千寿の楽しい歴史
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バンブイリュージョンナイト(みやま市高田町の祭)
竹とロウソクの幻想世界

日 時   10月31日 17時00分 ⇒ 21時30分
場所    高田濃施山公園(みやま市高田町)

竹灯ろうスター☆ドームが織り成す魅惑のイリュージョン

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一夜限りの幻想です。 雰囲気を楽しんで来ました。
by kusennjyu | 2009-10-31 21:22 | みやま市観光 | Comments(0) |Topに戻る
四国・倉敷・岡山の旅(千寿の楽しい日々)
10月28日 晴 塩江温泉から博多まで

塩江温泉

    午前5時から6時まで塩江温泉の道の駅まで散歩しました写真です。
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         塩江や 行基の湯めぐる 紅葉(もみじ)かな
瀬戸大橋
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瀬戸大橋は海を見て感動していたら、アッという間に目の前に鷲羽山ホテルの観覧車が見え、倉敷市に入りました。
岡山県や香川県の観光客はガイドさんが案内しても横を見ないそうです。狎れて感動がないのですね。水産センター(ふゅーちゅー)で買物です。

倉敷
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上の「×印」を右クリック→ 「リンクを開く」をクリック→ 「観光案内ときどき日記」をクリック→ 「10月28日カレンダー」をクリック→2枚は福岡県からのお客さんを案内しました。

自由行動になり大原美術館北側の橋のたもとでこれから行動しようとした時に藤野さんが出てきました。有料ガイドであるが1人300円と低料金なので10人ほどがお願いする。

説明は1時間ほどで明瞭簡潔である。入場料がいる場所には入らない。
主に町並み案内で、個人写真を3枚ほど撮る。グループ写真はホームページを開きダウンロードできるように料金と引き換えに名刺をくれる。

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岡山市
夢二郷土美術館
a0137997_11313158.jpg岡山市を流れる旭川河畔に夢二生誕100年を記念して建てられる。昭和59年3月開館した。

赤レンガ造りの風見鶏がある建物は、夢二と共に大正時代を偲ぶにふさわしく、里がえりした名品の数々が多くの人を迎えている。
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岡山後楽園
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       名園や 後楽園の 菊花展   千寿

帰りは岡山駅発17時31分 博多駅着19時13分 自宅着20時30分でした。

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by kusennjyu | 2009-10-31 10:28 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
四国・倉敷・岡山の旅(千寿の楽しい日々)
10月27日 晴 足摺岬から塩江温泉まで

足摺岬
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                  秋の海 潮騒吠える 足摺や  千寿


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高知県は四国で面積が一番大きいのに寺は16寺である。寺間の平均距離は60km。
香川県は四国で面積が一番小さいのに寺は26寺である。寺間の平均距離は16km。

37番 岩本寺(四万十町)から38番 金剛福寺まで100Km以上ある。最長区間。
39番 延光寺(宿毛市)から38番 金剛福寺まで100Km以上ある。
県道21号が国道321号(サニーロード)より20Km短く、半日は違うようだ。遍路は距離を大切にしよう。

38番札所 金剛福寺は四国88ヶ所めぐりの初めての寺である。今回は一寺だけで終わる。
バスの中でガイドさんから場通過する寺の説明を受ける。
ガイドさんは岡山市のグルプで月1回、遍路している。4年間で88ケ所を巡り終わって2回目を回っている。
自分の歩いた道を話しているので詳しく分かり易い。良いガイドさんにめぐり合わせて感謝しています。

四国最南端の地、足摺岬。黒潮が最も近接するその突端には灯台が立ち、青い海と濃い緑に囲まれて白く輝いています。

金剛福寺は、その岬に建立され、この地を観世音の理想の聖地とした弘法大師が、自ら千手観音を刻んで安置しました。厳しい自然の中で人々の信仰を集め、古くから栄えた大きなお寺です。西国浄土、極楽に一番近い最果ての地として現在も多くの四国遍路が訪れています。

金剛福寺は亀の寺、20番札所 鶴林寺(徳島県)は鶴の寺である。両方をまわり鶴亀で縁起が良い。

桂浜

昼食は桂浜で「かつおのたたき」を食べる。自分でかつおをワラ火であぶった後、切ってもらう。

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琴平

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琴平に午後3時30分に着き店のガイドさんに案内してもらい本宮まで上りお参りする。
785段でナヤム(786)前(-1)に、なっている。
ガイドさんはどこでも明るくおもしろく客を笑わせる。

帰りは途中、江戸時代に「代理参りの犬の像」から左に曲がり坂道を下る。
この道は、神馬が午前中に通る道で、12月から1月頃の白椿が咲いていた。

   琴平や はや咲き椿 神馬道(しんばみち)   千寿

午後5時過ぎに琴平を出て、塩江温泉の新樺川(かばかわ)ホテルに午後6時30分に着く。
空は秋の釣る瓶落としで真っ暗になる。今日は前の席だから、ライトの光で周りが見える。
部屋の内風呂(温泉)で疲れをとり、午後7時30分から食事を取る。

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by kusennjyu | 2009-10-30 16:18 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
四国旅行(千寿の楽しい日々)
10月26日 曇 博多から足摺岬まで。

 広島駅に9時5分着。バスにて行程400kmの旅に出発。

瀬戸内しまなみ海道  

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「瀬戸内しまなみ海道」とは、 1999年(平成11年)5月に開通した、
愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ約60kmの西瀬戸自動車道の愛称です 。


宇和島
宇和島は真珠水揚げ高が伊勢志摩をわずかに抜いて第一位である。
闘牛で知られている。祭りブーヤレがあります。
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まっ赤な胴体の上にキリンのように長い首が突き出て頭には鋭い2本の角を突き立てている。髪の毛を振り乱し、口を大きくあけた顔つきで町中を猛進してくる。
そのまわりには青く太い竹笛を吹きならす少年たち。その笛はブーヤレとよばれ、笛の音は牛鬼のうなり声だといわれる。

戸口のあいている商店があると牛鬼は勇ましく首を店の奥まで突っ込んでいく。ブーヤレの音がいっそう高く鳴り響く。すると店の人は「牛鬼が悪魔払いにきてくれた」             

(ガイドさんの説明もある。  愛媛県祭り情報より)




四万十川遊覧

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船長(25歳)の説明で漁法を見物しながら約1時間の遊覧である。
船の定員は60名(船内50名)で私たちのバス客46名が全員が乗れる。
船内には2mのアカメを吊り上げた写真と「つり吉三平」が釣りをしている写真が掲げてある。

四万十川は四国では吉野川(194m)に次ぎ第2位(192m)である。
勾配は千分一で上流と下流の高低差がほとんどない。直線距離では50Kmで曲がりくねりながら、ゆっくりと流れ日本一の清流である。川幅は、この付近で300mある。

漁法には、もう1つ「石グロ漁」がある。船長の本職は漁業である。
経験談などを、、おもしろおかしく人を笑わせながら説明する。

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汽水域(川の水と海の水が交わる所)では川エビ・ごり・鮎・うなぎ・アカメ・ボラなどが取れる。
汽水域(川の水と海の水が交わる所)では海の水が下を流れ、川の水が上を流れる。
海の魚もたくさん取れる。四万十川では「あなご」は取れない。

四万十川のうなぎはブランドで1kg8000円する。蒲焼を注文すると2800円する。
うなぎは一番取れたときは40Kgで、取れるのが少ない時期で40万円の水揚げになった。
うなぎは腕の大きさ位が取れるが油が多く食べられない。親指ぐらいが一番おいしい。

ボラは2M位のが取れる。釣り糸を手に持ちエサは生きた魚をつける。
かかったら、釣り糸を船にくくり、1Kmぐらい船を動かし疲れさせてからあげる。
ボラは刺身が一番うまい。川底が砂地だから泥臭さがない。

船の乗船は午後5時頃で夕日が船の中まで強く差し込み、暖かく眠たくなる。

   秋の日に 船を浮べる 四万十や   (千寿)

ホテルまで1時間かかり午後6時30分に着き、午後7時30分に食事であった。

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by kusennjyu | 2009-10-29 19:15 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
四国・倉敷・岡山の旅(千寿の楽しい日々)
四万十川遊覧と桂浜・倉敷・岡山3日間のバスの旅

最後の清流 四万十川

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足摺岬

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こんぴらさん

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塩江温泉

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後楽園公園

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by kusennjyu | 2009-10-29 12:56 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
2009田尻氏の足跡を訪ねて2(みやま市)千寿の楽しい歴史
みやま市歴史講座現地見学会 2

宮園城址

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説明する東照寺住職
 
 
宮園城は、応永(1,394~1428)年間に、今村家の居城として築城。

 
初代今村大隈以来4代土佐入道覚盤まで、代々この城を守った。
 
宮園城は、水城(浮城)と呼ばれ、四方を水壕に囲まれ、清水山の大堤を切ると敵兵を溺れさせ、城を孤立させることが出来る構造になっている。

東照寺は、今村家の菩提寺として開創。本尊は薬師如来。当時の本尊は現存せず、江戸期に像立された「薬師如来像」・「十二神将像」・「観世音菩薩像」が伝わる。

宮園城は難攻不落とうたわれ、決して責め落とされることはなかったが、豊臣秀吉の九州征伐の折、ついに落城。東照寺もそれに伴い荒廃していき、先代住職観海僧正が昭和代に再建。

現在の石垣は、当時のものではなく、昭和に入って再建したしたもの。当時の石垣は柳川城築城の折、全てを供出する。しかし、堀割りの形は当時のままである。

当時の宮園城には天守閣は存在せず、館と敵兵攻撃、見張り台を兼ねた高櫓を建てていた。

九州征伐の後、今村家4代の御霊は「伝之授社」祭神としてまつられる。現在は東照寺がこの神社を管理。

また、九州征伐にて戦死した、兵士に関しては「将軍地蔵」としてまつられている。



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「伝之授社」には、歴代城主たちの逆修碑が残され、生前につんだ仏徳をしるした石板が祀られている。

「伝之授社」にまつわる伝説

伝之授社」は、昔から容易に近づくと様々な祟りがあるという荒神だった。唯一、今村家の武器管理をしていた松藤家一族だけが近づくことが出来た。松藤家の者が世話しても何の祟りも起きず、かえってその一族が栄えた。

その伝説を知り、先代住職観海僧正が戦後すぐ、多くの壇信徒と共に、経文八万座の供養を施したところ、祟りは沈まり村とこの寺を守る神となった。

しかし、現在でも、この神社のしめ縄等を世話するのは、この松藤家一族と決められていて、末裔たちが大事に世話している。

阿弥陀如来来迎自然石板碑

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市指定 有形民俗文化財 平成14年2月19日市指定

みやま市高田町海津字古川前244

この石碑は、安山岩自然石の表面を研磨して建立された高さ108.5cm、幅75cm、暑さ5.3cmのもので、正面上部に阿弥陀如来の来迎図を描き、その下に道珎(どうちん)禅門(父)と妙慶禅尼(母)と思われる人物を蒸研彫で表現した板碑です。

碑文によると道珎禅門と妙慶禅尼が阿弥陀如来名号を一百万遍読誦供養し、それが成就したことを記念して、孝子が両親のため、大永6(1526)年8月に建立したものです。

道珎禅門と妙慶禅尼については、戒名前の名が不明のため特定した人物がわかりませんが、禅宗に帰依した在所出家した両親が深く阿弥陀如来を信仰し、阿弥陀如来名号を一百万遍読誦供養し、孝子が碑に遺したという事蹟から考えるとこの地方の豪族と考えられる。

普通、阿弥陀三尊板碑は阿弥陀如来を中心に観世音菩薩と勢至菩薩の三尊が来迎された図柄ですが、ここでは阿弥陀如来一尊でその下に両人の姿が描かれており、当時の在所出家した人々の風俗を知る重要な文化財で文化的価値の高いものです。
 
田尻氏供養板碑

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有形文化財(考古資料)  高田町海津1631、1632

海津阿蘇神社の隣接地に小さな阿弥陀堂があり、その脇に3基の自然石板碑がある。

中央の1基は、戦国時代中程の大永8(1528)年に建てられたもの。左右の2基は、永禄12(1569)年7月13日に、田尻親種(ちかたね)の息女及び嫡男鑑種(あきたね)・次男鎮種(しずたね)らが、それぞれ妙忍大姉の25回忌に当たって、大乗妙典一千部看読の大法要を営んだ記念として造立したものである。

施主が田尻親種の子供達であることから、被供養者の妙忍大姉は彼らの母、すなわち田尻伯耆守親種の妻と思われるが、左側の碑に「先妃妙忍大姉」ともあるので、あるいは親種の先妻であろうか。

天文7(1538)年生れの鑑種はこの年33歳。8歳で実母と死別したことになる。また、鎮種はその弟で、「田尻系図」(親種寺所蔵)には「薩摩ニ住ム」とある。いずれにしても、この板碑は、郷土の中世領主田尻氏が遺した数少ない金石資料として極めて貴重なものである。

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田尻のJA南筑後 高田東部支所に戻り、最後の挨拶で先生の著書を紹介される。


本の紹介  「蒲池氏と田尻氏」

著者  大城美知信・田淵義樹 著
柳川の歴史 2 (柳川市史編集委員会)1500円
      
第1部 蒲池氏の歴史 田淵義樹著
第2部 田尻氏の歴史 大城美知信著
      
10月31日の紹介 講演 「藩境は閉鎖的か開放的か?」 大牟田市・荒尾市境を例に。大牟田中央地区公民館 講師 磯永 和貴氏

17時に解散する。(7Km歩く) 
    


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by kusennjyu | 2009-10-25 13:45 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2009田尻氏の足跡を訪ねて(みやま市高田町)千寿の楽しい歴史
歴史講座現地見学会 1

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とき 平成21年10月24日(土)13時30分~17時。

内容 みやま市文化祭協賛事業

主催 みやま市教育委員会

JA南筑後 高田東部支所駐車場に集合。
みやま市職員が講師の大城美知信先生を紹介する。

参加者 約40名

森山八幡宮

左:森山八幡宮前で説明する先生                    

右:聴講する人たち

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田尻の森山八幡宮の裏山一帯は、戦国期田尻氏の居城、飛塚城の跡といわれる。
 
天文17(1548)年頃、田尻親種(ちかたね)が大友義鑑(よしあき)から山門郡の鷹尾に250町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を気築き、これに移った。(田尻文書)旧田尻城には、一族の田尻左京を入れて城番としたという。(旧柳川藩志)

森山八幡宮は城地の一角にあり、その由緒については、田尻氏の遠祖大蔵春実が天慶5(942)年、平将門討伐の帰路、江州守山宿の霊夢に感じて勧請したものというが(旧柳川藩志・高田町誌)、真偽の程は定かでない。しかし、田尻鑑種(あきたね)が竜造寺に差し出した起請文(竜造寺文書)には「氏神森山大明神」と称しているので、同氏が氏神として崇敬した神社であることは確かである。

境内地の小字を「陣内」といい、もともと田尻場内に守護神として奉祀(ほうし)した神社であったと思われる。

竹飯八幡宮の鳥居

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筑後地方には、大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮等に肥前型鳥居があり、それぞれ文化財に指定されている。竹飯八幡宮の鳥居もこの肥前型鳥居の形態の古い形を示している。
 
普通の鳥居は笠木(かさぎ)が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と貫(ぬき)のあいだが狭く、笠石はずん胴型で二段あるいは三段の継ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘っ建て式になっている。

肥前には砥川(とがわ)の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名もなく、造立年月日の銘文はいっさいない。いつ、誰が作ったかは明らかでないが、竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮であるからには、田尻氏の寄進とも考えることができる。いずれにしても、当地方における唯一の肥前型鳥居で材質は杵島地方の安山岩である。

竹井城址(説明のみ)

南北朝期の康永2(1343)年、南朝の中院侍従義定、菊池武茂、大城藤次(草野一族)らが筑後の竹井城にたてこもったので、鎮西菅領の一色範氏(いっしきのりうじ)が大友・小弐らの軍勢を差し向けてこれを攻略し、落城させたことが「竜造寺文書」や「筑後近藤文書」などによって知られる。

この竹井城を山本郡(現久留米市山本町)に在りとした文献もあるが誤りである。「近藤文書」には「竹井萱津城」とあり、おそらく海津のことを当時萱津(かやつ)と称していたのかも知れない。

また「南筑明覧」に西原石見武雄の居城跡と伝える竹井の今城のことが記載されている。西原氏は田尻氏の有力家臣で、今城はその居館址と思われる。

因に竹井には「大手畠」(おおてばた)・「土居の内」(どいのうち)など中世城館に関連すると思われる小字が認められるが、これらが南北朝期の竹井城に由来するものか、戦国期の竹井今城に因むものかは即断できない。いずれにしても、竹井が軍事上の要衝で
あったことを物語っている。

                                        つづく。

by kusennjyu | 2009-10-25 10:35 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2009秋の星座(千寿の楽しい歴史)
秋の星座

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  秋の星座の博士になろう
 

上の「秋の星座の博士になろう」を右クリックして「開く」をクリックして下さい。
「秋の星座の博士になろう」のホームページが出ます.
 興味がある方は、中央四角形の「ペガスス座」から順次教えてもらえますよ。

 昨日、勉強したことを応用しました。完全ではありません。

朝の散歩

午前4時30分に家を出て、近くの公園のグランドへ行きました。
空は暗く、たくさんの星がきらきら輝いています。

午前4時40分、東の斜め45度位の空に「流れ星」が見えました。
すぐにお願い事をしました。

午前5時過ぎに東南の下の方に朝の明星(金星)?が見えました。
空はうす青になり、星の輝きも薄くなり始めています。

午前5時20分から30分の間、東の下側を北から南へ動くものを見ました。
飛行機は白い光をピカピカさせて移動します。
今日は、星の明るさで移動しました。
宇宙船(宇宙探査機)?の軌道かなと思いました。よく判りません。

午前5時40分には朝の明星(金星)?が一番輝いています。
ほかの星は、明るくなるとともに見えなくなり、数得るほどです。

午前6時 空があかるくなり、星はどこに逃げたか姿が見えなくなりました。

夜の散歩

夜の散歩で午後8時03分、南の空を「流れ星」が流れました。
見たのは私でなく、妻だけです。夜だけ毎日、2人で散歩しています。

2人とも「流れ星」を見るのは初めてです。
見えたと思ったら瞬時に消えてしまいます。

今日、2人とも見たことは、運があるからと思いました。
「流れ星」に感謝します。


今の時期は、「流れ星」の発生が多いそうです。
あなたにも運がありますように祈っています。


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by kusennjyu | 2009-10-22 19:38 | 天体 | Comments(0) |Topに戻る
2009飯江川(3・みやま市山川町北関)千寿の楽しい歴史
飯江川 3・北関 

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写真は平成20年11月2日薩摩街道歩く会です。  右端は松風の関から藩境までの間の山道です。

古代から筑後国(筑紫国)と肥後国とを結ぶ唯一の街道が通り、その中でも最も峻険であり、要害の地でありました。

平家物語に「寿永2年8月17日、平家筑前国三かさの郡大宰府にこそ着給え。菊池次郎高直は郡より平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後国うちこえておのれが城にひっこもり、めせどもめせどもまいらず」
とあり、ここに出ている大津山の関は現在の松風の関を指すと考えられています。

寿永2年は1183年、当時すでに関所として菊池氏によって守られていた事がわかります。

今は高速道路で切断されて、関の下の首切り地蔵とその周辺でわずかに当時を偲ぶことができるのみです。

[首切り地蔵] 建立年代不詳。関に向かう旧道の傍らに立てられています。(関抜けしようとした旅人が捕らえられて処刑されるのを見て、里人が哀れんで立てた。)という伝承が残っています。

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南関街道を南に下ると、柳河領の南端、肥後との国境に立てられています。

「従是西北筑後の国柳河領 従柳河札辻 四里二〇町余」と刻まれて道路の両面に立っていますが、左側の物が最初に立てられましたが二つに折れて倒れたために、後世ななって右側のものが立てられたと言われています。

真弓川    堺 勝 文書より

亀尻川より流量が多く、高田町と山川町の境を流れる真弓川をさかのぼります。

山川町川久保にあった川久保堰は廃止され、そのすこし上流に新たに平成4年12月河原堰がつくられ、転倒堰となっています。

その上流東側は高田町域で、山が崖となって迫り、西側は山裾の台地に北関の出はづれに、松風の関跡があります。
今関跡の上方を通る国道沿いに、山川町教育委員会と郷土史研究会の案内板がたっています。

古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ唯一の街道が通り、その中で脊戸板と呼ばれた最も峻険であり要害の地であります。

平家物語に「寿永2年 菊池次郎高直は、都より平家の御供に候いけるが、 大津山の関、開けてまいらせんとて肥後の国にひつこもり」とありこの大津山関が、現在の松風の関を指すといわれています。

寿永2年(1183)当時概に関所として菊池氏によって守られていたこと、7世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうということが解って来ています。真弓広有公が松風の関に布陣したのは正平14年(1359)と思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。

その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、関ヶ原合戦後田中吉政が、筑後国柳川藩主として柳川城に入り、慶長6年(1601)松風関から北を筑後領とした、それ以後筑後領となり現在に至っております。

ここよりすこしさかのぼると流れは東に曲がり山川町の地内を流れ、しばらく行って更に南に向きを変え国道より真弓に渡る真弓橋に達します。ここは山川町大谷で、大正より昭和10年頃にかけて瀬高町より南関にかけて通っていた東肥鉄道の線路が西から東へ、東から南へ二度に亘り川を越えた鉄橋跡があり、又大谷地区には水車場2軒あり、昭和7~8年頃まで白土を粉砕し、精製した白壁用の白土を製造していました。

真弓川も河川災害復旧助成工事により、はるか川上までコンクリ-トの堤防壁面が完成しました。真弓橋のたもとに山川町の民話「鼻たれ小僧さん」の説明板があります。


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by kusennjyu | 2009-10-20 13:02 | 飯江川 | Comments(1) |Topに戻る
2009與田凖一記念館開館(みやま市瀬高町の偉人)・千寿の楽しい歴史
與田凖一記念館開館

みやま市立図書館内で平成21年10月18日午前10時からオープン式典があり、参加しました。

與田家の方々、教育委員会、文化協会、観光協会など100人位、出席されていました。

 
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”山上永遠”は東山とそこから展望される矢部川、有明海。 ”白雲霊夢”は清水寺と乳父観音の由来を表象した。 ”花影月露”は春と秋を象徴するものとして、第一連の空間に対比して時間を表す。 ”乳父”は観音と両親の重映。

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皆さんのお越しをお待ちしています。

      

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by kusennjyu | 2009-10-19 11:11 | みやま市の功績者 | Comments(0) |Topに戻る