千寿の楽しい歴史
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カテゴリ:郷土唐尾( 17 )
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2012延命地蔵尊建立の由来の説明板を設置・千寿の楽しい歴史
延命地蔵尊建立の由来の説明板を設置     

平成24年12月吉日 延命地蔵尊世話人会

場所 みやま市瀬高町小田(唐尾地区の矢部川河川敷)

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延命地蔵尊建立の由来

地蔵尊は天保5(1834)年、矢部川沿いのこの位置に建てられて以来、長い年月を経ています。

江戸時代、立花藩士・田尻惣馬が水害のため、河川の護岸工事を行ったとされ、刎(はね・羽根)が造られました。その刎(はね)のことを地元では「唐尾刎」と呼んでいます。

それは当時、刎(はね)の工事がなかなか進まず難行を極めたことから縁起しきたりに従い、人柱を立てることが決められ、村の女児(お染め)が犠牲になったとの由来があります。その遺徳を偲び地蔵尊が建立されたと伝えられています。

地蔵尊は今も堤防内の大楠の前で唐尾刎に向かって立ち、等身大(約1.6m)で右手に錫杖、左手には宝珠を持ち素足の姿が祀られています。

また地蔵尊は十難、十福の佛ともいわれ福を授けるとも伝えられています。

地蔵尊の御日 毎月4日・14日・24日と8月24日(地蔵盆)

この説明板は浄財により設置しました。


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唐尾の地蔵さん  唐尾刎が入っています。

唐尾の地蔵尊






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by kusennjyu | 2012-12-15 06:09 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
唐尾の延命地蔵尊が水害被害から復旧・千寿の楽しい歴史
唐尾の延命地蔵尊が水害被害から復旧   8月24日  地蔵尊の日。

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8月24日朝刊の西日本新聞より

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7月14日の九州北部豪雨の時に延命地蔵尊が台座下に倒れていました。台座も前に傾いていたのをクレーンを使って元に戻し、コンクリートで固めました。その台座の上に延命地蔵尊を戻しました。

延命地蔵は天保5(1834)年に矢部川沿いに建立。(この2年後の1836年11月15日に坂本龍馬が生まれています。)

河川の護岸工事が大雨で進まなかったために、水神の怒りを鎮めようと人柱になった娘の遺徳をしのびたてられたとされる。

重さ約1トン、高さ約3m、昭和28(1953)年の西日本大水害では、首まで水に浸かりながえら無事だった。

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参拝者の人たち

今日の新聞を見て来ましたという方が多かった。八女市黒木町からも4人の方が来られました。

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新聞記者も午前10時に2人来られると聞いていましたが、遅れてこられるとの事で帰ってきました。

私がいる時に20人以上の方が来られました。お接待として御菓子とぼた餅を持ち帰ってもらいました。

多くの方々のご協力にお礼申し上げます。ありがとうございました。     世話人一同







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by kusennjyu | 2012-08-24 14:19 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
唐尾の延命地蔵尊を修復中・千寿の楽しい歴史
唐尾の延命地蔵尊を修復中   8月3日午後

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台座修復   落ち込んでいたのを上げて台座を水平にする。

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道路修復

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8月24日までに修復して25日に延命地蔵尊祭りの予定です。有志3人が頑張っています。






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by kusennjyu | 2012-08-03 21:44 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
唐尾の延命地蔵尊と水害被害・千寿の楽しい歴史
唐尾の延命地蔵尊と水害被害    7月30日午後

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矢部川の広瀬堰~南筑橋間の水害被害状況

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延命地蔵尊安置の広場からの被害状況

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大楠下の延命地蔵尊

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修復費としての浄財をお願いしています。








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by kusennjyu | 2012-07-31 10:41 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
唐尾座(みやま市瀬高町小田)・千寿の楽しい歴史
唐尾座(からおざ)

明治の初めごろ、大字小田の氏神、唐尾八坂神社の祗園(ぎおん)祭に、余興(よきょう)として唐尾座主催の芝居が上演されていました。その俳優は、主として唐尾区の人々が祗園祭の1ケ月余り前からけいこして当日上演することになっていました。(5月1日小屋入り、6月1日奉納)

たまたま明治4(1871)年の祗園祭に上演したものが大変、出来映(できば)えが良かったので、近隣でも評判でした。

そんなことから、その年、熊本県長洲町からの招きで興行したのが唐尾座の旗揚げ(始めること)になったようです。その時の地域別の一座の人々は、唐尾7人、山下2人、山中2人、八女郡兼松1人、野町1人、本吉1人の合計14人でした。

その後、次第に盛んになり、明治28(1895)年頃には全盛期を迎えました。専門の衣装方、かつら方を雇い、唐尾座の名声は、筑後地方から熊本や佐賀方面にも聞こえるようになりました。鹿児島地方までも旅興行したことがあったといいます。

その頃には、贔屓(ひいき)の女性客の金銭的援助が座の経営を大きく支え、踊って、儲けて、銀行を建てたという嘘(うそ)のような話も聞かれたと伝わっています。

全盛期の役者として、「嵐徳三郎・中村三吉・浅尾鬼工丸(きくまる)・市川寅平・市村家吉(かきち)・中村成子(しげこ)・中村巴若(はじゃく)・坂東定市・市川恵三造(えさぞう)・浅尾玉吉・嵐甚車(じんしゃ)・市川花柳(団三郎)・市川米三郎」等がいました。

少し時代が下がって、「尾上多三郎・坂東薪笑(しんしょう)・市川九団次・尾上多目丸・市川団三郎・実川実造・浅尾玉平・松本幸次郎」等の名があります。これらの役者は、余所者(よそもの)が多かったといいます。

唐尾座は、夏・秋の祭りや他村の祭りを目当てにけいこに励んでいました。本拠地唐尾には、上下に常備舞台が設けられていました。役者の嫁さんは、夫から踊りを習って踊ったそうです。

尾上多三郎は、お寺で修行をしたことがある人で、学問があり、やせ形で裃が似あったとのことです。
坂東薪笑は、大阪の人で、唐尾の女性を嫁にしたといいます。
松本団松と芸名が墓石に彫られている人もあったそうです。
役者は、化粧するおしろいの鉛毒のため早死にした人が多かったそうです。

このように栄えた唐尾座も、大正12(1923)年9月の関東大震災後の不景気で大きな打撃を受け、また、映画の発達等もあって、その後復興することができませんでした。今日、その役者は、1人も生きていません。

唐尾座の出し物は、創作や踊りだけのものでなく、主なものとしては、「自来世(じらいや)」・「肥後駒下駄」・「太功記(たいこうき)」・「隅田川続俤(こちのおもかげ)」(別名・法界法)・「先代萩(はぎ)」があり、市川九団次の当たり芸は、「幡隋院長兵衛(ばんずいいん・ちょうべえ)」であったとのことです。

後期には、浄瑠璃(じょうるい)芝居の中間に浪花節入りのものも上演されたと言われています。

唐尾は、江戸時代には柳川藩と久留米藩の国境の宿場町として、また矢部川上流の山村から里へ出た最初の町として、旅館や料理屋が立ち並んで賑わっていました。

また、越前から伝わって来た紙すきの職人が製紙技術を伝えたり、役者の行き交いもあったとのことです。

「福岡県の郷土芸能」
「瀬高町水上小学校調査」
昭和46年8月古老より聞き取りを含むより。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。


唐尾祗園   今年の唐尾八幡神社祗園祭です。


みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
みやま市議会定例会の予定  みやまいいまち会で見られます。

総務文教常任委員会   5日(月)   時間は、いずれも9時30分からです。
厚生常任委員会   6日(火) 
産業建設常任委員会   7日(水) 
一般質問(議場)  12日(月)~14日(木)

みやま市ホームページで議会内容が動画で見られます。

 
by kusennjyu | 2011-09-05 05:30 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
2011伝説 曽我兄弟供養塔の由来・千寿の楽しい歴史
伝説 曽我兄弟供養塔の由来

女山の古僧都(こそず)の山頂付近に、叡興(えいこう)寺と呼ばれる古いお寺があります。叡興寺には、曽我兄弟の五輪の塔がありますが、その由来についてお話ししましょう。

源氏の世になり、頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、建久3(1192)年のことでした。そしてその翌年、将兵の休養といたわりの意味を含めて、富士山の裾野で大がかりな狩りを数日開催しました。

参加した将兵6万6千人、狩りのためよく慣らした鷹5羽、猟犬80数匹、鐘、太鼓、板きれや竹筒など音が出るものを持って、大声をあげ、鹿やうさぎなどの獣や鳥を追い出す役目をする人(勢子という)3千人などたいしたものでした。

上級武士、下級武士、雑ひょうなどそれぞれが宿舎を用意して、捕らえた獣などを料理し、酒を飲んで楽しい夕食で疲れをいやしました。

頼朝の本陣を守る屋形は、重臣で固めた厳重なもので、曽我兄弟が仇とねらう工藤祐経(くどう・すけつね)の陣屋もその中にあり、なかなか近寄りにくい位置にありました。しかし、みんな兄弟に同情し、2人を見守っていたお陰で、2人の行動をとがめだてする者はありませんでした。

800年も昔のこと、電灯もろうそくもない時代で、松明(たいまつ)の明かりが唯一の明かりでした。兄弟は人目をさけ、本陣屋形の出入口の門に近づき、門の戸にかけると、鍵(かぎ)がはずされていて、すぐに開きました。

兄弟は用心深く中に入ってあたりをうかがって見ると、暗やみの中に、人影があるではありませんか。2人は身がまえてよく見ると、それは兄の十郎の恋人だった大磯(おおいそ)の虎御前(とらごぜん)でした。

「私が門の戸を開けておきました。今夜はお2人が見えると思い、早くから待っていました。祐経様の屋形は、この先の数番目の屋形です。今は真夜中、各屋形とも皆よく寝静まっています。幸い護衛の兵も少ないので、早くお通り下さい。そして、長年のうらみを果たして下さい。」
といって、暗やみの中に姿を消してしまいました。

兄弟は言われた通りに陣屋へ行き、寝ていた祐経を叩き起こして
「父親の仇、思い知ったか。」と切り付け、2人、力を合わせて本懐をとげました。
この物語は日本で最も有名な話で、芝居になり、謡(謡曲)になりまして、国中に広がりました。時に、兄の十郎祐成は22歳、弟の五郎時宗は20歳、そして、十郎の恋人の虎御前は16歳の少女でした。虎御前は、今日でいう本陣つきのウェイトレス役目の少女でした。

仇をとった兄弟は捕らえられ、死罪となってしまいました。後に残された虎御前のショックは大変なものでした。うら若い小娘の身で、いかに親の仇討ちとはいえ、夫と決めていた最愛の人の死にあい、悲しかった。情けなかった、つらかったこの少女の思いが瀬高との縁につながっていくのです。

人は死んだらどこへ行くのだろう。地獄か極楽か。せめて死んだら安楽の世界で安らかに過ごしたい。こうした人間の願いにこたえた教えを説いたのが、恵心僧都(えしんそうず)という偉いお坊様で、瀬高女山の叡興寺を開いた人です。

恵心僧都は平安の都(現在の京都府)で、「往生(おうじょう)要集」という本を著し、人間の地獄極楽を例え話で説いて、人々の信仰のまととなりました。

曽我兄弟や虎御前が生きていた鎌倉時代は、恵心より120年も後のことです。また、当時、頼朝以下鎌倉の人々の信仰のまととなって、仏の道を広めたお坊様は栄西禅師という人で、京都、鎌倉の両方で一番人気のあった人でした。

この栄西禅師は、またの名を葉上(ようじょう)上人といい、水上校区の禅院に建仁(けんにん)寺というお寺を開いたお方です。

仏門に入った虎御前がこのお2人の教えをしたい、瀬高を訪ねたいと願ったのは当然のことです。

信濃(現在の長野県)の善光寺に参詣した後、めぐりめぐって瀬高の地に巡礼の足をのばしたのです。鎌倉にいた時に、頼朝の直接の命令で、重臣の梶原源太景季が普請(ふしん)奉行となって、瀬高町にある叡興寺の山門を建てるという事情も知った虎御前が、いっそう瀬高の地にあこがれたのもうなずけます。

女山にとどりついた虎御前は、女山神籠(こうご)列石の源吾谷水門近くに住まいを定め、早速石工をさがし、兄弟の供養塔2基を建立したのです。女山から叡興寺まで日参し、兄弟の冥福(めいふく)を念じつづけたのです。

五輪塔には、兄の十郎と弟の五郎の名が並んで見られ、建立した年代がうすく、建久○○年と刻まれています。
虎御前は何歳まで生きていたのか、一切わかりません。今では、女山の梅野邸の庭園の上の方に、虎御前が朝夕顔を洗い生活していた「鏡池」の名残と、お隣の山川町に通称『虎坂』の名が残っていて、付近に虎御前のお墓がありましたが、開発によって今ではありません。

純愛をささげて、曽我兄弟の供養のための五輪の塔を建てた美しい物語を紹介しました。

(大江幸若舞台本及び謡曲本番よりの収録)

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。

瀬高町水上校区を訪ねて   禅院の建仁寺が入っています。

梅野家歴史資料館の庭  鏡ケ池が見られます。




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by kusennjyu | 2011-09-02 15:39 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
延命地蔵盆・千寿の楽しい歴史
延命地蔵盆    8月24日   みやま市瀬高町小田字唐尾

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入口から参道の飾りつけ    

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延命地蔵  世話人3人で飾り付けを行う。

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唐尾の延命地蔵      クリックして見て下さい。   

新しい「南筑橋」  旧南筑橋は延命地蔵の横に架かっていました。

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矢部川堤防の楠の木

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矢部川(瀬高町小田)   「旧南筑橋」・矢部川堤防の楠の木・和紙作りなどが判ります。


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by kusennjyu | 2011-08-24 18:17 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
伝説 九州紙漉(す)きの始祖“日源”と矢箇部兄弟
伝説 九州紙漉(す)きの始祖“日源”と矢箇部兄弟

九州での紙作りの創始者(最初に始めた人)“日源上人(にちげんしょうにん)”の話に入る前に、簡単に紙の歴史をふりかえってみたいと思います。

紙は、歴史が古く、中国の後漢時代日本の元興(げんこう)元年(1789年前)に、蔡倫(さいりん)という人によって発明されました。

その頃の紙は樹皮(じゅひ)、麻などを使用した繊維(せんい)の強いもので、蔡候紙(さいこうし)と呼ばれました。

我が国には推古天皇の18年(1400年前)に、朝鮮の僧曇微(どんちょう=紙の技法と同時に水車も普及させた)によって、手漉(てす)き和紙作りの技法が伝えられました。

先ず京都、越後(新潟・石川・福井県)に伝えられ、日本海沿岸に南下したと思われます。正倉院(しょうそういん)文書に「越前手漉(えちぜんてすき)」のことが記されているのを見ても、奈良時代にはその製造が盛んだったことがたやすく創造できます。

以上が紙の歴史の概略(あらまし)です。なお、当時使われた原料は、麻・竹・桑・籐(とう)などでした。

日源上人は、越前の国五箇村の武士真柄(まがら)重良左衛門の四男として生まれました。俗名(ぞくみょう=出家する前の姓名)を真柄四郎太景基(かげもと)といい、朝倉義景の家臣でした。

元亀(げんき)元(1570)年、織田・徳川の連合軍と浅井・朝倉の連合軍が近江(おうみ)の姉川で戦いました。世にいう姉川の合戦です。

この戦いは織田・徳川軍が勝利し、朝倉の家臣であった長兄の真柄十郎左衛門真元と次兄の真柄次左衛門直高、それに三兄の十郎三郎直澄(なおずみ)が戦死してしまいました。

そこで、19歳の四郎太は日蓮宗の僧門をくぐり、俗名を捨てて“日源”と改め、兄達の霊をつむらうために諸国行脚(あんぎゃ=歩きながら修行すること)の旅にでました。

旅の途中で筑後市溝口にたどりつき、廃寺同様だった福王寺の再興(さいこう)に尽力(じんりょく)することになったのです。ところが、そのころの溝口村は矢部川の氾濫(水がみなぎってあふれだすこと)で疲れきった貧しい村でした。

どうにかしてこの村を盛んにしたいものだと考えた日源は、矢部川の水の豊かさと、その付近にたくさん自生している楮(こうぞ)に目を付けました。楮は紙の原料としては最適なのです。

この水と楮を利用して、日源の郷里越前の「手漉き和紙作り」を溝口村にも起こし、村の活性化を図ることを思い立ちました。

日源は、郷里で紙作りに励む3人の弟たちを説き伏せて溝口村につれてきました。そして、兄弟4人力を合わせて、寺の中で苦心しながら手漉き和紙作りに専念したおかげで立派な紙を作ることができました。

このことが領主の耳にも届き、文禄4(1595)年、領主の立花親成(ちかしげ)の命により、見本として奉書紙(ほうしょし=楮の繊維で作った最上等の日本紙)を差し出しました。

すると、領主はたいへんよろこんで褒美として種々の手漉き道具をくださいました。そのうえ、福王寺には9反8畝の田を寄進して、年貢(税金)を納めなくてよいという特別な援助をしました。

その後、日源は苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されましたので、矢部川の矢部の中に郷里5箇村の箇を入れて「矢箇部(やかべ)」と称しました。(現在「箇」が「ケ」になっているのは簡略字です。)

関ヶ原の合戦(1600年)後、藩主立花氏に替わって、元和4(1618)年、田中吉政が入国した後も、松倉豊後時代も、元和7年久留米藩の領地とされた後も手厚い保護が続きましたので、溝口紙の繁栄が約束されました。

溝口紙は、慶長5(1600)年、熊本県の八代に広まり、元禄3(1690)年には佐賀郡にも広まり有名になりました。最も盛んだった頃には山中に60軒、唐尾・中島には30軒の手漉き紙製造業の家があってにぎわっていました。

そのころは紙商人達の往来が盛んで、商店や遊郭(ゆうかく)が許可され、「唐尾座」の芝居興行もあり、なかなか活気があったようです。「唐尾座」は他地方にも巡業していたと伝えられています。

ここで作られていた手漉き紙の奉書紙は、主として、半切り紙、障子紙、提灯紙、傘紙、裏地紙でした。しかし後には、唐尾地区では障子紙が主ではなかったかと思います。

なお、溝口村の対岸にある唐尾地区に手漉き紙が普及したのは遅く、文化12(1815)年というのは不思議です。

にぎわっていた手漉き紙業も第2次世界大戦が始まりますと、閉業が相つぎ、現在はこの地ではなくなってしまいました。とても残念です。

参考資料
  後漢書、日本書記、地方御用控、大漢辞典
  右田乙次郎著「日源上人」


※ 矢箇部新左衛門は、加藤清正のお召しにより肥後藩御用漉として仕えましたが、後に末弟新之丞
にゆずり、自分は唐尾に住みました。

領主より宅地若干を賜り、唐尾地区の手漉き紙普及に努めました。

後世小田村村長甲木鎮衛は「鎮西抄紙創業技師矢箇部新左衛門記念碑」を広瀬入口に建立しました。
その碑面には山川町原町出身の中村祐興の書でそのいわれを記しています。

 ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。


瀬高に手漉き道具が残る家  唐尾で昭和60年代の最後まで和紙手漉き(障子神)をしていた家です。

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by kusennjyu | 2011-08-23 16:18 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
唐尾祇園(7月16日)動画編・千寿の楽しい歴史
唐尾祇園(7月16日)動画編

動画(八坂神社参拝の行列)



動画(鉦と太鼓の奉納)小田氏子



動画(鐘と太鼓の奉納)平田氏子



動画(鐘と太鼓の奉納)唐尾氏子



唐尾氏子は矢部川の延命地蔵に奉納します。

動画(鉦と太鼓の奉納)中島氏子



矢部川の旧南筑橋(国境)ではみやま市市長が来て奉納します。
昔は立花藩に奉納しますので、代官が来ていただろうと思われます。

by kusennjyu | 2011-07-17 16:03 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る
唐尾祇園(7月16日)・千寿の楽しい歴史
唐尾祇園(写真編)   7月16日午後7時頃     みやま市瀬高町小田字唐尾

八坂神社鳥居と拝殿

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拝殿内の大提灯(内膜に立花家家紋入り)と小提灯

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家の提灯

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花飾り

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鉦と太鼓

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以上は八坂神社参拝までの待機中の写真です。

次回は動画で鉦(鐘)と太鼓の競演をあげます。
by kusennjyu | 2011-07-17 10:10 | 郷土唐尾 | Comments(0) |Topに戻る