千寿の楽しい歴史
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宮澤賢治筆の木版画『日輪と山』
宮澤賢治筆の木版画『日輪と山』

宮澤賢治 没後80年特別頒布パンフレット小学館発行より。

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賢治によせて   宮澤和樹

祖父清六(賢治の弟)の話によれば、「日輪の山」を賢治が描いた時、本人は他人に見せるつもりはなく、いたずら書きのように当時の小学教材で使う画用紙と絵の具を用いて水彩画として描いたようです。

しばらく賢治の部屋の壁に画鋲で留めてあったので、おそらく本人は自分で描きながら気に入り、目に付くところに張り付け眺めていたのではないかと祖父が言ってたのを思い出します。

「日輪と山」は、浮世絵が好きだった賢治が葛飾北斎の「赤富士」などの作品を参考に自分で想い描いている、あるいは実際に見た山に掛かる日輪をシンボリックに描いたものだと思います。

賢治はゴッホ・セザンヌなどの絵も大好きで、特にゴッホの糸杉の絵を部屋に飾っていたそうです。ゴッホの描く渦巻く空が好きで、賢治は銀河の渦をその空に観ていたと考えられます。

「銀河鉄道の夜」などに書かれた賢治の宇宙観と「日輪と山」に描かれた不思議な赤い球体と山は、井堂画伯も言っているように宇宙のエネルギーと繋がっていると私も考えています。

宮澤賢治 略歴

明治29(1896)年   8月27日、現・岩手県花巻市に父政次郎・母イチの長男として出生する。

明治31(1898)年   妹トシが生まれる。後に賢治に転機を与える最愛の妹。

明治32(1899)年   伯母の唱える「正信偈」「白骨の御文章」を暗誦する。

明治36(1903)年   花巻尋常高等小学校に入学する。東北地方飢饉。

明治37(1904)年   弟、清六が生まれる。日露戦争開戦。

明治38(1905)年   童話を好んで開き、読む。東北地方大凶作。

明治39(1906)年   仏教講習会に参加。鉱物・昆虫採集に熱中する。

明治42(1909)年   県立盛岡中学校に入学。鉱物採集に熱中する。

明治43(1910)年   岩手山初登山。(生涯に30回ほど登る。)
               石川啄木「一握の砂」刊行される。

明治44(1911)年   小岩井農場遠足。短歌創作始める。

明治45(1912)年   「歎異抄」に感動。
               石川啄木没(27歳)。

大正3(1914)年    盛岡中学校卒業。
               『漢和対照妙法蓮華経』に感動する。第一次世界大戦開戦。

大正4(1915)年    盛岡高等農林学校農学科(現・岩手大学農学部)首席入学。

大正6(1917)年    東海岸視察参加。江刺郡地質調査。
               同人誌「アザリア」に短歌多数発表。

大正7(1918)年    高農卒研究生。稗貫郡土性調査。
               童話創作開始。

大正9(1920)年    高農研修生終了。国柱会入会。戦後恐慌。

大正10(1921)年   家出上京国柱会奉仕。父と伊勢神宮、比叡山、奈良旅行。
               郡立稗貫農学校(12年県立花巻農学校)教諭となる。

大正11(1922)年   心象スケッチ「屈折率」などを書く。精神歌など作詞。劇上演。
               妹トシ24歳で永眠。
               この日付けの詩「永訣の朝」「松の針」「無声衝哭」に心情を描く。 

大正12(1923)年   上京、童話掲載各社に断られる。樺太旅行。

大正13(1924)年   心象スケッチ『春と修羅』、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』刊行。

大正15(1926)年   岩手国民高等学校で講義。花農依頼退職。
               独居自炊生活。羅須地人協会設立。

昭和2(1927)年    稲作指導に奔走、肥料設計書2000枚余。

昭和3(1928)年    稲作肥料指導。伊豆大島行き。急性肺炎で療養。

昭和4(1929)年 東北砕石工場主鈴木東蔵(東山町)来訪・世界恐慌始まる。  

昭和6(1931)年 東北砕石工場技師、石灰の宣伝販売に従事。上京中発熱、遺書を書く。
               病臥中「雨ニモマケズ手帳」を書く。

昭和7(1932)年    病臥中「グスコーブドリの伝記」を発表。挿し絵は棟方志功。

昭和8(1933)年    9月20日、容態急変、急性肺炎と診断。
               9月21日、「国訳妙法蓮華経」の頒布を遺言する。
               午後1時30分に永眠する(37歳)。
                                                
                                          以上。






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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

西日本新聞フォートサービスで梅野家庭園の写真(4月28日撮影分)を販売しています。

青輝園    御座敷梅   ユリ展    季節を楽しんで下さい。

私の目標   今一番大事なことは絆 を育てること。
by kusennjyu | 2013-08-31 08:08 | 芸術と文学・童話 | Comments(0) |Topに戻る
佐野常民記念館を訪ねて(佐野常民関連略年譜明治時代)
佐野常民記念館を訪ねて(佐野常民関連略年譜明治時代)

平成25年8月28日午後(館内案内してもらう)

住所   佐賀市川副町大字早津江津446-1   

佐野常民関連略年譜      佐野常民(國雄行著)より。

明治3(1870)年  49歳  兵部省出仕。「大いに海軍を創立すべき議」を提出した。
                   工部省出仕。灯台頭に就任し、灯台に関する業務を遂行する。

明治6(1873)年  52歳  ウィーン万国博参加。日本展示室(有田焼きの花瓶など展示)
                   イタリア弁理公使(公使に次ぐ位)に任命された。

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明治8(1875)年  54歳  ウィーン万国博報告書提出。16部にわたってヨーロッパの諸制度が広く解説されている。
                   元老院議官就任。
                   水賀温泉にて休養。

明治10(1877)年  56歳  西南戦争。
                    博愛社設立。
                    第1回内国博覧会開催(東京の上野)。

明治12(1879)年  58歳   龍池会会頭。
                     元老院にて教育令、徴兵令改正審議。

明治13(1880)年  59歳   大蔵卿就任。
                     大隈重信の外債募集案に反対。
                     第2回内国博副総裁兼審査総長に就任。

明治14(1881)年  60歳   第2回内国博開催(上野)。
                     入場者は45万人から82万人に、出品者は1万6千人から3万1千人に、それぞれ約2倍となった。
                     アジア博覧会開催建議。
                     明治14年政変。開拓使官有物の払い下げ問題で起こる。
                     元老院副議長。翌年、議長に就任。

明治20(1887)年  66歳   日本赤十字社社長。子爵となる。
                     日本美術協会会頭。

明治21(1888)年  67歳   枢密院顧問官となり憲法審議。

明治25(1892)年  71歳   農商務大臣就任。

明治28(1895)年  74歳   第4回内国博開催。伯爵となる。

明治29(1896)年  75歳   農商工高等会議議長。

明治35(1902)年  81歳   妻の駒子逝去。佐野常民、東京の自宅で逝去。

伊藤博文は、「佐野は海の船長、陸の船長」であったと評価しています。






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by kusennjyu | 2013-08-30 05:26 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
佐野常民記念館を訪ねて(佐野常民関連略年譜幕末まで)
佐野常民記念館を訪ねて(佐野常民関連略年譜幕末まで)   

平成25年8月28日午後(館内案内してもらう)


住所   佐賀市川副町大字早津江津446-1   

佐野常民関連略年譜      佐野常民(國雄行著)より。

文政5(1822)年   1歳   佐賀藩士下村充贇(みつよし)の五男として生まれる。

天保元(1830)年   9歳  鍋島直正が佐賀藩の十代藩主に就任する。 

天保3(1832)年  11歳  藩医を勤める佐野儒仙(じゅせん)の養子となり医者を志すことになる。
                  前藩主・鍋島斉直(なりなお)から名を賜り「栄寿」と称する。

天保5(1834)年  13歳  弘道館の外生(小学生となり、古賀穀堂に学ぶ。
                   (翌年、内生・大学生となる)。

天保9(1838)年  17歳  江戸で古賀侗庵(とうあん・穀堂の弟)に漢学を学ぶ。

天保10(1839)年 18歳  前藩主斉直死去。佐賀に戻る。弘道館松尾塾に学ぶ。

天保13(1842)年 21歳  駒子(21歳)と結婚する。 

弘化3(1846)年  25歳  京都の広瀬元恭(げんきょう)の時習堂に入門する。

嘉永元(1848)年 27歳  大阪の緒方洪庵(こうあん)の適塾に入門する。

嘉永2(1849)年 28歳   江戸の伊藤玄朴(げんぼく)の象先堂に入門する。

嘉永4(1851)年 30歳   中村奇輔ら、技術者4人を伴い、佐賀に帰る。
                   長崎で洋学塾を開く。
                   翌年、精錬方設置。  

嘉永6(1853)年 32歳  ブチャーチン長崎来航。
                  佐野、藩士を治療する。
                  精錬方主任となる。

安政2(1855)年 34歳  長崎の予備伝習に参加。
                  精錬方、蒸気船などの雛形製作開始。
                  長崎海軍伝習所開所。

安政4(1857)年 36歳  中村奇輔とともに薩摩へ行く。
                 飛雲丸の船長となる。
                 晨風丸(しんぷうまる)製造開始。

安政5(1858)年 37歳  晨風丸進水式。観光丸の練習航海という名目で直正とともに薩摩へ行く。
                  勝海舟と会談し、沢山の情報を収集する。
                  電流丸購入(アームストロング砲積載。

安政6(1859)年 38歳  長崎海軍伝習所閉所。三重津海軍所の監督となる。
                  公金濫用事件。

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万延元(1860年 39歳  桜田門外の変。観光丸を江戸から回航する。

文久元(1861年 40歳  観光丸の船長となり、ロシアのポサドニック号事件で対馬へ行く。

慶応元(1865)年 44歳 日本最初の実用国産蒸気船の凌風丸(りょうふうまる)完成。

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早津江川岸の元三重津海軍所跡地に設置された凌風丸模型(当時は最大の長さ18M)。

慶応3(1867)年 46歳 パリ万国博参加。オランダで軍艦発注。
            ベルギー、イギリスなどを視察。大政奉還。

a0137997_11235293.jpg直正は代表に佐野常民を任命し、従者として精錬方の工人の藤山種広を付けた。

販売担当として豪商の野中元右衛門と深川長右衛門を、西洋文物の調査担当として藩学稽古所(のちの致遠館・ちえんかん)で教鞭をとる小出千之助を選んだ。小出は万延元年に幕府の遣米使節団に参加した経験があった。


          次回は明治時代に続きます。





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by kusennjyu | 2013-08-29 11:46 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
里沙の店での8月学習会・千寿の楽しい歴史
里沙の店での8月学習会     みやま市瀬高町本郷  

政治学級みやまいいまち会の8月学習会を初めて、この店で行いました。  

平成25年8月26日  午前10時30分から約3時間(昼からは食事しながら、ゆっくりと)

私は時間を間違えて(案内状を見ていない)午前10時前に行きました。そしてコーヒをいただく。

玄関

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一階食堂(久留米の宮原典子さんの写真が飾られています。

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彼女は、今までに新聞社などの写真応募で特別賞や入賞を何回も、貰って発表されています。

二階へ

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二階の部屋の中の写真(店主の田中さんの作品です)

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政治学級みやまいいまち会の8月学習会風景   招待1名と会員8名です。

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午後0時30分から食事しながらの会話です。私は午後1時に次の会議のために帰りました。

学習会の詳しい内容は、下の「みやまいいまち会」のブログをクリックして見て下さい。リンクしています。







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by kusennjyu | 2013-08-27 20:37 | みやまいいまち会 | Comments(0) |Topに戻る
中津は黒田官兵衛が九州初の築城の地・千寿の楽しい歴史
中津は黒田官兵衛が九州初の築城の地   西日本新聞  平成25年8月25日号より。

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天守閣は、奥平家歴史資料館=中津市二ノ丁本丸。

地元、豪族との激闘

宇都宮鎮房は地元の豪族。秀吉の命で官兵衛が、豊前国を支配する際に、長くこの地を治めていた地元豪族が抵抗し、黒田軍と各地で戦った。

中でも、鎌倉以来の名門、宇都宮一族は手強かった。懐柔策として官兵衛の嫡男、長政は鎮房の娘を妻にし、その後、中津城の酒宴に鎮房を招き、忙殺した。「中津城には、宇都宮鎮房を祭った城井(きい)神社の他、一緒に討たれた家臣を祭った神社もあります。

ふるさと歴史講座  「黒田如水・長政とその時代」   講師  柴多一雄氏

場所  柳川市立大和公民館   日時  平成25年8月24日14時~16時。

以下、柴多一雄氏資料を引用しています。

豊前国黒田氏の領域図

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関ヶ原戦時の黒田如水の九州戦跡図

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黒田如水の九州戦跡年表

天正14(1586)年   九州討伐軍の軍奉行として毛利氏の軍とともに九州に入る。

天正15(1587)年   豊前六郡を与えられる。

天正16(1588)年   長政、城井(宇都宮)鎮房を滅ぼす。

天正17(1589)年   家督を長政に譲る。

天正18(1590)年   秀吉、全国統一。

天正20(1592)年   文禄の役。

文禄2(1893)年    停戦。剃髪して如水軒円清と名乗る。

慶長元(1596)年   慶長の役。

慶長3(1598)年    秀吉死去。

慶長5(1600)年9月1日   関ヶ原の戦。

           9月9日   大友義統、豊前国速見郡別府浦に上陸。

           9月13日  如水の先陣、石垣原に布陣。大友氏と合戦。

           10月1日  長政、筑前国を与えられる。

           11月18日  如水、中津に帰城。

           12月8日   長政、家臣を遣わし名島城を受け取る。(11日入城)。

慶長6(1601)年   福岡城および六端城の築城始まる。

慶長9(1604)年3月20日   如水、山城伏見に没す。59歳。

元和9(1623)年閏8月4日  長政、京都報恩寺の旅宿に没す。56歳。

以上です。来年のNHKのドラマを楽しんで下さい。







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 「みやまの今週のニュース・出来事など」

「みやまの今週のニュース・出来事など」   

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by kusennjyu | 2013-08-25 10:45 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2013「三潴県」って知っちょる?・千寿の楽しい歴史
みやま歴史講座  「矢部川の舟運と廻船」   

講師  半田隆夫氏


とき   平成25年8月22日   

ところ   山川文化センター(山川町)

「三潴」という県名はどうして生まれたか?

明治4年7月14日に廃藩置県により、筑後地方に久留米・柳河・三池の3県が成立しました。そして、同年11月14日に府県の統廃合があり、全国は3府72県となりました。

この時に筑後地方の3県と現在の大牟田市域にあった旧幕府領の長崎県所轄地を合併し、ここに「三潴県」が成立しました。

筑後一円(御原・生葉・竹野・山本・御井・三潴・上妻・下妻・山門・三池の10郡)を行政区域に収めた三潴県の県庁は当初、榎津町(大川市榎津)に設けられましたが、のち若津町(大川市向島)、さらに明治5年4月から久留米両替町(久留米市城南町)に移りました。

ところで、現在の佐賀県域は、明治4年の廃藩置県で、蓮池・小城・鹿島・唐津・厳原・佐賀の6県になりました。同年9月4日、厳原県と佐賀県が合併して伊万里県となり、同年11月14日、現在の県域全てが伊万里県となりました。そして、明治5年5月29日に佐賀県と改称されました。

朝鮮遣使を主張した江藤新平らは、明治6年10月のいわゆる「明治六年の政変」によって下野しました。

佐賀では薩長藩閥に対して不満を持つ征韓党は江藤新平を、新政府に反対し、士族の社会的復帰を願う憂国党は島義勇をそれぞれ党首にたて、県内には反政府的な気運が充満していました。

明治7年2月15日、佐賀県権令岩村高俊が鎮台兵648名とともに佐賀城に入りました。征韓・憂国両党は佐賀城を攻撃し、岩村らは筑後の三潴地方に逃れました。政府軍に熊本鎮台の本隊が合流し、朝日山・三瀬峠・田手・吉田・神崎・諸富で激戦が展開されました。そあいて、3月1日、政府軍は佐賀城を奪還しました。

明治9年4月18日、佐賀県は、「三潴県」と改称されました。佐賀の乱の後遺症というべきであろうか。同年5月24日に肥前杵島・松浦両郡、6月21日に藤津郡が長崎県に移管、さらに8月21日、三潴県は廃県となり、筑後一円は福岡県、肥前6郡は長崎県に編入されました。

県民の長年の悲願が達成され「佐賀県」が復活したのは、明治16年5月9日で7年ぶりの復活でした。     

                         半田隆夫氏の文章を転記しました。







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「先週のみやまのニュース・出来事など」  「夏休み手作り和ろうそく体験教室'(10・11日)」

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by kusennjyu | 2013-08-23 20:24 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
矢部川の呼称と鵜飼・千寿の楽しい歴史
みやま歴史講座「矢部川の舟運と廻船」   以下は講師の半田隆夫氏資料より。

期日   平成25年8月22日   場所  山川市民センター

1・川の呼称

矢部川  明治5年5月8日に三潴県布達される。
 
元柳米之際、境川と唱ヘ来候川、自今矢部川と相唱へ可申候事  壬申五月

これは瀬高町郷土史部の龍さんが見つけられたものです。(半田氏の説明)

江戸時代には、矢部川の上、中流は久留米・柳川両藩が入り混じっていましたので「御境川(おさかいがわ)」と呼ばれ、下流は「瀬高川」・「中島川」と呼ばれていました。

川は、それぞれの地域の人びとに固有な名で呼ばれ、親しまれていたのです。川魚の恵みを与える川も、時には「あばれ川」として恐れられました。人々は、川に生き、川とともに生きてきました。

矢部川の鮎漁は、4月から9月にかけて行われ、上、中流は「建川(たてがわ)」と呼ばれ鮎漁の区域となり、特に藩主に上納する鮎漁の区域は「御建川」と呼ばれました。

矢部川の河口域を流れる「中島川」は、洪水によって大河になったときは、上、中流から鮎も流れてきますが、普段は有明海から潮が瀬高近くまで遡るので、ハズクチやボラ・スズキ、そしてウナギ・フナなどの海の魚や淡水魚を採穫していました。

『筑後地鑑』には、生葉郡吉井の鮎飼漁が散見されますが、この鮎漁は、「夜川」と呼ばれるもので、今日、長良川や三隅川で一般的に行われる鵜舟による夜遣(よづか)いでした。

a0137997_20365272.jpgしかし、矢部川の鵜飼漁は今日の鵜飼の方法とは違い、大網を川底に敷き、下流を締め切り、上流から鵜を使って鮎を追い、鮎が網に集まったことろで網を引き上げるという漁法でした。つまり、漁網を併用した逐鵜(おいう)による昼遣(ひるづか)いでした。

矢部川の瀬高から黒木にかけて「鵜じ師」(鵜匠)が数百人あり、一網で数百匹、日中数回これを繰り返すと数千匹の鮎を採穫したと言います。

民間の鮎漁を禁じ、運上鮎の鵜飼漁を行う漁区を「寄川(よせがわ)」と言い、特に藩主が見物する鵜飼漁区は「御寄川」(久留米藩は矢原川原、柳川藩は本郷川原)と呼ばれました。久留米と柳川の藩主も納涼を兼ねた「川狩り」を楽しんでいたのです。

上の写真は図説立花家記より屏風の「本郷風景図」で鵜飼漁をしている人々が書き込まれています。

「新柳川明証図会」より転記。

明治4年の廃藩置県によって久留米・柳河両藩が廃止されると、矢部川は「御境川」ではなくなります。

矢部川の堰と回水路は、旧久留米藩については上妻郡・下妻郡(明治28年に統合して八女郡)が、旧柳河藩については山門郡が管轄し、郡制が廃止されると、前者は福島町外十二ケ町村土木組合(現在の花宗用水組合)が、後者は城内村外九ケ村土木組合(現在の柳川市外三ケ町土木組合)が管轄しました。

また、矢部川から分流する花宗川と太田川は三潴郡(旧久留米藩、郡制廃止後は大川町外十ケ町村土木組合、現在の花宗太田土木組合)が管轄しました。

明治18年以後、八女・山門・三潴三郡による矢部川の水利をめぐる対立は続きますが、昭和38年に治水と利水、発電を兼ねた多目的ダムとして日向神ダムが建設され、農業用水が安定して供給されるようになり解決しました。

                                             









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by kusennjyu | 2013-08-22 20:42 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
江浦町のお寺(光萬寺・仁業寺・江月庵)・千寿の楽しい歴史
江浦町のお寺(光萬寺・仁業寺・江月庵)   「郷土江浦町」より。

1・光萬寺   真宗、大谷派、 本尊 阿弥陀如来  大永3年創建

由来

大永3(1523)年、本願寺より阿弥陀仏の繪像を受け創立。慶願和尚の開基である。当初は中牟田にあったが、元禄16(1703)年に江浦町に移る。
 
大友宗麟が九州に威を振るっていた頃、その輩下にある大谷刑部左衛門貞政と言う人が真宗の信者で宗麟の基督教信仰と主従相容れず、貞政は追放されて扶持三万石も没収された。

貞政は山門郡清水に着き一寺を建立して念仏に専念した。時に大永年間ある日、突然宗麟からの使者が来て豊後に帰国するように勧めたが、聞き入れる事なく一子神十郎を逃して割腹した。後年神十郎は慶安と称し父君の意思を継ぐ。

2、仁業寺  臨済宗、本尊 聖観世音菩薩 正保元(1644)年創建

豊後国玖珠城主小田大和守(大友の輩下)は筑前の国にて戦死、その孫大坪左近久一(市左衛門)は江浦町に住み、立花藩より里正を命ぜられた。

久一は祖父追悼のため正保元年九月堂宇を創建し、二尊寺中興の祖、乾明和尚を請うて開山した。(柳川藩史)

 御堂には大木魚あり、「玉鱗工作」の銘あるも由緒不明。
 本堂前に閻魔堂が在ったが破損のため閻魔像は本堂に併拝してある。
 
3、江月庵  (柳川郷土史研究会の一書より)

昔柳川藩に江月院という院があって、ここの尺八の譜は現在日本一の噂のある福岡一月寺の尺八教本である。

当時佐賀藩には江月院の下寺がなく、尺八修行のため、あらゆる階層の人が深編笠の虚無僧姿で江月院の古碑の前で尺八の修行に訪れていた。 たとえ柳川等の藩主・家老・目付と言えども寺に祀る時は虚無僧姿で参詣してあった。

4、少林寺  真宗大谷派、 本尊  阿弥陀如来  文久2年5月建立

由来 肥後の国、平寛造なる人薙髪なし。知成と号し、その養子了道は大谷本願寺二十一世巌如上人に帰依し僧となり、文久2(1862)年今福に一寺を建立せるも、慶応2(1866)年4月江浦町に移る。

                                                終わり。







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by kusennjyu | 2013-08-20 17:14 | 郷土江浦町 | Comments(0) |Topに戻る
2013淀姫神社(江浦町)・千寿の楽しい歴史
1・淀姫神社(江浦町)  「郷土江浦町」より。

御祭神
   
豊玉姫命  海神、豊玉彦神の女で、彦火火出見尊の妃。
 
筒男三神  底筒男、中筒男、上筒男、三神で神功皇后新羅征途の時に御神託宣に依り、船に祭ると海原魚が総出で船を負い、風は追風となって一気に船は進み、波は新羅の国の半分まで到達したので国王はその霊感の前に降った。
 
天児屋根命 天照大神が岩戸に隠れられた時、鏡をつけた榊を持ち祝辞を申し上げ天宇受売命の踊りを鏡に写し岩戸の内に送りて大神が、岩戸を出る様
仕掛けた神様。

由来

永禄12(1560)年11月20日の御鎮座なり。

鎌倉権五郎景正の末流、長江(永江)勘解由左衛門平方家は、江浦に居城して、大友の幕下たり。

永禄12年正月22日、大友宗麟高良山に出陣せり。方家は肥前龍造寺方の内情調査を命ぜられる。一戦を交える事を覚悟の方家、かねて神祇を尊び神徳を崇め奉りければ河上淀姫宮に参詣しなし、味方の勝利を祈れば神殿の上より双鳥とび来たり方家の旗頭に止まり、将兵の士気大いに上がりたり。又龍造寺が暗夜に乗じ方家の陣を襲い将に敗戦となるところを、河上神社の方より兵の一隊が疾風の勢いで馳せ来たり方家を救い、龍造寺を敗走せしむる。

方家帰陣後、その御神徳に感じ、河上神社の宮司と語らい、御神体を奉載して江浦城内の艮(うしとら・東北)の位置に社殿を建立、永禄12年11月20日新宮に斉き祀る。

御神体奉載の大宮司は氏族周防氏(現淀姫神社宮司二宮家の祖先)。
 
天正16年(1588)立花宗茂の弟である高橋統増江浦城主として入城するや、社を城の西方(現在地)に遷し神殿、拝殿、楼門を新築して大いに美観を呈する。

慶長6(1601)年、田中吉政領主になるに及び、家臣田中河内守城番時代に神社は一時荒廃に至るも、寛永年間立花忠茂の命に依り庄屋大坪八郎衛門は神殿を造営、氏子と計らいて拝殿楼門末社に至るまで整備し又御供田、祭田を奉納した。

御供田祭田はその後、氏子等にて収穫され、祭礼その他の費用に長らく供されて来たるも、農地改革法に依り処分せり。尚、原野として残っていた土居の替分二反余が神社の所有として現存し、氏子の希望者十余名に貸与して耕作をなす。

御神徳

立花宗茂朝鮮出兵の武運長久航海安全を祈願された。
 
寛永年間江浦潟の新田開発の時、海が荒れ難儀を極めし時、御普請奉行坂本半左衛 門当社に御祈願、不思議に風波静まり作業の完成を見る。家老矢島主水御徳に感じ入る。その他正保年間、元禄年間にも開田干拓の都度御祈願御神徳をうける。

学業成就
旅立、商売繁昌、大漁祈願
蝮、蛇除けの護符があり遠方からも受けに来る者多し。
白髪除け
河童から引かれない様に祈願
赤ちゃんのお宮参りの時、足の裏におまじないを受けスジの引かない様祈願する。

2・淀姫神社境内にある各神社

八剣神社 祭神 素戔鳴命、天照大神の弟命、出雲国にて、八岐の大蛇を退治し、大蛇より出たる、天叢雲剣を大神に献上した神。

高良社  祭神 武内宿禰 座組江浦町有志

大日社  祭神 大日如来 座組二丸吉原

稲荷神社 祭神 倉稲魂 座組二丸吉原

3・大鳥居

大鳥居は高さ約3.6m、両柱間3.0m、笠木長さ4.0m、形式から言えば台輪鳥居式に当たる。

柱は三石から構成されて下部(亀腹上)50cm、上部(台輪下)43cm

笠木と島木は明確に彫り分けられており笠木の反りは大きい。

貫は15cm、30cmの矩形の石で脚柱より60cm両側に出ている。

額束は、30cm、75cmの矩形の磐の後方に30cm長さ40cmの凸状がある。

材質は総て石英粗面岩系である。

大鳥居は貞享5(1688)年、大坪八郎右衛門久幸、嫡子八兵衛久信、社人、二宮興三右衛門久勝により献立されているが、その後災害により崩壊のためか、寛政4(1792)年に、大坪権内久成により再修復され、その時の石工には徳蔵という人を使っている。

再度共笠木、柱は従来の素材を使用してあるが、貫の中央部と額束は凝灰岩に取り替えられている。

さらに亦、平成3(1991)年、台風19号により崩落し、現在は最下段の柱のみ残っている。

次回は江浦町のお寺を紹介します。







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2013梅野家の歴史(みやま市瀬高町女山)・千寿の楽しい歴史
梅野家の歴史

みやま市瀬高町大草字女山

1・菅原道真と天満宮(福岡県の歴史・光文館より)

(1)菅原道真の左遷

延喜元(901)年、右大臣従二位菅原道真は、とっぜん太宰権師(だざいごんのそつ)に左遷された。
道真の子息も長男高視以下流罪になり、父子は五所に分かれて流された。

延喜3(903)年2月15日、道真は59歳をもって没した。遺骸は御笠郡四堂の辺に埋葬しようとしたが、それを運ぶ牛車が途中で動かなくなったので、そこに埋葬したと伝えられ、それが安楽寺(天満宮)のおこりであると伝えている。

(2)安楽寺天満宮の発展

安楽寺と天満宮は、神仏習合のこの時代には同一の存在で、安楽寺天満宮・天満宮安楽寺・安楽寺聖廟などと表記されている。

道真の墓を覆う形で、弟子の味酒安行(うまさけ・やすゆき)によって建立されたとされているが、道真の没する前から寺があって、道真はその寺に葬られたとする説もある。

死後において道真は、延長元(923)年・正二位右大臣、正暦4(993)年・正一位左大臣、さらに同年・太政大臣を贈られ、名誉回復が完全になされた。

安楽寺を統括する別当(べっとう)に、天暦元(947)年・道真の孫平忠が菅原氏の推挙で就任し、続いて従父弟の鎮延が選ばれたが、彼は天徳3(959)年、太政官符によって別当職に追認された。

官の辞令によって別当が任じられたというのは、菅原道真をまつる菅原氏の私寺であった安楽寺が、官寺的性格を有するにいたったことを意味する。

(3)平安時代の安楽寺領(福岡県内)

朝野の道真崇拝は天皇をはじめとする安楽寺堂塔の造営をもたらし、同時に荘園の寄進を増進させた。

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上表で成立年次とあるのは、寄進その他によって安楽寺領になった年ないし寺領としての初見の年で、荘園そのものの成立した年ではない。

現みやま市内には、山門郡飯得荘(高田町飯江)と山門郡長田荘(瀬高町長田)の2箇所があった。

2・梅野家のルーツ(梅野家の家系) 「傘寿を迎えて(梅野茂芳著)より」

 家系図によれば、梅野家は菅原道真の末裔である。菅原家の祖先は天穂日命であり、後に大和国菅原之里に居住していたらしい。道真公の娘さんが菅原若狭守在忠に嫁ぎ、その子供が菅公の寵愛を受け、菅公より幼名を多門淳信と名付けてもらった。その淳信が成人して酒見教光という人物の養子となり、男子を儲けたのでその淳信に酒見家を相続させた。しかし、姓を梅野と改め、家紋の三つ柏も梅の花と改めたのである。

 即ち淳信こと、梅野左衛門菅原淳信が梅野家の初代である。降って梅野家22代梅野孫兵衛、菅原信経の長男、梅野長石衛門尉菅原信高は、天正年間(1573~1590年)筑前黒田公に仕え、新地八百石を領し、大物頭に任じられ福岡に住むとある。

 その弟で二男の梅野孫兵衛菅原信利が、寛永2(1625)年、柳川領大塚郷女山千手尊の下に分家し、本尊天満宮を建立、尊敬世を渡る家系図に記載してあり、この人が分家の初代である。その子、梅野孫兵衛菅原信時が、正保元(1644)年・領主立花公に仕え、家老由布九郎兵衛殿に引き立てられた。

 女山に居住してから五代目に、梅野六之平菅原信勝(法名指月院殿一峰釈素禅居士)を梅野家では中興の祖先として尊敬し、家門の誇りとしているが、ことに享保17(1732)年と14年後の延享3(1746)年の2度にわたる九州一円の大飢饉に際し『全財産を投じさらに長崎まで出かけて、金策などしてき飢民の救助に尽くし、玄米、雑穀を出すこと千二百余俵、金銀を施すこと千数百両、作馬を与えること八十九頭』とあり、藩主もその義挙に感動し、身分、格式を進め、かつ長田山を賜り、その殊功を賞されたのである。

 また、清水観音のある本吉に、20軒の商家を新設して地方繁昌を図ったり、道路標識の石柱や橋梁、例えば元大塚の宮前、返済川筋に架かっていた眼鏡橋、これは灌漑排水事業のため返済川も改良されることになり、清水谷下流に移転された。これも信勝の投資によるものである。 さらに公共事業や慈善事業に私財を投じた。

 私(茂芳)は梅野家の初代から数えて34代目、女山に引っ越して来た分家の初代、即ち梅野孫兵衛菅原信利からは12代目、中興の祖先信勝からは8代目に当たる。

 私の祖父梅野六之平菅原信周は、腸チフスにかかり36歳で亡くなったそうだが、祖父六之平菅原信周銘入りの道標が、今も黒岩と藤尾などに残っている。また、幕末に柳川藩士として奥州征伐に従軍した時の日本刀をさした記念写真も残っている。

詳しい歴史は梅野家の歴史1・2・3に分けて上げています。

現在のの当主は13代目  梅野泰生(梅野家歴代では35代目です。)

みやま市発展のために尽力されています。ご協力ありがとうございます。

下の梅野家の庭園・梅野家歴史資料館はリンクしています。






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