千寿の楽しい歴史
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久留米水の祭典の総踊り反省会・千寿の楽しい歴史
久留米水の祭典の総踊り反省会     8月31日午後5時~7時    
 
場所    久留米市津福サロン  私は始めて行きました。 

私は総踊りと反省会は両方とも初参加です。料理・飲み物が沢山あり、会話もはずみ楽しいひと時でした。

初めてですが、顔ぶれは知っている人ばかりで、いりいろと教えてもらうことが、多くありました。

津福サロン   九州新幹線の横にあります。

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料理と反省会   出席者  30人ほど。 外でのパーティでした。

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今日は、ありがとうございました。久留米市に京という苗字の方がいるそうです。

珍しい呼び方をします。ヒント  「いろはにほへと」のうたに関係あります。そして「か」行です。



みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
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by kusennjyu | 2011-08-31 21:46 | 出来事・生活 | Comments(0) |Topに戻る
矢部のパワースポットを行く・千寿の楽しい歴史
矢部のパワースポットを行く   8月29日午後   猛暑日

恋し茶う

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パワースポット

神の窟(かみのいわや)  

エネルギーを体に入れてくれる場所。窟の中はひんやりしています。

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権現杉

直径(目高さ)  1.69m  樹高  44.75m  樹齢(推定)  600年

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縁結び

夫婦岩  子宝に恵まれる神社

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奥日向神ハート岩  日向神ダム入り口から見える岩

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願事成就(絵馬)  遠方からも沢山の人が祈願に来ています。

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媛しずく(美人の水)  

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女神湧水   地下から噴出す幸福を呼ぶ湧き水

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八女津姫神社(矢部村)紹介  平成23年4月13日分   

秋は紅葉の名所。さあ!行こう。





みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
by kusennjyu | 2011-08-30 16:07 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
和算学習会(8月27日)・千寿の楽しい歴史
和算学習会   8月27日     えーるピア久留米にて    15名出席

学習内容

算木で奇数位と偶数位の1~9までを並べて説明する。

奇数位は縦に並べる。(一・百・万・・・・の位)  偶数位は横に並べる。(十・千・十万・・・・の位)

奇数位の6~9までの上側に横にある算木は算盤の5玉だと考えます。

偶数位の6~9までの上側に縦にある算木は算盤の5玉だと考えます。

5+1=6   5になる算木を置いて1を加える。7・8・9も同じ考えで並べると判りやすいですよ。

5は5本ならべますが、それなら5玉が1本ならば5玉の並べ方1本でも、いいではないかとの質問がありました。

例   1155を5玉の方法で並べると、5玉の方法で並べると一 1 1 一では具合が悪いですね。

     1と間違いやすく、5本並べなければなりません。

次に236×37を算木を使って練習する。ゆっくりと1つづつ時間をかけて説明しました。

みんなの反響はとても良かったようです。高橋さんからも良かったと言ってもらいました。

数字(1~10)  上が奇数位の数を表し、下が偶数位の数を表す。    右~数字の例題

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算盤(さんばん)に表すとき、0は入れないでその位は空白になりますが、紙に買くときは、0を書きます。

算木で正は赤で、負は黒と判りますが、正の数は数字を並べて書きますが、負の数を紙に書くときは最後の数に斜め線を入れます

計算の途中で、何故、奇数位と偶数位の並べ方があるのですかと質問がありました。

私の算木考を述べます。

第1は数字を横に並べる時に、奇数位(縦標記)と偶数位(横標記)を交互にしないと間違えやすい。

第2は、位取りして計算を確実に行うことだろうと思います。明治時代は縦標記だけでも、計算するように変わっています。

第3は、私が思うに、日本人のものを無駄にしない、美ではないか。

和紙は  半紙版の横と縦の比   1:1.376
       美濃紙の横と縦の比   1:1.443
      (美濃紙は徳川三家の専用紙)明治以降は一般で使用します。
      白銀比(1対ルート2)に近くなっています。

紙の大きさは、まちまちで道具の大きさで用途を替えていました。

奇数位の5と偶数位の9が紙に並べる時に最大となります。
交互に並べることによって紙の上で、横と縦の比に近くなり、紙の無駄が少なくなります。

計算を繰り返していけば、縦が1対1.4~1.5くらいが、使いやすいことが判ります。

紙を無駄にしないことから、奇数位と偶数位が考えだされたとすれば、これが
日本人のものを大事に使う美ではないでしょうか。

江戸時代の算盤の大きさは、大きいのから小さいのまであるようで、半紙版の大きさを使ったという記録は不明です。

そして、1枠の横と縦の比も不明ですので第3の条件は確定できません。  

受講生の中から、第2の条件ではないですかと応答がありました。  これもありますと答えました。

和算学習会ホームページ(写真入り)    クリックして見て下さい。



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by kusennjyu | 2011-08-30 05:29 | 和算学習会 | Comments(0) |Topに戻る
八女の城跡を訪ねて・千寿の楽しい歴史
八女の城跡を訪ねて    8月29日(MS・TS・TKの3人)

左~唐尾(瀬高町)   山下(立花町)

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山下城跡(人見城)(八女市立花町北山)  標高140m     

山下の中村氏に白木川左岸を西方向に登り案内をしてもらう。

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左~山下城跡の一番高いところ(竹を切れば矢部川から北側方面の見通しできる。
右~山下城跡からの東側風景


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蒲池鑑廣墓(山下の後藤家所有地内)と後藤家

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本丸・二の丸の周囲は、いずれも35度を越す急傾斜面となり、なかなかの要害の地相である。

永正年間(1504-21年)、豊後の大友親政治(ちかはる)は、蒲池親広(ちかひろ)に命じ、山下に館を構えさせ、親広の嫡男志摩守鑑広(あきひろ)の時、当城を築き居城とした。

慶長6(1601)年、田中吉政が筑後国主として久留米に入国すると、この城は取り壊され廃城となった。

猫尾城跡(黒木城)(八女市黒木町北木屋)  黒木中学校の背後にある。

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左~城跡の地図   右~本丸跡(算木積み)写真

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猫尾城跡からの風景(左~南側 右~西側)

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猫尾城跡    県指定史跡    昭和58年3月19日

猫尾城跡は、福岡県八女郡黒木町の矢部川本流と笠原川が合流する付近にあり、戦略上、奥八女の要衝を占める中世の山城です。

通称「城山」と呼ばれ、「調山、「猫山」の別称もあり、文政8(1825)年に久留米藩士・村上量敏が著した『山土産』には、「この山、尾短くて、鉢を伏せたるがごとし」の記述がみえます。

資料によると、仁安2(1167)年、徳大寺家の請いにより、大蔵大輔源助能が瀬高荘を管理するため、大隈国禰寝(ねじめ)から筑後国上妻郡黒木郷に移り築城したという説が有力です。

これより黒木氏代々の居城として栄え、天正12(1584)年、豊後・大友氏の攻略により落城するまで、417年の長きにわたり、その役割を果たしてきました。



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by kusennjyu | 2011-08-29 17:57 | 矢部往還 | Comments(0) |Topに戻る
伝説 本郷の行基(ぎょうき)橋の話・千寿の楽しい歴史
伝説 本郷の行基(ぎょうき)橋の話

本郷を流れる沖の端川に架かる「行基橋」のお話です。

今から約千二百年~千三百年前のことです。ある日、ひとりの旅のお坊さんが、本郷の村へ立ち寄りました。お坊さんは、川のほとりに立って、村人たちが難儀しながら川を渡っている様子をじいっと見つめていました。そして

「さぞかし難儀なことよのう。橋があったらのう。」とつぶやきました。

その頃、川には橋がなく、村人たちは、着物をからげ、重い荷物を背負い、流れの速い川の瀬を確かめながら渡っていました。

お坊さんは、村人たちの難儀している姿を見かね、何とか橋が架けられないものかと考えました。

お坊さんは、この村に留まり、托鉢(たくはつ=お坊さんが修行のため、お経を唱えながら歩き、米や金銭の施しを受けて回ること)を続けながら
「この川に橋を架けて進ぜるほどに、力を貸してくださらんか。」と説いて回りました。

しかし、村人たちは、
「そんなことができるはずがない。このお坊さんは、気でも狂ったのか。」と言ってとりあいませんでした。

そのうちに、お坊さんのあまりの熱心さにうたれ、ひとりまたひとりと助力者が現れ、やがて、多くの人々が協力を申し出しました。

お坊さんの指図で、苦労を重ねながらもがんばり通し、見事に橋ができ上がりました。今までの難儀はなくなり、村人たちは、楽々と川を渡ることができるようになり、喜びと有難さで、お坊さんへの感謝の気持ちでいっぱいでした。お坊さんは、村人たちの喜びを後に、いずこかへと旅立っていきました。

それから何年か後、このお坊さんは、諸国行脚中(お坊さんが諸国をめぐり歩いて修業すること)のあの有名な行基菩薩(ぎょうきぼさつ)であることがわかりました。

村人たちは、その遺徳(後世にのこる人徳)をたたえ、この橋の名を「行基橋」と言うようになったということです。

そののち、村人たちは、橋のたもとに小さなお堂を建立し、高僧「行基菩薩」の遺徳を偲ぶと共に橋の安全を願ったということです。

※南筑明覧には「下妻郡本郷村の行基橋は、往古行基僧正諸国巡行の際、橋を渡せり。故に、後人呼びて、行基橋というなり。」とあります。

※お堂は橋拡張工事により、橋の北東に移転して立派になっています。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行より。




みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

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by kusennjyu | 2011-08-29 08:16 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
久留米城下町を訪ねて(続き)・千寿の楽しい歴史
久留米城下町を訪ねて(続き)

久留米城下町復元図(東側)  前回の地図も番号の説明を見て下さい。

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日吉神社(下・猿田彦太神)

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石造青面金剛像と石碑(寄付者名入り)   日吉神社境内

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この像の塔身は凝灰岩(ぎょうかいがん)で、中央に青面金剛像及び脇侍二童子像が陽刻されています。

主尊は輪光背(りんこうはい)を負い、、怒髪三眼瞋目六臂で足下に邪鬼を踏む。

脇侍の二童子の右は合掌、左は笏をとり頭上に籠が、また、台座には三猿二鶏が陽刻されています。

台座には「元文五庚申年十月二十三日建立」(1740)とあり、250年以上経ているためかなり顔面などの風化があるが、文字塔の多い筑後地方では非常に珍しく、かつ作風が優れた庚申(こうしん)塔です。

庚申信仰には、神道系の猿田彦太神、仏教系の青面金剛像などがあり、六十日ごとの庚申の日には、夜おそくまで宅廻りして飲食談笑していたことが、『洗町小誌』(明治41年)にも見えています。

久留米教育委員会説明板より。




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by kusennjyu | 2011-08-28 15:03 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
2011久留米城下町を訪ねて・千寿の楽しい歴史
久留米城下町を訪ねて    

平成23年8月27日午後

今回の探訪は、私がみやま市高田町下楠田の「松尾屋」の明治38年「止宿人名簿」を調べて、SNKの皆さんにメールで「築島町」がどこかを訪ねたことから始まりました。

久留米城下町復元図 ( 久留米市作成)

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江戸時代の状況は、天保年間の城下図をもとに、天保3年以前の状況を復元したものです。

築島町~南側の外堀の図番号⑭の南側付近です。(現在の昭和通りにある築島バス停横に石柱が立っている。

両替町~南側の外堀の図番号⑯の南側付近です。(現在の昭和通りの北側の通りに石柱が立っている。

札の辻跡の石柱が立っている。(現在の昭和通り)

この石柱は九州新幹線開通に伴う記念に整備されたもので、石中には旧名称と説明文が刻まれています。

旧築島町(築島バス停の東横)

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両替町二丁目の南にあり、町名は低湿地に盛り土して島のように築きあげたことに由来する。

旧両替町 御使者屋敷の北側付近

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井筒屋という両替商があったことに由来する町名で二丁目まであった。

札ノ辻跡

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通町筋と柳川往還の交差点に置かれた高札場で、久留米領はここが道路起点である。

明治天皇久留米大本営(現在の明善高校内)

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御使者屋跡

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当地は、天保元年(1830)に御使者屋 (久留米藩の迎賓館)が建てられ、その後に三瀦庁舎、さらに明治22年の市制施行に伴い市役所庁舎等に利用され、昭和4年には市制施行40周年記念事業として庁舎が建設されるなど、長年にわたり市政の中枢的な機能を果たしてきたところです。

なお、この御使者屋築地塀(ついじへい)の石垣は、このような当時の名残りをつどめるもので、藩政史を語るうえで大変貴重な遺構であす。

久留米市の説明板より。

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by kusennjyu | 2011-08-27 21:13 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
2011きじ車考(みやま市瀬高町本吉)・千寿の楽しい歴史
きじ車考   みやま市瀬高町本吉(清水寺)

竹屋前

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昭和年代の製作中の写真

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竹屋のお土産品のきじ車


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緑と赤が雄、赤と黒が雌。

1年以上乾燥させた松の木を削りだし、丁寧に着色します。釘を使わないのが特徴です。

1200年ほど前、一羽のきじが伝教大師を道案内したという伝説に由来するきじ車は、昔から縁結び、家庭円満の御守りとして珍重されてきました。



大牟田伝承工芸資料集  斉田卯一郎編   三池のきじ馬

斉田さんは昭和58年・59年頃に三池分館事業として講習会を行い三池のきじ馬の戦後復興に努められた方です。

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大牟田市三池の戸上さん作品(昭和21年頃)


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大牟田市歴木の友清作品(昭和58・59年頃)


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製作者不明(瀬戸 武博氏所蔵)

大正15年以前の作、瀬高きじ車。

古色、色彩、艶(つや)、風格ありて大変古い作ではないか。


三池のきじ馬

現在の三池きじ馬は清水観音のきじ車の流れです。昔は三池の初市には清水の本吉からきじ馬を売りにでかけていました。


天保の頃、井上嘉平治というきじ車作り職の人に清水寺第25代住職竜安法師の指導で、従来のきじ車の作りへの新工夫がきじ馬です。

嘉平治はその子松蔵にきじ車(今のメス)と新作のきじ馬の作りを伝承しましたが、その後は製作者が絶えています。

しかし、三池初市では他の商品と共に期待されている商品の一つになっていました。

三池の熊さんという人が清水のきじ車を真似て製作して売り始めたところ、注文が多く多忙になり、『マカセン、マカセン』と言いつづけていたため、『マカセン熊さん』とあだ名がついて有名になったそうです。
(古老の人たちは、まだ記憶があるそうです。)

伝説  きじ車の由来  前回の分ですが、ここからリンクします。

人吉民芸(私のお土産品)   キジ馬5号 クリックすると拡大します。

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九州・木の郷土玩具   九州各地のきじ車(馬)の紹介していますので見て下さい。




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by kusennjyu | 2011-08-27 05:34 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2011伝説 きじ車の由来・千寿の楽しい歴史
伝説 きじ車の由来

その昔、最澄(伝教大師)が唐(中国)の遊学(よその土地で勉強すること)からの帰り道に、本吉山のふもとに立ち寄られました。

その時、山の中腹にひとすじの光明がさしているのをごらんになって、「これは不思議、ありがたい仏様のおしるしにちがいない。」と信じ、光を求め樹木や植物の生い茂る山中に足を踏み入れられました。

しかし、道とてない山の中、それに生い茂る樹木にさえぎられて、光の方向もわからず途方にくれてしまわれました。

するとその時、どこからともなく1羽の雉子(きじ)が大師の頭上に舞い降りてきて、大師を道案内しながら、光を放つところに導いていきました。

光明を発しているのは1本の合歓木(ねむのき)でした。この木こそ霊木(れいぼく)だと大師は悟り、この木の幹の根元で十一面四十手観音像を刻みあげ、清水寺に納められたのが観音様の由来とされています。

雉子は昔から瑞兆(ずいちょう=めでたい鳥)とされ、親子の愛情が深い鳥として慈しみ尊ばれてきました。

唐から連れてきた竹本翁助(ちくほん・おうすけ)という人に命じて、道案内の雉子の姿を作らせたのが、現在では、「きじ車」または「雉子馬」と呼ばれ親しまれている郷土玩具であると語り伝えられています。

昔は、木材を集め、木地(きじ=木材を用途に応じて切り分けたもの)にして糸車(ろくろ)を操り食器やその他の生活用具を作って、それで商売をした人を「木地師(きじあい)」と呼びました。

明治の初めまでは、山の8合目までの樹木の伐採は自由でしたので、木地師たちは、全国の山を尾根伝いに渡り歩き、木を求め仕事をしながら生活を営んでいました。

子供が生れても両親は、昼間は樹木の伐採、運搬の仕事、雨の日、夜仕事には糸車で食器などを作る忙しい毎日でした。

子供は1人で遊ぶしかなく、いつも寂しい思いをしていました。父親は子供をかわいそうに思い、何かなぐさめるものはないかと考えました。

そうして考えついたのが、運搬に使っているそりに似たキンマ(ウマともいう)と呼ぶ道具を作って子供に与えることでした。それを作って与えたところが、子供たちはあまりさびしい思いもせず、1人で遊ぶことができるようになりました。

両親は、夜のうちに作った食器や道具類を近くの市(いち=品物の交換や売買をする場所、近くでは三池や南関の町など)に並べて商いをしていました。

その道具類の中にこの雉子ウマを一緒に並べて見たところ、珍しいと言って買われ、だんだん数多く売れるようになりました。

木地師たちは気をよくして色を塗ったところが、いっそう評判がよくなり、たくさん売れるようになりました。

色は樹皮(じゅひ)や植物の茎(くき)、葉などをしぼり、赤・青・黄色を作って、思い思いの色を塗っていましたが、いつしかその土地の色づけを一定してきたと思われます。

また、子供が喜び、遊びやすいようにウマに2つあるいは4つの車が付けられ、俵を背中に乗せたものなどいろいろなウマに変わり、雉子馬がきじ車へと呼び名まで変わっていきました。

雉子は昔から幸先(さいさき)のよい鳥、親子仲のよい利口な鳥として大事にされていたので、木地=雉子と呼び名が同じところから、雉子馬、雉子車と呼ぶようになったと思われます。

木地師達のうちで北に向かった人々は「こけし」を作り、南に行った人達は「きじ車」を作りました。それらは、各地で今に伝わる代表的玩具として、土産品として人々に親しまれています。

雉子馬、雉子車は、主に九州各地に種々の形、色使いがあります。その中でも清水の本吉の雉子車は、昭和33年ベルギーのブリュッセルの万国博覧会で銅賞を獲得しました。その栄誉は郷土の誇りとして記憶しておきたいものです。

参考文献
「木地屋のふるさと」橘文策 著
「木地師の制度」杉本寿 著

「生きている民族探訪」 第一法規出版
「ろくろ」  橋本鉄男 著
「きじ馬聞書」 畑野栄三 著

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会出版より。

次回は九州各地のきじ車を紹介します。


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by kusennjyu | 2011-08-26 17:44 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
伝説  一番鶏の勝ち戦(神功皇后と田油津媛の戦い)
伝説  一番鶏の勝ち戦(神功皇后と田油津媛の戦い)

神功(じんぐう)皇后と土蜘蛛(つちくも)の戦場は、現在の草場・大塚・女山一帯ではないかと思われます。なぜかというと、現在の草場は「戦場(いくさば)」という伝えがあるからです。

この地方には、景行(けいこう)天皇の御代(みよ)の頃から、強い勢力を持った土蜘蛛という集団が住んでいました。彼らは、田油津媛に率いられて、この地方を制覇(せいは=他をおさえつけ、かしらとなること)して、勢いを誇っていました。

当時は、この土蜘蛛や葛築目(くずちめ)の豪族(ごうぞく)などが、独自の地方国家達成に向かって競いあい、はげしく争っていました。

このような時代の動きのなかで、大和朝廷軍は、地方の豪族をせ制圧(おさえて)して、全国制覇を達成しつつありました。

そういうときですから、神功皇后は、九州で一大勢力を誇っていた土蜘蛛を制圧するために、兵を率いて、現在の大和町鷹尾に上陸しました。

戦場に向かう途中、現在の藤尾で軍儀(戦いの方法を話し合うこと)を開きました。そこは。車坂または車塚と言われています。

いよいよ戦が始まりましたが、両軍とも互いに死力を尽くして、なかなか勝敗がつきません。陽(ひ)は西に沈みました。その時、田油津媛は皇后の陣に使いを送って「明朝一番鶏の鳴くまで一時休戦しよう。」と申し入れました。

皇后もこれを承諾(願いをききいれること)しました。ところが、田油津媛の軍は女山(ぞやま)に数メートルもある城壁を築いているのです。あと西南の隅を残すだけになっていました。

多くの人々を使って、高田町の飯江(はえ)から堅固な巨石を運ばせて、残りの城壁を作りあげようとしているところでした。

このことを知った神功皇后の軍は「今、何とかしなければ不利になる。」と急いで軍儀を開き方法を考えました。

その時、軍の参謀である武内宿禰(たけのうちのすくね)が、竹皮で作った二つの笠を両手で持ってたたき合わせ、鶏の羽ばたきに似せ、鶏の鳴き声を巧みに真似てみせました。

この方法を実行しますと羽音、鳴き声に付近一帯の鶏ははや夜が明けたかと鳴き合わせたので、工事途中の田油津媛軍は驚いてあわてふためき、防ぐかまえもそこそこになりました。

そこで、待っていましたとばかりに、皇后軍が一気に攻め入りましたので、土蜘蛛軍は敗走して田油津媛はとうとう戦死してしまいました。

田油津媛の兄の夏羽が、妹を援けようとかけつけた時は既に遅く、しかたなく引き返したということです。

この田油津媛の墓は蜘蛛塚ではないかと言われています。雨の日には塚から血がにじみ出たそうです。

また、ごんげん塚は皇后軍の兵士の墓ではないかと言われています。

田油津媛が率いる土蜘蛛を滅ぼした神功皇后は、再びこのようなことが起こらないようにと、諏訪(諏訪)宮を建立して、この地を鎮めました。この諏訪宮は後に移されても本吉に鎮座したということです。

(日本書記または伝説・伝承による)

葛築目~大和朝廷に従わなかったために、景行天皇軍に討たれた葛築目は権現塚に葬られたという説があります。

武内宿禰~相撲の元祖とも言われる大和時代の強力な武人。最初の大臣で、史上最長寿の人といわれています。

ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝承―瀬高町教育委員会より。


みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
by kusennjyu | 2011-08-26 05:02 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る