千寿の楽しい歴史
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雲龍の郷記念館(郷土コーナー)・千寿の楽しい歴史
雲龍の郷記念館(郷土コーナー)    9月27日三池史談会9月例会の見学にて。

有明海の干拓と自然   右の写真はクリックすると全体風景がでます。

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田中吉政木像(有明海の干拓者)とむつごろう捕り(有明海の自然)

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田中吉政と慶長本土居

田中吉政は、天文17(1548)年、近江国(滋賀県)高島郡田中村に生れました。織田信長のもとに、扶持米7石で足軽奉行をしていましたが、その器量と戦での勇敢な働きが認められ、天正18(1590)年には三河国岡崎城主(5万7400石)となりました。その後、加増され慶長元(1596)年には、10万石の近世大名に成長しました。

その後、関ヶ原の戦いで東軍に味方し活躍しました。その戦いで西軍の大将格の石田三成を生け捕った吉政が、徳川家康の元へ呼ばれました。家康は、吉政に「このたびの手柄に対し、豊前の国に豊後の一部を加えた領地か、筑後一国か、貴殿の望む方を30万石あたえよう。」と言いました。

吉政は、すべての家臣たちを集めて家康の言葉を伝え、豊前と筑後、それぞれの出身の者に両国の長所と短所を尋ねました。その結果、吉政は、「筑後の国を希望します。」と家康に返答しました。

有明海沿岸は、遠干潟ですから、葭野を開拓すれば、4・5万石の新田開発が可能であり、その上、三瀦と山門の2郡では赤米が多く収穫されていたからです。

こうして、慶長6(1601)年3月、吉政は筑後国32万5千石の大名となり、柳川城を拡張して五層の天守閣を建て、これを本城として自ら入場しました。

そして、次男吉信を久留米城に、三男吉興を福島城に、家臣宮川才兵衛を鷹尾城(6千石)に城番として入れ、さらに、榎津・城島・赤司・黒木・松延の支城に家臣をそれぞれ配置しました。

家康に筑後国の領地を所望した吉政は、入国早々諸村の開拓奨励を行い、三瀦郡の古賀村(柳川市古賀)・浜武村(同浜武)を開発しました。

そして、慶長7(1602)年8月6日より8日までの3日間に山門・三瀦・下妻の3郡の人たちを動員して山門郡鷹尾村(大和町鷹尾)より三瀦郡酒見の北沖村(大川市酒見)までの大規模築堤工事を行いました。
これが湿地や干潟地を農地に開発するために行われた有明海沿岸32kmに及ぶ慶長本土居です。

その後、立花宗茂をはじめ、歴代の藩主や家臣・豪族・豪商・領民らによって干拓による開発が有明海に向って積極的に進められました。
「慶長本土居」は、現在、ほとんどが道路として多くの人々に利用されています。

慶長14(1609)年2月18日、吉政は参勤交代の途中、伏見(京都市)の料亭で死去しました。

この木像は、吉政の業績に感銘された彫刻師の加島香清氏(大木町三八松在住)と、元大和小学校校長の藤丸末雄氏(三橋町百町在住)が大和町内の小・中学校に12年間お世話になった感謝の念と、地域発展の教材に活かしてもらうならばと心魂込めて製作され、本町に寄贈いただいたものです。

大和町の航空写真(平成9年10月撮影)

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大和町の地図(昭和30年代)

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堤防工法の移り変り

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大正・昭和の初期になると上図の石積みによる腰巻き工法や円管工法により、より大きな強い堤防が作られる様になりました。

しかし、当時の人の話などから、仕事は人力による土運びや堤防作りが中心であったことが伺えます。

広い干潟に堤防を築いても、すぐにその土地に稲を作ることは出来ません。

なぜなら、その土地には塩分があり、植物の育成には適さないからです。

そのために、何回も土地を耕して、塩分に強い作物から順に植えて(綿→麦→米)、少しずつ塩分を抜いていき、ようやく米作りが出来るようになるのです。

a0137997_4455534.jpg円管工法(大正時代)堤防を築くときは、最初にコンクリートで作った、直径1.8m、高さ1.8mの円管を沈めます。

円管は大きくて手で持っていくことが出来ませんので潮が満ちているときに、円管の底にふらをして浮かして運んだのです。

目的の場所まで運ぶと、栓を抜いて沈めます。そこで、潮が引いてから潟土を詰めます。

潟土は、潟切りという道具で、土を四角に切り取り、潟いねという道具で運びます。この潟いねを担いで、細い板の上を歩いて運んでいきます。よく調子をとりながら、運んで行かないと、バランスを崩して倒れたり、落としたりします。

郷土の特産品と行事

左~大和の鬼瓦(特産品)   右~粘土製品(むつごろうと雲龍土俵入り)

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左~ミニ御駕籠   右~ミニ大蛇山

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雲龍の郷記念館で大和町のことを勉強して、午後から干拓地へ行きました。








みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
by kusennjyu | 2011-09-30 04:53 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
雲龍の郷記念館・千寿の楽しい歴史
雲龍の郷記念館    9月27日  三池史談会9月例会にて見学する。

入口の幟(雲龍久吉と琴奨菊)    両側に立つ。

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雲龍の郷記念館玄関

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雲龍久吉銅像(等身大)

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横綱土俵入り(雲龍型)

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横綱土俵入り(不知火型)

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琴奨菊の展示品

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その他の展示品(江戸時代)

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琴奨菊の大関誕生  平成23年9月28日    下は伝達式での口上です。

大関の地位を汚さぬよう、万里一空の境地を求めて日々努力、精進いたします。

記者会見の言葉。「すべての理(ことわり)は一つの空(くう)に帰する。どんな努力も、目指す先は一つ。」

宮本武蔵の兵法思想(兵法35箇条)

万里一空の所、書きあらわしがたく候へば、おのずから御工夫なさるべきものなり。

琴奨菊に市民栄誉賞(柳川市)

11月初旬に授与式を行い、併せてどんこ舟を「川上り」コースで運行して凱旋パレードを予定しています。







みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
by kusennjyu | 2011-09-29 04:37 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2011有明海の干拓遺跡を訪ねて(高田町編)・千寿の楽しい歴史
有明海の干拓遺跡を訪ねて(みやま市高田町編)

平成23年9月27日  三池史談会9月例会  参加者 15名


説明は大城美知信資料より(三池史談会会長)。

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伊藤整一海軍大将の墓

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伊藤整一海軍大将

明治23年、三池郡開村黒崎開御手作に生れる。

福岡県立伝習館中学より海軍兵学校・海軍大学校へと進み、卒業後はエリート職業軍人として出世街道を進んだ。

昭和16年から中将として軍司令部次長・海軍大学校校長の任にあったが、太平洋戦争開始後の昭和19年12月に第二連合艦隊司令長官に就任、昭和20年4月、旗艦「大和」に搭乗して沖縄戦に特攻出撃途上の4月7日、鹿児島沖で米軍機の猛攻を受け、「大和」と運命を共にした。

享年55歳であった。墓は生家に近い金助坂の脇にある。

黒崎開と御手作

延宝5(1677)年頃起工し、貞享元(1684)年頃には完成したと見られる。柳川藩最初の藩営干拓である。

工事の責任者は普請役の今村五郎兵衛。黒崎半島の突端から江浦の三開水門に至る堤防の総延長は約4km、総面積は約20ha,また潮止め堤防に初めて石材を使用した。

その後、正徳3(1723)年の暴風・高潮により堤防が決壊したため、田尻惣馬が普請役として修築に当たった。

同開の南側、黒崎寄りの一帯は御手作(おてさく)といい、藩主自身が田植え・稲刈りに従事し、ここで収穫した米は藩主家の蔵入りとなった。

(余談話)

藩主が黒崎の御茶屋に鴨狩りに来て泊まった時には、御手作の農民は藩主に会うことの御咎め勝手で酒を酌んでいただけたそうです。

米の取れ高は約600表で400表を藩主に納め、後の残りを御手作の農民がいただいたそうで、他の出ごとなどの賦役はこの地区の農民にはかせられなかったとのことです。

厳島神社

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正徳3(1723)年9月8日、3代藩主立花鑑虎(英山公)が黒崎開の鎮守として奉献し、安芸の厳島神社を勧請したもの。

床下部分の構造(2段目の左の写真参照)が珍しく独特である。

祭神は市杵島比売神・田妓理比売神・多岐津比売神の宗像三神で、明治6年に村社となり、黒崎開地区の氏神となっている。

永治開(斗一開・矩手開ともいう)

文政7(1824)年から同9(1826)年にかけて、柳川藩が楠田組の大庄屋椛島斗一に命じて造成させた藩営の干拓地で、斗一開と呼ばれ、また堤防の形が大工道具の曲尺に似ているところから矩手開とも呼ばれている。

堤防の長さは2.1km、面積は62ha,黒崎開の地先に設けられ、潮止堤防には黒崎開の堤防に使用した石材がリサイクルされている。

明治7年8月20日の台風と高潮により堤防が決壊し、47名の死者を出した。以来、永治地区では毎年8月19日に同所の常盤神社で施餓鬼供養を行っている。

昭和26年から29年に堤防の修築工事が行われているが、この時は黒崎開の堤防の盛り土が使用された。

矩手水門

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黒崎開の排水機能を増強するために設けられた水門。黒崎開の旧水門は3ケ所にあっあtが、位置が高く、そのため隈川、楠田川の余水が滞留して排水が悪く耕作に不便であった。

これを改善するため、三池郡では明治31年から翌年にかけ、当時の金額で4千数百円を投じて赤煉瓦の眼鏡橋形水門を新造した。これにより、同開地の排水は著しく改善された。

新開村旧隄記碑(写真の左側の碑)。

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黒崎開の干拓事業を顕彰するため、天保6(1835)年、柳川藩によって干拓堤防上に建てられた記念碑。地元では「立石さん」ち呼んでいる。

碑文には工事の経過および工事に当たった今村五郎兵衛、田尻惣馬の名と干拓がもたらした恩恵などが顕彰されている。

碑文は篆額(題字:タイトル)を、撰文を佐藤一斎、書を関監梁という当代一流の有名人が携わっている点、その文化財的価値が高く、福岡県の指定史跡となっている。

近年、有明海沿岸道路建設により若干位置の移動が行われた。

次回は「雲龍の里記念館」を紹介します。




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今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

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by kusennjyu | 2011-09-28 05:59 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
民話 紫君泉(しくんせん)・千寿の楽しい歴史
民話 紫君泉(しくんせん)

竹飯にきれいな水の湧き出る紫君泉という泉があります。周りを石垣で囲まれ、こじんまりした池だが、今でも清水がコンコンと湧き出ています。

「紫君泉」、この得も言われぬゆかしい名を持つ天然の湧き水は、いつの時代から、この地にあるのか、はっきり分かりません。おそらく、数千年も昔からあったに違いありません。

この泉は、いかなる大干害にも枯れることなく、また、どんな大雨にも濁るということはありません。真夏の土用にも、スビクように冷たく、真冬の寒中にも、かえって暖かく感じるほど、1年中、温度に差がありません。

近くの百姓たちは、夏は飲み水として農作業に疲れた喉を潤(うる)おし、冬は
お茶の湯として、炊事用としても欠かせぬ存在でした。

昔、柳河の殿様がこの水を愛用し、夏の盛りに樽(たる)に詰め、周りを綿やわらで包んで、直射日光を避けながら、数々の人夫が交代で担ぎ、早駕籠(はやかご)並みにリレーして、御屋敷まで運び、殿様が飲まれるときは、まだ冷たくて、大変喜んで召し上がられたそうです。

千古の謎(なぞ)とロマンを秘めながら、コンコンと湧き出る、この優雅な名の「紫君泉」は、今後とも変わることなく、静かな営みを繰り返すことでしょう。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。

米今もコンコンと出ていますという内容のところが、水が出なくなり民話の話です。
 現在は、九州自動車道工事と九州新幹線工事の時、水の流れが変わってしまったのか、水が出なくなっています。

扇状地から平野に出る場所で、山川の御牧山からの伏流水ですが、工事のときに伏流水が枯れたか、流れが変わったのかで、出なくなったものと思います。

矢部川の地名の旅(鶴記一郎著) p43飯江川より。

山川町の中心地の野町から竹飯一帯は飯江川が搬出した土砂によって形成された扇状地で肥沃な畑となっています。その扇状地は海水によって侵蝕され急崖をなして平野に没しています。その侵蝕面に此君泉(シュクンセン)などの湧出する井戸があります。此君泉は大字竹飯字竹井にあり往昔は竹泉と呼んでいたようで、竹井、竹飯などの地名もこの泉に由来するものです。この泉はいかなる旱魃にも乾いたことはなく、また大雨に際して溢れることがなかったそうです。というのは広い扇状地の地下水が徐々に流れ出る井戸だからです。

旧柳川藩志によれば、「往時八幡山松花堂猩々翁此の地に来り、この水を以って硯滴となして書画を作って其の清潔を称賛して曰く、此れ石清水の水質と同じと。鑑通公之を此君泉(タケイズミ)と命名した・・・・。」とあります。ところが、現在では泉には粘土や落ち葉が流れ込み利用する人もないのでしょうか。案内板の文字は消えて判読できません。

旧柳川藩志  P541の名所(山門郡分)  此君泉

山川村大字竹飯字竹井にあり。同所満願寺の西方幽邃(ゆうすい)の地に冷泉湧き出す。池水6間の4間にて面積凡そ24坪、元と竹泉と云う。この地竹井の称もこ れより出る。干ばつに渇すことなく、大雨に溢れることなし。

伝に言う、「往時八幡山松花堂猩々翁此の地に来り、この水を以って硯滴となして書画を作って其の清潔を称賛して曰く、此れ石清水の水質と同じと。鑑通公之を此君泉(タケイズミ)と命名し、日本諸名家にこの詩を求む。」

これを此君泉詩集と云う。これより、この名、益々世に顕れる。泉の中央に碑を立つ。此君泉の3文字を書く。書家関淇寧の書する所たり。

題此君泉而奉応中大夫柳河候之需  

国子祭酒  林 信言

雅景清流称古今、泉声自是似鳴琴、尚思丘壑将添色、応洗筬人名利心 

寄題此君井  深津 友常

遠聞西海竹林辺、甘井潺渓正可燐、愧我短才無俊句、徒令詞賦負清泉

此君泉   橋地蒙庵

竹廻水流秀、水出竹間清、艶々抱珠媚、澄々若鑑盈。

金山泉可此、淇澳句堪続、非是丹沙井、飲数人寿栄。

現在は、保育園の駐車場になっています。








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今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

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by kusennjyu | 2011-09-27 02:55 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
民話 海津と鯰(なまず)・千寿の楽しい歴史
民話 海津と鯰(なまず)

数年前、山川町から分離して高田町に合併した2つの地区、竹の飯と、もう1つが海津です。

毎年、10月の水落の後の堀干しと、3月のゴミ掘りのとき、魚が沢山とれます。村人たちは、食べきれないほど取れた魚を、串(くし)に刺して炭火で焼き上げ、藁束に刺し、天井に吊り下げて保存食としています。

ところが、海津では鯰だけは絶対に食べません。折角とれた鯰を道端に放り出し、堀干しが済んでから、また水に放します。

ほかの魚は喜んでみな食べるのに、鯰だけは不思議に、食べるどころか殺しもしません。通りかかった人が、もったいながって、くれと言っても決してやりません。

しかし、面白いことに、人々がだまって持って行くのは見て見ぬ振りをして済ましています。自分たちは食べなくても、よその人の食べるのまで干渉しないのです。なぜ海津の人は鯰を食べたり殺したりしないのか、それは氏神様の御神体と深い関係があります。

その昔、氏神様が危ない命を鯰に救われたという古事によるものです。ここの氏神様は阿蘇内輪山、中岳の中腹に鎮座の阿蘇神宮の御霊(みたま)を分霊して祀ったといいます。阿蘇には12の宮があり、その第一番が建磐竜命(たけいわたつのみこと)です。

神武天皇の第一皇子、草ケ部吉見の命の御子、阿蘇都媛(あそつひめ)を妻として阿蘇に向い、国見山から行くてを見ると、広野の果てに大きな湖水が見えます。
火山灰が溶けてノロノロしたノロ湖だったそうです。

「この湖水を干せば、よい田地になり、十分な米も取れよう」と、命はこの湖水を干そうと思って、湖水の西の尻に回り、二度、三度、力いっぱい蹴(け)ってみたが、どうしても崩れません。よく見ると、火口の壁が二重になっています。今日、二重峠というところです。

今度は少し南の立野の上を一蹴りに蹴り破ると、スカッと穴があいて、ノロ湖の水はドウドウと流れ落ちました。今の数鹿流(しかる)滝というところです。

このとき、建磐竜命は、ノロ湖に巻かれ、危うく命を落すところでした。そのとき、1匹の大鯰が出てきて、命(みこと)を背中に乗せて助けたという話があります。

また一説には、翌朝、命(みこと)が湖水の跡を見ると、半分だけが水が引いていますが、よく見ると大鯰が真ん中に横たわって、あと半分は水がひあがっていません。

そこで今度は建磐竜命の鯰退治となり、ノロ湖は全く乾いて、阿蘇谷、南郷谷を連ねて東西16kmの火口原、草千里、内の牧、外の牧が出来あがったのです。

阿蘇の人々は、この神武天皇の孫であり、外輪山を蹴破って阿蘇谷開発の基を作り、農耕を進め、現在の阿蘇の繁栄をもたらした建磐竜命を阿蘇大明神として尊崇し、神慮を慰め、神徳にあやかろうとしています。

阿蘇神宮の祭神が、どういう経緯で海津の地に分霊されているか、そのうち、海津の古老に確かめようと思っています。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。

昭和33年8月1日に町制を施行し、高田町となり、昭和34年4月に山川村大字竹飯、大字海津地区を編入しました。





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by kusennjyu | 2011-09-26 04:58 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
第2回和算講習会・千寿の楽しい歴史
第2回和算講習会     9月24日(土)      えーるピア久留米にて

左~講演者・米光丁先生    右~受講者・12名

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米光丁先生の資料より

1.和算の概要

我が国における数学教育で具体的に資料が残っているのは推古・天智天皇の時代からであり、それ以前にも数学教育は何らかの形で行われていたはずであるが、資料が発見されていないのでここで論じるわけにはいかない。百済・中国から暦法・度量法が輸入されており、漏刻器が作られていた。

また最近、九九を書いた弥生時代の土器が茨城県で発見されている。

九九が書かれた古い書物

(1)万葉集の中の九九

万葉集の中では「二二」を「」、「二五」を「とを」、「十六」を「しし」、「八十一」を「くく」と読ませている。

(2)口遊(くちずさみ)」の中にある九九

平安時代の元禄元(970)年に源為憲が藤原為光の幼児松雄君(7歳)のために書かれた本である。

和算の三大特徴

西洋数学の影響を受ける明治維新以前に、日本では独自に発達した数学を和算といっている。

(1)吉田光由から始まった遺題継承

(2)世界に類を見ない算額奉納

(3)遊歴算家の全国行脚

  山口和の九州遊歴      (文政4年1821)

  4/8・・下関  11・・香椎、箱崎宮  13 ・・ 大宰府  16・・・唐津  16~29・伊万里

  5/2~8・・長崎  8・・・ 諫早  10・・・雲仙  16~6/4・天草  6/6~8・・・熊本  

  9・・三池  10・・柳川  11・・・佐賀  12~19・今利(伊万里か)  20・・久留米

  21 尼御膳、高良山、善通寺  22 ・・彦山   24・・ラカン洞門   25・・・宇佐

  4月24日のラカン洞門とは下の説明のところでしょうか。

青の洞門の近くに「羅漢寺」があります。 ここは1337年京都の建仁寺の僧侶が開山したといわれています。
羅漢山中腹に建タつ本堂まではリフトでいきます。千体地蔵など大小3770体の石像群があるとのこと。  
何とも趣のあるお寺で、山門も、本堂も岩にへばり付いているような形をしていて、建物の半分はありません
  
九州各地の現存算額

1.高見神社の算額(北九州市)

2.筥崎宮の算額(福岡市)

3.住吉神社の算額(福岡市)

4.熊野神社の算額(糸島市)

5.秋月八幡宮の算額(あさくら市)

6.須賀神社の算額(あさくら市)

7.冠者神社の算額(佐賀県神崎市) 米光丁奉納

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8.鎮西大社諏訪神社の算額(長崎市)

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9.鎮西大社諏訪神社の算額(長崎市)

10.大浦諏訪神社の算額(長崎市)

11.富松神社の算額(大村市)  米光丁掲額

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12.柞8いす)原八幡宮の算額(長崎市)

13.高良大社の算額(久留米市)  米光丁奉納

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みやまいいまち会   下の詳しい内容が判ります。

今、日本の未来を強くするために必要なものを表す言葉で「絆」が一番でした。

私の目標   今一番大事なことは絆を育てること。
by kusennjyu | 2011-09-25 09:05 | 和算学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2011清水寺霊験記・足達八郎の武勇伝・千寿の楽しい歴史
清水寺霊験記・足達八郎の武勇伝(民話)

筑後川の上流、蜂の巣城で有名な下筌(しもうけ)ダムの近くに、熊本、大分両県境にまたがった杖立(つえたて)温泉があります。この温泉の名前について、次のような2つの説があります。

昔、足のなえた病人が、温泉の効果で健康になり、杖を立てかけて自力で帰ったという説と、弘法大師が旅の途中、この川岸に杖を立て、ここを掘れば必ず温泉が出ると教えられ、村人がそこを掘ってみると熱い水が噴き出したという説です。

昔、この杖立川の川原で、1人の武士が数人の若侍を相手に、決闘をいどみました。いかに武勇の士といっても、多勢に無勢、1人2人倒しても敵はなかなかひるみません。

激烈な切り合いの最中、敵の1人が繰り出した槍(やり)先が、サッと武士の胸元に突き立てました。遠巻きにしていた人々の口から、ハッと驚きの声があがった、その時です。上記の武士は少しも騒がず、槍の千段巻きをパッと切り落とすやいなや、前の2人を斬り倒しました。

この勢いに恐れをなした敵は、一度にどっと浮き足立って、ついに6人とも斬り殺されてしまいました。戦い終った武士は、全身綿のように疲れ、十数か所に切り傷を負いましたが、その精神力は大したものです。

先ほど槍で突かれた胸元を開けて見ると、錦(にしき)の袋に入れていた木のお守りがあり、袋を開けて見ると、お守りは真っ2つに割れ、汗でグッショリになっていました。人々は「無事に助かったのは、お守りさんのお陰だ」と口々に語りました。

槍先は、このお守りに当って、皮膚には届かなかったのです。このお守りこそ、霊験あらたかな、本吉山清水寺のお礼だったのです。武士の名は足達八郎(柳川藩立花家の藩士)という人でした。

江戸時代に「東国の武は笠間にあり、西国の武は柳川にあり」と、その武勇を謳(うた)われ、また、幕末動乱期に名君と仰がれた島津成彬(なりあきら)公が、将軍に戦力を問われたとき、「今日、戦闘能力のある藩は、日本中どこにもありません。しいて上げれば、柳川の立花藩ぐらいでしょう」といった話は有名です。

日本中はおろか、朝鮮、明(みん=中国)国にまで、その武勇を轟(とどろ)かせた尚武(しょうぶ)の国柳川で、5代にわたって剣術師範を勤めた、誉れの足達家の4代目が、この八郎です。この八郎盛永の子、盛義(5代目師範)も、なかなかの剣豪でした。

幕末に6尺の竹刀(しない)を振り回し、江戸中の剣道場を席巻(せっけん)し、名だたる剣士を倒し、当時、剣聖といわれた幕府講武所の男谷精一郎さえ、一本も取れなかったと言われる有名な大石進が、生涯(しょうがい)に一度だけ敗れたのが、この茂兵衛盛義でした。そして、この盛義を鍛え導いたのが、父の八郎でした。

足達八郎は、当時、母の病気治療のため、家族を連れて杖立温泉に来ていたのです。宿屋に預けた刀の取り違いから、同宿の佐嘉藩の若侍6人と争いになり、ついに1対6の決闘に及び、杖立川の川原で、竹矢来を結んで果し合いを行いました。

足達八郎は25歳の男盛りとはいえ、相手も葉隠れ武士道に鍛えられた鍋島藩士。延々数刻の激闘の末、1人また1人と倒し、やっとの思いで勝ち抜きました。世にこれを「杖立騒動」と呼び、足達八郎の武勇と共に、清水寺のお守りの霊験が、広く喧伝(けんでん)されることになりました。

  「瀬高むかしむかし」松尾静雄著より。




地名の由来

つえ~崖や崩壊地をさす「つえ」から生じた。

古代語が、のちに「つぶれ(潰)」、「くずれ(崩)」にかわる。急な斜面でまさに崩れそうな土地が、「きり立ったつえ」つまり「つえたて」であった。

「津江」(大分県など)の地名が多く残っている。





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by kusennjyu | 2011-09-24 04:17 | みやま市の民話と伝説 | Comments(0) |Topに戻る
2011久留米城跡を訪ねて・千寿の楽しい歴史
久留米城跡を訪ねて    

平成23年9月15日午後


城下町絵図

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久留米城址案内

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久留米城下町

久留米城下町とは元和7(1621)年、筑後北半の21万石を領した有馬家が建設した都市です。

有馬家は先の領主あった毛利秀包、田中吉政・忠政代の久留米城下町を大規模に改変した城下町建設を行っています。

入国した元和7年から正保3(1646)年頃までに城下町の骨格がほぼ完成しています。

城の構造

久留米城は蓮郭式の城郭で本丸、二の丸、三の丸、外郭(四の丸)と郭が南北に繋がり、本丸には政治の場である本丸御殿、二の丸は藩主御殿、三の丸は家老屋敷地、外郭には上級武士の屋敷地が設けられています。

外郭を境にして東側に櫛原小路と十間屋敷、南に足軽などの軽輩(けいはい)が居住した荘島小路、西には中下級武士が居住した京隈小路などの侍屋敷町人地が配置されています。京隈小路に坂本繁二郎生家がありました。

これらの侍屋屋敷の間を縫って両替町、呉服町、通町、三本松町などの町人町が広がっていました。東端には寺町が建設されています。

交通の拠点

通町は東へ延び、十丁目口で宮ノ陣方面と府中(御井町)方面へと分かれ、宮ノ陣への道は参勤交代の道でした。

府中への道は坊ノ津街道と日田への豊後街道と連絡していました。

また、三本松町は柳川往還の始点で、原古賀町二丁目で小頭町と分岐し、この道は八女方面へとつながるなど、城下町は領内各地と交通のネットワークの拠点でした。

この道を利用して領内の人が集い、物が集散され、城下町は政治の中心だけではなく、経済・文化のセンターでした。

久留米城址

戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって滅亡の歴史を綴りながら、元和7(1621)年、有馬と豊氏が丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで11代、350余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。

本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活かしたすこぶる険要の地にあります。

築城法は平山多聞(たもん)造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の7つの櫓があり、中でも、本丸東南隅の三層建の巽(たつみ)櫓は壮大な威容を誇っていました。

現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。

4月は花見、6月はしょうぶ、8月25日には鈴虫祭と、市民の憩いの場となっています。

久留米城内史跡めぐり

①本丸御殿跡  この場所に御殿が置かれ、歴代藩主が政務を執りました。

篠山神社拝殿

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②冠木御門跡  久留米城は南が正面で土橋を渡ると入口に冠木御門があり、その内側は桝形になっています。

入口

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石垣

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冠木御門

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篠山神社鳥居

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③蜜柑丸跡   この場所には蜜柑丸と称する本丸に付属する腰曲輪(こしくるわ)があり、蜜柑が植えられていたと云われ、この呼び名があります。

④巽(たつみ)櫓跡  辰巳(東南)の隅に位置した三層建です。

⑤月見櫓跡  東御門近くに位置し、二層建です。

月見櫓跡と市内遠望

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月見櫓からの石段附近

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⑥艮(うしとら)櫓跡  丑寅(北東)の隅に位置し三層建です。

⑦乾(いぬい)櫓跡  戌亥(北西)の隅に位置し三層建です。

⑧西下櫓跡  水手御門へ通じる本丸西側に位置し三層建です。

⑨坤(ひつじさる)櫓跡  未申(南西)の隅に位置し三層建です。

⑩太鼓櫓跡  冠木御門の左手に位置し三層建です。

⑪⑫井戸  本丸にあった3つの井戸の内、2つの井戸が残っています。

⑪の大井戸

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⑬東郷記念館  東郷元帥(1847~1934年)が大佐の頃、使用していた書斎を小倉敬止が拝受し、その後ここに移設されました。

⑭千松庵(せんしょうあん) 石橋正二郎氏から寄贈を受けた茶室です。

⑮有馬記念館 石橋正二郎氏から昭和35年に寄贈を受けたもので、有馬家に伝わる武具・雛道具などが展示されています。


久留米について  久留米城址にある篠山神社にあるもの    借用したものですが、文学碑・人物像・石碑など沢山あります。




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by kusennjyu | 2011-09-23 03:33 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
日輪寺(坂本生家の西北にある)・千寿の楽しい歴史
日輪寺  久留米市京町    9月15日午後に訪ねる。

山門前の石碑

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左~本堂へ上がる階段   右~本堂
   
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法号  海東山 日輪寺   

本尊   聖観世音菩薩

沿革  当寺は、臨済宗(禅)妙心寺派(京都・花園)   

開山は、澤雲和尚(梅林寺三世)である。

もと、城内(旧久留米城)二の丸にあったものを元和7(1621)年、有馬豊氏入国に際して当地に移転建立す。

山門は、城内の「乾門(いぬいもん)」を移築、これが唯一のお城の建造物として残っている。

庭内には九万部の経塔。文化10(1813)年。

国指定の史跡、日輪寺古墳(五世紀末か六世紀の築造)がある。

石造物として、応永地蔵、応永22(1415)年。市指定。

肥前型地蔵板碑、1573年(天正期前後の遺物)などがある。

    久留米市説明板より。

本堂に掲げられた額

御国第十九番札所    本尊聖観世音詠歌

あわれみて  ふたつ  うみの

よのおとを   志づかに  なして

すくひ   たまはれ


左~文部大臣 荒木満寿夫の文の石碑    右~大きな五輪塔(約4m・私の目算です)

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石碑の文字

ここは 坂本繁二郎画伯が 少年時代に
楽しく遊ばれたところ

 文部大臣   荒木満寿夫


仏像群

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日輪寺古墳説明板  本堂の左側の奥にあります。

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日輪寺古墳(石室全景)

私は残念ながら中は見て来ませんでした。ホームページを借用しました。

この古墳の中を坂本繁二郎も子供の頃に見たのではないかと思います。






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by kusennjyu | 2011-09-22 05:13 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る
坂本繁二郎の一生・千寿の楽しい歴史
坂本繁二郎の一生    9月15日午後訪問

坂本家の歴史

坂本家は摂津国(現大阪府)の出身です。田中吉政の家来になった一族は重職につき、慶長6(1601)年に筑後一国の大名となった吉政とともに三河国(現愛知県)岡崎から筑後に下りました。

その後、繁二郎の先祖は元和6(1620)年に田中家が断絶すると浪人しますが、新たに久留米藩主となった有馬家に正保2(1645)年、半兵衛義政が150石の知行をもつ御馬廻組として召し抱えられました。半兵衛義政から数えると繁二郎は9代目にあたります。

a0137997_3352338.jpg生家の位置

坂本家の屋敷地は侍小路である京隈小路にあります。この小路は元和91623)年に出来たもので、坂本家の屋敷地は京隈小路(きょうのくまこうじ)の南端にあたります。

坂本生家から南に広がる屋敷地は小松原小路(こまつばらこうじ)と呼ばれ、延宝5(1677)年に建設されたものです。

坂本家の屋敷地は表口18間、奥入25間、敷地面積は約450坪です。

坂本家の屋敷地の北西にあった秋葉社境内(現在は住宅と井戸があり一部駐車場になっている)や日輪寺の境内(階段を上がった正面に遊び場だったことが標記してあります。)は遊び場であった。

筑後川で吊った魚が晩御飯のおかずになる。筑後川や水天宮も近くである。地図で確認して下さい。

坂本繁二郎の一生

明治15(1882)年      久留米市京町に生れる。

明治19(1886)年(4歳)  父(金三郎)が亡くなる。

明治241891)年(9歳)  3月・久留米市両替尋常小学校を卒業(今の篠山小学校)
                 4月・久留米高等小学校に入学  青木繁と同級生

明治25(1892)年(10歳)  森三美(もり・みよし)先生に油絵を習う。

a0137997_3485587.jpg明治35(1902)年(20歳)   青木繁と共に絵を学ぶため東京へ行く。

明治42(1909)年(27歳)  東京で生活するため京町の生家を手放す。


明治43(1910)年(27歳)  いとこの権藤薫と結婚。

大正10(1921)年(39歳)  絵を学ぶためフランスへ行く。

昭和6(1931)年(49歳)   久留米より八女の福島に移りアトリエを建てる。

a0137997_49331.jpg昭和17(1942)年(60歳)  還暦を記念して二科展に作品を特別展示。

昭和31(1956)年(74歳)   文化勲章を受ける。

昭和44(1969)年(87歳)   八女の自宅で家族に見守られて亡くなる。


絵は坂本繁二郎の作品  放牧三馬  (石橋財団  石橋美術館蔵)

歴史散歩(NO32)及び、子どもたちへの贈り物の久留米市発行のパンフレットより。 

  

      
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by kusennjyu | 2011-09-21 04:01 | 筑後地方の観光と魅力 | Comments(0) |Topに戻る