千寿の楽しい歴史
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日本刀はこうして出来る2(新ふいご祭)
日本刀はこうして出来る2  11月28日

左~ふいご    右~たたく鍛錬

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動画(三種の宝)



三種の宝

真ん中の剣は政治に当てはまり、右の鎌は農家が使い生産するので産業、左の蔵の鍵は経済に当てはまる。

正月の初仕事でたたいただけで、鑢(やすり)をかけない。

動画(たたく)



たたくと汗が出て、前は裸でやっていた。

動画(水打ち)



鉄が熱しているので水をかけると瞬間的に爆発を起こす。鉄についた汚れを取る。焼き入れが良く出来る。

次回に続きます。

by kusennjyu | 2010-11-30 13:58 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
日本刀はこうして出来る1(新ふいご祭)
日本刀はこうして出来る1   

平成22年11月28日  曇り

左~国治刀匠(今後動画の中で説明をされます。)   右~鍛錬開始

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動画(火をつける) 国治刀匠の説明が入っていますので、良く聞いて下さい。



昔はマッチやライターが無い時代、金属を叩いて摩擦熱をつくり、燃えやすいものに火をつけた。

ふいごは押しても引いても風がでます。

日本刀は砂鉄からつくりますが、時間がかかるので、ムウートンというのを買ってつくります。

玉鋼(たまはがね)を叩いて焼き入れをします。

玉鋼のかけらの角でガラスを押して引くと切れます。それぐらい硬いものです。

動画(木炭は松を使う)。



松は灰が付かない。ふいごの風が当たっている所は灰が付かない。

直接、火が鉄に作用して中に入り、軟らかく焼ける。

木炭は松だけを使う。(1東北産)東北は海岸の風除けによく植えられている。

栗はバツバツと火がはじいて火傷をしたり、仕事がやり難い。

動画(折り返し鍛錬)



折り返し鍛錬を十数回やります。繊維が多くなる。

十数段積んでいますので、折り返しをすれば、15回→30回→60回→120回と十数回やれば、何万回となります。

刀の中に筋がとおり、弾力性が出てきます。
 
 次回に続きます。この調子で説明が続きます。ご期待下さい。

by kusennjyu | 2010-11-30 09:30 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
第20回、最後の「新ふいご祭」(千寿の楽しい歴史)
第20回、最後の「新ふいご祭」  11月28日(日) 午前9時30分~午後3時   曇り

左~先代国治供養費  右~天地剣稲荷神社

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左~三種之宝記念塔  右~公開鍛錬前の見物客
正月の仕事初め式で毎年、作ります。これは、鑢(やすり)をかけないで、そのままです。

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三種の宝は真ん中が剣で政治を、右が鎌で生産を、左が蔵の鍵で財政を表します。

鍛錬場

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鍛錬場内の神棚

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私は午後から柳川と大川へ行く予定にしていましたが、新ふいご祭で「日本刀の試し切り」があり、大牟田へ行きました。

最近は江戸時代に還ったようなような思いです。
それは、ブログを見てもらえば判りますが、南関町の大名行列・葦北鉄砲・御茶屋と薩摩街道を歩く・豊前街道を行く・豊後街道を行く・三池街道と有明新報で大石進の少年時代の「白銀川の櫨」の連載があり、読んでいます。午後からの行事の試し切りに興味を引かれ、自宅に帰り食事をして、再度行きました。

大石進は大牟田市宮部の生まれで、突きの名人と言われた柳河の剣豪である。

後に江戸に行く、直新陰流の男谷精一郎と試合をして勝ち、それから一躍有名になった。

11月25日には自衛隊でヘリコプター・大砲・機関銃を見物しました。これは、ブログに揚げていません。

28日は大川市で風浪宮の流鏑馬がある。大祭は、永禄3(1560)年の本殿再建から450年の節目を迎えたことを記念して行われている。

柳川市では、北原白秋生誕125年と詩集『思ひ出』発行100周年記念フォーラムが行われた。

大牟田の「新ふいご祭」は第20回目で一応最後の催しである。
先代の国治がなくなり、今の国治の兄が亡くなられた次の年から始められている。

鞴(ふいご)祭の由来

鍛冶屋・鋳物屋・石工など鞴を使う職人達が旧暦11月8日に行う祭。
祭神は金屋子神あるいは稲荷神踏鞴祭ともいう。
古来より鍛冶屋達は鞴祭の日は一日仕事を休み鞴に締縄を張り、御酒赤飯等を供えて祭った。

現代の刀匠の間でも鞴祭の日になると神主を呼び鍛冶場を清めて一年間の無事安全を祈り技術向上を誓う人が多い。

尚鞴は吹子とも書き、金属の精錬に用いる送風機の事である。

    天地剣稲荷神社前のけいじばんよによる。

午前9時30分~午前11時15分頃まで、鍛錬場で「日本刀はこうして出来る」の公開鍛錬が行われた。

四郎国光の歴史

祖先は江戸期柳河御番鍛冶であった信濃守武藤久廣。
その血を引き継ぎ小宮家(四郎国光)は刀鍛冶一門の中では全国的にも珍しい5人の刀匠を擁しており、作風もそれぞれに異なり、業界でも注目を集めている一族です。

昭和16年、刀の切れ味や美しさを競う「全国試し切り大会」が開催され、皆様もご存知の「虎徹」と共に決勝まで進み、見事優勝を果たした結果、切れ味「日本一」の称号を手にしました。

以来、「四郎国光」の名は全国に広がり、展覧会においては最も優れた刀の三振の一つに選ばれ、天皇陛下への献上刀として納められ、その刀を作った、先代四郎国光に支持した四郎国治を初め、その姿を見て育った。

二代目四郎国光、国忠、安光、六郎国天も作刀技術を絶やさぬ様に、自ら刀鍛冶となり伝統を現在に継承しています。

毎回出品している新作刀展覧会では、各刀匠が「優秀賞」、「努力賞」、「入賞」を、六郎国天は初出品で「新人賞」と「努力賞」を獲得しました。

このように、「四郎国光」では世界に誇れる芸術を後世に伝えて行くために、日々、鍛錬と努力を重ねている。

    天地剣稲荷神社前のけいじばんよによる。

   主催   株式会社  四郎国光
   
   後援   大牟田物産振興会    倉永新道よかもん会

国治刀匠の説明入りの動画に撮ったものを、次から揚げていく予定です。
by kusennjyu | 2010-11-29 17:37 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
3年生とマスターズが交流
同帰会ニュース  3年生とマスターズが交流(今回で3回目)

11月23日、三池工業高等学校野球部の3年生がOBである同校マスターズ甲子園出場の硬式野球チームとの交流試合が同校野球場であった。

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最後まで点の取り合いとなった試合は3年生が9-8で競り勝った。

        11月24日、有明新報(大牟田版)より。
 
by kusennjyu | 2010-11-27 20:39 | 同期会・同帰会 | Comments(0) |Topに戻る
大円寺と筑後路の古刹めぐり(千寿の楽しい歴史)
大円寺と筑後路の古刹めぐり  11月22日  雨がやみ、太陽が出てきました。  星野村

大円寺

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a0137997_11571434.jpg八女市星野村大字土穴にある曹洞宗寺院。
 
寺伝によれば奈良時代の神亀2(725)年の創建と伝え、はじめ律宗であったという。

その後成実宗から真言宗となり、鎌倉時代の弘安2(1279)年の寒厳義尹(いん)=肥後川尻大慈寺開山=によって曹洞宗寺院になったという。

江戸時代の寛永6(1629)年、一国一寺を定めた曹洞宗の宗禄御定により、久留米千光寺の末寺となった。

南北朝の内乱期に征西大将軍懐良親王が将軍職を良成親王に譲った後、南朝天授3(1377)年に星野の山中に隠退し、本寺に入って晩年を送り、弘和3(1383)年にこの地で薨去、寺の北方大明神山に葬られたとする伝承を持つが、近年その伝承がほぼ間違いないことが実証されている(佐々木四十臣「征西大軍宮懐良親王御墓所伝承地考」 懐良親王顕彰会 『会報』 14号平成11年3月)。

本尊は十一面観世音菩薩。寺宝には江戸時代の天和2(1682)年、懐良親王 300忌の法要に際して、矢部の五条家(懐良親王側近五条頼元の子孫)から献納された「福田袋」(ふくでんえ、一名二十五条の袈裟)というものがある。

   
三池史談会の大城美知地信先生の歴史探訪資料より。

石碑  外(左)と内(右)

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もみじ(塀の外と内)

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三池史談会の皆様にお礼申し上げます。山川パーキングで降り午後5時過ぎに自宅に帰りました。
by kusennjyu | 2010-11-26 12:35 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
観音寺と筑後路の古刹めぐり(千寿の楽しい歴史)
観音寺と筑後路の古刹めぐり   11月22日 雨

片野瀬温泉の座敷で昼食を済ませ、田主丸大字石垣の観音寺へ行きました。

観音寺

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田主丸大字石垣にある天台宗寺院。  通称石垣寺。 本尊は十一面観世音菩薩

寺伝によれば、白鳳2(673)年に天武天皇の勅願により創建されたとも、和銅元(708)年に行基菩薩が建立したとも伝え、また一説には承和14(847)年に唐から帰朝した円仁(慈覚大師)によって創建されたともいうが、いずれも確証はない。

しかし、境内からは12世紀の初頭ないし中期にかけて、経筒が多数出土しており、中でも天永3(1112)年の銘を持つ写経は九州最古の埋経といわれ、本寺がこの地方における天台密教の中核寺院であったことを物語っている(これらの経筒類は現在九州歴史資料館に寄託されている)。

歴代住職のうち、平安末期に出た金光坊善廓は本寺中興の祖といわれ、鎌倉初期に当寺住職として寺運の興隆に尽くしたが、後京都に出て法然の門に入り、浄土宗に転向した。彼は「法然上人行状絵図」の中に「石垣の金光坊」の名で描かれている。

近世の観音寺は久留米藩の保護下に置かれ、特に盲僧琵琶の生葉座を支配していた。本寺には貴重な盲僧琵琶関係の古文書が伝わっている。

三池史談会の大城美知地信先生の歴史探訪資料より。

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「牛鬼の手」伝説
頃は貴族の世から武士の世へと変わる平安末のこと。
禽獣や作物を荒らし、村びとを不安におとしいれた「牛鬼」を退治したのは観世音中興で陸奥念仏の開祖と崇められる「金光坊善廓上人」と言われています。

それまで、南の山を「足代山(あじろやま)と」呼んでいたが、退治された牛鬼の耳を山に納めたので「耳納山(みのうやま)」というようになりました。



紅葉
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俳句  秋訪へば  秋のこころは  観世音    静雲

正月第3日曜日  「初観音大祭」(開帳火渡)  2月第3日曜日  さざんか祭  

ハルザンカ」(久留米市指定天然記念物)  幹廻り 158cmの原木が2月中旬より3月初旬にかけて可憐な花を咲かせ、鳥や人の心を和ませている。

観音寺から道の駅「うきは」に寄り、皆は柿をお土産に買いました。
田主丸町から星野村へ耳納連山を山越えして、次の大円寺へ行きました。 
by kusennjyu | 2010-11-26 09:51 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
自宅の花(千寿の楽しい日々)
自宅の花  11月26日午前9時  快晴

ジャコバサボテン(11月19日は花が開いていませんでしたが、今日はこのとおりです。)

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もみじ

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右~バラ

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パンジー

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その他

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毎日、ベランダの花には水をやるのが日課です。
by kusennjyu | 2010-11-26 09:33 | | Comments(0) |Topに戻る
善導寺と筑後路の古刹めぐり(千寿の楽しい歴史)
善導寺と筑後路の古刹めぐり   11月22日   雨

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本堂と内陣

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a0137997_16441441.jpg久留米市善導寺町にある浄土宗鎮西派の本山。寺名は中国唐代の浄土宗開祖善導大師に因む。

鎌倉初期の承元2(1208)年 、法然上人の高弟弁長(聖光上人)が在国司草野永平夫妻の支援を受けて開いたと伝えられている。

中世九州における浄土宗の普及に果たした役割は大きく、各地に末寺を多く成立させている。

広大な寺地には大門・本堂・大庫裏・釜屋・広間・書院・役寮・対面所・中蔵などが建ち並び、荘重な雰囲気をかもし出している。
建物はいずれも江戸時代中期以降の再建になるものであるが、すべて国指定の重要文化財である。

本堂

天明6(1786)年の再建である。間口15間、奥行14間、半建坪217坪。

本堂の屋根の頂上には三葉葵の紋所が5個並んでいるが、五百石の地所がついていた名残りである。

位牌壇(右側)には歴代将軍の位牌が安置されている。

左~釈迦堂   右~六地蔵

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六地蔵

鎮西上人が始めてこの土地に来られし時、山林の中に6人の盗賊あり。
鎮西上人の懇篤なる教化に接し6人の盗賊は発心改悔して弟子となる。

善導寺の建立に際しては材木を運び、その外極力尽力して援助したのである。
その6人の姿を六地蔵として祀ったのである。

大楠(上)と碑(下)

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左~聖光上人像  右~筝

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開山以来、当寺で「善導寺楽」と呼ばれる雅楽が盛んであった。

戦国時代、筑後国宮部郷(大牟田)に宮部武成という武将がいた。
父 武成の急逝により7歳であった長男(後の賢順)は小僧として善導寺に入山した。
ここで琴を習い覚えた賢順は数年のうちに見事その才能を花開かせた。

16歳の頃、筑後騒乱の波をうけ彼は宮部一族を引き連れて当寺を出て、大友宗麟の庇護を受けた。

還俗して諸田賢順と名乗り、その後も波乱万丈の生涯を送ったが、筝道一筋に歩み「筑紫流筝曲」を完成させた。(1623年没  90歳)




紅葉と銀杏

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善導寺の文化財

【国指定】 ①木造善導大師坐像(鎌倉)、②木造大紹正宗国師坐(室町期修造)、③紺紙金泥観音普賢経 

【県指定】 ①紙本着色本朝祖師伝絵詞、②梵鐘、③大樟(天然記念物)、④菩提樹(天然記念物)

【市指定】 ①本尊釈迦如来坐像(鎌倉・もと三瀦郡の浄土寺にあったという)、②木造宝冠阿弥陀如来坐像(南北朝)、③木造阿弥陀如来坐像(鎌倉)

弁長  1162年~1238年

鎌倉時代の浄土宗の僧。名は弁阿、号は聖光房。筑紫の人。

はじめ比叡山で修行、建久8(1197)年・法然に師事し、のち故郷筑前に帰り、筑後・肥後各地に念仏道場を建立した。

筑後山本に善導寺を開いて九州念仏の根本道場とし、肥後川尻の往生院で浄土宗の主流鎮西派を確立した。

    三池史談会の大城美知地信先生の歴史探訪資料より。
by kusennjyu | 2010-11-24 16:28 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
2010高良大社と筑後路の古刹めぐり(千寿の楽しい歴史)
高良大社と筑後路の古刹めぐり   

平成22年11月22日(雨)参加者20名

大牟田市の三池史談会歴史探訪のマイクロバス(高速道路使用)での歴史探訪に参加する。

古刹めぐり   

高良大社・千光寺・善導寺・観音寺・大円寺(各赤枠)昼食・片野瀬温泉小林荘

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高良大社(久留米市)

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久留米市御井町の高良山中にある神社。耳納連山の最西端に当たる端山(はやま)に鎮座し、正式には高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)神社という。八幡神と住吉神を合祀する。

高良神は三韓征伐に際して神功皇后を助けて武威を顕した神として、後に国家守護神としての神位を与えられた。海神・航海神としての神性を持つと言われる。

古代には延喜式内社、中世には筑後国の一の宮として発展、筑後の国神として崇敬を集めた。近世には豊臣秀吉によってその勢力は大きく削減されるが、田中吉政や久留米藩有馬氏の保護を受けて社運を維持し、明治以後は国弊大社に列せられた(終戦まで)。

筑後地方には多くの末社を有するが、特に大善寺玉垂宮(久留米市)・大川風浪宮(大川市)・黒崎玉垂宮(大牟田市)は三大末社とされた。

高良山の文化財

【国指定】 ①高良山神籠石、②高良山モウソウキンメイチク林(天然記念物)、③高良大社本殿・弊殿

【県指定】①高良山御手洗橋、②絹本着色高良玉垂宮縁起、③紙本墨書平家物語、④高良大社所蔵文書(一括)⑤高良大社大樟(天然記念物)

三池史談会の大城美知地信先生の歴史探訪資料より。


自然の森公園 霧のため、下車なし。










by kusennjyu | 2010-11-23 19:23 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
千光寺と筑後路の古刹めぐり(千寿の楽しい歴史)
千光寺と筑後路の古刹めぐり   11月22日(雨)  参加者 20名

大牟田市の三池史談会歴史探訪のマイクロバス(高速道路使用)での歴史探訪に参加する。

古刹めぐり   高良大社・千光寺・善導寺・観音寺・大円寺(各赤枠)  昼食・・片野瀬温泉小林荘

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千光寺

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左~田中忠政(二代目)の墓  右~征西将軍宮懐良親王陵墓(この階段の上)

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久留米市の東部、山本町豊田の耳納山麓にある曹洞宗寺院。

寺伝によれば、建久3(1192)年に筑後の在国司草野永平が千光国師栄西を招いて開山したと言われ、初めは臨済宗であったが、室町初期の文亀2(1502)年に領主草野重永が周防龍門寺の僧為契禅師を迎えて曹洞宗に改めたという。現在では「あじさい寺」として親しまれている。

この寺は、古くから征西将軍宮懐良親王陵墓の所在地の一つとして知られている。(九州に7ヶ所あると言われる。)

最近の研究によると、親王薨去の地は八女市星野村の大円寺とみられ、初め同村の大明神山に埋葬されたが、近世になって親王ゆかりの大円寺が千光寺の末寺になった折、今の千光寺に移葬されたとの見方がなされている。

同寺の梵鐘には永和3(1377)年の北朝年号があり、県指定の文化財。

栄西   1141年~1215年

「えいさい」また「ようさい」とも読む。鎌倉時代の禅僧。日本臨済宗の開祖。千光祖師とも言う。

備中の人、初め天台宗を修行、1168年入宋、禅を学んで帰朝、天台復興のため禅の必要を感じ、87年再び入宋、求法のためインドに赴こうとしたが、果たさなかった。

天台山で臨済禅を学び91年帰国、筑前今津の誓願寺に入って西国に伝道、99年鎌倉に下って、幕府の帰依を受け、寿福寺を建立、また京都に建仁寺を開いた。

喫茶と茶の苗をもたらしたことで有名。

懐良親王  1329年~1383年

「かねなが」また「かねよし」とも読む。後醍醐天皇の皇子。

1336年南朝の征西大将軍に任命され(8歳)、四国を経て九州に渡り、足利方と交戦、肥後の菊池・阿蘇氏らに支持され、61年から10年間大宰府を中心に活躍したが、九州探題今川貞世(了俊)に圧迫され、筑後矢部の奥地に退隠し、そこで没した。

その墓所については、中津市、日田市、西米良村、御船町、八女市、久留米市、星野村などにその伝承地がある。

柳坂ハゼ並木  雨のためバスの中から見ながら通過し善導寺へ向かう。

    三池史談会の大城美知地信先生の歴史探訪資料より。

a0137997_939647.jpg千光寺から永勝寺へ
本堂南側より永勝寺への道となり、アラカシなどの林を過ぎると竹林となり、丸太の橋を渡ると林道に出て永勝寺の登り口に着きます。石段を登り永勝寺へ。

永勝寺から谷沿いの道を通り林道へ
永勝寺を下り2~3分で谷沿いのお滝場へ。杉林の下の谷川を岩づたいに渡ります。10分ほどで杉、ヒノキ林となり、急坂を登ると林道へ出ます。

林道から兜山へ
林道からひだりてへにすこし戻ると、右側山手に登路が続いています。
20分ほどで低木林となり、兜山キャンプ場へ着きます。
山頂(けしけし山)には天才画家、青木繁の碑があり、筑後平野の眺めは素晴らしいものです。
by kusennjyu | 2010-11-23 19:23 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る