千寿の楽しい歴史
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みやま市高田町の有形文化財(建造物)千寿の楽しい歴史
厳島神社(いつくしまじんじゃ) 所在 高田町大字黒崎開1285
a0137997_18121016.jpg 元禄6年(1693年)柳川藩3代藩主立花鑑虎(あきとら)公(英山)が社殿を創立する。その後、広島県の厳島神社を勧請し、現在に至る。

天保12年の刻銘のある石の鳥居を入り、神社をくぐると拝殿の背後に本殿が建っているのが見える。拝殿も本殿も嘉永2年(1849年)に建てられたものと伝えられる。

拝殿は桁行3間、梁行2間の入母屋(いりもや)つくりである。身謝(みしゃ)柱は総円柱で、背面中央を除いて、四手先斗 (してさきますぐみ)で支える飛勾欄付(前方)の切目縁を廻らす。

総円柱で造られ、手先斗 (てさきますぐみ)で支える拝殿は県内でも珍しいものである。
 本殿も特色があり屋根を寄棟(よせむね)とし、妻入りしている。寄棟造りは寺院建築に使われており、神社建築では珍しいものである。

竹飯(たけい)八幡宮の鳥居 所在 高田町大字竹飯1476~1 竹飯八幡宮

a0137997_18124510.jpg筑後地方には、大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮等に肥前型鳥居があり、それぞれ文化財に指定されている。竹飯八幡宮の鳥居もこの肥前型鳥居の携帯の古い形を示している。

普通の鳥居は笠木(かさぎ)が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と貫(ぬき)のあいだが狭く、笠石はずん胴型で二段あるいは三段の継ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘っ建て式になっている。

肥前には砥川(とがわ)の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名もなく、造立年月日等の銘文はいっさいない。いつ、誰が作ったかは明らかでないが、竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮であるからには、田尻氏の寄進とも考えることができる。いずれにしても、当地方における唯一の肥前型鳥居で材質は杵島地方の安山岩である。

田尻氏の足跡を訪ねてへ   歴史講座現地見学会 1 ( 平成21年10月24日)に写真と説明があります。

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阿蘇神社の鳥居(あそじんじゃのとりい)
所在 高田町大字海津1642 阿蘇神社

a0137997_18131119.jpg延元2年(1337年)多々良ヶ浜の合戦に敗れた阿蘇小二郎惟澄(これずみ)が、ようやくたどりついた筑後大木の里で、大木城主壹岐守貞守(さだもり)の手厚いもてなしを受け、暫く滞在して休養をとった。

惟澄は城主の誘いもあって、海津古川の木の下郷に阿蘇神社の分霊を奉祀し、子孫代々神社に奉仕して村民の信仰を集めた。

下って、元和8年(1622年)海津北阿蘇田の現在地に移転し、南北海津の氏神として今日に至っている。
この神社の第一鳥居の両脚に次の刻銘がある。
  元禄十三年巳三月吉辰(1700年)
  此肥之阿蘇建社干海津
神徳大光被萬福降干民  氏子中
祠宮 木下宮内烝菅原基清
庄屋 宮原左一郎右衛門藤原道久
瀬戸一郎左衛門 藤原種勝

阿蘇神社(左)で海津御田植祭(無形民俗文化財)が行われます。
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by kusennjyu | 2010-03-31 18:07 | みやま市の文化財 | Comments(0) |Topに戻る
みやま市高田町の有形文化財(建造物1)千寿の楽しい歴史
矩手水門   所在 みやま市高田町黒崎開2492番地
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矩手開(かねんてびらき)は、文化年間の柳川藩営の干拓事業であり、「樺島斗一(かばしまといち)」の名に由来して、別名「斗一開」とも言う。

この矩手開の排水の役目をしていたのが、この矩手水門であるが、この樋門(ひもん)は敷高は高過ぎ、幅も不足しており排水の不良に陥ることが多かった。

そこで、明治31年4月から改修をすすめ、当時の金額で四千数百円(当時の米1俵の価格が3円28銭)と村人3000人の就労をつぎ込んで、明治32年8月に完成した。

この改修により樋門は、敷高0.83m、幅2.00m、高さ3.00mの暗渠(あんきょ)三門になった。
吐口には主径4.6m、厚さ3.00mの全半円の眼鏡橋(苦楽橋という)がある。
この橋は吐口の両袖壁が倒伏するのを防ぐためで、水に映る赤煉瓦が美しい構造物である。
当時の樋門はなく、現在は苦楽橋だけが残っている。

民話と伝説  苦楽橋の由来へ   見て下さい。
by kusennjyu | 2010-03-31 16:06 | みやま市の文化財 | Comments(0) |Topに戻る
みやま市高田町の民俗文化財(千寿の楽しい歴史)
阿弥陀如来来迎自然石板碑   高田町の民俗文化財指定  平成14年2月19日     みやま市高田町海津字古川244番地 共同墓地内

大栄6(1526)年8月に建立)  両親の逆修供養と現世安穏を願う。
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田尻氏の足跡を訪ねてへ みやま市歴史講座現地見学会 2 (平成21年10月24日)に説明と写真があります。
by kusennjyu | 2010-03-31 15:54 | みやま市の文化財 | Comments(0) |Topに戻る
みやま市高田町の桜(名所)
さくら(高田町)  3月31日  曇

高田濃施山公園

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今福池
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高田中学校西側の道路の桜(左2枚)  岩田小学校北側の桜(右1枚)
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田尻の森山宮の桜

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毎年、4月3日は森山宮境内で参拝後に花見があります。10組に分かれて行います。

干渡公園の桜   田尻(新幹線橋梁の東側)   3月26日撮影  晴れ

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ふれあい公園の桜  舞鶴  3月26日撮影  晴れ

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by kusennjyu | 2010-03-31 14:59 | みやま市観光 | Comments(0) |Topに戻る
2010みやま市の山川平家まつり(会場編)千寿の楽しい歴史
山川平家まつり(会場編)    

3月28日 晴れ  山川町要川公園


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壇上で紹介  左 「平 清盛・平 重盛」    右 「平 宗盛・平 知盛」

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  左 琵琶演奏の藤野銘水氏家族。     右  要川の合戦再現劇出場の皆さん。

ビデオ     要川合戦の名場面を堪能して下さい。




東照寺将軍太鼓

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飯江川(5・湯摺・平)へ   平家落人伝説の平の里へリンクします。
飯江川(6.要川公園)へ   古戦場要川 伝承 源平最後の決戦場を解説しています。

応援来場者
全国平家会福岡県支部揚羽会の会主  野崎 浩さん。 副会主 築地原 正英さん。
山口県下関市 赤間神宮の事務局から1人。
琵琶演奏者 藤野銘水家族3人。
長崎県北松浦郡宇久町平郷の4人。

by kusennjyu | 2010-03-30 20:04 | 九州のまつり | Comments(0) |Topに戻る
みやま市の山川平家まつり(小学校編)千寿の楽しい歴史
山川平家まつり  3月28日  晴れ  要川公園」

出発前(山川南部小学校にて)
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出発前で皆、表情が生き生きとしています。この時までは冗談や注意などが聞けてほほえましい様子です。
カメラマンが出演者にポーズを要求して1人に対して何枚か撮影したものです。表情の良い写真をあげています。

ビデオ   


予行演習みたいな雰囲気です。行列に対する注意がなされています。緊張していない行列ですよ。
by kusennjyu | 2010-03-30 04:10 | 九州のまつり | Comments(0) |Topに戻る
古希の祝いと御花(千寿の楽しい日々)
古希の祝い  3月27日  柳川市 お花にて

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お孫さんからの花束贈呈です。


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出席者は約90名です。 伝習館高校卒の方が多かった。 専属ブラスバンドとお祝いの歌が出て大変賑わう。また、娘さんのギター演奏がお祝いに花を添えました。

私は「薩摩街道歩く会会員」としてみやま市から2人で出席しました。席が「日吉神社宮司」の横で、神社のことや歴史について伺うことが出来ました。感謝しています。 

年の祝いに!
還暦(かんれき60歳)・古希(こき70歳)・喜寿(きじゅ77歳)・傘寿(さんじゅ80歳)・米寿(べいじゅ88歳)・卒寿(そつじゅ90歳)・白寿(はくじゅ99歳)・上寿(じょうじゅ100歳)
いつまでも元気でいてね!

御花紹介
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柳川と立花家
戦国時代この地方は、蒲池、龍造寺により支配されていましたが、豊臣秀吉が九州を平定した時、その先陣として活躍した立花宗茂を、その功により筑後13万石の城主として柳川に封じました。
天下分目の関ヶ原の戦いに際、宗茂は秀吉への恩義から、西軍に味方した為、柳川を追われ続いて田中吉政が30万石の大大名として柳川に封ぜられ、名城として知られる柳川城を築き、掘割の完備などに努力しました。
20年後、元和6年徳川2代将軍秀忠により、立花宗茂が、再び12万石の城主として柳川に再封され、以後明治維新の際の13代立花鑑寛まで、藩政は続きました。

「御花」の由来について
4代目鑑虎(1697年)が、四方掘を巡らした総面積7千坪のこの地域に、集景亭という邸をか構えて、遊息の所としました。
そしてこの地域が「花畠」という地名であったことから、柳川の人々は当家のことを「御花」と呼んできました。創設当時の庭は、現在の東の庭園に若干面影を残しておりますが、現在の建物、庭園の大部分は、明治42、3年にわたって14代鑑治によって新築されたものです。当時大建築に流行した西洋館、大広間、そして園遊会場を備える明治建築を代表するものの一つでしょう。
仙台松島を模したといわれる園池は、280本の松を配し、冬季には500羽に及ぶ野鴨の郡来で有名です。昭和53年、国の名勝に指定されました。

柳川観光へ
by kusennjyu | 2010-03-29 20:28 | 表彰・お祝い | Comments(0) |Topに戻る
みやま市瀬高町の桜(名所)
さくら巡り  3月26日 午前中  晴れ  

清水山の桜   瀬高町本吉
竹屋西側の展望所の「北原白秋詩碑と桜」です。遠望が良いところです。
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清水三重の塔の桜です。
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秋の紅葉もいいけど、桜もまた違った雰囲気があります。

女山(ぞやま)史跡森林公園の桜 瀬高町大草字女山  
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24日、25日が雨で空中の塵が荒い流され、遠望がきれいでした。久留米市の成田山の観音像が見えました。公園の中で神籠石が見られます。

名木野のしだれ桜   瀬高町小田字名木野
a0137997_1441324.jpga0137997_14415158.jpgしだれ桜には紅一重、紅八重、白一重の3種類あるが、この桜は寒冷地に育つ品種で温暖地には生育しにくいとされ、せいぜい広島県の山岳地あたりが南限ではないかと考えられていたが、このしだれ桜が昭和52年、副島二郎先生により白一重であることが新聞紙上にて紹介され植物分布学的に貴重なものと注目されている。

ここの山一帯を吉田山とよび、立花藩に仕えた吉田家の12代重正氏が元禄年間この名木野の山峡に別邸を構えてその庭園に京より白一重の苗木を移植したその中の1本が生育しているものと思われる。

従って300年位経ているもので樹高約15m・根元まわり2mあり学術的に貴重なしだれ桜である。

矢部川堤防の桜    瀬高町長田字新船小屋
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by kusennjyu | 2010-03-27 13:37 | みやま市観光 | Comments(1) |Topに戻る
みやま市山川町の桜(名所)
春らんまん  さくら   合併3周年を記念し「市の花」に「さくら」が指定されました。
理由  市内かくちにの公園や校庭で春を彩どる花として古来より親しまれ、人生の思い出につながる花であること。

みやま散策  3月26日午前中  晴れ
天保古平家一本桜   山川町甲田
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平家一門の神木とされる要川公園南東小高い山の天保古山頂に樹齢250年(推定)幹まわり2.5mの桜が悠然と枝を張っています。
春3月ともなればライトアップされた桜が夜空に見事に浮かび上がり人目をひきつけます。

御牧山の鳥居付近の桜  山川町甲田
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「いっちょ願いの地蔵」付近の桜  山川町立山字谷軒a0137997_12371336.jpga0137997_12403860.gif


いっちょ願いの大桜   山川町立山字谷軒
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T氏が昨年発見して、今年撮影し命名する。幹まわり  約2.8m  直径 約0.9m。
谷軒集落の民家(倉庫)の庭に咲く桜で、ここは平家落人伝説の地であり、T氏の命名は妥当であると思います。T氏も私も平家の一本桜に並ぶ大桜だと思います。

成田山山門分院の桜  山川町立山字赤山
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山川山頂公園  山川町立山字赤山
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有明海はもちろん、その先の雲仙、多良岳などが遠望できる見晴らしのすばらしい公園です。

山の上から見た桜
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左「上伍位軒の桜」と右「いっちょ願いの大桜(谷軒)」です。両方とも、大桜に見えます。又、平家落人伝説がある集落です。
by kusennjyu | 2010-03-27 12:19 | みやま市観光 | Comments(0) |Topに戻る
2010みやま市高田町の民話と伝説 6(千寿の楽しい歴史)
高田町の民話と伝説 6

⑱ 苦楽橋の由来  黒崎開

黒崎開の地先に続く三十丁開は元禄13年(1700)の干拓である。続いて永治開は文化9年(1812)から12年間かけて、樺島斗一が精魂かたむけて干拓したところで文政3年(1824)に完成させたと伝えられている。
この永治のことを、干拓者の名前をとって「斗一開」とか、堤防の形が指矩(曲尺)に似ているところから「矩手(かねんて)開」の別名で呼ばれている。

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これらの干拓地には潮止めと排水のために樋門が設けてある。その当時は、干拓工事のすべてが人の労働力によってなされていたので、干潮のわずかな時間に作業をしなければならず、樋門の幅も充分でなかったし、敷高も高くて排水が悪く、いつも悪水が停滞していた。その上8年毎に樋門の修理をしなければならず費用もかかり、修理中に風潮、怒涛に出会うこともあった。中でも排水不足のため洪水による全村の被害が一番の問題であった。

開村長の藤田又六をはじめ主だった人達は、この苦難を救済するために種々対策を講じて、一大水門を新築することに決心した。これが現在残されている「矩手水門」であり、明治29年(1896)のことである。

明治31年5月(1898)愈々矩手水門の工事にとりかかったが、現場は有明海に面した所であり、波浪に流されることも度々であったという。又、この場所の地盤が軟弱で、岸壁の重さに耐えきれず傾いてしまうこともあったという。

今日のように土木機械のない時代であり、干潮のわずかな時間に人力に頼る工事であり、その苦労は一通りのことではなかった。
開村民は全員が力を合わせて難工事を遂行し、水門の完成も近まった時、その喜びも束の間で、地盤軟弱のため石垣が少しづつ内側に傾きはじめたのである。村長はじめ村民たちは顔面蒼白となった。遂に県の援助を求めて指導監督を受けることにした。

その結果、水門両岸の堤防石垣の間に橋をかけて、内側へ傾くのを支え、更に道路としても利用されるようにした。現存する赤煉瓦作りの眼鏡橋がそれである。明治32年3月(1899)矩手水門の難工事は完成し、開村発展の基礎はここに定まったのである。

開拓以来、永い間苦労をしてきた開村、特に矩手水門工事は苦労が多かった開村。これからは今迄の苦労にかわって開村も住みよく楽になるぞ、という村民の願い込めて赤煉瓦の眼鏡橋を「苦楽橋」と命名した。橋の要石に刻字してその名を残している。

あれから百年経過した今日、この地先には国営干拓による農地が広がっているが、矩手水門の苦楽橋の美しい姿は昔のままに、寸分の狂いもなく技術の優秀さを今日に誇っている。
この苦楽橋のすぐ隣には、記念碑があり矩手水門の由来が刻してある。

⑲ 三十丁開の人柱 黒崎開字三十丁

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黒崎山公園の北麓を流れる隈川を挟んで三十丁の田圃が広がっている。
ここは元禄13年(1700)に干拓されたものであるが、干拓工事の際に人柱に立った人があったという伝説が残っている。

三十丁干拓は、隈川の河口であり、地盤が軟弱な場所であった為に、工事には大へんな苦労があった。
いよいよ最後の潮止めに当たって、工事の無事完了と、干拓地の平穏を願い海神に祈りを挙げて男女一組が人身御供になったという。家庭の安定には男と女が夫婦として揃うことが条件であるという考えに基付いているそうな。

村人達は二人の霊を慰めるために、堤防上に松の苗5、6本を植えて目印にした。 松樹は年毎に成長し、根はあたかも堤防を抱きかかえるように四方に張って、がっちりと堤防を波浪から守っていた。
矩手水門改築(明治32年)後に、水門近くの番家に住んでおられた塚本繁吉さんの息子塚本 実さん(大正2年生、79歳、現在南永治に居住)は、昔のことを思い出して次のように話された。

「昭和16年まで、水門のそばの一軒家で水門番(管理者)ばしとりました。
そん頃、堤防の上に一抱えぐらいある松の5、6本植わっとったばんも。人柱に立ちなはった人の記念ち言われとりました。

一軒家で電気もなし、大風の時は海の飛沫(しぶき)が堤防ば打ち越して、家まで来て雨戸にザァザァッと当たって家の揺るる時は、ほんなこてえすかったばんも。
もし、堤防が危ない時は松の枝に吊るしてある半鐘ば鳴らして村中に知らすっとですたい。
人柱の松は、西からの海風にこなされて曲がった枝振りのかっこうは何ち言われんごと美しかったばん・・・」
昭和25、26年頃から黒崎山一帯に松喰虫の被害が拡がり、三十丁の堤防松も枯れてしまい、人柱の伝説もいつとはなしに薄らいでしまった。

おわりに
福岡県民話集には、それぞれの地域に根ざした話が残され、親から子へ、子から孫へと語り継がれている。その中には誰でも聞いたことのある有名な話もあれば、初めて聞いたというその土地だけに伝えられている無名な話もある。

有名、無名のちがいはあっても、民話がその地に誕生したことを考えると、その土地の生活、人情、歴史等から発祥しその土地でなければ語れない貴重な価値があり、優劣つけがたいものがある。

福岡県みやま市山川町の民話と伝承へリンクします。

「鼻たれ小僧さん」

谷軒の山姥(母神)信仰
   
by kusennjyu | 2010-03-26 15:12 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る