千寿の楽しい歴史
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家の花と野菜など 千寿の楽しい日々
家の花と野菜など   4月30日  晴れ

ボタン島大臣  瀬高ボタン園から今年、買ってきたものです。
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ツツジ
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バラ
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家庭菜園 トマト・キュウリ・ピーマン・オクラ・トウモロコシなど。
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ゴキブリ団子
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by kusennjyu | 2010-04-30 19:21 | 家庭菜園と花 | Comments(0) |Topに戻る
平戸・佐世保のお土産品(千寿の楽しい日々)
平戸・佐世保のお土産品  4月28日

平戸の鬼洋蝶(おにようちょう)など
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工芸品
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佐世保こま・置物
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かわいい縫ぐるみ
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洋人形
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絵皿
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壷・鞠・置物
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坂本龍馬写真
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by kusennjyu | 2010-04-30 16:28 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
西海橋と渦潮  NO2(ビデオ編) 千寿の楽しい日々
西海橋と渦潮  NO2(ビデオ編)   4月27日  晴れ





西海橋~日本三大急潮に架かる橋
針尾瀬戸は佐世保市の針尾島と西彼杵半島の間の水域で、外海の佐世保湾から内海の大村湾への入り口です。
佐世保、大村両湾の満潮・干潮の時間が約3時間ずれるため潮の流れが速く、「日本三大急潮」の一つとされ、海底が複雑な地形なので“渦潮”を見ることが出来ます。
最大急潮9ノット、最大渦潮直径は10mに及びます。

この針尾瀬戸に架かるのが、西海橋です。
1955(昭和30)年に完成した長さ316mの固定アーチ橋で、建設当時は東洋一、世界第3位を誇る規模でした。
日本初の有料の橋でしたが、1970(昭和45)年から無料化されています。
by kusennjyu | 2010-04-30 11:24 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
西海橋と渦潮  NO1(写真編) 千寿の楽しい日々
西海橋と渦潮  NO1(写真編)   4月29日  晴れ
西海橋(国道202号線)
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新西海橋(西海パールライン) 下に歩道があり、歩道を通りました。両側は金網が張ってあり自殺はできませんよ。
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歩道から下の渦潮が見られます。
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渦潮(アニメ5枚)
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針尾無線塔  
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針尾送信所(はりおそうしんじょ)は、長崎県佐世保市の針尾島にある海上保安庁の無線送信所。元は日本海軍佐世保鎮守府隷下の無線送信所。
1922年(大正11年)に完成(着工は1918年11月)した巨大な3本のコンクリート製の電波塔、針尾無線塔があることで知られる。

太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(ニイタカヤマとは台湾の新高山に由来と思われる)を送信した電波塔として広報されることが多いが、これは瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電し、広島県の呉通信隊が送信したものを受信し再発信したもので、中国大陸や南太平洋の部隊に伝えたものである。
ただ、これにも異説があり、送信の事実そのものがないとする主張もある。
真珠湾攻撃の部隊に向けて送信したものは千葉県船橋市の船橋送信所からのものである。

オランダ街道
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ツツジのアニメ(3枚)
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魚魚市場・魚魚の宿
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渦潮は次ぎのビデオ編(3編)で見て下さい。
by kusennjyu | 2010-04-30 10:08 | Comments(3) |Topに戻る
南九十九島遊覧 Akコース NO2 千寿の楽しい日々
南九十九島遊覧 Akコース 午前11時出港  NO2(ビデオ編)   4月29日  晴れ

深白島(ふかしろじま)・御飯島(おっぱんじま)・割島(われしま)付近


Uターン   狭い海域ですごいですね。
松浦島(まつらじま)3年浜の悲しい史話の付近


丈ケ島(じょうがしま)付近

by kusennjyu | 2010-04-30 09:16 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
南九十九島遊覧 Akコース NO1 千寿の楽しい日々
南九十九島遊覧 Akコース 午前11時出港  NO1(写真編)   4月29日  晴れ

九十九島遊覧船 「パールクイーン」
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南九十九島
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御飯島(おっぱんじま)
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オジカ瀬
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帆瀬(ほぜ)
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海賊船 「海王」  途中で出会ったが無事だ。
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海の交通整理  徐行
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南九十九島夕景
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by kusennjyu | 2010-04-30 09:13 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
平戸大橋と平戸城見学(千寿の楽しい歴史)
平戸と九十九島遊覧2日間NO2   4月27日  晴れ

平戸大橋
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・形式:鋼吊橋  ・橋長:665.0m  ・最大支間:465.5m   ・完成:昭和52(1977)年
歴史とロマンの島と言われている平戸島に架かる吊橋が昭和52年(1977)に完成した。建設当時は国内最大級の吊橋であった。この橋の架設により平戸島に車で手軽に行けるようになり大変便利になった。
その後、平戸島の西部にある生月島も生月大橋ができたので、そこも手軽に車で行けるようになった。

平戸大橋夕景
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平戸城
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景観の中の城として日本でもっとも美しいのは平戸城だと思う。
   司馬遼太郎著 「街道をゆく 11巻 肥前の街道」より。

平戸城の歴史
鎌倉・室町時代にかけて、この地は水軍として名を馳せた松浦党の本拠であった。松浦家26代鎮信(しげのぶ)は慶長4(1599)年、亀岡に「日の岳城」を築いた。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うために「日の岳城」を焼却、平戸61700石を守った。松浦家は以来約90年間を「御館(おたち)」で過ごし、その間、御館(現在の松浦史料博物館)が藩庁かつ藩主の私邸として使われた。

松浦家30代棟(たかし)となって幕府の許可のもと、宝永1(1704)年、「平戸城」の再築を開始、享保3(1718)年、完成した。これが今の平戸城(亀岡城)であり、本丸、二の丸、三の丸外郭により構成され、日の岳の輪郭が利用されている。この平戸城は山鹿素行の縄張によるもので、全国でも珍しい城と言える。
明治4(1871)年、廃藩置県により廃城、建物は現存する北虎口門・狸櫓を残して取り壊された。
その後、昭和37(1962)年、本丸に三重五階の模擬天守などが復興されている。

a0137997_15415050.jpg中山愛子
34代藩主松浦清の第11女。京都の中山大納言家に嫁ぎ、その姫慶子(よしこ)が明治天皇の御生母となる。


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左~天守閣から平戸大橋を見る。
右~北虎口門。
城内に唯一現存する木造構造。石垣と石垣の間にのった「櫓渡り門」様式。
藩主の私邸に最も近く、二の丸御殿への通用門でもあった。
by kusennjyu | 2010-04-29 15:15 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
2010カッパ酒造館見学(千寿の楽しい歴史)
平戸と九十九島遊覧2日間NO1   

平成22年4月27日  晴れ

高田東部支所出発(西鉄バス・53名)ーーみやま柳川IC--多久IC--道の駅巌木ーーマリンセンターおさかな村(昼食)ーーカッパ酒蔵館(伊万里市)--平戸大橋公園ーー平戸城ーー平戸脇川ホテル泊

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道の駅巌木の佐用姫像

佐用姫は巌木町笹原地区にの篠原の長者の娘で、たぐいまれな美人であったと伝えられています。
宣化天皇2(537)年、朝廷の命を受けた大伴狭手彦(おおともさてひこ)が朝鮮半島の任那(みまな)・百済(くだら)救援の途中、松浦の地で軍装を解き、しばしの休養と渡海の準備をしていた時に、佐用姫を見初め、やがて夫婦の契りを結びました。

狭手彦が出発する日、たとえ短い間だったとはいえ狭手彦を心から愛するようになった佐用姫は、別れが悲しくて湊まで後を追いました。そして、湊を離れる軍船に、姫は背中から左右の肩にかけ長く垂らした「領布(ひれ)」を一心不乱に振り続けました。

万葉の歌人はその情景を

海原の沖行く船を帰れとか 領布振らしけむ松浦佐用姫 

と歌い、愛とロマンを伝えています。巌木町は、生誕の伝承地に近いこの地に、佐用姫の領布を振る姿と一途な愛にならい、「自然とロマンの風のふるさと」づくりの象徴として像を建立しました。  平成8年
この像は、時間と共に動いて1周するように造られています。

田尻氏ゆかりの地(カッパ酒造館)見学

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酒林(さかばやし)杉玉の由来

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『杉玉は古くから酒屋の看板として知られているが、もともとは杉の葉を束ねただけのもので元来日本の酒造りの神様とされる大物主大神(おおものぬしおおかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る三輪明神大神神社(奈良県桜井市)の神木である杉にちなんだもとのとされている。

後に新酒が出来たしるしとして造り酒屋や酒を商う店に掲げられるようになったが、さかばしと呼ばれる由来は中国では酒屋の看板を「酒家望子」と言いこのぼうしがはやしと訛ったという新井白石の説。又、酒の異名「掃愁箒(そうしゅうそう)」から酒箒が転化したという説などがある。毎年新酒のできる頃掲げられる青々とした杉玉は季節の移り変わりと共に色づいてくるが、それは新酒の爽やかさから枯淡ともいえる古酒の味わいまで四季折々に楽しめる日本酒の味の推移を教えてくれるものである。』

水の守り神”かっぱ”のミイラの由来

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松浦一酒造(株)の創業は、正徳6年(1716年)で、290年間 松浦地方で一番になりたいと銘柄へ願いを込め、お酒を造り続けております。

当家には「我が家には何か珍しいものがある」と代々の当主から当主へ語り継がれる話がありました。しかし17代続くなかでそれが何を意味するのか不明のまま推移しておりました。それが、約50年前 母屋の屋根がえの時に大工の棟梁が 「梁の上にこんなものがくくりつけてありました。」とボロボロになって埃だらけ しかしとても丁寧に紐でくくられた箱を持ち下ったのです。 

蓋をとるとなんとも不思議な形をしたミイラがでてきました。黒い箱のほこりを払うと その箱には“河伯”という文字が書かれてあります。当主は大変驚き いろいろ調べましたが、箱の “河伯” という文字が “カッパ” を意味するということ以外手がかりが見つかりません。 

しかし、これが祖先から伝わる言い伝えのものに違いない。そして河伯さまがこの蔵を守ってくださる。と 神棚を作り、水神様としてお祭りするようになりました。

田尻氏の由来 

戦国時代の九州の武将、大蔵党一族と呼ばれ活躍した。田尻初代の実種は平安時代の末期頃に筑前国から筑後国三池庄田尻邑(高田町田尻)に移り住み田尻三郎と称したのが始まりで森山宮を勧請し、代々田尻家の氏神と尊崇したとある。

天文17年(1548)田尻親種は鷹尾城(柳川市大和町鷹ノ尾)に移る。

後年、田尻の一族は、郷土の豪族となり数箇所に城を構え、大友に従っては竜造寺と戦い、竜造寺に従っては肥後の豪族と戦った。

現在、伊万里市に田尻氏の末裔が住んでおられます。松浦一酒造の当主は田尻さんです。
伊万里市に親種寺(しんしゅじ)があり、古文書が存在していましたが、火事があり残っているのでしょうか。


詳しいことは庄福BICサイト  田尻物語  

リンクして見て下さい。

伊万里市の親種寺(しんしゅじ)と松浦一酒造  

リンクして見て下さい。

                       
by kusennjyu | 2010-04-29 13:18 | 田尻氏の郷の散策 | Comments(0) |Topに戻る
2010三池街道(みやま市高田町2)千寿の楽しい歴史
三池街道(みやま市高田町2)

三軒家の道標 有形民俗文化財 

所在 高田町濃施字三軒家

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楠田川に沿う三軒家集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所です。
柳川橋の袂に追分道標が建っている。「やなかわ道」、「せたか道」の印刻字が残っている。

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三軒家のアメガタ屋があり、産後の祝いにアメガタを買いに行きました。三池街道筋で、大変賑わっていました。ここから少し西側に宝満神社があり、新開能が行なわれます。

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左(楠田川橋の南側にあった料亭 堺屋・現在は料亭はやめている。)と右(料亭 堺屋の西側にあった「二川村役場跡」と石柱。)


渡瀬町

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a0137997_2253051.jpg上左~八剣神社。
この神社で渡瀬祇園祭りが行なわれます。

上右~渡瀬町(国道が通る町・昔は三池街道だった。)

横~福正寺前の三里石。柳川城下の札の辻から三里(12km)地点です。


無形民族文化財

渡瀬祇園祭(わたぜぎおんまつり)  

所在   高田町大字下楠田  渡瀬地区

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郷土の年中行事の中では最も勇壮なものである。悪疫退散、五穀豊穣、稲虫退除の大祭典であるから、熱意を込めて大蛇山の製作をする。従来は目玉をはじめ全部氏子の神棚に奉祀している伊勢皇太神宮の大麻をもって張っていた。

当日、社頭には神旗の大幟(おおのぼり)が風に翻(ひるがえ)り、鐘・太鼓の囃子は十分に祇園気分をかき立てる。

夕刻から人手が多くなり、青壮年達は揃いの服装(浄衣)で火の粉除けの編笠(あみがさ)をかぶり、掛け声勇ましく往来する。

人気の焦点は、目玉争奪の激戦であるが現在は諸般の事情により中止され勇壮な姿は見られない。

この地区には他に大名行列があるが、藩政時代には祇園奉行(ぶぎょう)が臨席し采配(さいはい)を採っていた。代々北町の大名行列は新開地区の青壮年、中町の大名行列は濃施、唐川方面の青壮年、南町の大名行列は隈、神崎の青壮年によって奉仕されていた。

渡瀬祇園(古い写真)へ


干渡橋

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左~国道に架かる干渡橋。右~国道と西鉄線の間にある隈川の堰です。この付近を渡っていました。


by kusennjyu | 2010-04-25 22:37 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
三池街道(みやま市高田町1)千寿の楽しい歴史
三池街道(みやま市高田町1)

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渡里
a0137997_20554140.jpga0137997_20555617.jpg右(対岸は中島。
)左(渡里)


淀姫神社
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燈篭に「文化八(1811)未年九月十八日 二之丸 吉原」 と刻まれている。燈篭の横に地蔵堂がありお祀りしてあります。

史跡 江浦城址( えのうらじょうし)  所在   高田町大字江浦町74~2   
上からリンクして 高田町の他の城も見て下さい。
a0137997_21281335.jpg江浦城は田尻伯耆守親種(ほうきのかみちかたね)が築いた山門郡鷹尾城の支城の一つである。鷹尾城の総構えは鷹尾本城と江浦、浜田、堀切、津留の4支城からなる。いずれも水田地帯に立地する典型的な平城である。

天正10年(1582)、龍造寺隆信から謀叛(むほん)の疑いを受けた田尻鑑種(あきたね)は、龍造寺軍の攻囲のなか約1ケ年間籠城する。島津氏の援軍に助けられたとはいえ、龍造寺軍が1年かけても落とせなかった鷹尾城は、思いのほか堅固な要害であったとみえる。

鑑種が降伏した後も江浦城番の田尻了哲らは、鑑種の嫡子長松丸を擁してなお執拗に抵抗を続けたが、鍋島伸生(のぶお)の説得でようやく江浦城を開け渡した。

天正15年(1587)秀吉の九州統一後、高橋紹運の嫡子高橋弥七郎統増(むねます)(後の立花直次)が三池郡一万八千石に封じられると彼は江浦城を居城とした。関ヶ原合戦後は田中吉政の臣田中水主正が城番を勤め、立花氏復封後は一国一城令のため廃城となった。現在もなお本丸・二の丸などの小字名が残っている。

江浦町
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左(少林寺)
右(光萬寺)


荒木精鑞株式会社へ 和ロウを造っています。

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左(光萬寺前の地蔵) 右(マルエ醤油株式会社)
江浦祇園   三池街道筋は祇園で賑わいました。高田町では「渡瀬祇園」と「江浦祇園」です。

溝尻
a0137997_21391684.jpg溝尻の北向き地蔵さん

粥占い  江浦(八幡神社)  
楠田川沿いにあり、三池街道筋である。

by kusennjyu | 2010-04-25 19:11 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る