千寿の楽しい歴史
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岩田校区の神社(今福・原)・千寿の楽しい歴史
岩田校区の神社(今福・原)  1月29日撮影

今福  八幡神社  応神天皇、春日大神、住吉大神

(縁起)三池郡司第十七代源季時は、従五位下三池大善大夫上総介師員の嫡男で、親能の三男親澄は六波羅奉行を相続した。土御門院の正治元年11月15日、今福に若宮八幡宮を建立して鶴ケ岡八幡宮の別宮とした。

由緒記に「正治元年(1199年)、三池摂津守師員は鎌倉鶴ケ岡八幡宮の御分霊を勧請す。祭礼には、御行、競馬、騎射あり。8月15日より17日まで法生会あり。永禄年中竜造寺山城守隆信に社領没収される。馬場の長さ二百四十四間にて、祭典にはこの馬場にてやぶさめを行ふ」と。

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今福妙見  愛宕神社  火迦具土神

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今福城内  綿積神社  大綿積神

今福   水天宮

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原・元原   天満神社  菅原道真

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原・伏竜   天満神社  菅原道真

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                                次回は寺院を紹介します。






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by kusennjyu | 2013-01-31 08:39 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
岩田校区の神社(田尻・岩津)・千寿の楽しい歴史
岩田校区の神社(田尻・岩津)  1月29日撮影

田尻  森山神社  祭神は、春日大神、住吉大神、建連魂神である。

社記によれば、天慶2(939)年播磨国の大蔵春実は、大将軍藤原中文に従って藤原純友討伐に功あり、筑前原田に3700町を賜わり、姓を原田に変えた。尚出征途中近江国森山宿に於いて霊夢に感じたという。

寿永元(1182)年、原田種成に3人の子があり、三男種実は三池の荘田尻に領地をもらい田尻城を田尻山に築いた。氏の神として祭り、姓を田尻と称した。

田尻氏の氏神様のお祭りで、明治時代までは毎年、伊万里市からもお参りに来ておられたそうです。
田尻氏は最後は鍋島氏の家来になり伊万里市に領地をもらい、現在の松浦一酒造の当主は田尻氏です。

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岩津  九躰神社

祭神は斯礼賀志命(シレカシノミコト)・朝日豊盛命(アサヒトヨサカノミコト)・暮日豊盛命(ユウヒトヨサカノミコト)・神渕志命(カミブチシノミコト)・ タン上命(タンカミノミコト)・神坂本命(カムサカモトノミコト)・神安楽応宝秘命(カムアラキオホヒノミコト)・神安子奇命(カムアシキノミコト)・神娜男美命(カムナオミノミコト)の九神。

由緒(神社の歴史)(柳川藩資料集)

神功皇后攝政69年(西暦110)武内宿弥を筑紫につかわして、村人たちの生活状況を観察させられた。宿弥は海路で目標地たる黒崎に着き、休息の後、黒崎半島北岸沿いに東方に進み、鷺山・魚繋・市場・干渡を過ぎ神崎に上陸した。そこに五大皇子神社がある。

神崎から山路を北進し、宮坂を下り休息された所に十王堂がある。なお北に進み坂を下りると、内海が見える海岸の子高い山上に休息する。そこに九躰神社がある。

(高田町誌)

按ずるに、三毛郡日奉郷の中心地ともいうべき浪打ち寄せる岩津の山に「除日祀之法、省送終之礼」の古事より「朝夕之祭祖之事」にて日奉郷は大略察知される。祭神の中に二柱の命、即ち朝日豊盛命、暮日豊盛命がある。古代における日奉連(ひまつりのむらじ)の一族が氏の神として祭祀したものであろう。日奉連は後年数族に別れ現在に至っている。
 
当社は、原始宗教の斉庭(いっきにわ)に霊石を鎮め奉り敬意の念を以って崇拝したと思われる社地である。
 石火灯  天保六乙未(きのとひつじ)年(1835)

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岩津高木 天神社

高木の天神さんは高皇産霊神を祭祀してある。相殿はなく一柱であり、天神である。所在地は旧岩津村字高木である。殿堂は4坪半と神社帳に記載してある。

この近郷には清泉が湧出している。古老の言によれば明治以後次第に水は渇れたが昔の泉の蹟は残っている。しかし2ケ所の泉は今も付近の人の飲料水として滾々(こんこん)と湧出している。古代において旅人が泉から泉へと泉伝いに、山麓に沿って往来したことが偲ばれる。泉を中心に部落が発生した史実も証明される。
山の頂上は眺望が特に絶景で、西に白縫の海を隔てて多良の連峯を眺め、足下には西北ともに自然または人工開拓の筑後平野を俯瞰し東北方には清水、巨泉(こそぢ)の連峰が望まれる。

この山頂は前方後円墳にして上楠田の古墳と相似た点がある。高木山のは箱式石棺である。大中小の3棺の内、大棺は慶応年間に里人の開墾中に発掘した。中棺は不明である。小棺は確か昭和24年8月ごろ、開墾中に発掘されたと記憶する。

三代実録に高木神社の記載がある。
 
延喜式筑後神名帳に「元慶(がんきょう)2年(平安時代878年)授筑後国高樹神従五位上」と古来より高貴な御方を祭祀する神社として崇敬せられた。

当社は高木の前方後円墳の北側中腹にあり、同古墳と関係があるものと思われる。内には三御神体が祭られてあるが、左側は神皇産霊神(かみむすびのかみ)、正面は菅原道真、右側は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)ではないかといわれている。

延喜式筑後神名帳には、筑後で十三の神社名が記録されているそうである。高木の天神社がいかに古い時代に建てられたか、しかも高貴な祭神であるということがわかる。

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岩津田代  天満神社  祭神は菅原道真。

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岩津上古賀 早高神社  祭神は神皇産霊神(かみむすびのかみ)。

                          続きます。






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by kusennjyu | 2013-01-30 09:44 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
矢部往還の下調査(黒木町・矢部村)・千寿の楽しい歴史
矢部往還の下調査(黒木町・矢部村)   1月27日午前10時から午後3時

講師の半田先生と柳川教育委員会の担当者2人と私の計4人が、車にて調査に向かう。

昨年の3月に七里石まではバスで案内しているが、今回は七里から十四里までを3月に案内する。

今回も三橋町史所前を出発し、柳川の札の辻から七里石までを再度通るので、時間と郷里を測定する。

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八里石(黒木町大字木屋字向町・矢部川の左岸に並木がある付近だが現存しない。)

栗林の道標(向野を過ぎて追分がある。右は田代、左は木屋)から北へ細い道が分かれているが、この方向が矢部川の方へ下っており、矢部往還である。

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写真左は栗林の道標から右へ行き、写真の家と杉木の向こうを通る矢部往還である。
写真右は現在の標識で左田代・右四条野です。

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黒木中学校の裏山にあう猫尾城公園へ行き、引き返して黒木大藤の西側の食堂で昼食にする。
当日は猫尾城跡を視察す予定です。

九里石(黒木大字木屋字原 樋口春好庭先にある)

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九里石の横に水路と狭い道があるが、矢部往還の跡と思われる。

十里石(黒木町大字大淵字久保) 駐車場がなく、通行料が多いため、バスの中からの説明の予定。

十一里石(黒木町大字大淵字上月足) 駐車場がなく、通行料が多いため、バスの中からの説明の予定。

十二里石(矢部村大字矢部蚪道) 入口が分からず行かない。山道で危険のため、行かない予定。

十三里石(矢部村大字矢部所野)  荘厳寺前道路(森林組合と所から左へ入り約200m進んだ地点)

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十四里石(矢部村矢部虎伏木)  虎伏木川の合流点で川向こうの畑の中にある。川に石橋が架かり、ここを渡って約100m下流へ進み、杉木が立つ横にある。

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帰りは、ここから折り返し、途中は寄らずに帰って来る。







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2013初天神開運大祭の水田天満宮と恋木神社(筑後市)・千寿の楽しい歴史
初天神開運大祭の水田天満宮と恋木神社(筑後市)   

平成25年1月25・26日


私は26日午前10時頃に行きました。恋グルPASSは午前11時からでまだ始まっていませんでした。

水田天満宮

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書道展

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恋木神社

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書道展

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恋木もち

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もちは1個110円です。2個買って帰り、2人で食べました。







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by kusennjyu | 2013-01-27 04:41 | 九州のまつり | Comments(0) |Topに戻る
海津の歴史(戦国時代の山下城と海津)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(戦国時代の山下城と海津)    海津郷土史より

天文元(1532)年、上蒲池は鑑広が城主であるが、彼は山下の堅固の地に立てこもり、肥前竜造寺隆信の軍が攻めた際も巧みに地形を利用し、また崖に縄を張り巡らし、谷川に杭を立て、城兵の勇武果敢と相まってついに、これを抜くことは出来なかった。いわゆる、難攻不落と天下にうたわれ、隆信をして攻撃を断念せしめたるは、有名なる事実である。

鑑広は、かつて京都禁裡守護のため上洛したる時、幸若舞の名手大澤幸次なる者を、連れ帰り、溝口に居を構えさせ、城内の将士に、これを修練せしめて精神の練磨をはかった。幸若舞は小田村より、大江の地に伝わり、現在も尚、国内に唯一ケ所残されて伝えられたのである。

鑑広の子、鎮運は下蒲池(鎮連)氏が肥前の地にて騙まし討ちに会いついに滅びたる後も、弔い合戦をなし、少しも屈せず、山下城を守ったが天正年間、豊臣秀吉が天下を統一して、九州の諸城を廃し、山下城を剥がれたる後は、海津200町歩を与えられて海津館によって、海津地方の農民のため、治水道路を整えて、おおいに治績を上げたのである。

文禄の役が起こるや、鎮運は直ちに、海津館を立ち出で、肥前名護屋崎より軍船にて朝鮮に渡り、いたる所の戦闘に手柄を立て、太閤の感状を受けること数十回である。

阿弥陀堂と永禄年間における海津の治勢

a0137997_848447.jpg海津北の阿蘇神社のある南側を蔵屋敷と言う地名が残っている。この一隅に次の堂と碑がある。

 一  阿弥陀堂  一間四方   本尊は阿弥陀如来一体
 二  碑  三基   面積 一畝四歩

田尻丹後守鑑種は先祖大蔵春実より出づるが故に大蔵姓を名乗ったもので、大蔵とは太宰府都督府の重要なる役職である。田尻氏は今の高田町田尻に、田尻城を築き近効近在に勢力を有して豊後の大友宗麟の輩下として、筑後南方の一角に居住していたのである。

田尻氏は代々敬神の念厚く、始祖大蔵春実が天慶承平の両乱に伊勢皇大神宮に参拝して、武運のめでたからんことを祈り、天慶の乱(938年)後には、三池郡高田村田尻郷に森山神社を勧請し、代々田尻氏の氏神として尊崇した。

鑑種の父親種は永禄年間に田尻城より鷹尾城に移った。これは田尻城が山間にて飲料水に不足し、なお交通に不便を感じ、四方の形勢を考慮した上で、こうしたものと思われる。親種は大永5(1525)年、垂水城攻めに大友氏について軍功を挙げる。
元亀元(1570)年に6月25日死。

鑑種は鷹尾城主となって、初めは大友氏の旗頭となって忠勤を尽くしたが、天正12(1584)年になって竜造寺隆信方となって、肥前東松浦郡山代村(現伊万里市)に移った。ここに親種寺があり、田尻氏の菩提寺である。

鑑種が支配した領地は次の個所である。

棚町、塩原、井手ノ上、長島、海津、新ケ江、楠田、原、岩津、古賀、田尻、浦、飯尾、檪崎、三ツ峯、佐野、原町、北関、亀尻、真弓、立山、竹井、草場、大塚、長田、蒲船津、中尾、飯江、農志(濃施)、吉里

大和町大和中学校の北に間垣橋がある。この流れの東南が田尻領、北東が蒲池領である。

鑑種は親種の子で天文7(1538)年に生まれ、天文16年(10歳の時)には数多くの老臣勇士に護られて、氏神である、森山神社を初めとして、附近の神々に参拝している(天文十六年丁未十月二十六日就参上日記之事)。

田尻鑑種  十五歳元服の時、再び参拝している。(天文二十一年壬子正月十五日就御元服参上日記事)。
供養の人々は46名で、元服の儀式がいかに盛大であったかを想像することができる。

田尻鑑種はその母、丁光妃が7歳の時、逝去したので、亡き母を慕うこと誠に切なるものがあった。鑑種は海津が己の領地であり、今の阿蘇神社境内となっている北1642番地1反8畝20歩に別邸を設けて、ここに
阿弥陀堂を建立し、信仰心厚き母の憩いの地としていた。丁度、永禄12(1569)年乙巳初秋十三日は、母公亡くなりしより25年の命日に相当したので、広き祭壇を設けて、母公丁光妃の霊牌を安置し、近在の僧侶40名を招聘して華厳経三千巻を看読して、霊を慰めた。領内の武士、百姓、町人、多数参列してこの盛典に、田尻城主の威光を身に深く感じたのである。

田尻家は鷹尾城より肥前に移り、後豊太閤の文禄の役に従軍して朝鮮の地において亡くなり、時代は変わって、海津が立花藩の統治を受け、阿蘇神社を木の下の郷より、田尻家別邸たりし土地を神社の境内として、ここに神霊を奉祀することになったので、阿弥陀堂は南西隅の1畝歩の地に移し、大きな供養碑も上部の中心碑のみを取り地中に建て、名のみの供養碑となったのである。
昔権勢をふるって、この地域に君臨したであろう、勇将の面影を偲ぶことも、また興味は一入深いものがある。

田尻氏の足跡を訪ねて2     田尻氏供養板碑があります。

丹後守道路

田尻城の支配を受けて海津は太古よりの狩路の駅として交通の要衝であったものが、この頃一層重要性を増し、田尻城より北方に進めば向田地区、曾里町~向畑~飯江川橋(現在の橋梁の50m上流)~川の端~道手~江越橋(こkは塁濠)~江越~一ツ橋~七庄司~水落~耳切橋(越せば瀬高町宮園)約1500mと続いている。

この沿線には屋形町(館)・道手・江越(大蔵氏の屋敷)・七庄司・耳切橋・馬すて場(馬の墓地)等の史跡が地名として残っている。
またこの沿線に肥前竹の」林が点々と見えるが、よく調査してみると、これは昔の住居の跡である。







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2013海津の歴史(戦国時代の宮園城と大木城)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(戦国時代の宮園城と大木城)   

海津郷土史より。

海津は古川、北、茂出、海門(みかど)、南、向田、散田の7小部落から成っているが、発生の順序も大体この通りである。そして古川地区は海津の内で土地が最も高く、村全体が潮の干満している潟洲時代にも、今から600年前の室町時代の頃から、かなり文化も開けていたものと思われる。

現在の行政区域から言うと、瀬高町大広園の南大木地区及び宮園地区と高田町海津の古川地区の3地区にまたがって宮園城が構築されたのは、文中元年(南朝)・応安5年(北朝)の1372年で今村大隅が初代の宮園城主である。

南北朝動乱時代から戦国時代にかけて、激しい合戦が繰り返し行われた頃の城、それが要害宮園城です。
筑後国には172の城館があったと言う。城は小さく、館も十分に敵襲に備えられた城と言ってよい。
そのうち、南筑後には山門郡15、三池郡7、上妻郡南領12、下妻郡10、三瀦南部7、計51の城館があったと言う。

ところが田中吉政が、それらの城跡をすべて取り壊し、整地して田畑としたといわれる。それぞれの石垣や礎石の石は、宗茂や吉政によって、すべて柳川城に運び去られたという。

ところが宮園城跡は、600年前の姿を昔ながらに見事に現存している。今は塁濠を残すのみであるが、土塁や、縦横に廻された囲まれた水濠こそは、中世から戦国にかけての平城にとって最も肝要な部分であったのである。宮園城は今も古城跡としての風趣と格調とを備えている。

宮園城の城主の祖今村大隅は、藤原姓宇都宮党後蒲池8代の祖蒲池壱岐守久憲の嫡男、蒲池壱岐守義久の子である。

宮園城の近く北方500mの地点に大木城があった。大木城は遠く鎌倉時代の初期に源頼朝から宇都宮知久が、筑後国山門郡を賜わり同郡大木村に在城して、大木主計頭と号したことに創る。

しかし南北朝動乱のため、大木氏が肥後に移りて久しく廃城となっていた。蒲池久憲の子宇都宮資網がわが嫡男大木政長を、旧大木城に封じ、廃城となっていたものを、快復させたと伝えられている。

今村大隅と大木政長とは従兄弟同志である。

そして、宮園城と大木城は隣り同士に築城している。その城の完成も殆んど同じであったのである。
文中2(1372)年から応永元(1394)年の間の頃と推定される。

矢野一貞著 筑後将士軍談 中卷162ページに次の様に出ている。

今村大隅は蒲池義久に出ず。初めて今村氏を号す。宮園に城を構えて之に居る。山門郡大江、広安、宮園、三村のうち18町其の他近傍36町を領す。大隅自力を以て切り取る所は、上妻郡山崎、吉田に16町、その他4町、下妻郡前津12町、別に室岡の内等に有り。

筑後将士軍談 中卷47ページより引用

三瀦郡蒲池芭城の起こりを尋ねるに、天慶の初め伊予国純友が一族築きたると言う。その後承久の頃、松浦党の枝葉源三円と言う者、養子の聟(むこ)となり、これ前蒲池氏の祖なり。それより代々相続し・・・・源三円より12代蒲池出羽守の時、嗣子なく1人娘あり、成長に従い家の耐えんことを恐れ、神仏に祈誓して、再興の志いと切なるものあり。

ここに宇都宮参河三郡久憲と言う人あり。祖父壱岐守貞久は同刊部丞貞那と共に宮方に候いて、過ぎにし応安4(1371)年征西将軍に供奉して肥後国八代に在りしが、その後菊池郡に住し、筑前筑後及び諸々の合戦に抜軍の功をあらわせり。

貞久の子懐久、その子久憲に至りて、宮方衰微し、さまよいあるきしが不思議の夢によって、高良大社に参籠す。この時出羽守の娘も、霊夢の事ありて、高良玉垂宮に参拝せしが、神前に於いて相見え・・・・よりて縁を結びぬ。時に応永年中也(1394年)後小松天皇の御宇なり。

蒲池参河守久憲と号し、再び家を興しけり。その後蒲池氏8代の祖なり。宇都宮朝網の後胤にして藤原姓なり。

宇都宮再改め蒲池久憲より5代の孫、筑後守治久の二男和泉守親広を大友親治の下知によりて、上妻郡の押えの為とて、山下に移し、その嫡男志摩守鑑広の時、山下の山中に新城を築き・・・・上蒲地氏と号す。

瀬高の南部地区の海津附近は潮の干満の差の激しい有明海特有の潟洲の続く海中であったと思われる。今の古島、長島、岩津、宇津、潟海津等の部落名からしても、この事は察せられる。

大木、宮園の南部及び西部は満潮の際は一面海となり、干潮の際は潟洲の続く湿地帯となり、要害としての役目を果たしたものであろう。今日でもこの地方は豪雨があると腰を没する河川水の氾濫で悩むのである。

昔は清水山の大谷の堤、蒲池山の大溜池は平時は水田の潅漑用水として利用価値が甚大であり、戦時には、水門を閉めて、堤の水を切って落せば、いわゆる浮城となって、防戦の用に当てたものと思われる。従って両堤の起源も古く中世期に遡るのである。

応永3(1396)年、大友親世は肥後国詫間原に菊池武朝を攻め、これを敗った。この時、蒲池壱岐守久憲、その嫡男壱岐守義久父子は菊池氏を助けて、良成親王の為に戦ったのであるが、武朝は八代に敗走したので、蒲池父子は大友氏と和を結び、これから蒲池氏は大友氏24騎の旗頭として、その勢威を長く振うのである(天正16年、豊臣秀吉の九州新領地配当により召し上げの時まで)。

天正9(1581)年、柳川城主蒲池鎮連が佐賀市与賀神社境内で、竜造寺隆信の兵に襲われて謀殺された時、大木城主大木兵部少将統光は弟大木資水が「肥前勢を抑えてこころよく一戦し、城を枕に討死せん」
と主張したのに対して、無益の事として聞かず。

鎮連公亡き後は、「又誰の為にこの城を守らんや。郷等皆これより去れ。予亦この城を捨てん」と言って城を開いて佐賀へ行き、人を鍋島直茂につかわし「主人蒲池鎮連が追腹仕るべき為、当地にまかり越したり」と言わしめた。

直茂その義烈に感じて、隆信に知らせ、隆信もその忠烈を厚くかい、追腹を止めさせたので、統光はついに機を失して、切腹を中止して、後鍋島直茂に仕えて忠勤を励んだ。大木城はここに滅亡したのである。

大木統光の弟資水は、大木城廃止後、田尻氏に仕え、田尻氏が滅亡すると、彼は浪人したが、その子幸永は元和年間になって、立花藩に仕え、大木村で130石を給されたと言う。
この時、姓を大城に改め、子孫今も大木に住す(柳川藩誌下巻265頁参照)。

長福寺跡の小祠に記して曰く

大木城は鎌倉幕府以来大木の居城地にして大木兵部少輔統光に至り、天正九年三月、蒲池鎮連、竜造寺隆信が為に亡ぼされし時、開城したり、城内一〇〇間四方、二重に堀をめぐらし、世に堅城と称せり。長福寺は大木城内にあり。大木氏の菩提寺にして臨済宗の巨刹なりしが、天正年間竜造寺氏の為焼かれ、当時の墓地に小堂を建立し、弥陀、釈迦、観音の三体並びに宗僧の像を安置して後世に残したるものなり。本堂敷地は即ち墓地にして、堂の西方は寺跡なり。東南は即ち城跡なり。

   時維大正9年3月本堂改築にあたり、旧記を参照してこれを記す。   田崎強三記。






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by kusennjyu | 2013-01-25 11:00 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
海津の歴史(南北朝の動乱期)・千寿の楽しい歴史
海津の歴史(南北朝の動乱期)   海津郷土史より。

菊池武敏が多々良浜の戦いに敗れ菊池へ退く

第96代後醍醐天皇は政権の武家の手にあるを嘆き給い、いかにしても、これを王朝の手に取り戻さんと、相計り、皇子の護良親王を始めとし楠木正成、名和長年、北畠親房顕家父子、新田義貞などの勤皇の士と共に、元弘3(1333)年5月、北条高時執権の鎌倉幕府を遂に滅亡させて、王政復古の大業はここに成就した。

しかるに新政府は論功行賞の不当、足利尊氏の野望などのため、行政は意のごとく進まず再び大乱となり、南朝、北朝の分裂となった。尊氏が九州の戦いに敗退して九州に走るや、九州の豪族の少弐、大友、千葉などの諸将は尊氏に加担し、肥後の菊池一族と阿蘇大宮司の阿蘇氏とは後醍醐天皇の南朝方について、筑前多々良浜に激戦を交えたのである。

この南朝方についた阿蘇惟時の子惟直、惟澄は海津阿蘇大明神とは深い因縁によって結ばれている。肥後の菊池で、留守を守っていた弟の武敏は、尊氏が九州に来るとの知らせを受けて、阿蘇惟直と一緒に、尊氏方についた少弐氏を有智山城(太宰府の後方)に攻め滅ぼして、勢いを増して、博多へ進み、多々良浜に陣を取って尊氏の軍と戦った。

尊氏の軍は急いで、陣の越と言う小高い丘を利用して陣を張り、武敏の軍を防いだ。元気な武敏は、尊氏の軍を滅ぼして国の平和を守ろうと攻めたてたが、北風が強くなり、砂を巻き上げ、菊池阿蘇の軍は目を開くことができず、進むこともできない。それに高い丘にいる尊氏の軍から盛んに矢を射掛けられて、傷つく者が数知れず出た。味方のこの苦戦に、武敏は自ら先頭に立って、激しく戦い、敵を数多く倒した。


それに、肥前の千葉氏の軍が、尊氏の軍に加わったとの知らせを聞き、武敏は「何たる卑怯の振る舞いぞ」と怒り、獅子奮迅の勢いで敵陣に切り込んだ。

しかし、この肥前軍の援助に力を得た、尊氏の軍は一層強く攻め立てて来る。それに横から肥前軍に攻め掛けられた武敏の軍は、ついに破れて、退くほかなくなった。尊氏の軍は益々激しく攻め掛けて来る。

ついに尊氏の軍に、押されて武敏も菊池に退く外に道はなかった。そして18外城と自然を利用して防いだが、尊氏の軍が菊池の里に入り、農民の田畑を荒らすことを恐れて、山中に身をひそめていた。

阿蘇惟直は多々良原浜の戦いで敗れて、肥前の小城を通る時、土地の豪族、千葉氏の襲撃を受けて、深傷を負い、さっそく、これまでと、天山(1946m)の麓で自刃した。

九州古戦場を巡る

阿蘇惟澄の戦い

この時、惟直は弟の惟澄に「お前は死んではならぬ。いかに重傷を受けるとも、一命を保って脱出せよ。また、惟直死せば遺骸を天山山上に葬れ」と遺言した。

今、小城の天山の頂上に阿蘇惟直の墓が建立され、勇将の在りし日を追想することができる。
   天山記念碑  阿蘇惟直之墓

惟直の父惟時は、見知らぬ村里を、さまよい歩く中に、いやしき田夫に生捕られてしまった。
弟惟澄は、奔って矢部城に帰るや、五條頼元などの援けを受けて矢部の将兵を引き連れて、肥後、筑後の山野に、死闘を展開して、南郷坂を抜いた。

延元2(1337)年には、わずかの50騎の手勢を率いて、肥後国砥用、小池の諸城を攻め落とした。ついで、菊池武重と共に、合志城を攻め、翌3年には、再び少弐頼尚と戦い、仁木義長とも激突した。惟澄とその手勢が切り伏せた敵の数は三千余人と言われている。

この惟澄が腰に帯びていたのが、来国俊作「蛍丸」であった。ところで蛍丸と言う名称であるが、これは神秘の伝説として、後世に伝えられている。

多々良浜の死闘は、史上にも有名なように、初めから南朝勢(菊池氏、阿蘇氏)は死を決していた。阿蘇父子兄弟も、生きて還らぬ覚悟であつた。しかし、惟時、惟直、惟澄と3人とも討ち死にしてしまえば、阿蘇の名家は絶えてしまう。

惟澄が八女(矢部)の大杣に辿り着いたのは、延元3(1338)年の5があつた。激しい戦いの後に来るものは疲労である。彼は名も知らぬ谷川のほとりの草葉でこんこんと、深い眠りに落ちていた。そばに太刀がつば元から切っ先まで、空き間もなく、さながら、ササラの如く欠けていた。死んだように、眠る惟澄が見た夢は、奇妙なものであった。

どこからともなく、無数の蛍が舞って来て、惟澄のそばに投げ出された太刀に寄ってたかって、とまっては強い光を明滅させているではないか。翌朝になって見れば、太刀は元の如く、青白い光を放つ、こぼれの全くない、銘刀にかえっていた。惟澄は遠く阿蘇の国阿蘇の神霊が、蛍となって、太刀を元どおりかえし給うたことに、しなし呆然としていたが、やがて威儀を正して、遥かに南の阿蘇神社の方を伏し拝んで、感涙にむせぶのであった。

海津の阿蘇神社

今、海津の阿蘇神社宮司の江良宅の奥深くに秘蔵されたる銘刀は680年昔の阿蘇惟澄の奮戦の様を物語っている。

惟澄は辿り辿って矢部川を下り、大木の里(瀬高町大広園)に城主の大木貞久を訪ねて今かかる零落の由来を物語れば、貞久いたく同情の色を表し、しばらくこの城内に留りて、休養を取り、体快復のあかつきには、「貴方の郷里、阿蘇の大明神を分霊して、近く宮園城近くの丘陵に祀られよ」と語り、数日後、古川木の下郷(海津)に、端然たる社殿を築きて阿蘇の大神を祀ったのである。

惟澄は神のそばに居を構えて、朝に夕に、奉祀に余念がなかった、この木の下の阿蘇神社の跡も早高宮として、今尚、古川の守り神として鎮座されている。

尚、神事として、海津の里が農業をもって生計を立て、稲を作ることを神徳にすがらんと、御田植の神事を里人に教えたれば、海津の里は一入、農作が盛大となり、また人の心も和合して、家々より豊かなる、かまどの煙が立ち上るようになった。

海津阿蘇神社の御田植え祭





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by kusennjyu | 2013-01-24 12:07 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2013幸若舞と大江天満神社の歴史・千寿の楽しい歴史
幸若舞と大江天満神社の歴史

大江の幸若舞関係年表(大江の幸若舞 平成13年再発行より)

貞和2(1346)年   幸若丸(桃井修理亮直信)、幸若舞を天覧に供す。

直信の孫弟子・山本四郎左衛門直義、大頭流を号す。

16世紀初       百足屋善兵衛(山本直義弟子)、後柏原天皇の時、天覧に供す。

天正10(1582)年  蒲地兵庫頭鎮運(鑑廣の子、筑後山下城主)、大澤次助幸次(百足
屋善兵衛の弟子)を招き、家臣に舞を習得させる。

18世紀頃   下妻郡小田村櫻井次左衛門直那、久留米国府村住の猪口直勝から家元継承。

櫻井次左衛門直那から小田村の富重次郎吉直元へ相伝される。

天明7(1787)年    松尾平三郎増墺(大江村住)が富重次郎吉直元から正月21日に
系図・装束・直伝・正本などが譲られ、大頭舞の相伝がなされた。

大江幸若初代

大正2(1912)年    現在の舞堂が建立される。

昭和35(1960)年   3月19日、福岡県無形文化財に指定される。

昭和45(1970)年   国の記録する民族芸能(無形民俗文化財)として選ばれる。

昭和45(1970)年   舞堂を増改築する。

昭和46(1971)年   2月16日、舞堂の屋根を葺き替える。

昭和51(1976)年   5月4日、重要無形民俗文化財に指定される。

平成6(1994)年    幸若舞が縁で瀬高町と福井県朝日町との姉妹縁組を締結する。

現在            30代・松尾正巳清平となる。

               初代に相伝されてから2013年で226年となる。

幸若舞大頭流系譜   幸若舞保存会資料より。

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幸若舞の意義

幸若舞は武士鑑賞の資材として作成された素朴な叙事文学でありながら、気品高く武家の舞曲にふさわしい勇壮な気分を持っている。武道全盛の室町時代及び徳川初期においては、むしろ能より一般武家では重んじ、また喜ばれたとある。

大江では他の芸道のように一子相伝せず、門人中の優秀者が相続することになっていたため、現在大江の農村にも伝わることになった。

大江天満神社の由来   クリックして文章を読んで下さい。

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天井絵

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大江天満神社の天井絵(平成23年分)  クリックして文章を読んで下さい。

大江天満神社の天井絵の説明(平成24年分)
  動画も入っています。

平成23年と平成24年の天井絵は1枚ごとに撮って、きれいな絵をあげています。





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幸若舞「夜討曽我」(青年)と「和泉ケ城」(成人)・千寿の楽しい歴史
幸若舞「夜討曽我」(青年)と「和泉ケ城」(成人) 

夜討曽我(上)   青年

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和泉ケ城(一)   太夫 松尾義文 ・シテ 松尾裕二  ・ワキ 堤日出夫   ・鼓方 30代 松尾正巳

藤原秀衝が死ぬ前に、5人の兄弟と乙は姫及び判官殿(義経)に財産分けをする場面です。

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和泉ケ城(二)   太夫 椛島健夫 ・シテ 松尾成功  ・ワキ 松尾正春   ・鼓方 30代 松尾正巳

藤原秀衝が死ぬ前に、5人の兄弟に協力して判官殿(義経)を大将に鎌倉の源頼朝から守るように起請文を書かせる場面です。

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        次回は大江天満神社由来と天井絵(豊臣秀吉と幸若舞など)を紹介します。





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幸若舞「浜出」と「日本記」(小学生)・千寿の楽しい歴史
幸若舞「浜出」と「日本記」(小学生)     幸若舞(大頭流)  国指定重要無形民俗文化材

平成25年1月20日(日)正午から上演    大江八幡神社(みやま市瀬高町大江)

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舞堂

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「浜出」   小学5年生(4人)

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今年は小学5年生が6人と小学6年生が1人だった。今年から始める5年生が多く、夏休みに練習をして、10月から本格的に練習を行った。

しかし、親達の心配をよそに、小学生はすばらしい記憶で、見事にやり終えました。

幸若舞の説明

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大江に住み元佐賀大学教授の松尾氏(今年から宮世話人)の解説です。

幸若舞は中世の芸能です。中世の社会は戦乱・乱世・下克上の社会。自力救済(権)思想。

現代は強盗の罪が重く、窃盗の罪が軽い。現代と中世は正反対の社会です。

中世は強盗されても、自力権が弱く奪われる方が悪かったのです。

幸若舞の中に①緊張(厳しさ)があり、②宗教(死)無常が動作に現れている。

舞の概念、古代は居舞の朗吟から段々と立舞が入りる。中世の幸若舞は立舞は15%くらいであった。
現代の舞踏は動きの激しい踊りで朗吟がない。幸若舞の動きは前後と襷(たすき)かけの動きだけです。

「日本記」   太夫(小学6年生)  シテとワキ(小学5年生)

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                       「夜討曽我」と「和泉ケ城」へ続きます。





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