千寿の楽しい歴史
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風にそよぐヒマワリ 2010柳川(千寿の楽しい取材)
風にそよぐヒマワリ 2010柳川   7月31日  快晴

全体の4分の1以下の咲きで、まだ高さが低いのが多い。

8月6日ごろが見頃です。

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アニメ(6枚)
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動画


by kusennjyu | 2010-07-31 13:58 | | Comments(0) |Topに戻る
みやま市の街道(千寿の楽しい歴史)
みやま市の街道  7月28日  雨

寛保年間(1741-43年)旧柳川藩領地(みやま市付近)

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干潟は現在は陸地になっています。

主要道路 左~元禄14(1701)年頃   右~寛保年間(1741-43年)

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みやま市の街道

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訂正  矢部往還   山中  二里石    水上小  三里石

8月の街道説明はこの資料で行います。配布はA-4資料で見やすく、楽しみに!
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幕府測量方の測量ルート(柳川市大和町) 緑のルートがほぼ三池街道と同じ。
三池街道は江浦町の柿原手前の田中で曲がり光萬寺前、三池食品前、溝尻集落の中を通り、北向地蔵尊の前に出る。
三池街道の二里石の四箇所付近は圃場整備以前は凹凸(起伏)の多い土地で、渡里から南に行き「小山になった所に(ゆるくカーブした付近)二里石があった」と近くに住む長老から聞く。

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by kusennjyu | 2010-07-28 19:47 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川(瀬高町広瀬)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町広瀬)

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地図をクリックしますと拡大します。

広瀬の渡し
みやま市での矢部川の最上流部の位置にある広瀬の渡しです。
文禄4(1596)年、行脚僧の日源上人が溝口(筑後市)で和紙製造を始めて栄えましたが、和紙材料のコウゾウを対岸の溝口へ、また木蝋の原料の櫨の実を広瀬へ運搬するのにも重要な渡しでした。

元和6(1620)年、筑後藩主田中家が断絶し、久留米藩・柳川藩に分藩され、再び立花宗茂が柳川藩主になると、自分の藩領、山中・唐尾に和紙製造を移し90軒の家内工業を造り全国に名をはせ栄えた。

また広瀬堰から取り入れた用水は、瀬高町の北東隅から南西へ縦に貫く「広瀬水路」によって配分され瀬高町の水田に重要な役割をしています。

矢部川の治水事業(千間土居を築いた田尻惣馬)

1・柳河藩の生命線だった矢部川
矢部川は、八女郡の矢部村からみやま市高田町と柳川市大和町の境界に流れる河川で、福岡県内では、筑後川、遠賀川につぐ、第三の長流です。

江戸時代には、この矢部川が久留米藩と柳河藩の境界となっていました。そこでこのかわは「御境川」ともよばれました。当時は両藩の間でしばしば水争いがあり、交互に堰を造り、回水路を開削して、おのおの自藩領内に水を引いていました。とくに、柳河藩の場合は他に頼りとなる水源がありませんでしたので、矢部川の水利は何ごとにもまして重要なことでした。

柳河藩と矢部川との関係について、有名な伝承があります。
元和6(1620)年に立花宗茂が再び南筑後の大名に返り咲いたときに、石高の減少は覚悟の上で、三潴郡の水田地帯(関ケ原の戦い以前には、柳河藩に属していた地域)と、矢部川の最上流である矢部・黒木地方の山岳地帯や川の左岸の地域との交換を幕府に願いでて許され、矢部川全水域にわたる完全な水利権を確保した、というものです。

この伝承については、立花氏が関ケ原の戦い以前に支配している点や、この再封に際してもそのまま完全に認められるということを前提にしている点や、この再封に先立って、筑後一国を仮に支配していた幕府の上使衆が示した「上妻郡割り定の事」という指示の中で、川(矢部川)の中央を藩の境にすべきことをはっきり命じている点などから、内容的には充分な吟味を要するものですが、柳河藩にとって矢部川がいかに大事な川であったかはよくわかると思います。

このように、矢部川は柳河藩にとってまさに「聖なる川」であったわけですが、一方ではとても困ったこともありました。それは洪水です。藩は水資源を大事に活用していくとともに、しばしば洪水を起こすこの川と闘っていかなければなりませんでした。

2・千間土居の苛酷な大工事
昔の矢部川の堤防は、あまり高く築かれたものではなかったので、大雨が降るごとに川が氾濫をおこし、被害が出ました。

今の八女市に位置する北山地区もそのような地域の一つでした。北山の矢部川沿岸の北70町歩(約70ヘクタ-ル)は、大雨が降ると出水して、水の底になってしまうのです。

柳河藩は元禄8(1695)年、曲松(よごまつ)から山下(立花町)までの約千三百間(約2364メ-トル)の堤防を築き、川成の荒れ地を良田とする計画をたて、実行に移しました。この堤防のことを一般には「千間土居」とよんでいます。この千間土居の工事の責任者となったのは、当時、藩の普請役(普請奉行)であった田尻惣助惟貞という人で、この惣助の次男惣馬惟信がその助手を務めました。

藩が千間土居の工事を命じたのは子の惣馬の方であったという伝承も残っているようですが、田尻氏が藩に提出した系図などを見るかぎり、工事の総責任者は父親の惣助だったようです。惣馬が築堤を命ぜられたという誤解は、実際の工事で惣馬がめざましいかつやくを示したことや、あとで触れるように惣馬が藩内随一の水利土木の名人として有名な人物であったことなどによるものと考えられます。実際、この千間土居の工事について、現在まで伝えられる話は子の田尻惣馬の働きぶりに関するものばかりです。それらを紹介してみましょう。

惣馬は、まず川の流れを調べるため、大雨の降るたびに半切(タライのようなもの)に乗って渦巻く激流を下って、流勢を見きわめました。このほかにもいろいろな事前の調査を、綿密におこなったようです。実際の工事が始まると、これは昼も夜も続けられる突貫工事でした。これは最初にも述べたように、矢部川が柳河藩と久留米藩との「御境川」であり、利害関係のある久留米藩の側から抗議が出る以前に、すべての工事を終わられておく必要があったからです。実は惣馬は水勢の激しいところには、堤防にかくして「羽根」を造り、洪水に備えました。この羽根というものを造ることによって、堤防を完全にし、水の勢いを転じて、対岸の久留米藩領に向けることになります。このような工事が発覚すれば、久留米藩から工事中止の抗議がおこなわれることは明白です。そこで、惣馬はことさらに工事を急いだわけです。また、彼は数名の部下を久留米藩領内に潜入させて、警戒を怠らなかったといいます。

多くの農民たちが人夫として徴発されましたが、かれらの苦労は大変なものでした。惣馬は工事を急ぐため、かれらをこれ以上ないほど駆り立てました。人夫たちを食事と用便のほかは一切休ませませんでした。そこで人夫たちは疲れると、他人の大便の上にかがみこみ、用便中のふりをして休みをとるようなこともありました。しかし、しばらくして、農民たちのそうした抵抗がばれると、今度は便の新旧までも調べるというような厳しい態度で人夫たちの仕事ぶりを監督しています。すべてにこんなふうでしたので、惣馬は「鬼奉行」と農民や人夫たちから恐れられ「切るときは木六、竹八、葭九月、惣馬の首は今が切りどき」などと怒りをこめた唄までつくられる始末でした。しかし、惣馬には工事を敏速にそして完璧に終了させようという信念があったのです。

惣馬についての悪評は藩主立花鑑虎の耳にまで達しており、家老たちのなかにも、惣馬を工事から外すべきだという意見を述べるものもありましたが、結局、藩主鑑虎はそれらの意見を退け、最後まで馬に工事を担当させました。

間もなく堤防が完成すると、さらに楠などを植えました。その後は大雨が降って大水が出るようなことがあっても、「千間土居」は決して決壊せず、この地方の人々の生活を守りました。従来の荒れ地は良田と化していき、ここにおいて人々は、何ものにも妥協せず工事をやり遂げた叢馬の偉業をほめたたえるようになったのでした。

現在は、堤防には青々と茂った大木が高々と天に向かってそびえています。この壮観な景色を目の当たりにするとき、惣馬の不屈の精神と彼の下で働いた農民たちの必死の労苦を思わないわけにはいきません。

3・田尻惣馬の水利・土木工事
最後に、「千間土居」築堤の大工事をなし遂げたこの田尻惣馬という人について、述べてみましょう。
惣馬は柳河藩の普請方を勤めた田尻惣助惟貞の次男として、延宝6(1678)年に生まれました。

田尻氏は戦国時代の頃までは、田尻河内守鎮春という人の代に戸次(別記)道雪に召し出されました。道雪は大友氏の有力家臣の一人で、立花宗茂の義父(養父)にあたり、柳河藩の藩祖というべき人です。鎮春以後、田尻氏は立花氏のもとにあり、惣助惟貞は鎮春から数えて6代目にあたります。

惟貞が藩の普請方を勤めたことは述べましたが、彼の長男新右衛門惟定もやはり、普請役を命ぜられています。惣馬惟信は次男で惟定の弟です。この惣馬が次男であったのに別家をたてることを許されたのは、父の惣助が藩主鑑虎の命で彼の別邸(今の「御花」の前身)を建てたその功績によるといわれています。こうしたことからも父惣助自信がかなり優れた土木・建築家であったことがわかります。

惣馬は幼いころ、雨が降ると庭にでて、雨水を曲がりくねった川のように流し、小石を積んで土を塗り、木の葉を浮かべて、その流れかたを熱心に工夫したといい、この遊びを最も好んだともいいます。後年の彼の活躍ぶりをヒントにしての話でしょうが、惣馬の才能が天賦のもので、まさに天才的であったということを伝えるエビソ-ドといえるでしょう。これに、父である惟貞の指導を受け、藩政時代随一の水利・土木家となっていったものです。

彼の業績として現在も知られているのは「千間土居」の築堤ほか、正徳3年(1713)藩内各所が大潮によって被害を受けた際、黒崎開の普請方に任ぜられて、その復旧に努めたことです。また、蒲池山溜め池の構築も難工事でした。これは享保2年(1717)のことですが、池は東西260間(約512メ-トル)、南北100間、周囲900間にもおよぶ大きなものでした。とくに水田の感慨用として利用され、旱魃時にも水のかれることはありません。これらのほかにも、本郷権現(今の瀬高町)の羽根、磯鳥(今の三橋町)の井堰、浜武崩道(今の柳川市)の瓢箪開、唐尾(今の瀬高町)の井堰などの構築をおこなっており、さらに大根川の流水をよくしたり、回水路を新しく掘ったりしたのも惣馬の偉業とされています。

こうして、藩内のさまざまな水利土木工事を完成させて、郷土の発展に尽くした惣馬でしたが、宝歴10年(1760)に亡くなりました。墓は山門郡瀬高町本郷の九品寺にあります。

                      「人づくり風土記(福岡)」より。
by kusennjyu | 2010-07-27 11:45 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町小田)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町小田)

矢部川のハネ公園から新旧(取り壊し)の南筑橋

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ハネ公園へ リンクします。

八幡神社と神社の横から唐尾の渡しへ

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地図をクリックすると拡大します。

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瀬高の和紙製造の歴史

矢固部新左衛門記念碑(禅院への入口に建つ)


文禄4(1596)年、安土桃山時代の末期、対岸の溝口で和紙の製造が始まり、江戸期に有馬藩と立花(柳川)藩に分藩されると、柳川藩の唐尾でも和紙の製造を始めさせた。

唐尾は対岸の溝口・福島(八女市)や矢部村への街道筋の宿場町として発展したが、薩摩街道の道筋変更などにより旅人が減少したために唐尾宿は寂れました。
街道には境川(矢部川)の渡し舟があり、橋が架かるまで船賃を払っていました。

南筑橋上流には、元禄8(1695)年に田尻惣馬が築いた千間土居があります。全長1、300間(約2・7㌔)にわたる土居は、別名「惣馬が土居」と呼ばれることになりました。

千間土居が完成したあとも、惣馬の治水事業は終わらず、千間土居から船小屋にかけて、水流の勢いを弱めるための水刎(みずはね)(水羽根)の建設や植林などを実施。柳川藩の土居は強固なものとなった。

幕末以降資料はないが、木橋が架けられ、昭和年代にはコンクリート橋に架け替えられたであろう。昭和28年の大洪水でこの南筑橋は流され昭和30年に改修されたが老朽化の為に50m下流に新しい橋(平成22年6月)が完成する。

小田の和紙を製造された家へ  リンクします。

by kusennjyu | 2010-07-27 10:55 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川(瀬高町長田)千寿の楽しい取材
矢部川(瀬高町長田)

船小屋の中ノ島公園のクスの木a0137997_17123731.jpga0137997_1713130.jpg


矢部川河川敷にあり、元禄の造林より300年を過ぎた、幹廻り3m,樹高15m~20mにおよぶ巨木の林はクスノキ林がうっ蒼と2kmに及ぶ遊歩道をおおい行楽客に森林浴を満喫させてくれる。

このクスノキ林は元禄8(1695)年に田尻総助・総馬親子が柳川藩の晋請役として通称千間土居を築堤し、引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田土居を築堤し、樹林を植えたものです。これが広瀬河端・小田野林・長田孤林と呼ばれ、現在に残る国指定天然記念物である。

公園の中央を国道209号が貫き散策道、野球場、ゲートボール場、遊具など、子供から大人まで楽しめる施設を整備している。春には菜の花や桜が咲き、夏は釣りや川遊びが楽しめる。

長田の鉱泉と温泉(新船小屋温泉)
徳川末期、元治年間(1864)熊本の勤皇の志士、中田多一郎が上洛の途中この地を通り、当時、不思議の水と恐れられ、だれも触れないようにしていた湧水(鉱泉)を飲んで持病の胃痛に特効を認め、村人に薬効ありと勧めたのが始まりといわれている。

別の説には、郷土の木本正蔵が慶応3年(1867)に発見し、明治3(1870)年、旧藩(立花藩)に願い出て入湯場を開設した、とも言われている。

船小屋温泉大橋(国道209号線)と長田の渡し
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地図をクリックすると拡大します。

船小屋温泉大橋が開通  平成14年8月13日 

国道209号線の矢部川に架かる橋「船小屋温泉大橋」が11日、開通した。

中の島橋(延長80.2m)と船小屋橋(延長82.1m)は、昭和4年に完成し、幅員5.5m。昭和43年に幅員1.5mの自転車と歩行者専用の側道橋が設置された。

昭和初期に架橋されたのは幅員が狭く,年々増加する交通量に対応できなくなった。大型車同士が橋上で離合できず、一方が橋のたもとで待機し渋滞や事故の床因となっていたという。 また洪水時には橋桁付近まで水位が上昇し、流下物による災害発生が懸念されていた。

新橋は中ノ島橋と船小屋橋が連続した山本の橋になり、延長231.5mで片側二車線、全幅14m。交通渋滞対策で車道の幅員を5.5mから8mに広げ、自歩道3mを両側につけて、交通の流れをスムーズにし歩行者などの通行の安全性を高めた。

洪水時の安全確保で旧橋よりも高い位置にし、矢部川に浸かる橋脚をなくすことで流下物のひっかかりがなくなる。

地元が「赤い橋」に思い入れが強いことから、筑後市側には赤いアーチ状でワイヤを張り巡らした「二手ルセンローゼ橋」を導入。景観が実しく九州でも十橋しかない。

江戸時代の往還
寛永12(1635)年、三代将軍家光の時に武家諸法度が改定され参勤交代が確立され、野町(山川町)から清水~山麓の本吉(瀬高町)の清水寺の門前町を通り、矢部川を渡り尾島(筑後市)~羽犬塚宿~府中宿(久留米市)に至る道が参勤交代の街道として利用されていた。

元禄9(1696)年、薩摩街道は野町~在力村(清水)~吉井~大竹~下庄~上庄(本陣)~本郷~尾島(久留米藩領)~羽犬塚宿の西寄りのコースに変更され一里(4Km)ほど遠回りの道筋となる。

長田の地名の由来

ナガはインドシナのチャム語のnaga(竜、蛇)、タは助辞でナガ.タは竜神の意で、竜神を祭ったところの地名という。

沖縄などの方言では蛇のことをナガムン、ナガムシ、ナガモノと呼ばれている。また「竜蛇」の意が「長、永」の意味だけに使用したと考えられる。

下長田集落周辺には「八竜」(下長田の娘村の名称でもある)、「福竜」の小字名があります。

大牟田の大蛇山、長崎の蛇踊り、ベーロンの祭りや龍宮説話、竜神の小童の姿の河童伝説など沢山あり、縄文時代から古墳時代まで海人族が竜文化を持ちこみ、ひたすら竜神にすがり、祭祀を怠りませんでした。

明治13(1880)年、下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。
by kusennjyu | 2010-07-26 17:09 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町本郷)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町本郷)

大化の改新の地方制度として「およそ五十戸を里となし、里ごとに長を一人をおく」の里は霊亀元(715)年、郷に改められました。

本郷の郷も大化の改新に由来するものです。沖端川の北岸は条理制の実施をみた所です。柳川藩志によれば仁和年間(885-888)、本郷村に岩神将監なるものが居城したとあるから、その頃から、本郷の地名は、定着していたのでしょう。
いずれにしても「本郷」とは元の村の意味であるから、付近では重要な役割を果たしていた集落であったろう。

明治13(1880)年、下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。

幸作橋の下流。 左~名鶴堰  右~八幡神社

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幸作橋の上流。 左~松原堰  右~矢部川の松原跡

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明治初期の地図

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江戸時代は沖端川が主流の交通路であったため、松原堰で沖端川に水流を流しています。

朝鮮松原付近が本郷の渡しで、木橋がありました。

本郷から橋を渡り下長田を通過して、壇ノ池(瀬高町下長田)~小田村唐尾(瀬高町)~山下町(立花町)~黒木町~矢部村(柳川藩領)の矢部往還が利用されていた。矢部村周辺では柳川城に通じることから柳川街道と呼ばれた。


沖端川の行基橋の下流右岸に柳川藩最後の家老、壱岐立花の本郷邸跡があり、記念碑が建っています。

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立花壱岐の句碑   

堰落ちる 水に渦巻く 曼玉沙華 

立花壱岐は、幕末明治の激動期において、柳川藩家老として卓越した指導力を発揮した人物である。

また、熊本の横小楠や福井の橋本左内らと国事に奔走し開国通商を唱え、明治維新機には岩倉具視に対して新しい国家体制についてさまざまな提言を行なった。

晩年はこの岩神の旧居で悠々自適な生涯を送った。  平成10年9月建立。

文久元(1861)年3月4日、31歳の時に再び発熱し、文久2(1862)年9月15日、32歳の時に全権を辞職した。これ以降、隠居して療養に専念することとなった。

隠居期間中、「胖亭(はんてい)」あるいは「髑髏(どくろ)」と称して、政治の第一線から身を退いていたが、ひそかにその思想に磨きをかけ、明治維新に先立って、藩を解体した統一国家構想、能力主義による人材の登用、身分制度の撤廃などを骨子とする政治思想を有するに至った。

その一方で「逆枝(さかえ)の柳」など多くの大衆向けの小説を書いた。

by kusennjyu | 2010-07-25 16:17 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
大人形さんの股くぐり(千寿の楽しい取材)
大人形さんの股くぐり  7月24日午後5時 快晴  みやま市瀬高町上庄の八坂神社の祇園さん。

左~八坂神社社殿  右~大人形さんの横で太鼓打つ子供。
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屋台(左~道路、右~境内)
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動画(大人形さんの股くぐり)今年は右側が源義家、左側が安倍貞任です。股くぐりをすれば、病気にならないと言われています。


矢部川(上庄)へ  リンクします。
by kusennjyu | 2010-07-24 19:26 | 九州のまつり | Comments(0) |Topに戻る
2010矢部川(瀬高町文広)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町文広)  

平成22年7月23日 快晴

左~大和堰(上庄) 右~案内板。

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大和堰は旧国鉄佐賀線鉄道橋のすぐ上流にある。
この堰の上をどんきゃんきゃん祭の行列が通る。文広の廣田八幡神社から矢部川を渡り本郷の聖母へ行く祭。 

左~千出樋管(上庄)  右~樋管(対岸は文広)

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千出樋管(上庄)から岩神堰、二ツ川堰、磯鳥堰から柳川市三橋町へ分流している。

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地図をクリックすると拡大します。

芳司(ほうじ)→文広(あやひろ)(大字名)(行政区名)

芳司の地名は古墳、奈良、平安時代にわたり、この集落で土師器(はじき)を造る窯場(かまば)があったことに起因するといわれている。
平安朝、白河院政の頃ですが、荘園制度が次第に朝廷の財政を圧迫していきます。その対策として、朝廷側は、在地領主を公権的にひきつける為の徴税機関としての「」を成立し、その役人を「保司(ほじ)」と言った。

その役所が一時、今の文広に置かれ、その役人の保司に広田氏が就任したと思われる。その保司が芳司になったのだと思います。

文広(あやひろ)とは、保の役所のことを公文(くもん)と呼び、その公文の文と広田の広をとって文広ができたと思っています。文広は大字名で明治9年吉岡村と合併してできたものです。

その頃の保または公文と呼ばれる役所の所在の証明となるのが、文広の印鑰(いんやく)神社です。印はいんかん、鐱は鍵で、役所を象徴する言葉です。
                     
故鶴記一郎文書より。

by kusennjyu | 2010-07-24 14:43 | 矢部川 | Comments(0) |Topに戻る
2010ブルーベリー農園、24日から開放(千寿の楽しい歴史)
ブルーベリー農園、24日午後9時から開放  

平成22年7月24日 快晴

a0137997_1211425.jpgみやま市のNPO法人「ひとびと福祉事業団」は24日から8月8日の毎週土日、ブルーベリー農園を一般開放する。
同法人の作業所に通う精神障害者や身体障害者が、162本のブルーベリーを栽培。
堆肥から作り無農薬で育てた実は、収穫期を迎えている。

午後9時から約20人で約1時間で品切れした。入園料100円で食べ放題が原因だった。

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みやま竹堆肥  販売しています。

特徴

1.伐採竹を、堆肥の主原料にして、副原料にオカラを用いた堆肥です。

2.発酵温度、水分、炭素率を管理することで、有用な微生物を増殖させた完熟堆肥です。

3.土に施用した場合、堆肥の有機成分と有用微生物で土を団粒化する効果を表します。

4.竹のもつ長繊維の効果で、土をふかふかにします。

用途

土づくりの施用量は土の状態により違ってきます。1坪あたり3~30Lで使用して下さい。

手づくり黒糖
ミネラル豊富で口当たりが良く、こだわり製法によりサクサク感に仕上げた手づくり黒糖です。

by kusennjyu | 2010-07-24 12:14 | 出来事・生活 | Comments(0) |Topに戻る
2010内野樟脳工場取材(千寿の楽しい歴史)
内野樟脳工場取材  

平成22年7月23日 午後5時 快晴

内野樟脳は明治初期から150年続いた老舗で、長田地区には10件ほどありましたが、現在は日本で1軒だけになっていました。ご主人が亡くなり、跡継ぎがいなく、将来は未定です。

有明新報新聞に「みやま市名産品」として天然物を作り続けた故内野さんを偲び、住民有志が樟脳つくりと朝刊に載る。

ご主人が6月に亡くなり、後継者がないまま止まっていた工場が約2カ月ぶりに動いた。

まずは初盆に供えられれば」と地元住民ら有志が、24日までの予定で作業に当る。

天然樟脳はクスノキ100%の防虫剤。

樟脳の作り方
 
樟脳を作るには先づ樟の木を円盤カッターにかけてチップに削り、樟脳や油が出易いやうにする。

左~円盤カッター(穴のところで削る)。  右~カッターにかけた、途中のクスンノキ。
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釜の上で蒸し、水蒸気で木片の中の樟脳と油を誘ひ出す。
チップは扇状になり、この中に蒸気がとおり、きれいな樟脳と油分が抜ける。

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ベルトコンベアで釜の上蓋まで上げる。  チップになったクスノキ。

釜(横からと上から)

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a0137997_21545691.jpgチップを釜に詰める。
杵でつく。入れたチップはふんわりしているので、杵でつき、蒸気がチップの中に入り易いようにする。

チップを釜に詰め、下に水を入れ、竈で薪を燃やして蒸留。
12時間蒸しあげる。 3日間続ける。


釜の横に並んで竈(かまど)があり、竈で燃やして蒸気を釜に入れる。
燃料は釜で使用して成分が抜けた物をベ ルトコンベアで2階にあげ、貯めて置き、薪として再利用します。
そのチップを上の口から入れて使用する構造になっている。

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左~(水を貯めて置く)。 右~圧搾機。

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釜からパイプで舟に送られる。途中に水をためた水槽の中を通り冷却され、舟に貯められる。1日間冷やす。

冷やして結晶になったものを救いあげて、圧搾機で1晩かけて搾り出す。真っ白い樟脳が取れる。

(天然樟脳) 1週間かけても、わずかしか取れない。

注文を受けてから、八女和紙に詰める

市販品は臭いがしみ込んですぐには取れないが、天然樟脳は風に晒したら臭いが取れる

天然の臭いで安らぎの臭いであり、芳香剤としても使用されている。

九州地方には、楠が多くもともと樟脳(しょうのう)作りが盛んでしたが、需要が低迷すると生産者も減少しました。

今ではみやま市に、日本でただ1軒の生産者「内野樟脳」が残るのみとなりました。

この「天然樟脳」は楠100%の天然素材で衣装の防虫だけでなく、玄関やトイレの芳香剤として、またアトピーなど化学物質に過敏の方にも安心して使用していただけます。
ブーツのニオイを防ぐ消臭剤としても若い女性に評判です。

福岡観光地(内野樟脳)へ   リンクします。

皆さんも、みやま市の名産品を生産できるように応援して下さい。

by kusennjyu | 2010-07-23 22:38 | みやま市の産業 | Comments(0) |Topに戻る