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カテゴリ:田中道( 6 )
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2017田中道(久留米市大善寺~札の辻まで)を訪ねて・千寿の楽しい歴史
田中道(久留米市大善寺~札の辻まで)を訪ねて

平成29年5月8日(月)午前9時~

金子俊彦氏と久保田毅で大川市からの3人の女性を案内する。

文章は「筑後国主 田中吉政・忠政とその時代」からの借用です。

県道23号の田川の追分から北東に走る「田中道」 

主要地方道久留米柳川線(県道23号)沿いの久留米市三潴町田川8-2の吉村医院の前の追分から北東に進路をとり、三潴町大字田川の集落を貫け、三潴町大字早津崎の富松商店の前の通りを経て、久留米市大善寺町夜明と早津崎の集落境通りを北上し、大善寺南一丁目22の大淵歯科医院前で県道23号線に再び合流するのが「田中道」です。

「上野町宿」 久留米市上野町

田中吉政の筑後藩(柳川藩)時代から久留米柳川往還(田中道)筋の宿駅(人馬継ぎ立て)として開かれました。また、古くから大善寺玉垂宮の門前町として繁栄しました。

元和6(1620)年からは、有馬久留米藩の夜明組に所属。村高は「元禄図絵図」では、「上野町馬次十八石」、「天保郷帳」は「十八石余」でした。

大善寺玉垂宮  久留米市大善寺

天武天皇元(672)年創建の寺院を起源とする「大善寺玉垂宮」は、筑後国一宮であった高良大社’(久留米市)と並ぶ社寺勢力であった。

筑後国主田中吉政が寄進した慶長9(1604)年銘の鐘が知られていますが、現存しません。鐘の銘文は、「大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部縣子也」と記されていました。

「宮部縣」を「宮部村」と考えれば、浅井郡三川村(現在の東浅井郡虎姫町三川)の南東に説する浅井郡宮部村(現在の東浅井郡虎姫町宮部)が田中吉政の出生地と考えることができます。

二代目忠政が寄進した石の大鳥居は、今も参道に置かれ、元和4(1618)年の銘が見られます。

毎年正月7日に追儺祭の神事が行われる火祭り「鬼夜」は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

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大善寺玉垂宮の東の集落「宮本」を北上する「田中道」 久留米市大善寺町宮本

柳川から久留米へ向かう県道23号線の傘橋(唐傘橋)から右折し、広川に架かる大橋を渡ると、大善寺玉垂宮の東の集落「大善寺町宮本」に入ります。この「宮本」集落を貫いて北上するのが「田中道」です。この道は、再び県道23号線の西鉄「御塚」バス亭で合流します。

目安町一里塚 久留米市安武町

通りの東側に松が、西側には榎が植えられていましたが、現在は榎だけを見ることができます。

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安武八幡宮の田中神社 久留米市安武本637

柳川から「田中道」を久留米へ向かって歩いて行くと、久留米市安武町に「目安町の一里塚」があります。この地点から「田中道」を久留米へ向かって150mほど進み、左折して200mほど行くと、右側に「目安町祖廟」(共同納骨堂)があります。

ここに、かつて目安町(現在の安武町)の住人が祀る「田中神社」があったのです。

大正4(1915)年、祖廟から2km離れた安武八幡神社(安武本67)の本殿に合祀しました。

毎年12月18日、目安町の座元の衆(120軒を8班に分け、8年に一回当番)が「田中吉政公祭」を挙行しています。

宮司によると神事のあと、直会で親睦を深めます。

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津福八幡宮の田中神社  久留米市津福今町

「津福町」は、慶長7(1602)年に筑後国主田中吉政がつくった「田中道」(久留米柳川往還)筋に、翌慶長8(1603)年に町立てされました。

現在の津福町北部にある津福八幡神社の境内に「田中神社」と呼ばれる祠がありますが、元は現在の西鉄天神大牟田線の津福駅付近にありました。しかし、駅工事の際に現在地に移したのです。

現在の石祠は平成7(1995)年に再建されたものです。敷地内に以前の石祠石材が残されており、「天保十二年 丑十月吉日」の銘が見られます。

筑後領主田中吉政を祭神とする「田中神社祭」が、毎年4月18日に催されます。

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県道23号の津福本町の追分から北西に走る「田中道」(久留米市津福本町~梅満町~本町7丁目)

県道23号沿いの久留米市津福本町1860の小林歯科の前の追分から北西に進路をとり、湯ノ尻川に架かる「女橋」と金丸川に架かる「男橋」を渡って津福本町の集落を貫けると、「田中道」は、梅満町の集落に入ります。そして、この道は、鳥飼小学校の前通りを経て、津福本町7丁目のところで、再び県道23号線に合流します。

県道23号の津福本町の追分から北西に走る「田中道」

久留米城下札の辻 

「久留米城下札の辻」は、三本松通りと通町通りが交差する地点に置かれました。

「札の辻」には、制札場(高札場)であり、「久留米城下札の辻」は、有馬久留米藩領野街道の起点でありました。


終ります。





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by kusennjyu | 2017-05-20 08:14 | 田中道 | Comments(0) |Topに戻る
2017田中道(藩境と金納往還)を訪ねて・千寿の楽しい歴史
田中道(藩境と金納往還)を訪ねて

平成29年5月8日(月)午前9時~

金子俊彦氏と久保田毅で大川市からの3人の女性を案内する。

藩境(柳川藩と久留米藩の境)

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柳川郷土研究会員 金子俊彦

吉政が慶長14(1609)年2月に参勤交代の途中、府中にて死亡、その後四男の忠政があとを継ぐことになりますが、元和6(1620)年、江戸で病気になり亡くなりました。忠政に後継ぎがいなかったために田中家は断絶し、田中家の筑後国支配はわずか20年で終わります。

筑後国は2つの藩に分かれ、柳川藩には立花宗茂が11万の大名として帰り咲きます。

一方、久留米藩には丹波福知山より、有馬豊氏が21万石の大名として入部します。

今までは田中家が筑後一国を治めていたため、久留米・柳川の藩境はなかったが、久留米有馬藩と柳川立花藩の成立で矢部川が藩境と定められました。

それも瀬高郷辺りまでで、そのあとの境界は下妻郡・三潴郡を横切り、大川の榎津と小保の間に至ります。それで三潴郡蒲池地区を見れば、立石村や金納村などは久留米領となり、矢加部村は両藩に分団されました。

そのため久留米藩金納村の耕作地が柳川藩の蒲池村にあるという状況が出てきました。これは田中家時代金納村の農民が耕作していた田畑で、両藩に分断された後、久留米藩の飛び地になったものといわれています。

新たに藩境が設けられたため、目印として大きな木を植えたか、木柱を立てたのかは、はっきりしまsんが、藩境であることは確かであり、、柳川郷土研究会の先輩たちが、両藩の境木があった跡といことで、「柳川藩・久留米藩境木跡」という石柱をつくり設置しました。

ところが平成26年、耕運機か自動車かは分かりませんが、その石柱に衝突して四つに倒壊、一部は横のクリークに落ちて、見るも無残な姿になっておりました。

柳川市役所の生涯学習課文化係では、平成27年度予算にて修復を計画、平成28年3月に、田中往還の説明も含め藩境木跡の案内説明版を設置されました。

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金納往還について

柳川郷土研究会員 金子俊彦

柳川より久留米に延びる柳川街道は、田中吉政が柳川入部後の慶長7年に造られた道で、別名を田中往還と呼んでいる。

その道のりは、柳川札の辻-矢加部町―金納村―下田町―金屋町―・・・・安武町―津福町―久留米札の辻である。この矢加部より金納を経て下田町に達する往還を現地の人は金納往還と呼んでいた。

この度、当会会員の近藤茂敏氏より、江戸時代末期の金納往還と金納村の小字図の提供を受けた。興味津々、現地を歩き、諸先輩の方々に尋ねてみると、意外なことが分った。

この地図の金納往還は、町矢加部北端五須丸というところから下田町中央部まで、今の県道西側のクリークに沈んでいるとの事である。昭和30年前半、そのクリークの堀干しのときに確かに見たと言う人がいた。(途中クリークがないところもあるが)当時の田中往還は、両側を掘りあげた中央に土盛りして作った道路で、両側がクリークになっていた。風水害にもよるが年々道幅も狭くなり、通行に非常に不便を感じていた。そのため、新しい道路の建設を県に陳情することになる。
 
其の時の状況を記録した文書(蒲地初代村長野口格二の甥の野口武男の遺稿「金納往還建替の事」)を同研究会の会員野口勉氏が持っておられましたので、ご紹介いたします。

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東蒲池にある。藩の米蔵の跡。

他領(久留米)に米が出るのを止めた。

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堀 蒲池小学校東の堀。

堀の中央に道路があった久留米往還である。

往還といっても一間幅くらいの道であった。

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続きます。









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by kusennjyu | 2017-05-17 21:05 | 田中道 | Comments(0) |Topに戻る
2017田中道(井出橋)を訪ねて・千寿の楽しい歴史
田中道(井出橋)を訪ねて

平成29年5月8日(月)午前9時~

金子俊彦氏と久保田毅で大川市からの3人の女性を案内する。

江戸時代柳河城下町古地図井手橋御門付近

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江戸時代井手橋御門展開図

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左~伊能忠敬測量地図の田中道

右~今回見つかった江戸時代の道標追分石


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今回見つかった道標追分石と保加町公民館a0137997_11164933.jpga0137997_11171425.jpg


井出橋を渡ってすぐの昔の風景が残っていたが、片側はコンクリート工事が行われた。

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田中道・井出橋

井出橋の嵩上げ工事で江戸時代の道標(追分石)見つかる

瓦版平成29年1月10日 第53号 柳川郷土研究会会員 金子俊彦より。

沖端川の大門橋・井出橋(出の橋)の嵩上げ工事が始まるのに伴い保加町の人たちが、工事関係者に「井出橋に付帯していた常夜灯(灯籠)が川底に沈んでいる可能性がありますので、注意して工事を進めるように」と依頼しておりました。常夜灯(灯籠)ではなかったが、長さ2.0mほどの四角い石柱(幅28cm)が見つかり、工事業者の方より保加町公民館横の天満宮境内に運んでもらい、取りあえずそこに保管されております。

早速、京町の吉田さん、柳川教育委員会生涯学習課の堤係長も現場調査に見えたとのこと。私には、吉田さんより井出橋の嵩上げ工事現場で道標(追分石)が見つかったとの連絡がありました。

私も柳川郷土研究会の塩塚氏と保管場所へ行くと、元保加町区長の成清さんと出会い現物を見せていただくことが出来ました。

石柱の正面には「右久留米通・左小保通」と刻まれており、江戸時代の道しるべの追分石に間違いないものと思われます。井出橋出口に、追分石があったという文献はなく、また先輩諸氏からも聞いたこともなかったし、大発見ではないかと思います。

ここ井出橋は、江戸時代柳川城下町への出入り口で、検問番所もあり御門が設置されておりました。橋を渡り場外に出ると左右に道路が分かれ、左が大川小保に通ずる肥後街道で、右が久留米へ通ずる柳川道(田中道)であります。

この橋の出口正面に設置されたもので、当時の旅人の道しるべとして活用されたものと思われます。

慶長年間幕府において、五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)を中心に道しるべとして一里塚の制度が設けられました。それに倣い各藩でも主要街道・往還に独自の道しるべ(柳川藩は石柱の一里石、肥後熊本藩は木柱の一理木、久留米藩では土を盛り上げた一理塚)を設置するようになります。

同時に参勤交代も始まり、各地の神社仏閣などへの参詣(お伊勢参り)等、一般庶民の通行も増え、街道筋の宿場には木賃宿や旅籠なども出来、それなりの賑わいが見られるようになります。

そういうことで街道の追分や重要な分岐点などにその行き先や、里程を示した道しるべが自然石や切石、木柱等で設置されるようになりました。

当柳川藩でも辻町札の辻を起点に南へは三池街道(肥後街道)、西の方へは肥後街道(大川・城島経由して久留米札の辻まで)、東方面には矢部往還が通り一里ごとに石柱(一里石)を設置しています。

柳川城下町を三池街道(肥後街道)が通り、御門の外のも入れて五ケ所に追分石(石柱)の設置があります。一つは今回見つかった井出橋の追分石「右久留米通・左小保通」。瀬高御門外の石柱「すぎ北
せたか道・右西やな河まち・すぐ南キケ道」。今古賀の石柱「右三池通・左瀬高通」等で旅人の便宜を図ってきました。


続きます。





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by kusennjyu | 2017-05-16 11:41 | 田中道 |Topに戻る
2011田中道(久留米市津福町)・千寿の楽しい歴史
田中道(久留米市津福町)    

平成23年8月31日午後(SNKの総踊り反省会の前に津福八幡神社の写真を撮る)

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津福八幡神社鳥居と楼門

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津福八幡神社拝殿と田中神社

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祭神 応神天皇    由緒 不詳。    素盞鳴神社、田中神社、木実神社の末社がある。

昭和9年神殿再建の際は若宮八幡宮と称した。

所在地 久留米市津福本町1073    絵馬「神馬」は天明元年(1781)の奉納で、狩野永錫映信の作品。

木実神社 津福本町字木実にあったのを明治43年9月合併

田中神社 津福本町字野稲田にあったのを明治43年9月合併

津福町」は、慶長7(1602)年に筑後国主田中吉政がつくった「田中道」(久留米柳川往還)筋に、翌慶長8(1603)年に町立てされました。

現在の津福町北部にある津福八幡神社の境内に「田中神社」と呼ばれる祠がありますが、元は現在の西鉄天神大牟田線の津福駅付近にありました。しかし、駅工事の際に現在地に移しました。

田中道

県道23号の津福本町の追分から北西に走る「田中道」(久留米市津福本町~梅満町~本町7丁目)

県道の23号沿いの久留米市津福本町1860の小林歯科の前の追分から北西に進路をとり、湯ノ尻川に架かる「女橋(おんなはし)」と金丸川に架かる「男橋(おとこはし)」を渡って津福本町の集落を抜けると、「田中道」は梅満町の集落に入ります。

そして、この道は鳥飼小学校の前通りを経て、本町7丁目のところで、ふたたび県道23号線と合流します。

「田中道」の文は、筑後国主 田中吉政・忠政とその時代(著者 半田隆夫)より。

田中道をゆく(久留米編) 半田隆夫先生に案内をしてもらう。   平成23年5月4日



みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。

by kusennjyu | 2011-09-01 14:38 | 田中道 | Comments(0) |Topに戻る
2011「田中道」をゆく(久留米市編)・千寿の楽しい歴史
「田中道」をゆく(久留米市編)   

平成23年5月4日午前   

半田隆夫先生に案内してもらう。


小犬塚の一里塚(久留米市三潴町玉光字道端ノ二)

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県道23号の三瀦保育園と辻組の看板が見える所から東側へ入り「田中道」になる。

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現在の上野町(宿駅)付近   大善寺玉垂宮の鳥居が見える。

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大善寺玉垂宮前の信号(傘橋・からかさばし)と鳥居

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大善寺玉垂宮へ

大善寺玉垂宮の鬼夜 平成23年1月7日夜へ リンクして両方を見て下さい。

大善寺玉垂宮(久留米市大善寺町宮本)の東側の通り「田中道」へとつながり、県道23号の御塚バス亭へ出る。下の写真です。

田中道の風景
 
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目安町の一里塚(久留米市安武町)

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左上の写真はクリックすると拡大します。

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ここから県道23号の西側に入り「田中道」になる。

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津福八幡神社境内の田中神社、広建社(久留米市津福今町)   写真なし

女橋と湯ノ尻川

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男橋と金丸川

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湯ノ尻川と金丸川の合流点(すぐ上流が女橋と男橋)

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左上の写真で右側(南側)が女橋で左側(北側)が男橋です。

弘法大師堂の十三仏由来   右下の写真はクリックすると拡大します。

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鳥飼小学校前の「田中道」

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左写真は九州新幹線の西側で、ここを通り抜けて県道264号の本町4丁目の信号へ出ます。

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三本松通り

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左上の地図はクリックすると拡大します。

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三本松公園

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久留米城の札の辻は、三本松通りと通町通りが交差する地点に置かれました。

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道順に柳川から久留米まで県道23号にほぼ沿って、写真の説明のように東に入り、西に入りしています。

目安(入口)になるところを写真に撮り、案内しています。

詳しい説明は7月頃に、半田隆夫先生の「田中道」の本が販売される予定で見て下さい。楽しみにお待ち下さい。

by kusennjyu | 2011-05-08 05:32 | 田中道 | Comments(0) |Topに戻る
2011「田中道」をゆく(柳川市・大木町編)・千寿の楽しい歴史
「田中道」をゆく(柳川市・大木町編)   

平成23年5月4日午前 半田隆夫先生に案内してもらう。


慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い後、岡崎10万石から筑後国32万5千石の国主として田中吉政が柳川に入封しました。

吉政は、本城である柳川城と領内に配置した11支城(赤司・久留米・猫尾・城島・榎津・黒木・福島・松延・鷹尾・中島・江浦)とを結ぶ交通を整備し、あるいは開通させました。

これら11の道のうち柳川と久留米を結び道は、「柳川往還」・「柳川道」(久留米藩領古図)・「久留米往還」・「久留米道」・「久留米街道」(慶長10年、「田中吉政仕置の条々」)などと呼ばれる重要なものでした。

現在の県道23号線にほぼ沿ったこの道を、ここでは「久留米柳川往還」と呼ぶことにしますが、この道はまた吉政の遺徳を偲んで「田中道」と呼ばれています。

柳川城下ーー矢加部町ーー金納村ーー下田町ーー金屋町ーー八丁牟田村ーー横溝町ーー大角町ーー

土甲呂町ーー小犬塚村ーー上野町ーー安武町ーー津福町ーー久留米城下

この「田中道」のうち、上の赤字は宿駅(人馬継所)です。


柳川城札の辻(柳川市辻町)

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左 出橋通り 右 瀬高町通り」と刻まれています。 左上の写真はクリックすると拡大します。

「札の辻」から左に中町・上町と北へ進むと「出橋(いでのはし)御門」です。

「瀬高町」とは現在の柳川市京町あたりです。

出橋(井手橋)・外町口(柳川市中町・保加町)

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出橋は沖端川を渡り柳川城下に入るために架けられた橋で、町側には出橋御門が設けられ人の出入を管理する番所が置かれました。

城の防衛のため見通しが効かないように、また直線的に攻め込まれないように、現在の橋よりやや西寄りの通りからずれた位置に架けられていました。

田中道の景観(柳川市三橋町柳河)

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往時の田中道の景観を現在に伝える数少ない地域です。

新道の両側を掘り、道の上に泥を中高に置いています。

周辺の土地よりも小高い道が通り、道の両側には堀が掘られています。

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藩境木(柳川市矢加部)

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現在の田中道は堀になっている(柳川市矢加部~金納)

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上の田中道は教振橋上から南側(左)と北側(右)の写真を撮る。教振橋の南西に矢加部小学校があります。

妙行寺(三瀦郡大木町上牟田口)

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紫雲山妙行寺は浄土真宗大谷派の寺院で、慶長元(1596)年下牟田口に創建、宝永3(1706)年に当地に移転しました。

山門には祇園守と左三巴紋が見られますが、立花家や田中家、有馬家との関係は不明です。

兵部神社(三瀦郡大木町横溝)

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吉政の没後、諸公役を免除され優遇されていた町の住人は座をつくり「御免地祭り」が行われました。

住吉神社(三瀦郡大木町土甲呂)

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現在の三瀦郡大木町土甲呂は、田中吉政の筑後入封後に新しく整備した久留米柳川往還筋に、慶長8年に設けられた町です。

吉政は流通構造再編のために、道路整備とあわせて、「町立て」・「市立て」を進めました。

往還沿いの住吉神社には田中吉政も祀られています。

次回は田中道(久留米市編)を紹介します。

以上の文章は、半田隆夫先生の「田中道」(久留米柳川往還)をゆくを拝借しました。


7月頃に、半田隆夫先生の「田中道」の本が販売される予定です。楽しみにお待ち下さい。
by kusennjyu | 2011-05-07 11:33 | 田中道 | Comments(0) |Topに戻る