千寿の楽しい歴史
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伝説 堀切の荒仁(あらひと)さん・千寿の楽しい歴史
伝説 堀切の荒仁(あらひと)さん

堀切の荒仁宮は堀切の吉里開へ行く道の村はずれにあり、木立と竹やぶに覆われています。高さ3mの鳥居をくぐると、4、5m先に小さな祠があります。荒仁さんが病気で死んだ所です。

荒仁さんの本名は、河野四郎越智通信(おち・みちのぶ)という武士です。小さい頃は、若松丸と呼ばれていました。
四国の伊予(いよ)の国(愛媛県)で生まれ、大きくなって伊予の国を立ち退く運命になりました。

後に鎌倉幕府を開いた兄の頼朝から源義経はうとまれ、奥州の藤原氏を頼って落ち延びた時に一緒だったのが、禍(わざわい)したからです。

通信は子の通貫(みちつら)と家来25人と共に瀬戸内海を渡り、苦難を重ねてここ堀切に辿(たど)りつき、畑仕事などをして細々と暮らしていました。

文治元年8月15日、伊予の国を出て、文治2年2月16日に堀切に着いたのだから大変苦労したことと思われます。

そして翌年の文治3(1187)年11月20日に亡くなりました。38歳でした。墓は、貧乏のため道の傍に土盛りして、その上に石をのせただけでした。

村人が肥桶をかついで、そばを通ると肥桶が揺れ出し、反対側にひっくり返るので遠回りしてかついで行くそうです。

またある時、馬に乗った一人の武士が従者をつれて通りかかりました。そして従者に、「その墓は、誰のものか。」と尋ねますが、墓標などありませんから、もちろん知りません。

しかし、馬上の武士は、何か感じたのでしょう。「生前は、身分の高い武士であったろうに、今は死んで馬の蹄(ひづめ)にかかる。」と嘲(あざけ)り笑いながら通り過ぎようとしました。

するとそのとき、墓がガーガーと鳴動(めいどう)し、あたり一面まっ暗になり、妖気(ようき)が立ちこめ、殺気(さっき)が迫ったのでした。

馬は棒立ちになって武士は落馬し、従者は、真っ青になって地上にうずくまり、やがて2人とも悶(もだ)え死んだそうです。

妖気が晴れて村人達は、主従の身体のどこにも傷がないのに死んでいるのを不審に思いました。

これは、お墓のたたりだと恐れおののき、この地にお堂を建てて祭り四郎大明神とあがめ奉(たてまつ)りました。

神前のお供えは、酒2本、甘酒2桶7升分、おごくっさんにもち米4升、白米4升を使用し、各家庭に配ります。

その他、やすみ(魚)2、赤目(魚)20、黒目(魚)24、はくら(魚)10、あげまき(貝)1.8kg、車えび400g、大根4本、しょうが5かぶ、かつおぶし2本、塩3升3合、御幣(ごへい)竹15本、柳箸28人分、米1升3合と別に6合、お供えものも多彩であり、外のお宮さんとは違います。

荒仁さんを祭ってある広場は、不思議なことに、800年の長い間、竹の根がはびこってきません。おごくっさんは、喉にささった魚の骨を流し込んでくれます。

また、山登りの時は、まむし除けに持っていきます。かまれた時に食べると毒のまわりを遅くしてくれるご利益(りやく)があるそうです。

  「ふるさとの昔ばなし」-瀬高の民話と伝説ー瀬高町教育委員会より。
by kusennjyu | 2011-06-30 20:24 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
宮城県南三陸地区の惨状
宮城県南三陸地区の惨状

この写真は久留米駐屯地部隊が2カ月間の支援活動に行った時、宮城県南三陸地区を撮った現場写真です。(あたご苑ロビーに展示された写真。)自衛隊関係者の許可を取り付けています。

テレビなどで何回も見ておられると思いますが、災害直後の惨状を撮った写真を見れば驚愕されるでしょう。

この写真で、現地の人たちの気持ちを汲み取って下さい。

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心のケアー

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東北、頑張れ。

久留米駐屯地からは2カ月間で、人員800人と車両200台が支援活動に行っています。
by kusennjyu | 2011-06-30 15:25 | 出来事・生活 | Comments(0) |Topに戻る
伝説  六体神(ろくて)さん・千寿の楽しい歴史
伝説 六体神(ろくて)さん

瀬高町大字浜田字浜田南の広い竹やぶの西のかたすみに、高さ30cm程の小さな人形のような姿をした石の像3つと、同じ高さの墓3つが高さ3m程の「六体神の碑」と掘られた石碑(井戸の跡)を囲んで建っています。

それを「ろくてさん」と言います。「ろくてさん」の所から3m程前方、左の小さな木の根元に同じ大きさの一体があります。これを「ろくてさん達の乳母(うば)」と言われています。

浜田南の28戸の人々は、9月15日を「墳(つか)祭り」と言って、お坊さんを呼んで塩5kg、米2kg、塩鯖2匹、ごぼう、人参、大根など根ものの野菜をふたしな供えて「ろくてさん」達の霊を慰めます。

村の古老の話では、昔々、村の子供が井戸に落ちたので、村人の一人がはしごを伝って底へ降りたら、間もなく底で倒れてしまいました。見ていた他の村人が助けに降りたら、その人も倒れてしまいました。3人目も4人目も五人目も倒れてしまい、村人達はついにあきらめて、井戸を埋めてしまったと言うことです。
たぶん、窒息するような悪いガスが充満していたのでしょう。

2つ目の説は、天正年間(1573~1591年)に鷹尾城を守っていた田尻氏が、竜造寺・鍋島の連合軍に攻められて落城しました。鷹尾城の支城であった浜田城もあけ渡すことになりました。

浜田城を守っていた田尻大蔵之助鎮富(しずとみ)は、家臣を助けるため切腹して果てました。お姫さまや侍女達6人は、それを聞いて、竹やぶの中にある井戸へ、次々に身を投げて死んだと言うことです。

3つ目の説は、それより遠い昔の文治元(1185)年の頃です。源平の戦いも終わりに近づき、現在の下関市壇ノ浦の海上戦で、源義経の源氏軍に平家一門は、義経の八そう飛びという逸話(いつわ)を残して破れてしまいました。

平家一門は、ちりぢりになって九州一円に逃げ落ちて行きました。熊本の阿蘇の南郷谷や泉村の五家荘(ごかのしょう)、五木村、宮崎県の椎葉(しいば)村がその場所としては有名です。

ここ瀬高の浜田にも平家一門の郎党が浜田南の竹やぶをきりひらき、姿を変え、名前も変えて百姓になって、村人と共に畑を耕し、鎌倉幕府の源氏軍の追手をのがれて、ひっそりと暮らしていました。
ところが年を追って源氏軍の捜索は厳しくなり、ついに浜田南小路(こうじ)の広い竹やぶにも及んできました。

百姓に姿を変えていた平家の残党は、もうこれまでと、死力をつくして追討軍と壮絶な戦いを繰り広げましたが、ほとんど討死(うちじ)にしてしまいました。

竹やぶの西の方にかくれていた乳母(うば)と6人のお姫さんの姉妹は、息をころして追手の去るのを待っていました。

捜索をあきらめて遠のいていくのを見て乳母と6人のお姫さん達が安堵して助かったと思ったとき、飼っていた白い鶏が突然「コケコッコー。」と高い声を出して鳴いたのです。遠のいていた追手は、その声を聞き、まだ誰かがいると戻ってきたのです。

お姫さん達はそれを見て、もう逃げられないと覚悟を決め、深い井戸の中へ次々と身を投げました。もちろん仕えていた乳母も自害しました。
それから後、浜田南では、白い鶏は飼わなくなりました。

浜田南の氏神は天満宮です。そのわきに六体神社があります。12月15日の霜月祭りには平家の印の赤旗を立てる習わしが残っています。源氏の旗は白旗です。

白い鶏は、源氏の忍者か間諜が変身していたのかもしれません。今でも戦いのはげしかったことを証明するように、畑の中から白骨が出るそうです。

 「ふるさとの昔ばなし」-瀬高の民話と伝説ー瀬高教育委員会発行より。
by kusennjyu | 2011-06-30 05:16 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
伝説  高麗(こうげ)がらすの由来・千寿の楽しい歴史
伝説 高麗(こうげ)がらすの由来

私たちの家のまわりや、お宮、お寺の境内にある柿の木や、むくの木、また電柱の腕木などに木の枝などを積み重ねて作っている大きな鳥の巣を見かけることがあります。

この巣を作っているのは、肩と胸の部分が白でそのほかは黒色のツートンカラーのきれいな鳥です。

木から木へ飛びまわっている時はいつも、キジャ、キジャと鳴き、黒色をしたカラスより少し小さ い鳥です。

この鳥の名前は、正しくは「かささぎ」といいます。ところによって「かちがらす」とも呼ばれていますが、私たちの山門郡地方では「高麗(こうげ)がらす」と呼んでいます。この高麗がらすは、この辺のりではよく見かけますが、どこにでもいる鳥ではありません。

古くは、養老4(720)年に出来た日本で一番古い「日本書記」という本の中に「推古天皇のところに『難波吉士盤金(なにわきしいわかね)』という人が、新羅(しらぎ)から帰って、かささぎ2羽をたてまつり、難波の社(やしろ)で飼わせた」という話がのっています。

しかし、難波(今の大阪地方)では、「かささぎ」を見かけることは出来ません。その後、繁殖しなかったのでしょう。

今、日本では、筑後平野、佐賀平野など私たちの住んでいる地方にだけいる貴重な鳥で、国から天然記念物に指定され保護されています。つかまえたりすることは禁じられています。

高麗(こうげ)がらすは、なぜ私たちの地方にだけいるのでしょか。
また、「かささぎ」と呼ばず高麗(こうげ)がらすと呼ぶのはなぜでしょうか。
それには、次のような伝説があるのです。

今から約400年前の文禄元年正月に、豊臣秀吉が、全国の大名に対して朝鮮(ちょうせん)に出兵を命じます。

柳川の殿(とん)さんである立花宗茂公も、家臣と共に朝鮮に出兵します。
朝鮮のあるところの戦いで、柳川の兵士たちが小さい舟に乗り、ろを漕ぎながら海を渡っているとき、向こうの方から、明(みん)や朝鮮の水軍の大きな船がこちらにやって来たのです。
相手の船をよく見ると、船のへさきに大きな大蛇がとぐろを巻いて、らんらんと目を輝かし、こちらをにらんでいるのが見えます。

小舟に乗っていたこちらの兵士たちは「あれは何だ。大蛇じゃなかか。ああ、えずか(おそろしい)、あんまり近づくと、大蛇にのまれてやられてしまうぞ。」とこわがっていました。

すると、どこからともなく飛んできた鳥が、“木蛇(きじゃ) 木蛇(きじゃ)”と鳴いて、柳川の兵士たちが乗っている舟に知らせたということです。

これを聞いた兵士たちは、ほっとして「あれは本当の大蛇じゃなくて、木で作った大蛇か。そんならえずなか(それならばおそろしくない)。」と元気をとり戻し、勇気百倍して、明(みん)・朝鮮の水軍と戦いながら、無事に海を渡って行ったということです。

当時の明や朝鮮の水軍は、日本では見かけることがない、船のへさきに、龍を形どった船や、亀の甲の形をした亀甲船(きっこうせん)を使っていました。

高麗(こうげ)がらすの鳴き声をよく聞くと、なるほど、キジャ、キジャと聞こえます。この鳴き声で、柳川の兵士たちを励まし救ったため、宗茂公は、朝鮮から帰るとき、「我が藩を助けてくれた守り神」といって、高麗がらす二(ふた)つがいを連れてきました。

そして、大事に育て、清水山に放し、手厚く保護してきたので、この高麗がらすは、今では山門郡、柳川、佐賀平野だけにいるということです。


正式の鳥名

「かささぎ」を私たちの地方では、高麗(こうげ)がらすと呼んでいます。それは、昔、朝鮮半島に高麗(こうらい)という国があり、その半島から柳川の殿(とん)さんが、つれて帰った鳥ということから、その国の名にちなんで「こうげがらす」と呼ぶようになったということです。


   「ふるさとの昔ばなし」ー瀬高の民話と伝説ー瀬高町教育委員会発行より。
by kusennjyu | 2011-06-29 04:11 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
伝説 高麗(こうげ)がらすの由来・千寿の楽しい歴史
伝説 高麗(こうげ)がらすの由来

私たちの家のまわりや、お宮、お寺の境内にある柿の木や、むくの木、また電柱の腕木などに木の枝などを積み重ねて作っている大きな鳥の巣を見かけることがあります。

この巣を作っているのは、肩と胸の部分が白でそのほかは黒色のツートンカラーのきれいな鳥です。

木から木へ飛びまわっている時はいつも、キジャ、キジャと鳴き、黒色をしたカラスより少し小さ い鳥です。

この鳥の名前は、正しくは「かささぎ」といいます。ところによって「かちがらす」とも呼ばれていますが、私たちの山門郡地方では「高麗(こうげ)がらす」と呼んでいます。この高麗がらすは、この辺のりではよく見かけますが、どこにでもいる鳥ではありません。

古くは、養老4(720)年に出来た日本で一番古い「日本書記」という本の中に「推古天皇のところに『難波吉士盤金(なにわきしいわかね)』という人が、新羅(しらぎ)から帰って、かささぎ2羽をたてまつり、難波の社(やしろ)で飼わせた」という話がのっています。

しかし、難波(今の大阪地方)では、「かささぎ」を見かけることは出来ません。その後、繁殖しなかったのでしょう。

今、日本では、筑後平野、佐賀平野など私たちの住んでいる地方にだけいる貴重な鳥で、国から天然記念物に指定され保護されています。つかまえたりすることは禁じられています。

高麗(こうげ)がらすは、なぜ私たちの地方にだけいるのでしょか。
また、「かささぎ」と呼ばず高麗(こうげ)がらすと呼ぶのはなぜでしょうか。
それには、次のような伝説があるのです。

今から約400年前の文禄元年正月に、豊臣秀吉が、全国の大名に対して朝鮮(ちょうせん)に出兵を命じます。

柳川の殿(とん)さんである立花宗茂公も、家臣と共に朝鮮に出兵します。
朝鮮のあるところの戦いで、柳川の兵士たちが小さい舟に乗り、ろを漕ぎながら海を渡っているとき、向こうの方から、明(みん)や朝鮮の水軍の大きな船がこちらにやって来たのです。
相手の船をよく見ると、船のへさきに大きな大蛇がとぐろを巻いて、らんらんと目を輝かし、こちらをにらんでいるのが見えます。

小舟に乗っていたこちらの兵士たちは「あれは何だ。大蛇じゃなかか。ああ、えずか(おそろしい)、あんまり近づくと、大蛇にのまれてやられてしまうぞ。」とこわがっていました。

すると、どこからともなく飛んできた鳥が、“木蛇(きじゃ) 木蛇(きじゃ)”と鳴いて、柳川の兵士たちが乗っている舟に知らせたということです。

これを聞いた兵士たちは、ほっとして「あれは本当の大蛇じゃなくて、木で作った大蛇か。そんならえずなか(それならばおそろしくない)。」と元気をとり戻し、勇気百倍して、明(みん)・朝鮮の水軍と戦いながら、無事に海を渡って行ったということです。

当時の明や朝鮮の水軍は、日本では見かけることがない、船のへさきに、龍を形どった船や、亀の甲の形をした亀甲船(きっこうせん)を使っていました。

高麗(こうげ)がらすの鳴き声をよく聞くと、なるほど、キジャ、キジャと聞こえます。この鳴き声で、柳川の兵士たちを励まし救ったため、宗茂公は、朝鮮から帰るとき、「我が藩を助けてくれた守り神」といって、高麗がらす二(ふた)つがいを連れてきました。

そして、大事に育て、清水山に放し、手厚く保護してきたので、この高麗がらすは、今では山門郡、柳川、佐賀平野だけにいるということです。

正式の鳥名
「かささぎ」を私たちの地方では、高麗(こうげ)がらすと呼んでいます。それは、昔、朝鮮半島に高麗(こうらい)という国があり、その半島から柳川の殿(とん)さんが、つれて帰った鳥ということから、その国の名にちなんで「こうげがらす」と呼ぶようになったということです。
by kusennjyu | 2011-06-29 04:04 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
美しい田舎の風景・千寿の楽しい日々
美しい田舎の風景   6月28日午前5時30分~6時30分    天気   曇り(午後8時以降は晴れ)

日の出の水田風景

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田植え後の水田

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立ち枯れた麦

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今年は雨が続き、コンノが出来なかった農家の麦があちこちに残っています。

残った麦はトラクターで収穫でなく、土の中に漉き込まれてしまいます。

麦はバクチと言われ、天候に左右されることが多いので、今年のようなこともあります。

a0137997_822754.jpgコロンの散歩

今年は雨期が長く、昨日のコロンの散歩は朝も夕方も、途中からどしゃ降りになりコロンは雨にぬれて帰ってきました。

今日は曇りで涼しい風が吹き、絶好の散歩日和でした。

by kusennjyu | 2011-06-28 08:24 | 風景 | Comments(0) |Topに戻る
青柳友彦氏の油絵個展・千寿の楽しい歴史
青柳友彦氏の油絵個展   6月27日(月)~7月8日(金)

場所   みやま市江浦郵便局ロビー    作品  7点

3月にみやま市山川地域の大きい桜の木を探しに行きました。山の中に、静かに咲く桜の花の美しさに、感動し絵を描きました。    青柳友彦氏メッセージ

郵便局内の展示

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1.天保古平家一本桜

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2.公園の桜

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3.チュリップ

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4.みかん畑の桜

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5.林の中の桜

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6.夜桜

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7.山桜

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郵便局へ出かけて、ご覧いただきますようにご案内いたします。
by kusennjyu | 2011-06-27 16:22 | 芸術と文学・童話 | Comments(0) |Topに戻る
ソフトバンクVS日本ハム戦の観戦・千寿の楽しい歴史
ソフトバンクVS日本ハム戦の観戦   6月26日午後1時~5時。  ヤフードーム

試合結果は5対2でソツトバンクが勝ちました。

ヤフードーム

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左~私の席の横(3塁側・12列211番)  右~1塁側ソフトバンク応援席

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左~外野手の2人   右~練習

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左~今日の先発メンバー    右~動く宣伝広告

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ソフトバンクの宣伝ポスター

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座席後ろの大画面

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応援(グラウンドとスタンドで)

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動画(1回裏に3点をあげて勝利を決める。)



動画(2回裏の追加点で勝利を有利にする。)



ラッキーセブンの応援



今日は2人で楽しんで来ました。

27日の朝刊に、摂津7回12Kとあるように、摂津投手と打線の両方の踏ん張りが在ったからです。
by kusennjyu | 2011-06-27 05:14 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
和算学習会の発足・千寿の楽しい歴史
和算学習会の発足   平成23年6月25日

場所   えーるピア久留米     出席者   8名

6月25日発足及び学習会

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1.「和算学習会」の成立と今後

①「えーるピア久留米」の資料説明

②SNKへの登録申請

③規約説明

④学習会と講演講座

和算学習会  偶数月の最後の土曜日    会員のみ

講演講座    奇数月の最後の土曜日    米光丁先生と会員及び一般受講者

「えーるピア久留米」作成のチラシ   現在5名の申し込みがあります。

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2.「インド数学」の計算法(2桁×2桁)と米光丁先生の講座資料による「ちゅう算」の復習

3.和算に関する本を6冊紹介する。

米光丁先生奉納算額    久留米高良大社  平成23年4月吉日

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西日本新聞   平成23年4月27日(夕刊)

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SNK会員の申し込みは高橋先生にお願いします。
by kusennjyu | 2011-06-26 21:50 | 和算学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2011島原大変・肥後迷惑・寛政七年(1795年)・千寿の楽しい歴史
島原大変・肥後迷惑・寛政七年(1795年)  

平成23年6月22日作成

渋谷敏実書写「寛永津波被害の図」(荒尾市史より)  

図の全部が荒尾市の海岸線です。
  

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図の左が長洲町で、右の川は高瀬川(現菊池川)です。

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黄色の部分は津波被害があった所です。 

岱明町地方史

「寛政津波被害図」(崇城大学図書館蔵)によると、寛政地変による玉名郡内の被害は肥後藩の中でもっとも大きく、溺死者が2221人にのぼっている。

溺死者のうち荒尾手永は1472人、坂下手永は725人、小田手永は24人です。

当時、新地の多かった玉名西岸の長洲・平原・清源寺・上沖洲村(現長洲町)・下沖洲・塩屋村(現玉名市岱明町)に集中している。

横島山の津波跡

当時、横島村の新地は横島山南麓一帯(今日の国道501号線より北側)に限られ、集落は山麓の比較的高い位置にあったため、幸いにも溺死者は一人もいなかった。 

有明沿岸の地震と津波ー 「島原大変・肥後迷惑」に学ぶー

「島原津浪の記」(一緒に取材に行った先生の資料の一部より。 先生の古文書のままの翻訳文です。)

折りしも暗夜なりしかバ、高波ともしらず沖の方のなりとよむを人みなあやしと聞ほどに、はや渚近くよせ来る音におどろきてあわてさわぎ、にげさらんとせしうちにも欲心わすれがたく濱に出て船をつなぎとめんとし、家にありて資材をとり出んとせし者ハことヾく溺死せり。

たまゝ欲にひかれず、速ににげ出し者のみ危き命たすかり後日国政のあつき御恵をかうぶり、もとのごとく舎屋たてならべ産業に復し、ふたたびにぎハへり。

されバ後代もしかゝる事あらん時ハ欲をはなれ、萬の物を顧ず、たヾ老たるをたすけ、幼をたづさへて速に、にげのべ(し)。

かねて其道をもさだめ置て急難にのぞみてまよふことなかれ。又富るは家宅の堅固なるをたのミて立さらずして上下男女残らす(ず)不覚の死をせし者すくなからず。
健なるハつねに水になれ泳をよくするにほこりてにげゆかずして溺死せしたぐひ是多し。

これらの事をもよくゝかんがへてめんゝ覚悟し、子孫をもさとしいましむべし。

寛政七年(1795年)乙卯(きのとう)十月             以上

以上は自分たちで翻訳をした後に、先生が模範解答をされたものです。

先日の東北大津波でも人口千人位の島の住民の殆んど助かった例があります。

それは先祖の言い伝えで、津波が来たら、何も持たずに、すぐにこの石(高さ25m)の上まで逃げろということを守ったから助かったのです。

上の「島原津浪の記」にも、それが書かれています。

大津波の恐ろしさは、熊本市河内町の蓮光の本堂屋根の上まで津波が来て、流されたことは、はっきりと確認できました。

私たちは現在の避難場所としてどこが良いかを山の標高と建物の高さと建物強度の点から、地図に書き入れたらと先生が構想しています。

日頃から、各自の避難場所を考えておくことです。柳川市・みやま市・大牟田地区の海岸だけでなく、内陸深くまでくることを予想しておくべきです。

東北大地震・大津波の被害に遭われた皆さん、復興に頑張って下さい。

by kusennjyu | 2011-06-25 09:33 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る