると想定されます。

本市内では五世紀以降の首長墓としては、五世紀初頭と考えられる円墳の面の上一号墳、五世紀後半~末の帆立形タイプの前方後円墳であるクワンス塚古墳と赤坂一号墳、六世紀前半の九折大塚古墳が山川町河原内の台地上に集中する一方、大型円墳の権現塚古墳や本古墳が平野の自然堤防上に立地します。この平野部の
首長墓系列は本古墳、権現塚古墳、詳細が不明な蜘蛛塚古墳など五世紀にかけて首長墓系列が存在すると推測できますが、そのほとんどは未調査のため詳細は不明です。本古墳は墳丘の残存状況は良くありませんが、銅鏡が三面出土し、そのうちの一面と考えられる図が残っていること、古墳の築造に伴い集落が断絶したと考えられることなど、みやま市の古墳時代を考える上で重要な古墳です。

続きます。





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by kusennjyu | 2017-06-23 17:53 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る